スカラシップ講習は緊張の連続だった。

 受講者はバーの傍に立ち、講師陣はフランス語で動きの指示を出す。それらひとつひとつは基礎的なものばかりだ。バーにつかまりながら、指示されたポーズをとる。――いつものバレエ教室でやっている内容である。
 しかし、日向はいつものようにはできなかった。

(見られてる……!)

 その意識が彼の体を固くさせた。
 指示を出す講師は一人だが、教室の後ろにはずらりと講師が並び、彼らはバインダーを片手に何事かをメモしている。
 そのボールペンが音を立てるたびに、日向の心臓が跳ねた。

 何度か指示役の講師が日向の傍に立ち、姿勢を直された。英語で何事かを言われるが、何も分からず「イエス、イエス」と唱えるほかになかった。
 そうしてできているのだかできていないのかわからないまま一日目の講習は終わった。

 日向は自分のできが悪かったことを確信して、落ち込んだまま着替えを済ませて芽衣と合流した。瑠偉も何も言わなかった。彼も疲れているようだった。
 精も根も尽き果てていた。ホテルに戻ってシャワーを浴びると二人はあっという間に寝てしまった。


「あああ……! 英語が話せるようになりたーい!!」
 翌朝、日向は起きるなりそう叫んだ。心から叫びだった。
「ううーん……日向、元気だね……」
 隣のベッドで瑠偉はまだ目をこすっている。
 ぐっすりと寝たのが功を奏したのだろう。頭がすっきりとしていた。おまけに昨日までずっと日向の胸にあった緊張もどこかへ行ってしまった。

「瑠偉、ほら、起きろって。今日も講習だぞ」
「うーん……」
 瑠偉は頭まで布団を被って二度寝の体勢だ。
「起きぬなら、起こしてみせようホトトギス!」
 そう言って瑠偉にとびかかると、瑠偉の腕の中にすっぽりと納められてしまう。
「――捕まえた」
「る、瑠偉!」

 瑠偉はけらけらと笑う。
「おはよう日向」
 そう言って、瑠偉は日向の額にキスを落とす。日向は真っ赤になった。
「起きてたのかよ……!」
「だましちゃった」
 瑠偉は日向をぎゅっと抱きしめると、そのまま首元に顔をうずめる。
「コンクール、楽しいね」
「僕は昨日のことは緊張と寝不足で何にも覚えてないよ」
「私は楽しいよ。日向とこうして七日もいっしょにいられるんだ」

 七日。それは短いようで長く、長いようできっと短い。瑠偉の吐息を首筋に感じ、その鼓動を肌で感じる。
 二月の寒空の下、瑠偉の体温はたまらなくあたたかい。
 瑠偉は日向の髪を何度か撫でたあと、ふと言った。
「そういえばホトトギスってどういう意味?」
「鳥の、名前?」
「なんで鳥の名前を言ったの?」
「それは昔々、えらい将軍様がだな……」
 二人はそうしてしばしぬくもりを分け合った。


 その日から、日向は思うように体を動かすことができた。精神が前向きになると、体もぐんぐんとよくなっていく。それは耳も同じらしい。
 初日は聞き取れなかった英語が少しずつ聞こえるようになってきたのだ。
「Lift your legs higher」
「はいあー……あ、も、もっとっ上に、ってことね……!」
 断片的に単語を拾えるようになってくると、講師の足音が近づいてくるのが怖くなくなる。むしろ、もっと教えてくれとついてまわりたいくらいだった。

 それは他の受講者も同じだった。
 彼らもどんどん緊張がほぐれ、動きはより正確に、よりダイナミックになっていく。
 相変わらず指示は基礎的な動きの反復ばかりだが、いつだったか瑠偉の言った通りである。

(基礎的な動きほど、癖が出る……)

 国での指導者の差、力量の差。それが出る。そして講師たちはそれをバインダーに書き留めているのだ。
 日向は耳を澄まし、講師たちが他の受講者の動きを直している言葉させ聞き逃さないように集中した。

 講習三日目になると、日向は他の受講者の動きを観察する余裕が生まれた。

(あの子、すごい……あんなに高く跳んで……あっちの子は拍が正確だ。音楽をよく聴いてる……あっちの子は……)

 世界中から予選を突破してきただけのことはある。彼らはみな美しく、速く、高く、そして優美で、力強い。
 ひとりの参加者がやけに目についた。彼は背が高く、すらりとしたまっすぐな足をもっている。自分とは大違いだ。
 日向は歯を食いしばって負けじと踊った。しかしその動きは次第に精彩を欠いていく。
 講習は四日続いた。

 最終日には日向はなんとも言えないもやもやとともに講習を終えた。

 ホテルに着くと、瑠偉が尋ねた。
「どうしたの? 日向、元気ないね」 
 日向は荷物の中から生物の参考書を取り出しながら、首を傾げた。
「うーん……わかんない」
「え?」
「わかんない。いま考えてる。なんか、もやもやしてて……」
「大丈夫?」
「うん。平気平気」
 日向はそう言って笑ったが、胸の中にある黒い塊はどんどん存在感を増していくばかりであった。

 中休み二日を挟んでいよいよ男子の本選が始まった。前日には一足先に女子が本選を終えている。失敗した者、全力を出し切った者、燃え尽きた者。会場には涙のにおいが染みついている。
 ボーリュ劇場のメインステージは木製で、客席は斜めの床の上に配置され、どの席からでもステージをよく見ることができる。
 参加者たちはゲネプロこそないものの、本番前にステージに上がり、広さや照明の眩しさなどを確認する時間がとられていた。

 初めてボーリュ劇場のステージに立って、日向は感慨深く足踏みしたあと、ぽつりと言った。
「メインステージ、思ってたより新しいな。もっと古いのかと思ってた」
 隣で同じくステージの硬さを確認していた瑠偉が言う。
「2016年に改装したらしいよ」
「へえ」
 参加者は皆ステージの端から端まで何歩で移動できるか、照明の中心はどこかというのを真剣なまなざしで確認している。瑠偉も人をかき分け、背筋を伸ばしてステージの端まで歩いて行く。その背中がやけに目に焼き付いた。
 日向は唾を飲み込んだ。

 控室に戻る。いよいよ緊張が高まっていく。控室の鏡を覗き込むと、そこに髪をジェルでかため、白い結婚衣装に身を包んだフランツ――に扮する自分がいた。
 なんだかその風体が滑稽に見える。日向は鏡から目をそらした。
 日向は五番目に踊ることになっていた。ステージを確認し、その記憶が新しいうちに踊れるのはうれしかった。
 しかし、いまはその幸運に感謝をする余裕もない。

 瑠偉がおずおずと尋ねた。
「なんでそんな顔をしているの?」
「わかんない」
 日向は首を振った。先日からずっと彼を悩ませている黒いもやの正体。まだそれが何なのか彼自身にもわからなかった。
 瑠偉は日向の背中を撫でる。
「緊張してる?」
「うん」
「集中して」
「わかってる」
 瑠偉の水色の目。それがこちらをまっすぐに見据えている。
「いっしょにリッセンに行くんでしょう」
「うん」
 日向は頷く。リッセンバレエスクールに行って、オペラ座に入って、エトワールになる――瑠偉との約束の果てしない旅程の、これは序章にすぎないのだ。
 しかし。体に力がみなぎってこない。
 まるで瑠偉に出会う前の自分に戻ったみたいだった。

 日向はすがるような気持ちで瑠偉を見上げた。頭一つ分高いところにある瑠偉の顔。日向は小さく言った。
「瑠偉、大好きだよ」
 突然の告白に、瑠偉は面食らったあと、ぱっとあたりを見渡し、それから誰もこちらを見ていないのを確認すると「私も、日向が大好きだ」と言ってこっそりキスをしてくれた。
 瑠偉はいつでも日向に魔法をかけてくれる。それはバレエを踊る勇気がでる魔法だ。

 ――しかし今日ばかりは瑠偉の魔法は効かなかった。

 幕が上がり、音楽が流れる。ローザンヌ国際バレエコンクールにエントリーすると決めたときから何千回と聴いた音楽だ。
 音が、拍が体に染みついている。
 日向の体はひとりでに動く。――バレエ『コッペリア』第三幕「スワニルダとフランツの結婚式」よりフランツのヴァリエーション。
 フランツが結婚式で見せる、喜びにあふれ、スワニルダへの愛にあふれた情熱的な踊りだ。

 わかっている、わかっている。お手本の動画はもう目に焼き付くほど観た。
 日向は懸命に手足を動かす。
 スポットライトが熱い。燃えるようだ。観客の視線は針のように突き刺さる。ステージはまるで氷のようで、気を抜いたら足を滑らせそうだった。

 日向は必死だった。
 必死に、歯を食いしばり、拍に遅れないように、苦手な回転技を失敗しないように。
 ぐるぐると考えながらの踊りはただただ――苦しかった。

 踊り終わったとき、観客のまばらな拍手で我に返った。
 そして、――自分が失敗したことを悟る。
 日向は顔を伏せてステージから下がった。

 芽衣は観客席で見守っていた。そんな芽衣のもとに、日向は着替えもしないまま戻って来た。そして言葉もないまま隣に座る。
 芽衣は意気消沈している日向を見て、背を叩いてねぎらった。

「国際大会に呑まれたわね」
「……」

 落ち込む日向を置いて、コンクールプログラムはどんどん進んでいく。
 さまざまな国の出場者が現れて、それぞれ渾身の踊りを披露していく。
 日向はそれを食い入るように見つめた。

 そしてやっと、日向は自身の胸の中のもやもやの原因を思い知る。
(ちがう……全然ちがう……)
 日向の胸に苦いものが広がっていく。
(これが、バレリーノの体型)
 男子の参加者たちは皆高身長で、すらりとした手足を持っている。
(女子はポワントで立つから、170cm近くなる。男子はそれを支えて踊ることになるんだ……)
 つまり、男子の身長は180cm以上必要だ。さらに男子は女子よりもダイナミックな動きを要求されることが多く、長い手足が必要だ。
 それに、まだ日向は踊ったことがないが、女子と組んで踊るパドゥトゥでは、女子をリフトしたりサポートしたりしなければならない。当然、筋力も求められる。
 まだ170cmしかない日向は奥歯を噛んだ。

(これが、世界……)
 参加者たちは次々と舞う。世界に向かって、アピールする。彼らは恵まれた体格をもちながら、それに奢らずに技術を磨いている。――彼らには世界で踊る資格がある。

 鞄の中に入れている参考書が、いやな空気を放ちだす。
(何が、二足のわらじだよ……)
 二月だ。高校の期末試験はもうすぐだ。日向は毎日勉強していた。しかし、ほんとうは勉強する時間もすべてバレエに捧げるべきだったのではないだろうか。

 日向は苦しかった。世界の壁は高かった。恵まれた体格をもつ彼らに勝つには、もっともっと練習して、もっともっと生活のすべてをバレエに捧げないといけない。

 ――それが、自分にできるだろうか。
 ――そしてそこまでバレエに捧げたとして、すべてが駄目だったとき、自分には何も残らない。

(そっか……そうだよな)
 今になってやって日向は理解した。プロを目指すとはそういうことなのだ、と。
(瑠偉に誘われるまま、ここまで来たけど、僕にその覚悟はあるのだろうか)
 自分に問う。答えはない。

 ステージでは瑠偉の名前がコールされる。――次は瑠偉の番だ。バレエ『白鳥の湖』第2幕「花嫁選びの舞踏会」よりジークフリート王子のヴァリエーション。

 煌びやかな舞踏会の衣装をまとった王子が、静かに踊りだす。
 高く跳躍する。苦手だと言っていたが、いまでは日向より高く跳ぶ。そして、音もなく、優雅に着地する。
 ――高貴。
 その踊りを見て、日向の脳裏にその言葉が浮かんだ。
 瑠偉の指先から、視線の先から、王子としての矜持が香り立つようだった。
 日向は身を乗り出してその姿を見た。

 母親が日向にフランツを、そして瑠偉にジークフリート王子のヴァリエーションを勧めた言った理由が、いまならわかる。
(王子って、こういうことだよな)
 瑠偉は踊る。その姿はまさに王子だ。

 小柄で華のない日向が、同じジークフリート王子のヴァリエーションを踊ったら見劣りするだろう。それなら、いっそ村人のフランツで「それらしい」踊りをした方が高い評価を狙える。母親の狙いはそこなのだ。
 日向はぎゅっとこぶしを握った。
(仮にこれでいい評価を受けたとして、王子を踊れないバレリーノって……)

 あまりにも高い世界の壁。
 恵まれた体格、恵まれた筋力、そしてたゆまぬ努力。それを、報われない可能性が高くとも続けられる精神力。
 日向は最後まで瑠偉の踊りを見ていられなかった。
 観客は、美しいジークフリート王子に嵐のような拍手を送った。

 瑠偉が観客席に戻ってくると、彼は迷わず日向の隣に座った。
 日向は彼をちらと見たあと、負けを認めた。
 隣にいる瑠偉の顔がいつも通りだったのだ。そこにはうまくいったという喜びも、大きな拍手を受けた高揚もない。彼はもう次――最終選考を見据えている、いや、もしかしたらもっと先を――。

 日向は言った。
「瑠偉……おめでとう」
「気が早いな。まだ結果は出てないのに」
「……僕にはわかるよ。瑠偉はきっと世界に行ける」
(そして、僕は行けない)
 日向は顔を伏せた。瑠偉が覗き込んでいるのがわかったが、もう顔があげられなかった。

(芸術に人生を賭けることが、僕にはできるのだろうか)
 ぎゅっと鞄を胸にきつく抱きしめる。鞄の中に詰められた参考書たち。これらはきっと、日向を平凡で安定した世界に導いてくれる。

(ああ、瑠偉が好きだった)
 日向はこみ上げるものを我慢した。
(瑠偉の傍で、踊っていたかった)

 しかし、それはきっともう叶わない。二人の道はここで分かたれる。
 長い人生のほんのわずかな間、神様の気まぐれで重なっただけの二人。

 その後、新聞にローザンヌ国際バレエコンクールの優勝を日本人とフランス人ハーフの風見オーブリー瑠偉が獲ったと報じられた。