君と僕のコッペリア

 二月十三日、日向たちはドイツ・フランクフルト行きの飛行機に乗り込んでいた。
 フランクフルトで飛行機を乗り継いでスイス・ローザンヌに向かう。乗り継ぎを含めて13時間の長旅である。


 日向は飛行機が飛び立ち、窓から雲が眼下に広がるのを見てつぶやいた。
「ひ、飛行機だぁ……」
「あれ、日向って飛行機乗ったことないの?」
 隣の席の瑠偉が尋ねる。彼は慣れた様子でアイマスクまで準備している。
「うん。初めて乗った。落ちないよね?」
「落ちないよ」
「そういえば、飛行機って映画観られるらしいよ?」
 座席に取り付けられた液晶を操作すると、メニューが出てくる。その多さに日向は目を丸くした。

「うわ、ソリティアもできるって!」
「日向、はしゃいじゃだめだよ。少し寝よう」
「え? もう?」
 時計は二十二時を少し回ったところだ。唇をとがらせる日向とは対照的に、瑠偉は苦笑して言う。
「現地の時間に合わせて睡眠をとっておくと、体が楽なんだ。なんていうんだっけ、あの、時差……」
「時差ボケか」
「そう、それ。時差ボケを減らすんだ。着いたらすぐにスカラシップの講習だからね」
「ひ~……もう緊張してきた、寝られるかなぁ」
 ちらと後ろの席を見る。そこには芽衣がいるのだが、彼女はもう寝ているようだった。
「早い……」
「ほら、僕たちも」
「う、うん」

 しかしまんじりともできないまま時間が経ち、やっと寝られると思った頃にはフランクフルトに到着し、そこのベンチでうつらうつらしているうちにスイス・ローザンヌ行きの飛行機がやって来た。
 そして機内アナウンスに「ローザンヌ」という単語が現れると、いよいよ緊張で寝られなかった。
 日向は睡眠をあきらめ、結局参考書を読んで時間をつぶした。ローザンヌが終わればすぐに高校の期末試験だ。しかし、参考書を読んでもちっとも頭に入らない。

 スイス・ローザンヌに降り立ったとき、日向の目の下にははっきりと隈が刻まれていた。
 それを見て芽衣は呆れ返った。
「勉強も大事だけど、それで寝不足で踊れませんでしたってなったら元も子もないのよ?」
「わかってるよ……」
 夜10時に飛び立ち、到着したのは現地時間朝4時である。これから移動し、午後には講習が始まる。
 しかし、もう目前に迫ったそのとき、日向の緊張は弱くなり、むしろ睡魔の方が強いくらいだった。

 入国審査を待つ人々の列はかなり長い。
 日向は夢うつつでその列に並んでいる。英語とスイス語のアナウンスが聞こえる。異国の言葉は子守唄のように脳内に響き、ますます睡魔を誘う。

 入国審査はEU加盟国のフランスのパスポートを持つ瑠偉とは別のレーンに並んでいた。
(こんなとき、瑠偉ってフランス人なんだって思い知るよね)
 その背中を見て、新ためて思う。
(移動も慣れてる)
 彼は瑠偉をライバルと呼んでくれるが、バレエの世界にのめり込めばのめり込むほど、瑠偉との差を如実に感じる。
 瑠偉との差、ということに思いをめぐらせたとき日向は首筋にひやりとしたものを感じた。

 空港からホテルまで電車を使って移動することになっていた。芽衣はスマートフォンとにらめっこしながら切符を買い、なんとか目的の電車に乗る。
 がたんがたんと揺れる電車。そこに書かれた異国の言葉、知らない芸能人、知らない商品の広告。
 日向の睡魔はあっという間に吹き飛んだ。

「が、外国だっ……!」
「日向?」
「街が、すごいかわいい、煉瓦だ、煉瓦! 絵本みたいだ!」
 車窓に映る街並みはどこを切り取っても日本とは違う。
 日向は初めての異国の景色にくぎ付けとなった。

 瑠偉はそんな日向をあたたかく見守りながら言う。
「スイスは世界大戦で中立を主張していたから街が無事だったんだ。伝統的なヨーロッパの街並みが残っているよ」
「へぇ~!」
 はしゃぐ日向と、落ち着いている瑠偉。芽衣はため息をつく。
「日向、観光で来たんじゃないのよ」
「わかってるよ! もう体が、がちがち。早く踊りたいよ。なんでタクシーじゃないのさ」
「あんたねぇ……ビックマック指数どうなっていると思ってるのよ」
「ビックマック指数?」
「ビックマックがいくらで売られているかでその国の物価がわかるっていうデータよ。スイスのビックマックは日本の2.5倍の値段よ」
「え? つ、つまり……?」
「物価も2.5倍! タクシーも2.5倍! ホテルも2.5倍! ただし観光客は鉄道バス無料!」
「ひ、ひぃ~!」
「うちは出来高制よ! コンクールで入賞したら帰りはタクシーにしてあげるわ! わかった!?」
「はい!」
 芽衣の剣幕におされて勢いよく頷く。瑠偉は仲のいい親子のやり取りに噴き出した。


 ホテルチェックインを済ませ、荷物を置くと、次はいよいよコンクールの会場となるボーリュ劇場へ行く。
 その劇場は地下鉄ローザンヌ駅から徒歩20分のところにあった。歴史を感じさせる石畳を歩いて行く。ゆるやかな坂を上ったさきにその建物が姿を現すと、日向は思わず息を飲んだ。
 ボーリュ劇場は建築当時スイスで最も絢爛豪華な劇場と称された美しい劇場である。歴史を感じさせる石造りの建物で、長方形のメインの建物の正面には5枚の巨大なガラスがはめ込まれ、中の美しい装飾がガラスを通してみることができる。1954年に完成したスイス最古の劇場であり、1600人の観客を収容するほど大規模なものである。

「ここで踊るのか……」
 日向がつぶやくと、瑠偉がその顔を覗き込んだ。
「気に入った?」
「うん。すごく。瑠偉は?」
「震えてる」
「え?」
 瑠偉は顎に手を当てて考える。
「何て言うんだっけ、むしゃ、むしゃ……」
「武者震い?」
「そう。それだ」
「……なんか、瑠偉最近変な日本語覚えてないか?」
「悔しかったからね」
「ん?」
 瑠偉は片目をつむってみせた。
「二足のわらじの意味がわからなくて、悔しかったんだ。それからずっと日本語の慣用句とかことわざを勉強しているんだ」
「うわ~……期末試験前に余裕だねぇ~……」
「まあね。行こう、日向」
 促されて、日向は一歩踏み出した。

 会場に入ると、早くも多くの人がいた。圧倒的にレオタード姿の女子の姿が多い。
 日向は圧倒されながら、芽衣に小さく尋ねる。
「多い……ここにいるのってみんなバレエダンサー?」
「そうよ。今年の予選通過者は22か国、118名。引率の先生も来ているから、そりゃあ多くもなるわ」
 芽衣の言葉を聞いて、日向は顔をほころばせる。バレエの愛好家がこんなにいることがどことなくうれしく、誇らしかった。
 芽衣は険しい顔のまま続ける。
「ここから二十日に本選第1ステージがあって、最終選考に進めるのは20名よ」
 芽衣がそう言うと、日向も瑠偉も険しい顔になる。
「20人……少ないね」
「入賞者はね。でも、一番の狙いはそこじゃないわ」
 瑠偉は拳をぎゅっと握った。
「……入学許可とスカラシップ」
「そういうことよ。気合い入れなさい」
 日向は唾をごくりと飲み込んだ。


 着替えて決められた控室で準備運動をしたあと、いよいよスカラシップ獲得のための講習がはじまる。場所は劇場の中にあるフロアで、受講希望者がどこの教室に割り当てられているかはエントランスに貼り出されていた。
 日向と瑠偉は男子Bのクラスだった。フロアに入ると、もう多くの受講者が集まっていた。
 講師は有名バレエスクールの講師陣である。彼らがコーチングをしながら受講者のバレエの才能を見極める。
 日向は眠気も忘れて高揚していくのを感じた。

 そのとき、後ろから「Aubrey」と声をかけられた。
 瑠偉が先に振り向き、つられて日向も振り返る。
 そこにいたのは金色の髭をたっぷりとたくわえた長身の白人男性だった。
 彼はにこやかに手をあげると「Ça fait longtemps」と言った。
 日向が驚いて固まっていると、横の瑠偉は両手を広げて彼にとびついた。
「Monsieur!」
 そうして互いにハグをして、それから男は瑠偉の背中を叩く。
 日向がぽかんとしている間に、二人は何事かを異国の言葉で話し出す。

(ふ、フランス語だぁ……)
 二人が話しているのは、おそらくそうだろうと思った。日向には当然フランス語はわからない。フランスの血が流れる瑠偉は当然といった様子で流暢にフランス語を話す。いつも瑠偉は日本語が巧みで、日本人らしいリアクションをする。しかし、いまは笑い方も、背を仰け反らして大げさに驚く様子も、フランス人らしく見えた。

 日向が面食らっている間に二人は話を切り上げた。
 瑠偉は日向に向き直ると、「ごめん、ごめん」と日本語で話し出す。
「知り合い?」
 日向が尋ねると、瑠偉はうれしそうに頷く。
「うん。リッセンバレエスクールの先生」
「えっ」
「私がエントリーしているのを名簿で見て話しかけに来てくれたみたい。今日は男子Aクラスの講師をしていて、明日は男子Bクラスの講師だってさ」
「はぁ~……すっごい」
「なにが?」
「いや、瑠偉って。いや、当たり前だけど、フランス語話せたんだね」
 いまさらな言葉を聞いて、瑠偉はくすくすと笑った。
「ちなみに英語も話せるよ。いまからのクラスは英語でするんだろう?」
「うっ……」
 日向は苦虫をつぶしたような顔をした。
 英語なら少しはわかるかもしれないが、それもふつうの高校生の範疇を出ないレベルである。

 日向はあたりを見渡す。受講者たちは背中にゼッケンをつけており、出身の国と名前がわかるようになっている。当然、ヨーロッパだけでなくアジア、アフリカなど世界中から集まっている。
(そ、そっか、当たり前だけど、ここはスカラシップを希望する人が集まっているわけで、スカラシップを獲得したら外国で暮らすわけで……)
 英語など話せて当然なのかもしれない。日向はようやくそのことに気が付いた。

「ど、どうしよう」
 日向が声を上げると、瑠偉が心配そうにのぞき込む。
「どうしたの?」
「僕、英語話せない」
「レッスン中の指示はフランス語だから大丈夫じゃない?」
「フランス語ぉ!?」
 頓狂な声をあげた日向を見て、瑠偉は首を傾げた。
「なんで驚くの? アン、ドゥ、トロワってフランス語だよ?」
「あ、それフランス語なのか」
 バレエで拍を数えるときにつかう言葉である。日向もレッスン中に毎回聞いている。

 瑠偉は笑いながら「アラベスク、ア・ラ・スゴンド、アレグロ」と次々に言葉を発する。おそらく、日本語に近い発音で。それはどれも日向に聞き覚えのある指示だった。
「ね、わかるでしょ? ロシア式のバレエはロシア語、フランス式のバレエはフランス語で指示をするんだよ」
「たしかに……うわあ、うち、フランス式でよかったぁ」
 いまになって母の指導に感謝である。

 そのとき、講師が入って来た。受講生たちはみな一斉にそちらに向き直る。
 講師たちは英語で話し出すが、日向にはちんぷんかんぷんだった。
 ただなんとなく受講生がバーに向かうので、バーレッスンが始まるのだろうと思って後に続く。
 移動しながら、日向はぼそっと瑠偉に尋ねた。
「リッセンバレエスクールのバレエ以外の授業は何語……?」
「フランス語だよ……英語の授業もあるけど」
「現時点で英語に苦戦しているっていうのに……」
 日向の英語のテストは50点だった。悪くはないが、平均もない。
 瑠偉はいかにも他人事といった様子で笑う。
「頑張って」
「軽く言ってくれるよ、ほんと」

 とんでもない世界に来てしまった。
 日向は自分がどこか自分が来てはいけない異世界に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。