それか一か月あまりが経ち、ついに十一月三十日――予選結果通知の日を迎えた。
その日、芽衣の運営するバレエ教室に一通の書類が届いた。送り主はローザンヌ国際バレエコンクール運営である。
そこには以下二名の本選出場を許可すると書かれていた。
風見 オーブリー瑠偉
高郷 日向
そしてその下にはスカラシップを希望する場合は本選のステージより前に選考を兼ねた講習会を開くと説明が書いてあった。
芽衣はまず瑠偉の保護者に連絡し、次に穂香、そして歩美の保護者に連絡した。
予選を突破した瑠偉の家への電話は短く、そして落選となった穂香と、特に歩美への電話は長かった。――歩美は年齢的にこれがラストチャンスだったのだ。
電話の向こうですすり泣く声を聞きながら、芽衣は奥歯を噛み締めた。
芽衣にも気持ちを整理する時間が必要だった。
彼女は一階のフロアに下りると、おもむろに掃除を始めた。
ピカピカのフロア、くすみひとつない鏡。
そんな美しい場所で美しく踊る子どもたち。
その夢が淡く儚く崩れていくのは、何度見ても慣れることができない。
彼女は黙々と腕を動かした。
そしてすべてを終わらせたあと、やっと芽衣はいつもの表情を取り戻し、息子の部屋に向かった。
ノックをしてドアを開けると、ちょうど日向は誰かと電話をしているところのようだった。
日向は「ご、ごめん、またあとでかけるから」と言って電話を切った。
芽衣が「瑠偉と電話?」と尋ねると日向は首を振った。
「歩美さんと」
「ああ……」
「歩美さん、駄目だったって聞いて……」
日向はそこで口をつぐんだ。ローザンヌに出られるのは18歳まで。日向もそのことをよく知っている。
芽衣は悔しさをにじませて言った。
「女子は、ほんとうに激戦だわ……男子の何十倍も参加者がいるんだもの。歩美さんに実力がないということはないんだけど……私の指導不足だわ」
「……」
日向は首を振る。ふさわしい言葉が思い浮かばなかった。
芽衣は尋ねる。
「歩美さん、なんだって?」
「……悔しいって。これで、バレエも一回終わりだって。……大学受験に切り替えるから、次のバレエ教室には来れないってさ」
「そう……」
日向はぼやいた。それはずっと疑問に思っていたことだ。
「なんでバレエって続けるのがこんなに大変なんだろう……」
「大人でも続ける人はいるわよ」
「そうだけどさ……」
芽衣は息を吐いた。彼女もまた、プロの道を挫折したひとりだ。
「芸術なんだもの……極められるのはほんの一握りよ」
母の言葉を聞いて、日向は目を伏せた。
「そっか。そうだよなぁ。バレエって、そうなんだよ……。だから惹かれたんだ。……うん。コンクール、出てよかったよ。すっきりした。挑戦して駄目だったんだから、もう後悔ないよ」
日向が言い切ると、芽衣は首を傾げた。
「……日向は合格していたわよ?」
たっぷり三拍。日向は叫んだ。
「はあ!? じゃあなんで落ちてる雰囲気で部屋に入ってきたのさ!?」
「私は何も言ってないわよ!?」
「歩美さんの家に結果の電話が来たのが一時間前だって聞いたんだけど!? いくら待ってもこないから駄目だったんだと思うよね、ふつう!?」
「それは勝手に日向が誤解しただけじゃない。母さん教室を掃除してただけなんだから」
「あー! もう! 歩美さんにも瑠偉にも落ちたって連絡しちゃったじゃん!!」
「あらあら、最近の子はほんとうに……なんていうのかしら、SNS依存?」
「ぜったい違う!!」
そのとき、日向のスマートフォンの着信音が鳴った。
「瑠偉からだ! 母さんはあっち行ってて!」
母の背中を押して部屋から押し出す。
「ちょ、お祝いはどうするの? 焼肉? お寿司?」
「焼肉!」
ドアを閉めて、液晶に映る通話開始の文字をタップする。
『日向……』
すぐに瑠偉の悲痛な声が聞こえて、日向は大慌てだ。
「る、瑠偉! ぼぼぼぼ、僕ね、合格してたみいたい! ごめんね!」
『え!?』
「ちょっと不幸な行き違いがあって……」
言い切るより前に瑠偉が歓喜の声を上げた。
『よかったぁ!! おめでとう日向!!』
「瑠偉~。ありがとう~!」
『落ちたって聞いて、びっくりして、ああ、ほんとうによかった』
「母さんのせいだよ、ほんとうに」
日向が事情を説明すると、瑠偉は真剣な声になって芽衣の心情を慮った。
『……気持ちの整理をしていたのかな』
「……そうかも」
瑠偉はどこまでも前向きだ。
『歩美さんと穂香さんの分もローザンヌに持って行こう』
「そうだな」
おびたたしいほどの人間が涙を飲む。機会に恵まれるのはほんの一握り。二人は、そこに入った。
ここからさらに栄光を掴めるのは数人だ。しかし。
「行こう、ローザンヌ」
瑠偉にはその栄光が見えている。
その夜から、日向は言いようのない興奮に包まれた。いま彼の人生に足りないものは何もない。瑠偉がいて、バレエができて。二月にはローザンヌにいる。
その夜は浅い夢を繰り返し、何度も夢を見た。夢の中で、彼はオペラ座の中心に立って、エトワールとして観客の拍手を独り占めしている。
日向は心地よい夢に酔いしれた。
しかし一週間もするとその充足感は吹っ飛んでしまう。
十二月上旬。すっかり街には気の早いクリスマスムードが漂いはじめているが、日向たち高校生にはクリスマスの前に済まさなくてはいけない重大な仕事がある。
日向は自室で真っ蒼になりながらその仕事に取り組んでいた。
しかしその集中は母親の怒鳴り声によって中断される。
「日向! レッスンの時間よ! 何してるの! 降りて来なさい!」
「ええ!? あ、も、もうそんな時間!?」
時計を見ると、本選に向けた瑠偉と日向の特別レッスンの時間になっていた。
慌てて階下に降りる。瑠偉はもう着替えを済ませてバーの傍に立っていた。芽衣は腰に手を当てて目を吊り上げた。
「遅刻だなんてありえないわ! まったく、どうしたっていうのよ!」
日向は手をわたわたと動かしながら説明する。
「かかかか、母さん……その、もうすぐ、中間試験じゃん……?」
「中間試験?」
日向の通う陣中高等学校は前後期制であり、後期の中間試験がもうすぐであった。
芽衣は首を傾げた。
「日向、別に成績悪くないでしょう?」
日向は真っ蒼になって首を振る。
「それは! 勉強していたからだよ! 休み時間とか、コツコツやってて……」
「なんで今回コツコツしてないのよ」
「うっ……」
押し黙る。まさか高校生活で友達がいなかったから休み時間に勉強していて、いまでは友達ができたから勉強していないとは言えない。
しかし、瑠偉は何かを察したらしく恐る恐る言う。
「もしかして私のせい? 私、休み時間に話しかけてしまってたよね…」
日向は大慌てで否定する。
「いや! 違うけど! っていうか瑠偉は平気なの!?」
「私? 私は、まあ、範囲は一通りやったよ」
「全教科!?」
「うん」
さらりと言われて驚愕した。
「る、瑠偉だって同じかと思ってたのに……」
「早めに計画を立てて、それに沿って動くんだよ」
日向はうなだれた。わかっている。わかっているが、それがその通りにできたら人間苦労しない。
うなだれたからといって、芽衣は容赦しない。
「それで? まさか勉強のために練習を休みますなんて言わないわよね? バレエダンサーはマルチリンガルで頭もいい子や、スケジュールを立てて動くのが得意な要領のいい子ばかりよ?」
「わかってるよ!!」
日向は拳を握った。
「バレエと勉強、二足のわらじを履いてみせる……!」
日向は超特急で更衣室に飛び込んだ。
瑠偉は「わらじ?」と首をかしげていた。
そうして意気込んで臨んだ期末試験であったが、結果は散々だった。
学校の昼休み、日向は返却されたテスト用紙を前に絶望した。
特に悪いのは数学、古典、理科である。そこに並ぶのはいわゆる赤点と呼ばれる数字であった。
「うわあ……」
瑠偉はそれを見てかける言葉を失った。
日向は頭を掻きむしった。
「どうしよう、次の期末でしっかり点数採らないと単位が落ちる……!」
瑠偉は懸命に慰める。
「期末で頑張れば大丈夫だよ」
「その期末って三月だよ!? ローザンヌ本選のすぐあとじゃん……!」
ローザンヌ国際バレエコンクールの本選は二月二十日である。
日向は不安そうに言う。
「しかも、ローザンヌに行くために学校を休むことになる……ローザンヌはスカラシップを希望する人は早めに行って講習を受けろって案内に書いてあったから……僕たちは七日休むことになるよ」
「大丈夫。勉強道具をローザンヌに持って行こう」
「じ、人生初のスイスで勉強!?」
「頑張れ」
「嫌だ~」
日向はおいおいと泣きながら顔を覆ったのであった。
その日、芽衣の運営するバレエ教室に一通の書類が届いた。送り主はローザンヌ国際バレエコンクール運営である。
そこには以下二名の本選出場を許可すると書かれていた。
風見 オーブリー瑠偉
高郷 日向
そしてその下にはスカラシップを希望する場合は本選のステージより前に選考を兼ねた講習会を開くと説明が書いてあった。
芽衣はまず瑠偉の保護者に連絡し、次に穂香、そして歩美の保護者に連絡した。
予選を突破した瑠偉の家への電話は短く、そして落選となった穂香と、特に歩美への電話は長かった。――歩美は年齢的にこれがラストチャンスだったのだ。
電話の向こうですすり泣く声を聞きながら、芽衣は奥歯を噛み締めた。
芽衣にも気持ちを整理する時間が必要だった。
彼女は一階のフロアに下りると、おもむろに掃除を始めた。
ピカピカのフロア、くすみひとつない鏡。
そんな美しい場所で美しく踊る子どもたち。
その夢が淡く儚く崩れていくのは、何度見ても慣れることができない。
彼女は黙々と腕を動かした。
そしてすべてを終わらせたあと、やっと芽衣はいつもの表情を取り戻し、息子の部屋に向かった。
ノックをしてドアを開けると、ちょうど日向は誰かと電話をしているところのようだった。
日向は「ご、ごめん、またあとでかけるから」と言って電話を切った。
芽衣が「瑠偉と電話?」と尋ねると日向は首を振った。
「歩美さんと」
「ああ……」
「歩美さん、駄目だったって聞いて……」
日向はそこで口をつぐんだ。ローザンヌに出られるのは18歳まで。日向もそのことをよく知っている。
芽衣は悔しさをにじませて言った。
「女子は、ほんとうに激戦だわ……男子の何十倍も参加者がいるんだもの。歩美さんに実力がないということはないんだけど……私の指導不足だわ」
「……」
日向は首を振る。ふさわしい言葉が思い浮かばなかった。
芽衣は尋ねる。
「歩美さん、なんだって?」
「……悔しいって。これで、バレエも一回終わりだって。……大学受験に切り替えるから、次のバレエ教室には来れないってさ」
「そう……」
日向はぼやいた。それはずっと疑問に思っていたことだ。
「なんでバレエって続けるのがこんなに大変なんだろう……」
「大人でも続ける人はいるわよ」
「そうだけどさ……」
芽衣は息を吐いた。彼女もまた、プロの道を挫折したひとりだ。
「芸術なんだもの……極められるのはほんの一握りよ」
母の言葉を聞いて、日向は目を伏せた。
「そっか。そうだよなぁ。バレエって、そうなんだよ……。だから惹かれたんだ。……うん。コンクール、出てよかったよ。すっきりした。挑戦して駄目だったんだから、もう後悔ないよ」
日向が言い切ると、芽衣は首を傾げた。
「……日向は合格していたわよ?」
たっぷり三拍。日向は叫んだ。
「はあ!? じゃあなんで落ちてる雰囲気で部屋に入ってきたのさ!?」
「私は何も言ってないわよ!?」
「歩美さんの家に結果の電話が来たのが一時間前だって聞いたんだけど!? いくら待ってもこないから駄目だったんだと思うよね、ふつう!?」
「それは勝手に日向が誤解しただけじゃない。母さん教室を掃除してただけなんだから」
「あー! もう! 歩美さんにも瑠偉にも落ちたって連絡しちゃったじゃん!!」
「あらあら、最近の子はほんとうに……なんていうのかしら、SNS依存?」
「ぜったい違う!!」
そのとき、日向のスマートフォンの着信音が鳴った。
「瑠偉からだ! 母さんはあっち行ってて!」
母の背中を押して部屋から押し出す。
「ちょ、お祝いはどうするの? 焼肉? お寿司?」
「焼肉!」
ドアを閉めて、液晶に映る通話開始の文字をタップする。
『日向……』
すぐに瑠偉の悲痛な声が聞こえて、日向は大慌てだ。
「る、瑠偉! ぼぼぼぼ、僕ね、合格してたみいたい! ごめんね!」
『え!?』
「ちょっと不幸な行き違いがあって……」
言い切るより前に瑠偉が歓喜の声を上げた。
『よかったぁ!! おめでとう日向!!』
「瑠偉~。ありがとう~!」
『落ちたって聞いて、びっくりして、ああ、ほんとうによかった』
「母さんのせいだよ、ほんとうに」
日向が事情を説明すると、瑠偉は真剣な声になって芽衣の心情を慮った。
『……気持ちの整理をしていたのかな』
「……そうかも」
瑠偉はどこまでも前向きだ。
『歩美さんと穂香さんの分もローザンヌに持って行こう』
「そうだな」
おびたたしいほどの人間が涙を飲む。機会に恵まれるのはほんの一握り。二人は、そこに入った。
ここからさらに栄光を掴めるのは数人だ。しかし。
「行こう、ローザンヌ」
瑠偉にはその栄光が見えている。
その夜から、日向は言いようのない興奮に包まれた。いま彼の人生に足りないものは何もない。瑠偉がいて、バレエができて。二月にはローザンヌにいる。
その夜は浅い夢を繰り返し、何度も夢を見た。夢の中で、彼はオペラ座の中心に立って、エトワールとして観客の拍手を独り占めしている。
日向は心地よい夢に酔いしれた。
しかし一週間もするとその充足感は吹っ飛んでしまう。
十二月上旬。すっかり街には気の早いクリスマスムードが漂いはじめているが、日向たち高校生にはクリスマスの前に済まさなくてはいけない重大な仕事がある。
日向は自室で真っ蒼になりながらその仕事に取り組んでいた。
しかしその集中は母親の怒鳴り声によって中断される。
「日向! レッスンの時間よ! 何してるの! 降りて来なさい!」
「ええ!? あ、も、もうそんな時間!?」
時計を見ると、本選に向けた瑠偉と日向の特別レッスンの時間になっていた。
慌てて階下に降りる。瑠偉はもう着替えを済ませてバーの傍に立っていた。芽衣は腰に手を当てて目を吊り上げた。
「遅刻だなんてありえないわ! まったく、どうしたっていうのよ!」
日向は手をわたわたと動かしながら説明する。
「かかかか、母さん……その、もうすぐ、中間試験じゃん……?」
「中間試験?」
日向の通う陣中高等学校は前後期制であり、後期の中間試験がもうすぐであった。
芽衣は首を傾げた。
「日向、別に成績悪くないでしょう?」
日向は真っ蒼になって首を振る。
「それは! 勉強していたからだよ! 休み時間とか、コツコツやってて……」
「なんで今回コツコツしてないのよ」
「うっ……」
押し黙る。まさか高校生活で友達がいなかったから休み時間に勉強していて、いまでは友達ができたから勉強していないとは言えない。
しかし、瑠偉は何かを察したらしく恐る恐る言う。
「もしかして私のせい? 私、休み時間に話しかけてしまってたよね…」
日向は大慌てで否定する。
「いや! 違うけど! っていうか瑠偉は平気なの!?」
「私? 私は、まあ、範囲は一通りやったよ」
「全教科!?」
「うん」
さらりと言われて驚愕した。
「る、瑠偉だって同じかと思ってたのに……」
「早めに計画を立てて、それに沿って動くんだよ」
日向はうなだれた。わかっている。わかっているが、それがその通りにできたら人間苦労しない。
うなだれたからといって、芽衣は容赦しない。
「それで? まさか勉強のために練習を休みますなんて言わないわよね? バレエダンサーはマルチリンガルで頭もいい子や、スケジュールを立てて動くのが得意な要領のいい子ばかりよ?」
「わかってるよ!!」
日向は拳を握った。
「バレエと勉強、二足のわらじを履いてみせる……!」
日向は超特急で更衣室に飛び込んだ。
瑠偉は「わらじ?」と首をかしげていた。
そうして意気込んで臨んだ期末試験であったが、結果は散々だった。
学校の昼休み、日向は返却されたテスト用紙を前に絶望した。
特に悪いのは数学、古典、理科である。そこに並ぶのはいわゆる赤点と呼ばれる数字であった。
「うわあ……」
瑠偉はそれを見てかける言葉を失った。
日向は頭を掻きむしった。
「どうしよう、次の期末でしっかり点数採らないと単位が落ちる……!」
瑠偉は懸命に慰める。
「期末で頑張れば大丈夫だよ」
「その期末って三月だよ!? ローザンヌ本選のすぐあとじゃん……!」
ローザンヌ国際バレエコンクールの本選は二月二十日である。
日向は不安そうに言う。
「しかも、ローザンヌに行くために学校を休むことになる……ローザンヌはスカラシップを希望する人は早めに行って講習を受けろって案内に書いてあったから……僕たちは七日休むことになるよ」
「大丈夫。勉強道具をローザンヌに持って行こう」
「じ、人生初のスイスで勉強!?」
「頑張れ」
「嫌だ~」
日向はおいおいと泣きながら顔を覆ったのであった。
