日向たちはローザンヌ国際バレエコンクールに向け、夏休みの間は自主練習を含めて八時間、九月に学校がはじまってからも毎日四時間を練習にあてた。
若い彼らは芽衣の指導のもとめきめきと実力をつけた。
そして、二人がこの夏につけたのは技術だけではない。バレエの歴史、原著、作曲家の意図、振付師の意図、そして長く愛されてきた理由……。日向と瑠偉は時間を見つけては図書館へ行き、バレエについての本を読み漁り、わからないことがあれば芽衣を頼った。二人はこうして芸術であるバレエの担い手となるべく教養を身に着けていったのであった。
それは現役高校生として学業の傍らでこなしていくのは大変な毎日だった。
しかし、日向はこの生活にやみつきになりそうだった。バレエを始めて何十年、これほどバレエのことを考え、そしてこれほどうまくなりたいと願ったことはなかった。
瑠偉は慣れた様子でその多忙な生活をこなしていた。彼はその細い体からは信じられないほど体力があった。そして、なにより時間管理がすぐれていた。計画を立て、甘えを許さず、一分一秒も無駄にしない。
バレエダンサーは自分に厳しくなければなれない。その厳しさを目の当たりにして、日向は瑠偉に感心しきりだった。
日向はそこまで自分を厳しく律することができなかった。たまには甘いものを食べたし、たまには睡魔に負けて学校の宿題を忘れることもあった。
そんな彼だったが、くじけそうになると「明日早起きして学校に行って勉強する」と瑠偉に嘘をついてひとりだけで登校することにしていた。
そして、ひそかに例の河原で好きに踊るのである。
その踊りには伝統的な動きもなにもない。
ただ動きたいように動いて、跳びたいように跳んだ。
そうして上達するためのバレエと、楽しむためのバレエを使い分けた。それだけでもっともっとバレエが好きになっていくのを感じた。
そして迎えた十月二十日。
日向、瑠偉、歩美、穂香はバレエ教室に勢ぞろいしていた。彼らがそれぞれ練習してきたヴァリエーションを踊り、芽衣はそれを固定カメラで録画することになっている。その録画したデータはローザンヌ国際バレエコンクールの審査員に送られる。――これが国際大会の予選なのである。
日向が最初に踊り、次に瑠偉、歩美、そして最後は穂香が踊った。
穂香が選んだヴァリエーションはバレエ『眠れる森の美女』のオーロラ姫だった。派手な振り付けこそないが、優美で、繊細で、指先まで極限の美を追求するような踊りである。
穂香がそれを踊り切り、芽衣が親指をぐっと突き上げたとき、四人はいっせいに感性をあげた。
「おわったぁぁああ」
「お疲れさま」
「がんばったよなあああ」
「もう動けない……」
それぞれ飛び跳ね、手を叩き、そしてその場に崩れ落ちた。
皆全力で踊り、疲れ切っていた。
芽衣は教え子たちの様子を見て慈愛に満ちた笑みを浮かべたあと、大切そうにカメラを撫で、それからいつもの厳しい表情に戻った。
「これで終わりじゃないのよ!」
ぴしゃりと言われて、三人の背筋が伸びる。
芽衣は指を立てて言う。
「結果は十一月三十日よ。いい? この一次を終えてからの一か月余りをどう過ごすかが本選の結果を左右するわ。終わったって喜ぶのはまだ早いわ」
言われて、三人の顔に緊張が戻る。
そう、これはあくまで予選なのだ。目指すは本選二月十日――スイス・ローザンヌ。
日向も両頬を叩いて気を引き締めた。
その夜、瑠偉は日向の家に泊まる約束をしていた。
ローザンヌ一次選考の打ち上げをしよう、ということで計画して楽しみにしていたお泊り会だったが、いざその時を迎えると緊張してしまう。
(お、お、お泊り……)
恋人とのお泊り会。高校一年生の日向には刺激的な字面だ。
瑠偉が一度荷物を取りに家に戻った。彼が再び来るまでの間、日向はベッドに寝転がったり起き上がったり落ち着かない。
しかし。
「日向~。瑠偉くんはパジャマは持ってくるの?」
芽衣がノックもなしに部屋に入ってくる。
日向はびっくりして、しかしそれをごまかすように語気を強くして言う。
「泊まるんだから持ってくるだろ!」
「あら、部屋掃除したのね? ふふ、瑠偉くんに毎週泊まりに来てほしいわ」
「うるさいなぁ!」
瑠偉のために掃除したことをずばり言い当てられ、母親を部屋から追い出しにかかる。
「もう! 勝手に入らないでってば!」
「ね、日向、瑠偉くん歯ブラシは持ってくる?」
「知らないよ!」
「あ、そうだ。ゲーム機出しといたわよ。コントローラーは三つね」
「なんで三つ!?」
「なあに? 母さんを除け者にする気?」
「あ~もうっ! いいってば! 勝手にやるから!」
日向よりも母親の方がはしゃいでいる。日向は母親をリビングまで追いやってから、やっと部屋で落ち着けた。
「まったく、母さんは……」
ぶつぶつと文句を言うが、内心では母親の様子を見て少しだけ喜んでいる自分もいる。
(母さん、ご機嫌だなぁ)
瑠偉が転校してくる前、それこそ五か月前までは日向と芽衣の関係は良好とはいい難かった。バレエを表向きは嫌う日向と、その日向の心を理解しつつも決して「バレエをやめてもいい」という言葉を口にしなかった厳格な指導者である芽衣。
しかし、日向が前向きにバレエに取り組むようになって、芽衣との会話も増えた。そして何より、真剣に向き合えば向き合うほど、バレエという道の先達である母親の偉大さを理解した。
いまではこうして瑠偉が泊まりにくるのを楽しみにするような仲だ。
(瑠偉に感謝だな)
日向の人生はいい方向に進んでいるような気がした。
瑠偉が日向の家にやってきたのは19時ちょうどだった。彼はシャワーまで済ませて来たらしく、髪の先が少しだけ濡れていた。
「なんだ、うちで入ればよかったのに」
日向は玄関で彼を出迎えてそう言ったが、瑠偉は首を振る。
「レッスン終わりで汗をかいていたから、気持ち悪くて」
「ほら、入って。母さんがゲームしようってうるさいけど、無視して部屋に直行してね」
「何のゲーム?」
「知らない。たぶん格闘ゲーム」
そう言ったが、案の定リビングで母親につかまり、半裸の男同士が殴り合う格闘ゲームを二回ほどプレイさせられ、解放されたのは20時を過ぎた頃だった。
日向は部屋に入ると、ベッドに倒れ込んだ。
「だあ~もう。母さんとゲームするとこれだから嫌なんだよ」
「強いんだね、芽衣先生」
部屋には瑠偉が寝る用の布団を敷いてある。瑠偉もそこに荷物を下ろす。
日向はぼやいた。
「強いのはいいけどさぁ、はじめてゲームするっていう瑠偉相手に手加減なしだよ? 大人げないと思わない?」
瑠偉はくすくすと笑った。
「芽衣さん、バレエ教室では厳しいけど、家ではあんな感じなんだ」
「そうだよ。もう詐欺みたいだよね」
母親の厳しい指導を思い出し、日向は顔をしかめる。それを見て瑠偉はまた笑った。
「仲良いんだね」
「それなんだよ!」
日向はがばりと起き上がった。
「瑠偉にありがとうって言おうと思ったんだ」
「なんで?」
「僕がバレエを熱心に取り組み始めてから母さんと仲良くなった感じがしてさ」
「ああ……わかるかも」
「え?」
「私も。リッセンバレエスクールを辞めるって言ってから親とすごく仲が悪くなった」
「あ~……」
日向は渋い顔をした。なにせ名門リッセンバレエスクールだ。プロに最も近いと呼ばれ、卒業生の多くがパリ・オペラ座バレエ団に入団し、トップバレエダンサーであるエトワールにまで上り詰めた者もいる。
「そりゃあ、辞めるってなったら揉めるよ……」
日向が言うと、瑠偉も苦笑した。
「わからないこともないけどね。うちは親がバレエについて詳しいわけじゃなかったから」
「そうなの?」
「うん。私が子どものころに習いたいって言いだしたんだって。それで、母さんがなんとなく近所のバレエ教室に連れていって……そしたらそこがとんでもない有名コーチのいる教室でね」
日向は膝を叩いた。
「そこで才能を見出されたんだ」
「まあ、そうなるね。それで、両親はバレエについていっぱい調べてくれたんだよ。お金もかかるし、毎日練習の送り迎えをしてもらって、それから発表会の衣装も作ってもらって、リッセンに入ったあとは高額な学費もかかった……辞めるって言ったら、もう二人とも大激怒だったよ――それくらい、二人とも私をプロにしようと頑張ってくれていたからさ」
日向は腕を組んでうーんと唸った。親の理解や負担と言う点では日向はまだ恵まれている方だ。母親がもともとバレエダンサーで、おまけにレッスン費用は母親がやっている以上実質無料だ。
瑠偉の家は頑張ったのだろう。そう思うと、バレエとはなんと続けるのが難しい芸術なのだろうか。
瑠偉は明るくこの話を結んだ。
「で、いま日向のおかげでもう一度私がバレエを趣味じゃなくて本気でやるって言いだして、大喜び。お礼を言うのは私の方だね。ありがとう、日向」
「やめてよ。瑠偉は放っておいてもバレエの道に戻ったと思うよ。瑠偉はバレエが好きだから」
「うん。好きだって気づいた。日向のおかげ」
「いや、僕がバレエを好きだって気がついたのは瑠偉のおかげで……」
そこまで言ったあと、二人は顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。二人で感謝しあって、なんだかおかしかった。
ふと、笑い声が途切れた。目と目があう。瑠偉の水色の瞳はしっとりと夜露に濡れた花のようだった。
「日向」
名を呼ばれて、小首をかしげる。
瑠偉がベッドの端に座る。ぎしり、とベッドがきしんで、瑠偉の体重分だけへこんだマットに体が傾く。
「瑠偉」
日向が何をしようとしているのか、鈍感な日向でもわかった。
日向は目をぎゅっと目をつむった。
その時。
「今日冷えるわね。毛布いる?」
芽衣がまたノックもなしに部屋に入って来た。瑠偉は飛び退き、日向はベッドに倒れ込んだ。
「ん?」
慌ただしい二人を見て、芽衣は目を丸くする。
日向は叫んだ。
「母さん!! 僕たちもう寝るから!! 入ってこないでよ!」
「え?? もう?? まだ八時よ?」
「身長伸ばすために早く寝るの!!」
「あら~じゃあ十分身長が高い瑠偉はまだ寝なくていいわね。もう一回ゲームする?」
「母さん!」
「冗談よ。毛布置いておくから、寒かったら使ってね。おやすみ~」
ドアが閉まり、芽衣の足音が遠ざかったあと、やっと日向は息を吐いた。
「あぶ、あぶな……」
「日向」
呼ばれて振り仰ぐと、間近に瑠偉の吐息を感じ、次の瞬間にはもう唇を奪われた。
「んっ……」
触れるだけのキスだった。瑠偉は唇を離すと「ふふ。なんだか悪いことをしているみたいだね」と悪い笑みを浮かべた。
日向は真っ赤になってうつむいた。
若い彼らは芽衣の指導のもとめきめきと実力をつけた。
そして、二人がこの夏につけたのは技術だけではない。バレエの歴史、原著、作曲家の意図、振付師の意図、そして長く愛されてきた理由……。日向と瑠偉は時間を見つけては図書館へ行き、バレエについての本を読み漁り、わからないことがあれば芽衣を頼った。二人はこうして芸術であるバレエの担い手となるべく教養を身に着けていったのであった。
それは現役高校生として学業の傍らでこなしていくのは大変な毎日だった。
しかし、日向はこの生活にやみつきになりそうだった。バレエを始めて何十年、これほどバレエのことを考え、そしてこれほどうまくなりたいと願ったことはなかった。
瑠偉は慣れた様子でその多忙な生活をこなしていた。彼はその細い体からは信じられないほど体力があった。そして、なにより時間管理がすぐれていた。計画を立て、甘えを許さず、一分一秒も無駄にしない。
バレエダンサーは自分に厳しくなければなれない。その厳しさを目の当たりにして、日向は瑠偉に感心しきりだった。
日向はそこまで自分を厳しく律することができなかった。たまには甘いものを食べたし、たまには睡魔に負けて学校の宿題を忘れることもあった。
そんな彼だったが、くじけそうになると「明日早起きして学校に行って勉強する」と瑠偉に嘘をついてひとりだけで登校することにしていた。
そして、ひそかに例の河原で好きに踊るのである。
その踊りには伝統的な動きもなにもない。
ただ動きたいように動いて、跳びたいように跳んだ。
そうして上達するためのバレエと、楽しむためのバレエを使い分けた。それだけでもっともっとバレエが好きになっていくのを感じた。
そして迎えた十月二十日。
日向、瑠偉、歩美、穂香はバレエ教室に勢ぞろいしていた。彼らがそれぞれ練習してきたヴァリエーションを踊り、芽衣はそれを固定カメラで録画することになっている。その録画したデータはローザンヌ国際バレエコンクールの審査員に送られる。――これが国際大会の予選なのである。
日向が最初に踊り、次に瑠偉、歩美、そして最後は穂香が踊った。
穂香が選んだヴァリエーションはバレエ『眠れる森の美女』のオーロラ姫だった。派手な振り付けこそないが、優美で、繊細で、指先まで極限の美を追求するような踊りである。
穂香がそれを踊り切り、芽衣が親指をぐっと突き上げたとき、四人はいっせいに感性をあげた。
「おわったぁぁああ」
「お疲れさま」
「がんばったよなあああ」
「もう動けない……」
それぞれ飛び跳ね、手を叩き、そしてその場に崩れ落ちた。
皆全力で踊り、疲れ切っていた。
芽衣は教え子たちの様子を見て慈愛に満ちた笑みを浮かべたあと、大切そうにカメラを撫で、それからいつもの厳しい表情に戻った。
「これで終わりじゃないのよ!」
ぴしゃりと言われて、三人の背筋が伸びる。
芽衣は指を立てて言う。
「結果は十一月三十日よ。いい? この一次を終えてからの一か月余りをどう過ごすかが本選の結果を左右するわ。終わったって喜ぶのはまだ早いわ」
言われて、三人の顔に緊張が戻る。
そう、これはあくまで予選なのだ。目指すは本選二月十日――スイス・ローザンヌ。
日向も両頬を叩いて気を引き締めた。
その夜、瑠偉は日向の家に泊まる約束をしていた。
ローザンヌ一次選考の打ち上げをしよう、ということで計画して楽しみにしていたお泊り会だったが、いざその時を迎えると緊張してしまう。
(お、お、お泊り……)
恋人とのお泊り会。高校一年生の日向には刺激的な字面だ。
瑠偉が一度荷物を取りに家に戻った。彼が再び来るまでの間、日向はベッドに寝転がったり起き上がったり落ち着かない。
しかし。
「日向~。瑠偉くんはパジャマは持ってくるの?」
芽衣がノックもなしに部屋に入ってくる。
日向はびっくりして、しかしそれをごまかすように語気を強くして言う。
「泊まるんだから持ってくるだろ!」
「あら、部屋掃除したのね? ふふ、瑠偉くんに毎週泊まりに来てほしいわ」
「うるさいなぁ!」
瑠偉のために掃除したことをずばり言い当てられ、母親を部屋から追い出しにかかる。
「もう! 勝手に入らないでってば!」
「ね、日向、瑠偉くん歯ブラシは持ってくる?」
「知らないよ!」
「あ、そうだ。ゲーム機出しといたわよ。コントローラーは三つね」
「なんで三つ!?」
「なあに? 母さんを除け者にする気?」
「あ~もうっ! いいってば! 勝手にやるから!」
日向よりも母親の方がはしゃいでいる。日向は母親をリビングまで追いやってから、やっと部屋で落ち着けた。
「まったく、母さんは……」
ぶつぶつと文句を言うが、内心では母親の様子を見て少しだけ喜んでいる自分もいる。
(母さん、ご機嫌だなぁ)
瑠偉が転校してくる前、それこそ五か月前までは日向と芽衣の関係は良好とはいい難かった。バレエを表向きは嫌う日向と、その日向の心を理解しつつも決して「バレエをやめてもいい」という言葉を口にしなかった厳格な指導者である芽衣。
しかし、日向が前向きにバレエに取り組むようになって、芽衣との会話も増えた。そして何より、真剣に向き合えば向き合うほど、バレエという道の先達である母親の偉大さを理解した。
いまではこうして瑠偉が泊まりにくるのを楽しみにするような仲だ。
(瑠偉に感謝だな)
日向の人生はいい方向に進んでいるような気がした。
瑠偉が日向の家にやってきたのは19時ちょうどだった。彼はシャワーまで済ませて来たらしく、髪の先が少しだけ濡れていた。
「なんだ、うちで入ればよかったのに」
日向は玄関で彼を出迎えてそう言ったが、瑠偉は首を振る。
「レッスン終わりで汗をかいていたから、気持ち悪くて」
「ほら、入って。母さんがゲームしようってうるさいけど、無視して部屋に直行してね」
「何のゲーム?」
「知らない。たぶん格闘ゲーム」
そう言ったが、案の定リビングで母親につかまり、半裸の男同士が殴り合う格闘ゲームを二回ほどプレイさせられ、解放されたのは20時を過ぎた頃だった。
日向は部屋に入ると、ベッドに倒れ込んだ。
「だあ~もう。母さんとゲームするとこれだから嫌なんだよ」
「強いんだね、芽衣先生」
部屋には瑠偉が寝る用の布団を敷いてある。瑠偉もそこに荷物を下ろす。
日向はぼやいた。
「強いのはいいけどさぁ、はじめてゲームするっていう瑠偉相手に手加減なしだよ? 大人げないと思わない?」
瑠偉はくすくすと笑った。
「芽衣さん、バレエ教室では厳しいけど、家ではあんな感じなんだ」
「そうだよ。もう詐欺みたいだよね」
母親の厳しい指導を思い出し、日向は顔をしかめる。それを見て瑠偉はまた笑った。
「仲良いんだね」
「それなんだよ!」
日向はがばりと起き上がった。
「瑠偉にありがとうって言おうと思ったんだ」
「なんで?」
「僕がバレエを熱心に取り組み始めてから母さんと仲良くなった感じがしてさ」
「ああ……わかるかも」
「え?」
「私も。リッセンバレエスクールを辞めるって言ってから親とすごく仲が悪くなった」
「あ~……」
日向は渋い顔をした。なにせ名門リッセンバレエスクールだ。プロに最も近いと呼ばれ、卒業生の多くがパリ・オペラ座バレエ団に入団し、トップバレエダンサーであるエトワールにまで上り詰めた者もいる。
「そりゃあ、辞めるってなったら揉めるよ……」
日向が言うと、瑠偉も苦笑した。
「わからないこともないけどね。うちは親がバレエについて詳しいわけじゃなかったから」
「そうなの?」
「うん。私が子どものころに習いたいって言いだしたんだって。それで、母さんがなんとなく近所のバレエ教室に連れていって……そしたらそこがとんでもない有名コーチのいる教室でね」
日向は膝を叩いた。
「そこで才能を見出されたんだ」
「まあ、そうなるね。それで、両親はバレエについていっぱい調べてくれたんだよ。お金もかかるし、毎日練習の送り迎えをしてもらって、それから発表会の衣装も作ってもらって、リッセンに入ったあとは高額な学費もかかった……辞めるって言ったら、もう二人とも大激怒だったよ――それくらい、二人とも私をプロにしようと頑張ってくれていたからさ」
日向は腕を組んでうーんと唸った。親の理解や負担と言う点では日向はまだ恵まれている方だ。母親がもともとバレエダンサーで、おまけにレッスン費用は母親がやっている以上実質無料だ。
瑠偉の家は頑張ったのだろう。そう思うと、バレエとはなんと続けるのが難しい芸術なのだろうか。
瑠偉は明るくこの話を結んだ。
「で、いま日向のおかげでもう一度私がバレエを趣味じゃなくて本気でやるって言いだして、大喜び。お礼を言うのは私の方だね。ありがとう、日向」
「やめてよ。瑠偉は放っておいてもバレエの道に戻ったと思うよ。瑠偉はバレエが好きだから」
「うん。好きだって気づいた。日向のおかげ」
「いや、僕がバレエを好きだって気がついたのは瑠偉のおかげで……」
そこまで言ったあと、二人は顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。二人で感謝しあって、なんだかおかしかった。
ふと、笑い声が途切れた。目と目があう。瑠偉の水色の瞳はしっとりと夜露に濡れた花のようだった。
「日向」
名を呼ばれて、小首をかしげる。
瑠偉がベッドの端に座る。ぎしり、とベッドがきしんで、瑠偉の体重分だけへこんだマットに体が傾く。
「瑠偉」
日向が何をしようとしているのか、鈍感な日向でもわかった。
日向は目をぎゅっと目をつむった。
その時。
「今日冷えるわね。毛布いる?」
芽衣がまたノックもなしに部屋に入って来た。瑠偉は飛び退き、日向はベッドに倒れ込んだ。
「ん?」
慌ただしい二人を見て、芽衣は目を丸くする。
日向は叫んだ。
「母さん!! 僕たちもう寝るから!! 入ってこないでよ!」
「え?? もう?? まだ八時よ?」
「身長伸ばすために早く寝るの!!」
「あら~じゃあ十分身長が高い瑠偉はまだ寝なくていいわね。もう一回ゲームする?」
「母さん!」
「冗談よ。毛布置いておくから、寒かったら使ってね。おやすみ~」
ドアが閉まり、芽衣の足音が遠ざかったあと、やっと日向は息を吐いた。
「あぶ、あぶな……」
「日向」
呼ばれて振り仰ぐと、間近に瑠偉の吐息を感じ、次の瞬間にはもう唇を奪われた。
「んっ……」
触れるだけのキスだった。瑠偉は唇を離すと「ふふ。なんだか悪いことをしているみたいだね」と悪い笑みを浮かべた。
日向は真っ赤になってうつむいた。
