「瑠偉の馬鹿~!!」
 翌日も、日向はこう叫ぶことになる。

 八月になった。今日も今日とて午後からバレエ教室で夏季特別講習を受ける予定なのだが、日向が二階の自宅から下りてくるとそこにはもう瑠偉と女子三人が揃っていた。
「え、みんな早いね」
 そう言って駆け寄ると、瑠偉に思いっきり抱きしめられた。

「ちょっ!?」
 日向が仰天したが、それに構わず瑠偉が笑顔で言う。
「みんなに日向と私が恋人になったって話をしていたとことなんだ」
「へ!?」
 女子三人はにやにやとこちらを見ている。
「見せつけてくれるぅ~」
「なるほどね。だから二人とも発表会ぐだぐだだったのね」
「恋愛でダメになるタイプ?」
 順に歩美、恵子、穂香である。

 日向は大慌てだ。
「ち、違う! これは、ほら、あれですよ! フランス式の大親友って意味であって……!」
 その言葉に、瑠偉が愕然とした。
「えっ!? そうなの!?」
「う~っ!! 瑠偉の馬鹿~!!」

 しばらく瑠偉と日向がすったもんだを繰り広げると、年長の歩美が手を叩いて二人を黙らせた。彼女は腰に手を当てて尋ねる。
「それで、あなたたち、ほんとうに恋人同士になったの?」
 日向は歩美の足元に座って顔を伏せて頷く。
「……はい」
 それを見て瑠偉は胸をなでおろす。
「もう驚かせないでよ。昨日のは私の夢だったのかと思ったじゃない」
「瑠偉、あのね、日本では付き合って一日目にまわりに交際宣言なんてしないんだよ!」
「え? そうなの? 何日目ならいいの?」
「瑠偉の馬鹿!!」
「はいはい。いちゃつかなーい」
 再び歩美が手を叩く。それで日向は肩を落として黙る。

 別に瑠偉と付き合ったことを隠したいわけではないのだが、公表する心の準備ができていなかった。
 しかし隣で幸せオーラ全開といった様子の瑠偉を見ると、それ以上何も言えなくなってしまう。

 歩美は二人を指さして言う。
「まずあんたたちは私たちに謝りなさい」
「へっ」
 突然の話に思わず頓狂な声が出る。歩美は眉を吊り上げて続ける。
「発表会のことよ! あんな情けない踊りを披露して!」
「ご、ごめんなさい!!」
「申し訳ない」
 素直に頭を下げた二人のつむじを見下ろして、歩美はふんと鼻を鳴らした。
「いいこと! 公私混同は許さないわ! 次にあんな踊りをしたら、トゥーシューズを顔面にめり込ませるからね!」
「は、はい!」
 ほんとうにやられそうだ。日向は思わず身震いした。

「あーあ。ローザンヌも近いのに、身近にバカップルが生まれてしまった……」
 やれやれと言った様子でひとりごちた穂香の小さなつぶやきを、瑠偉は聞き逃さなかった。
「ローザンヌ? ローザンヌってローザンヌ国際バレエコンクールのこと?」
 穂香は首を傾げる。
「なに瑠偉、興味あるの?」
「出られるの? ローザンヌに。この教室から?」
「私と歩美ちゃんは中三から毎年エントリーしてるけど?」
 瑠偉は目を見開いた。

 ローザンヌ国際バレエコンクールとはスイスのローザンヌで開かれる世界最高峰のバレエコンクールである。
 コンクールに出場できるのは十五歳から十八歳の男女であり、入賞者は提携している六十以上の世界の有名バレエスクールへの入学許可証がもらえるだけでなく、上位の賞では現地での生活費を含めたスカラシップを受け取ることができる。
 まさにプロを目指す若手バレエダンサーの登竜門なのだ。

 歩美が言う。
「いまから三か月みっちり練習して、十月には一次審査よ。瑠偉もエントリーする? 九月まで受け付けしているはずだけど」
「ほんとうかい!?」
 瑠偉は飛び上がらんばかりに喜んだ。
「一次審査は何をするの?」
「ヴァリエーションのビデオ審査よ。録画して送るの。突破したらスイスの本選に出られるの」
「ヴァリエーション! 自由に選べる?」
「もちろん。私はスワニルダのヴァリエーションを送るつもりよ」
「うわあ。いいね。最高だ!」

 日向は前のめりになって話を聞く瑠偉の袖をつかむと、教室の隅にひっぱった。
 瑠偉は驚いて問う。
「な、なに? 日向?」
 声を落として日向は言う。
「コンクールに出るの?」
「いけないの?」
「いけないってわけじゃないけど……確かリッセンバレエスクールも提携しているはずだよ?」
 そこにいるのが苦しかったんじゃないのか、と目で尋ねる。瑠偉はけろっとして答えた。
「うん。だから出たいんだ。いまの私は、リッセンにいたころより素晴らしい踊りができる気がしている。それを先生たちに見てほしい」
「……そっか。瑠偉ってバレエ馬鹿だったな」
 日向が笑うと、瑠偉も笑った。どうやら杞憂だったらしい。
 瑠偉が言う。
「日向もエントリーするでしょう?」
「え?」
「日向もいっしょに出ようよ。コンクールに出て、スカラシップをとる。これがエトワールへの道だろう?」
「あ……」

 日向は俯いた。発表会に向けて履きつぶして、ぼろぼろのバレエシューズが目に入る。
 彼はぽつりと言った。
「実は、出たことないんだ」
「なんで、もったいない」
「どうせそんないい成績をとれるはずないって思ってたし……バレエでプロを目指すとか、その、考えてなかった」

 足踏みをする。発表会のゲネプロのときに感じた高揚感を思いだす。体に力がみなぎり、高く高く跳んだあの感覚。

 日向は顔を上げた。
「いっしょにエントリーしよう。うん。やってみよう」
 日向が言うと、瑠偉は手を叩いて喜んだ。
「目指すはエトワールだね」

 少しすると芽衣が事務所から姿を現す。
 瑠偉はまっすぐ彼女のもとに進み出ると、「ローザンヌ国際バレエコンクールに出たいです」と言った。
「言うと思ったわ」
 芽衣は笑う。彼女もまた若かりし頃にローザンヌでスカラシップを獲得したひとりなのである。

 瑠偉が日向を振り返る。それで、日向もおずおずと口を開いた。
「その、母さん、僕も……出ようかと思うんだけど」
 瑠偉のときとは違い、芽衣は目を瞬かせた。
「日向も? ローザンヌに? ほんとうに?」
 そんな反応をされると自信をなくしてしまう。
 しかし瑠偉はそれを許さない。
「出るよね?」
「で、出るよ……! 出てみるだけ……」
「きっと楽しいよ!」
 瑠偉が笑うので、日向もつられて笑う。

 芽衣は少し考えたあと「やるなら本気よ。弱音も禁止」と言う。
 日向は真剣な顔で頷き「出たい」と言い直した。
 瑠偉といっしょなら、きっと楽しい。

 芽依は手を叩く。
「じゃあ、明日からは通常クラスのあとでプライベートレッスンよ。歩美、穂香は月水、瑠偉、日向は火木。ひとり40分。しっかり集中してやるのよ」
 その言葉を聞いて、瑠偉は首を傾げた。
 いまの説明では、プライベートレッスンを受ける女子は二人。一人足りない。

「恵子さんは出ないの? ローザンヌ」
 瑠偉に言われて、恵子は頬を掻いた。
「軽く言ってくれるわね……」
「だって、自分のバレエがどこまで通用するか知りたくないの?」
 恵子は顔の前で手を振る。
「私はいいや。習い事だから。高校卒業までって決めているし」
「そうなんだ」
 そのやり取りを聞いて、日向は何かが引っかかった。

(習い事、かぁ)

 自分はどうなのだろう。
 つい先日までは自分にとってもそうだった。習い事、ライフワーク、趣味。
 しかし、いまこうしてプロへの道に挑戦しようとしている。習い事から、プロへ。瑠偉に流されるままにローザンヌへの出場を決めたが、それはものすごく大きな変更のような気がした。
 日向はぐっと考え込んだが、結局それ以上何が引っかかっているのかわからなかった。
 彼はひとり首を振った。

(優勝してから考えよう)

 どう考えても、優勝しない人間の方が圧倒的多数なのだ。取らぬ狸の皮を数えている暇があったら練習した方がいいだろう。
 その日はみんないつも以上に熱心に練習に取り組んだ。
 一瞬たりとも無駄に出来ない。特に高校三年生の歩美はローザンヌ国際バレエコンクールに出場できる最後の年になる。
 芽依の指導にも熱が入り、バレエ教室はぴりぴりとした空気に包まれた。


 その夜、日向が自分の部屋でストレッチをしながらDVDを観ていると瑠偉から電話がかかってきた。
「瑠偉? いきなりどうしたの?」
『日向の声が聞きたくて』
 まさに恋人同士といった台詞を言われて、くすぐったい感じがした。
「なに、それ」
 火照る頬をごまかすように言うと、瑠偉も電話の向こうで照れたように笑う。
『それに、またメッセージを送って無視されちゃうかもしれないだろう?』
 出会ってすぐのことをからかうように言われて、日向は慌てた。
「もう! 忘れてよ!」
『ごめんごめん。それで、今何してたの?』

 日向は観ていたDVDの再生を止めて言う。
「オペラ座バレエ団のコッペリアのDVDを観ていたんだ」
『あ、もしかしてローザンヌで踊る曲を調べてる?』
「当たり。母さんがフランツのヴァリエーションにしろって言うんだよね」

 フランツとはバレエ『コッペリア』の主役スワニルダの婚約者の村人である。コッペリア第三幕「スワニルダとフランツの結婚式」にはこのフランツがソロで結婚の喜びを爆発させる踊りを見せることになる。
 バレエではソロで踊ることをヴァリエーションと呼び、芽衣がコンクール用にこのフランツのヴァリエーションを提案してきたのであった。

 瑠偉は嬉しそうに言う。
『コッペリアは私たちの思い出のバレエだ。いいんじゃない?』
 日向の返事は歯切れが悪い。
「うーん……でも、フランツってそんなに難易度が高いバリエーションじゃないよね? 調べてみたら、コンクールでも人気の演目だって書いてあって。被ったら比較されるのに、難易度的に差が付きにくいような気がして……どうなんだろう」
『簡単なヴァリエーションほど、差がつきやすいと思うけどなぁ』
「そうなの?」
『派手な動きが少ない分、基本の姿勢や動きが見えやすいんだ。基本ができてるかどうかは一番実力差が生まれるところだよ』
 日向は感心した。
「なるほどねぇ」

 瑠偉は言う。
『フランツ、私はいいと思うけど』
「そう?」
『うん。明るくて喜びに満ちた踊りで、日向にあってる感じがする』
 それを聞いて、日向は決心した。
「よし、じゃあフランツにする。……ピルエットを猛練習しないと」
 ピルエットとは回転技をさす。日向は特に連続して回転するのが苦手なのだが、フランツのヴァリエーションにはそれが含まれている。
 日向のぼやきを拾って、瑠偉が笑う。
『やっぱり! 日向ってジャンプは得意だけど回転は苦手なんだって思ってた!』
「はっきり言わないでよ!」

 スマートフォンの向こうでくすくすと笑って「ごめんごめん」と瑠偉が言う。
 日向は唇を尖らせながら尋ねた。
「それで? 瑠偉は? 瑠偉はコンクールで何を踊るの?」
『まだ決めてない』
「母さんは何て言ってた?」
『白鳥の湖のジークフリート王子のヴァリエーションを勧められたよ』
「白鳥の湖!」
 日向はいいじゃん、と答えた。

 バレエ『白鳥の湖』はジークフリート王子が結婚相手を探すなかで美しい姫君オデットと出会うところからはじまる。オデットは悪魔に呪いをかけられており、昼は白鳥の姿になり、夜だけ人間の姿に戻ることができる。この呪いを解くためにはまだ誰にも愛を誓ったことのない男に愛を誓ってもらう必要があった。
 ジークフリートはオデットに愛を誓うと約束したが、約束の日に悪魔の娘オディールがオデットに化けて現れ、ジークフリートはオディールに愛を誓ってしまい、オデットは悲しみに打ちひしがれる――。

 悲しい愛の物語であるが、高校生の日向にとって重要なのは物語ではない。
 日向は唇を尖らせた。
「いいなぁ、プティパ版ならいっぱい跳べるじゃん」

 バレエ『白鳥の湖』にはプティパとイワーノフという振り付け師が振り付けたものがある。プティパが振り付けたものは跳躍が多く、イワーノフが振り付けたものは回転技が多くなっている。
 日向がうらやましそうにいうと、瑠偉は少し考えこんだ。
『ほんとうは白鳥の湖じゃない方がいいかなって思ってたんだけど……うん、そうだね。私、プティパ版にする』
「え、いいのか?」
『それでこうしよう。日向は私に跳躍を教えて、私は日向に回転を教えるから』
「お、それ、いいな。そうしようそうしよう!」

 通常クラスが毎日60分、プライベートレッスンが毎日40分。
 しかしそれでは到底足りない。ローザンヌ国際バレエコンクールには世界中のバレエの天才が集まり、競い合う。
「毎日自主練習しようぜ」
『もちろんだ』
 日向が誘うと、瑠偉は快諾する。
 日向は胸に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。

 日向はつぶやいた。
「いいなぁ、こういうの」
『ん?』
「僕、いま人生で一番バレエ漬けになってる。しかも楽しい」
 瑠偉は笑った。
『何を言っているんだい。スカラシップをとってバレエスクールに行ったら、いまの比じゃないよ。もっともっと朝から晩までバレエ漬けだ』
 そう言われて、なるほどと気が付く。
「そっかぁ……全寮制だもんね」
『授業の内容もバレエばっかりだよ』
「楽しそう」
『やる気出た?』
「……出た」
 二人は笑い合って、それから時計の針が十二時を指すまで他愛もない話を続けた。

 電話を切るとき、瑠偉がおもむろに言った。
『愛してるよ』
「ぼ、僕も……愛しているよ」
 幸せだ。
 日向はいま自分が幸せの絶頂にいるのだと感じた。