「ほんとうに好きになっちゃった」らしい瑠偉であったが、彼の態度がそれまでと大きく変わることはなかった。いっしょに学校に行き、いっしょにお昼を食べて、いっしょに帰って、いっしょにバレエをする。
 彼はもう日向の生活の一部になっており、特に約束することがなくともいっしょに行動した。

 瑠偉は「ほんとうに好きになっちゃった」とだけ言って、そのあと日向の言葉をなにも求めなかった。それで、結局日向もその「好き」の意味を聞けないでいた。
 少し距離が近いことや、友人という括りでは説明できないほどやさしいことは気になったが、瑠偉のいかにもフランス人といった外見を見ると「ジェントルマンってこんな感じ?」と思ってしまったのもある。

(というか、聞いて変な感じになっても嫌だしなぁ)
 日向はじっと隣にいる瑠偉を見つめながら、いったい何度目になるかわからない思考の末、いつも通りの着地点に落ち着いて思考を止めた。
 場所は県の文化ホールの控室である。そこの大きな鏡の前の椅子に日向は腕を組んで座っていた。
 窓の外はうるさいくらいの蝉の大合唱が繰り広げられている。今日も三十五度を超える真夏日だそうだ。
 しかしそれは窓の外の話で、エアコンの効いた控室は寒いくらいだ。
 日向はぶるっと震えたあと、ブランケットを肩に羽織りなおした。

「寒い?」
 瑠偉は手を止めてこちらを見た。そして日向が何かを答える前に自分のブランケットを膝にかけてくれる。
「いや、瑠偉も寒いでしょ」
「大丈夫」
 短く答えて、また瑠偉は鏡と向き合う。真剣な顔で、右手に持ったアイライナーを動かす。――絶賛彼はメイク中なのである。
 今日は七月三十一日。バレエ教室の発表会の日である。日向と瑠偉は衣装に着替えて準備をしていた。
 この発表会は近隣の六つのバレエ教室が合同で開いている。ふだんは隅の方においやられている男子であるが、いまだけは十人もいて、小さな楽屋をひとつ宛がわれていた。
 彼らはみな忙しそうに手を動かしている。

 とはいえ、日向の方はもう準備をすることがない。
 瑠偉はヘアセットにメイクに大忙しだが、日向の演じるねずみの王様はねずみの被り物を被るのでヘアセットもメイクもないのだ。
 手持無沙汰な日向はまた瑠偉を見つめた。

(かぁっこよすぎるんだよなぁ……)
 もともと瑠偉はきれいな顔立ちをしているが、メイクを施すとそれがさらに際立った。毛穴ひとつない陶器の肌に、整った鼻梁、薄い唇とすっきりとした顎。そして長いまつげとその奥の水色の瞳が見る人すべてを虜にする。
 およそ美形と呼ばれるのにふさわしい要素を兼ね揃えている。それだけでなく186cmの長身に、すらりと長い手足、鍛え抜かれた腹筋まであるのだから、こう日向が見惚れるのも仕方がないことである。
 まだ170cmの日向は瑠偉の体格がうらやましくてしかたがない。
 さきほどから楽屋の外を通る女子たちもちらちらと瑠偉を盗み見していく。

 楽屋にはステージを映すテレビが置かれていて、それはいま行われているゲネプロの様子を映し出している。
 発表会は年少クラスから順に踊る。いまはちょうど幼稚園クラスのようだった。小さな子どもたちがかわいらしいチュチュを履いて懸命に手足を動かしている。
 時折、大きな笑い声が聞こえる。舞台袖で待っている保護者たちの声だ。小さな子たちが振り付けを間違えたり、立ち位置を間違えたりするたびにそれは大きくなる。
 よちよちと歩いてフォーメンションを変えようとして、ひとりだけ間違えてしまってはみだす女の子を見て日向もくすりと笑う。
 愛らしい土どもの失敗はご愛嬌、むしろそれが一番の盛り上がるところでもあるのだ。

「よし。終わり」
 瑠偉の声が聞こえて、また瑠偉に視線を戻すと、彼はメイク道具をしまってジャケットを羽織っていた。
 くるみ割り人形役は金のボタンが十二個もついた青色のジャケットと黒い毛の帽子を被る。それが瑠偉にはものすごく似合っていて、まるで絵本の中から飛び出してきたかのようだ。
「かっこいいね」
 思わず言うと、瑠偉もにこりと笑って「日向もかっこいいよ」と言ってくれる。
「そうかなぁ……?」
 日向は自分の姿を改めてしげしげと見る。グレーのシャツに、グレーのタイツ、黒いブーツ。あとはねずみの被り物。王様であることを示す王冠だけが妙にぴかぴかと光っている。
 もちろん日向はねずみの王様役を気に入っている。その踊りは不気味で力強い。しかし、衣装に関してはやはりくるみ割り人形と比べると見劣りすると思った。
 そんな日向をよそに、瑠偉はもう一度「かっこいいよ」と言った。

 そうして瑠偉といっしょにだらだらと話していると、時間はあっという間に過ぎてしまった。
「日向、瑠偉、ゲネプロ十五分前! スタンバイして!」
 ドアから芽衣が顔を出す。瑠偉と日向は同時に立ち上がった。そして瑠偉はくるみ割り人形の帽子を被り、日向はねずみの被り物を小脇に抱えて廊下に出る。
 ゲネプロとはリハーサルを示す。日向たち高校生のクラスは立ち位置を確認する時間が十分、通しで踊れるのは一回しかない。

 舞台袖につくと、高校生女子三人と、ねずみやおもちゃの兵隊役をする中学生女子たちがもう並んでいた。
 二人はその最後尾にならんだ。
「いつでも、ゲネプロが一番緊張するんだよね」
 ひとつまえのグループのゲネプロを見ながら声を落として日向が言うと、瑠偉も頷いた。
「わかる。本番だと開き直れるんだけど」
「瑠偉も緊張するんだ?」
「いいものを見せたいと思うと、どうしてもね」
「ふうん?」
 そう言う割に、瑠偉は瞳には緊張の色がない。日向の怪訝そうな顔を見て、瑠偉は噴き出した。
「確かに、いまは全然緊張していなぁ」
 くつくつと喉で笑ったと、彼はぐっと身を乗り出した。
「……日向と踊れると思うと楽しくて」
「へ」
 指先が頬をなぞり、唇の上を弾いていった。

 何か言おうとしたそのとき、芽衣の声が聞こえた。
「あ、呼ばれた。行こう」
 瑠偉はぱっと雰囲気を変えると、まるで何事もなかったかのように歩き出す。
 日向はその背中を口をぱくぱくさせながら見る。

(し、信じられない)

 こんなところでこんなときに何をしてくれるんだ。
 耳まで赤くなっていく自分を自覚する。
 しかし物思いに耽る時間はないらしい。
「早く来なさーい!」
 母の怒鳴り声を聞いて、日向は自分の両頬を叩いた。


 ゲネプロはそれまでの練習とは全く違う。
 広いステージに、あたたかいスポットライト、きらきら光る衣装に、大きな音楽。
 そのステージでひときわ目を引くのは、やはり瑠偉だ。
 彼の踊りは、ステージが大きくなってさらに迫力を増した。
 彼の踊るくるみ割り人形と相対する日向はその迫力に息を飲んだ。

 そしてその迫力は日向を踊りに没入させず、どこか冷静にさせた。
(いいなぁ……)
 瑠偉と自分。同い年で、バレエを練習した年数もだいだい同じ。それなのにどうしてこんなに差があるのだろうか。
 スポットライトがその差を残酷なほどに明らかにしていた。

 ――悔しい。負けたくない。

 その感情がむくむくと大きくなる。それはねずみの王様の気持ちではなく、日向自身の感情だ。

 日向はぐっと足に力を入れる。
(もっと大きく)
 指先まで神経を走らせる。
(もっと高く)
 音楽を聴く。リズムに乗る。
(もっときれいに)

 日向の目には瑠偉だけが映っている。
 彼の息遣い、筋肉ひとつひとつの動きを目で追う。彼ができることは自分にもできる。もっともっとと追い求めた。もっときれいに踊りたい。その気持ちが日向の体を突き動かし、若い日向の体は限界を超えて動いた。

(動く……踊れる)
 瑠偉のように自分も踊れる。
(苦しい……でも)
 自分はもっともっと上へ行ける。

 踏み込んで、高く跳ぶ。
 いつもよりずっと高く跳んだ。
 ふと目が床を捕える。その高さに、ふと魔法がとけた気がした。
「あ」
 まずい、と思ったらもうだめだった。
 日向は空中で態勢を崩し、そのまま床に激突――。

「音楽止めて!」
 母の悲鳴のような声が聞こえる。
 気が付いたら、日向はぎゅっと目をつむっていた。
 息を吐き、自分の身に何があったかを思い出す。

(あ、そっか。体勢崩して)
 指、腕、足と順番に動かして、問題がないことを確認する。
 そして恐る恐る目を開くと、目の前に金色の髪があった。

「瑠偉?」
「うん。大丈夫?」
 近いところで瑠偉の声が聞こえる。
 顔を巡らせると、日向は瑠偉の上に倒れ込んでいた。
「わっ!!」
 思わず飛び起きて瑠偉の上から飛びのく。
 体勢を崩した日向を見て、瑠偉が助けに入ってくれたようだった。
 瑠偉は平然と立ち上がると、座り込んだままの日向の頭から被り物を脱がせて覗き込む。

「どこか痛めた?」
「いや、だ、大丈夫。瑠偉こそ……」
「私は大丈夫」
 母が駆け寄ってくる。
「二人とも、怪我は?」
「私は大丈夫ですけど、日向は変な態勢の崩し方をしていたから、跳躍の踏み切りのときに痛めたかもしれません」
「いや、瑠偉! 俺どこも痛くないよ!」
「それは確認してみないと」
 母が瑠偉に言う。
「日向を控室まで連れていってくれる? ゲネプロが終わったら私も行くから」
「はい」
「平気だって。ゲネプロ続けられるよ!」
 母はぴしゃりと言った。
「日向。言うことを聞きなさい。……変に張り切って踊るからそうなるのよ。練習は本番のように、本番は練習のように、でしょう。このまま続けたらもっと大きな怪我になるわよ」
「ぐ……」
 ぐうの根もでないほど正論を言われ、日向は押し黙った。

 瑠偉に手を引かれて舞台袖に下がる。
 ライトのあたたかさが消え、汗をかいた体が一気に冷える。
 ぶるりと震えると、瑠偉がジャケットを脱いで肩にかけてくれた。
「いいよ、別に」
 決まりが悪くて返そうとするが、瑠偉は受け取らない。そのままジャケットごと抱きしめるようにがっちりホールドされて控室に連れていかれる。気分は連行される囚人だ。

 控室はちょうど誰もいなかった。高校生たちはみな舞台袖にいるようだ。日向は椅子に座り、瑠偉がその足元に座った。瑠偉がそのままバレエシューズを脱がそうとするので日向は慌てた。
「自分で脱ぐって!」
「いいから。じっとしていて」
 瑠偉はバレエシューズを脱がすと、日向の足を両手で持ったままじっと足首を見つめる。
 日向はいたたまれない気持ちになって、きゅっと胸元の衣装を握りしめながら瑠偉のつむじを見た。
「瑠偉……もう放して……」
「うん。大丈夫そうだ……ほんとうによかったよ」
「大げさなんだよ」
 日向は足をひっこめて椅子の上で膝を折って抱えた。怪我をしていないか診られただけなのに、ひどく恥ずかしい気がした。

 瑠偉は心配そうに言う。
「どうしたの? 顔が赤いけど」
「別に……」
「それに、いつもの踊りとは違ったね……もしかして体調悪い?」
「……いや。本番に弱いだけ」
 いつもよりもリミッターを外して踊れた感じがあった。しかし、結局それは本来の実力ではない。体は悲鳴を上げ、最終的にこのざまである。
 日向は足首をさする。
 そこには痛みはない。しかし実力ではありえないほど高く跳んだ。足首に負担をかけてしまったのは間違いないだろう。

(なんで、あんなに跳べたんだろうな)

 ちらと瑠偉を見る。彼もまた足元に膝をついたままこちらを見上げている。その服装もあいまって、まるで騎士か何かのようだ。
「瑠偉、今日の僕の踊り、どうだった?」
「いつもと違ったね」
「よかった?」
「うん。くるみ割り人形に噛みついてやろうって気迫が伝わったよ」
「噛みつく」
 
 そう表現されて、目の前が晴れた。
(そっかぁ。そうだったのか)
 何度も頷く。
 自分のなかで言葉にできなかった感情に名前がついた。

「僕、瑠偉に負けたくなかったんだよね」
「なに、それ」
「もっと踊れないと瑠偉のライバルにふさわしくないと思ってさ」
「日向ってば、おかしいね。もう君は僕のライバルなのに」
 瑠偉は笑う。
 日向は唇を尖らせた。
(なんていうんだっけ……。ああそうだ「歯牙にもかけない」だ。ライバルなんて言うけど、実際は実力差がありすぎて相手にされていない感じ)
 瑠偉は立ち上がり、日向の背中をあやすように叩く。

(――瑠偉に、僕を見てほしかったんだ)
 日向はその感情を理解した。
「僕、瑠偉のことが好きになったのかも」
「えっ」
 突然の告白に、瑠偉は目を見開いた。その反応を見て、日向は肩をすくめた。
「僕は瑠偉に噛みついてやりたくて必死に踊ったんだよ。……失敗しちゃったけどね」

 沈黙は、たっぷり十秒。
 耐えかねて口を開いたのは、日向の方だ。
「な、なんだよ! 好きとかどうとか、瑠偉が先に言い始めたことなのに!」
 顔を赤らめて顔を伏せた次の瞬間――。
「わ、わっ!」
 瑠偉に抱きしめられていた。
 彼は耳元で尋ねる。
「――ほんとう?」
「うん。僕も気が付いちゃった」

 瑠偉の目がこちらを見る。日向はゆっくりと喉を鳴らした。
 それが合図だった。
 二人の唇は静かに重ねられ――ようとした。

「? 何をしているの?」

 ノックもなしに入ってきた芽衣の無遠慮な声によって、二人は勢いよく離れた。
 日向は全力で首を左右に振った。
「……なななな、なんでもないよ!!」
「は? なんでそんなに慌てているのよ」
「なんでもないって!!」
「もしかして怪我してた?」
 これには瑠偉が答える。
「大丈夫そうです」
 心なしか、彼の顔には苦笑が浮かんでいる。

 芽衣はほっと胸をなでおろすと、ずかずかと控室に入ると日向の額を弾いた。
「そう。本番はしっかりしなさいよ」
「わかってるよ!!」
 叫んで、それから肩に掛けられていた瑠偉のジャケットを頭から被った。
「なに、変な子ね」
「母さん! もう! 別にいいだろ! 女子のとこ行ってきなよ!」
「あんたたちが一番ひどいゲネプロだったから来たんでしょうが!」
「まあまあ、二人とも。ね、日向。本番は大丈夫だよね」
「大丈夫だよ!!」

 そうして気合を入れた本番であったが、結果は散々だった。

 日向は瑠偉を意識しすぎて踊りが固くなり、挙句の果てにまたすっころび、そしてまたまた瑠偉に助けられた。
 瑠偉も瑠偉でゲネプロのときの凄まじい気迫はどこへ行ったのか、どこか生暖かい空気で踊る。
 その甘い空気を感じて、日向も照れてしまう。
 戦うどころか照れ合って助け合うねずみの王様とくるみ割り人形は奇異に映ったことだろう。

 日向は本番が終わるなり「わー!」と顔を突っ伏して泣き、瑠偉は苦笑した。
「もう今日のことは忘れる!」
 一通り泣きわめいたあと日向がそう言った。

 しかし瑠偉は「私は今日のこと、一生忘れないよ」と言う。
 日向は顔を真っ赤にして叫んだ。
「瑠偉の馬鹿~!」