日向は自室でベッドに寝転んで考え事をしていた。考えるのは瑠偉のことである。
昨日瑠偉にキスをされてからというもの、瑠偉のことが彼の頭から離れないのである。
(いや、でも外国人は恋人じゃなくてもキスするっていうし)
(でも、瑠偉って日本語ぺらぺらなのに? そんな急に異文化を持ち出すかな?)
(大好きだよって、いったいどういう意味の……!)
(いや! でも外国人は恋人じゃなくても大好きくらい言うよね!?)
考えは堂々巡りのまま、結論はでない。
息詰まると自然とスマートフォンに手が伸びるのは現代っ子の性である。彼は検索エンジンを開けると、「キス」「外国」「挨拶」「口」「フランス」などの検索キーワードを入れた。
しかしどれほど調べてもそこに瑠偉の心は書かれていない。
ついに日向は思考を放棄した。
(もういいや。あれから瑠偉はふつうだったし)
今日もいつものように待ち合わせをして、そして学校に行って、バレエ教室に行った。瑠偉は教室入会の書類を持ってきていた。正式にバレエ教室のメンバーになったのである。
彼は昨日と変わらずフロアに感動し、楽しく踊ってきらきらしていた。
ひとりで昨日の彼の行動の真意を考えている自分が馬鹿みたいだ。
「あー……なんか疲れた」
目を閉じる。今日の教室ではいよいよ発表会に向けて『くるみ割り人形』の振り入れが始まった。
当たり前のことであるが、見よう見まねで踊るのと、実際に指導されながら踊るのでは天と地ほども違う。
指先の意識、背筋、目線、腕の角度にタイミング。
ひとつひとつを覚えて体に叩きこんでいく。その作業は楽しくもあるが、頭も体も激しく消耗する。
まどろみはじめたそのとき、スマートフォンの通知音がした。
「うー……」
画面を見ると、猛からメッセージが届いたようだった。
「めっずらしー……」
彼からメッセージが届くのはいつぶりだろうか。そういえば今日もからかわれなかった。
日向が警戒しながらアプリを開けて猛のサッカーボールのアイコンをタップすると『これって瑠偉?』という簡素なメッセージのあとに動画のURLが送られてきていた。
「んー?」
動画のタイトルはフランス語だ。条件反射で再生ボタンを押すと、数秒の読み込みのあと、バレエのステージが映し出された。
「え、えっ!?」
猛がバレエに関する動画を送ってくることにも驚いたが、それ以上に日向を驚かせたのは――。
「瑠偉!?」
そのステージで踊っているのが瑠偉だったからだ。
それは『くるみ割り人形』のステージだった。
瑠偉はくるみ割り人形役だ。
彼はおもちゃの兵隊を率いてねずみの王様と戦っている。――昨日バレエ教室で見たあの踊りだ。
しかし昨日とは何もかも違う。煌びやかな衣装、まばゆいスポットライト、鳴りやまない観客の拍手――。
「え、え!? こ、これ何の動画!? どこの……」
動画の概要欄を見てはたと気が付く。
「これ、リッセンバレエスクールの発表会動画だ……!」
アップロード日時は去年のクリスマスになっている。
「去年のクリスマスって五か月前……。え、五か月前までリッセンバレエスクールの生徒だったってこと……!?」
リッセンバレエスクールといえば名門中の名門だ。バレエの世界大会で優勝してスカラシップを獲得した生徒と小学生から選抜され英才教育を受けた生徒が集まり、卒業すると有名バレエ団へオーディションに優先的に参加できる。
プロに一番近い場所といってもいい。
「どういう、っていうかなんで猛がこれを……」
ためらったあと、メッセージを打ち込む。
『なんで猛がバレエの動画見てるの?』
数秒すると既読のマークがつき、すぐに返信があった。
『別に俺が見てたんじゃない』
『どういうこと?』
『女子が見つけて騒いでたから』
『そういうことね』
『ここのスクールって有名なところなんだろ。なんで瑠偉は日本に来たんだよ。あやしくないか』
『瑠偉がなんで日本に来たか、って猛に関係ある?』
『うぜぇ』
『はあ?』
それを最後にメッセージは途絶えた。スクロールしてみると実に二年ぶりのメッセージのやりとりだった。
「なんだっていうんだよ……」
ため息をついた後、また動画を見返す。
日向はリッセンバレエスクールが動画をアップロードするたびに見ているが、瑠偉が転校してきたときもまったく気が付かなかった。舞台用にばっちりとメイクをした瑠偉はいまこうして見ても別人に見える。
「でも、この踊りは間違いなく瑠偉だ……。すごいかっこいいなぁ……。……なんでリッセンバレエスクールを辞めて日本に来たんだろう」
確か、転校してきたときに瑠偉は親の仕事の都合だと説明していた。
しかし名門バレエスクールのほとんどが全寮制で、幼少期から親元を離れて切磋琢磨していると聞く。瑠偉の説明とつじつまが合わない。
とはいえ、バレエスクールではその限られた席をめぐって激しい争いがあることも有名だ。1年進級するごとに成績の悪い生徒は退学になり、世界バレエコンクールで優勝した生徒が新たに補充される。
日向はなまじバレエをかじっているだけあって、バレエスクールを辞めたのではなく辞めさせられた可能性にも気が付いた。
「聞きにくいよなあ……忘れよう」
動画だけお気に入りに登録すると、日向は明日何も知らない顔で瑠偉に会うぞ、と心に決めた。
翌日、瑠偉といっしょに登校すると、クラスメイトたちは瑠偉を取り囲んで質問攻めにした。
「瑠偉くんってプロを目指してたの!?」
「ねえ、なんで日本に来たの!? バレエあきらめたの!?」
「すっげぇな、瑠偉」
「動画、見たよ!!」
バレエは世界中で人気の芸術である。そしてその担い手を輩出するリッセンバレエスクールの動画の再生数はどれも100万回を超えている。
教室はちょっとしたアイドルが現れたかのような騒ぎだった。
瑠偉はそんなクラスメイトたちにちょっと困った顔をしたあと、隣にいる日向を見た。
「びっくりした。みんなよく見つけたね」
「え、あ、うん」
「……もしかして日向も動画を見た?」
「え、えと、いや、別に」
思わず目をそらしてしまう。瑠偉はそれを見逃さなかった。
「嘘」
日向は正直に謝った。
「ごめん。見たけど……訊かない方がいいかなって思って」
「……別に訊いてくれればよかったのに」
「いいの?」
「うん。日向にならいいよ」
そう言うと、瑠偉はまわりのクラスメイトに「親の仕事の都合でね。私は日本に来たかったからちょうどよかったんだ」と説明した。バレエを知らないクラスメイトたちはそれであっさりと納得して引きさがった。
しかし、猛だけは納得していなかった。
彼は休み時間のたびに瑠偉にまとわりつき、「なんでやめたんだ」「なんで日本に来たんだ」と質問を浴びせた。
瑠偉はそれにも丁寧に受け答えしていた。「バレエはやめていない」「日本に来たのは親の都合」しかしどう答えても猛は納得しない。
昼休みにもなると、あまりにもしつこい猛を見て止めに入る者や、冷ややかな視線を送る者が出始めた。
日向も何度かやんわりと止めに入った。しかし日向が仲裁に入れば入るほど、猛はヒートアップしていった。
放課後、帰りの挨拶をしたあとでまた猛が瑠偉に絡みだした。もう今日何度目になるかわからない。瑠偉もいい加減疲れてきたのだろう。彼はめずらしく眉根を寄せてしかめっ面をつくった。
彼の美しい顔に皺が刻まれたのを見たとき、ついに日向は机を叩いた。
「いい加減にしろよ!」
教室に残っていた生徒たちがいっせいに日向を見た。
日向はそれを感じ、こみ上げていた怒りがひっこんでしまった。
「か、帰るから」
小さくそう言うと、彼は驚いて固まる瑠偉の手を引き、同じく驚いて固まる猛の横をすり抜けた。
二人はいつものようにいっしょに校門を抜け、途中でコンビニに寄って飲み物を買ったあと、駅の近くの例の河原に下りた。
並んで適当な場所に腰掛けると、日向は買ったアイスティーの蓋を開けた。瑠偉も同じくペットボトルを取り出す。彼が買ったのは水だった。
日向は小さく言う。
「急に大きな声を出してごめんね」
瑠偉は笑う。
「いいよ。びっくりしたけど、うれしかった。日向も怒ることあるんだねぇ」
お互いになんとなく気まずくて、ちびちびと口をつける。
対岸の河原では小学生が草野球をしているようだった。ちょうどカキンという金属の気持ちいい音が空につきぬけ、わっと歓声があがった。
ランナーが三塁を回って、本塁に戻ろうとして、タッチアウト。どうやらスリーアウトだったらしく、攻守交替をする。
先に口を開いたのは瑠偉だった。
「私は六歳からリッセンバレエスクールにいたんだ」
「え、エリート……!」
その告白に衝撃を受ける。しかし瑠偉は静かに首を振った。
「他の生き方をしらないだけって解釈もできると思わないかい?」
「どういう意味?」
「親に言われて、右も左もわからないうちにバレエをやらされていたんだよ。それってエリートかな? 養殖の魚みたいじゃない?」
「あー……それは、うん。わかる、かも」
瑠偉の姿が、母親に言われるままバレエをはじめた自分と重なる。
瑠偉は小首を傾げた。
「日向はなんでバレエをはじめたの?」
「なんでって、そりゃあ、瑠偉といっしょだよ。母親がバレエ教室の主宰だし……」
「でもバレエ、好きでしょう?」
「好きだけど、嫌いだ。好きだけど」
瑠偉は苦笑した。
「どっち」
慎重に言葉を選びながら日向は言う。
「踊るのは好きだよ。発表会も。でも、バレエをしていることでからかってくる奴もいるでしょう。そういうのが嫌い」
「ああ。そういえばそういう人がいたね。不思議」
余裕たっぷり、という様子で瑠偉は笑った。
日向はそんな瑠偉から目をそらした。瑠偉が子どものころからバレエの専門的な学校にいたということは、彼にとってバレエについてからかってくる同級生など縁遠い存在なのだろう。――そう思うと、少しだけうらやましかった。
日向は唇を尖らせながら尋ねた。
「そんなところにいたのに、瑠偉はバレエが好きじゃないの」
「うーん……いまは好きかも」
「いまは、って?」
次は瑠偉が言葉を選んで話す番だった。
「リッセンバレエスクールにいたときは嫌いだった。嫌いになったんだ。天才だって言われて、どんなこともできて当たり前で、失敗したら「瑠偉らしくない」って言われるんだよ。……嫌にもなるよ」
「ああ……」
それは日向が知らないレベルの悩みだった。しかし、瑠偉の瞳がほの暗くなったのを見て、それがどれほどの苦しみであったのか察する。
瑠偉は続ける。
「それで、一回バレエを楽しむためにリッセンを辞めようと思ったんだ」
彼はぱっと顔をあげた。
「でもいまはバレエが好き。日向のおかげかも。あの日、日向が私のことを魔法使いって呼んでくれたから」
「へ」
突然の話に、日向が虚をつかれた。瑠偉は胸に手を当てて、噛み締めるように言う。
「私の世界には自分とバレエしかなかったんだけど、そう言われて、私のバレエで誰かを幸せにできる可能性に気が付いたんだ」
「……うん。瑠偉のバレエはそうだと思う」
日向の脳裏に、瑠偉に誘われて、踊るつもりがなかったのに勝手に踊りだしたあの日の情景が蘇る。
瑠偉は日向の手を取った。
「私が日向に踊りだす魔法をかけたなら、日向も私にバレエを好きになる魔法をかけてくれたよ」
それは突拍子もない話のように思えた。
日向からすると瑠偉に救われることはたくさんあっても、瑠偉を救ったという実感はなかった。
しかし瑠偉があまりにもまっすぐな視線を向けてくるので、その空気にすっかり飲まれてしまった。
「……そうかな」
瑠偉は片目をつむっていたずらっぽく笑う。
「踊って確かめてみる?」
「ええ? またここで?」
「ここだからいいんじゃない」
瑠偉は返事を待たずに立ち上がる。つられて立ち上がりながら、日向は笑った。
「瑠偉ってバレエ馬鹿だなぁ」
「なにそれ」
「バレエに夢中ってこと」
「じゃあ、日向もバレエ馬鹿じゃない」
「――そうかも」
二人が踊ったのは『くるみ割り人形』だった。
瑠偉はくるみ割り人形、日向はねずみの王様だ。
跳んで、回って、めいっぱい体で表現する。
(楽しい……!)
瑠偉はおもちゃの兵隊を、日向はねずみを従えて戦う。
ほんとうなら険しい表情をつくって戦うべきところではあるが、二人ともその顔には満面の笑みを湛えていた。――まるで好敵手同士の戦いを楽しむかのように。
(バレエ、楽しい……!)
日向は心底、この時がずっと続けばいいと思った。
そしてそれは瑠偉も同じだった。
二人の戦いは決められた振り付けを終えても終わらなかった。
二人はくるみ割り人形とねずみの王様になりきって、いつまでもいつまでも戦い続けた――。
すっかり体力が尽き果て、先に地面に倒れ込んだのは日向だった。
「あー!! 瑠偉の体力おばけ~!」
叫ぶと、瑠偉も隣に座り込んでからからと笑う。
「日向もすごいよ」
「くぅ~まだ余裕ありそうなのが悔しいっ」
瑠偉は額に汗をかいているが、その呼吸はまだ余裕がありそうだった。
日向は仰向きになった。
太陽が雲をひきつれて西を目指していた。
それを見ながら、少しずつ呼吸を整える。
「瑠偉、ありがとう」
そう言うと、隣の彼がこちらを覗き込んだ。
「日向」
「ん?」
瑠偉の顔が近づいてきたと思ったら、ちゅ、と唇に軽い音を残して離れていった。
日向は何が起きたのか分からず硬直した。
「……あ?」
「ごめん。我慢できなくなっちゃった」
ようやく脳が理解をはじめた日向は何度も首を振った。
(瑠偉はフランス人なんだ。だからきっとこう、友情のつもりでキスくらいするんだ……!)
そう思ってもしかし、瑠偉の目にあふれる感情はなんだ。
彼のまばたきのたびにこぼれおちそうなそれはなんだ。
何も言えずにいると、じれたように瑠偉が顎をつかんだ。
そして今度は、しっかりと唇をあわせる。
――音が消え、時間が止まる。
覆いかぶさる瑠偉の金色の髪がカーテンのようになって、世界を切り取る。
内側の世界で、二人きり。
数拍おいて、やっと日向は瑠偉を引き離した。
「お、おい!」
「嫌だった? 何も言わないから、いいのかと思った」
「そ、それはさっ! いや、え、ど、どういう……!」
瑠偉は水色の瞳でまっすぐに日向を見据えた。
「ほんとうに好きになっちゃった。日向のこと」
昨日瑠偉にキスをされてからというもの、瑠偉のことが彼の頭から離れないのである。
(いや、でも外国人は恋人じゃなくてもキスするっていうし)
(でも、瑠偉って日本語ぺらぺらなのに? そんな急に異文化を持ち出すかな?)
(大好きだよって、いったいどういう意味の……!)
(いや! でも外国人は恋人じゃなくても大好きくらい言うよね!?)
考えは堂々巡りのまま、結論はでない。
息詰まると自然とスマートフォンに手が伸びるのは現代っ子の性である。彼は検索エンジンを開けると、「キス」「外国」「挨拶」「口」「フランス」などの検索キーワードを入れた。
しかしどれほど調べてもそこに瑠偉の心は書かれていない。
ついに日向は思考を放棄した。
(もういいや。あれから瑠偉はふつうだったし)
今日もいつものように待ち合わせをして、そして学校に行って、バレエ教室に行った。瑠偉は教室入会の書類を持ってきていた。正式にバレエ教室のメンバーになったのである。
彼は昨日と変わらずフロアに感動し、楽しく踊ってきらきらしていた。
ひとりで昨日の彼の行動の真意を考えている自分が馬鹿みたいだ。
「あー……なんか疲れた」
目を閉じる。今日の教室ではいよいよ発表会に向けて『くるみ割り人形』の振り入れが始まった。
当たり前のことであるが、見よう見まねで踊るのと、実際に指導されながら踊るのでは天と地ほども違う。
指先の意識、背筋、目線、腕の角度にタイミング。
ひとつひとつを覚えて体に叩きこんでいく。その作業は楽しくもあるが、頭も体も激しく消耗する。
まどろみはじめたそのとき、スマートフォンの通知音がした。
「うー……」
画面を見ると、猛からメッセージが届いたようだった。
「めっずらしー……」
彼からメッセージが届くのはいつぶりだろうか。そういえば今日もからかわれなかった。
日向が警戒しながらアプリを開けて猛のサッカーボールのアイコンをタップすると『これって瑠偉?』という簡素なメッセージのあとに動画のURLが送られてきていた。
「んー?」
動画のタイトルはフランス語だ。条件反射で再生ボタンを押すと、数秒の読み込みのあと、バレエのステージが映し出された。
「え、えっ!?」
猛がバレエに関する動画を送ってくることにも驚いたが、それ以上に日向を驚かせたのは――。
「瑠偉!?」
そのステージで踊っているのが瑠偉だったからだ。
それは『くるみ割り人形』のステージだった。
瑠偉はくるみ割り人形役だ。
彼はおもちゃの兵隊を率いてねずみの王様と戦っている。――昨日バレエ教室で見たあの踊りだ。
しかし昨日とは何もかも違う。煌びやかな衣装、まばゆいスポットライト、鳴りやまない観客の拍手――。
「え、え!? こ、これ何の動画!? どこの……」
動画の概要欄を見てはたと気が付く。
「これ、リッセンバレエスクールの発表会動画だ……!」
アップロード日時は去年のクリスマスになっている。
「去年のクリスマスって五か月前……。え、五か月前までリッセンバレエスクールの生徒だったってこと……!?」
リッセンバレエスクールといえば名門中の名門だ。バレエの世界大会で優勝してスカラシップを獲得した生徒と小学生から選抜され英才教育を受けた生徒が集まり、卒業すると有名バレエ団へオーディションに優先的に参加できる。
プロに一番近い場所といってもいい。
「どういう、っていうかなんで猛がこれを……」
ためらったあと、メッセージを打ち込む。
『なんで猛がバレエの動画見てるの?』
数秒すると既読のマークがつき、すぐに返信があった。
『別に俺が見てたんじゃない』
『どういうこと?』
『女子が見つけて騒いでたから』
『そういうことね』
『ここのスクールって有名なところなんだろ。なんで瑠偉は日本に来たんだよ。あやしくないか』
『瑠偉がなんで日本に来たか、って猛に関係ある?』
『うぜぇ』
『はあ?』
それを最後にメッセージは途絶えた。スクロールしてみると実に二年ぶりのメッセージのやりとりだった。
「なんだっていうんだよ……」
ため息をついた後、また動画を見返す。
日向はリッセンバレエスクールが動画をアップロードするたびに見ているが、瑠偉が転校してきたときもまったく気が付かなかった。舞台用にばっちりとメイクをした瑠偉はいまこうして見ても別人に見える。
「でも、この踊りは間違いなく瑠偉だ……。すごいかっこいいなぁ……。……なんでリッセンバレエスクールを辞めて日本に来たんだろう」
確か、転校してきたときに瑠偉は親の仕事の都合だと説明していた。
しかし名門バレエスクールのほとんどが全寮制で、幼少期から親元を離れて切磋琢磨していると聞く。瑠偉の説明とつじつまが合わない。
とはいえ、バレエスクールではその限られた席をめぐって激しい争いがあることも有名だ。1年進級するごとに成績の悪い生徒は退学になり、世界バレエコンクールで優勝した生徒が新たに補充される。
日向はなまじバレエをかじっているだけあって、バレエスクールを辞めたのではなく辞めさせられた可能性にも気が付いた。
「聞きにくいよなあ……忘れよう」
動画だけお気に入りに登録すると、日向は明日何も知らない顔で瑠偉に会うぞ、と心に決めた。
翌日、瑠偉といっしょに登校すると、クラスメイトたちは瑠偉を取り囲んで質問攻めにした。
「瑠偉くんってプロを目指してたの!?」
「ねえ、なんで日本に来たの!? バレエあきらめたの!?」
「すっげぇな、瑠偉」
「動画、見たよ!!」
バレエは世界中で人気の芸術である。そしてその担い手を輩出するリッセンバレエスクールの動画の再生数はどれも100万回を超えている。
教室はちょっとしたアイドルが現れたかのような騒ぎだった。
瑠偉はそんなクラスメイトたちにちょっと困った顔をしたあと、隣にいる日向を見た。
「びっくりした。みんなよく見つけたね」
「え、あ、うん」
「……もしかして日向も動画を見た?」
「え、えと、いや、別に」
思わず目をそらしてしまう。瑠偉はそれを見逃さなかった。
「嘘」
日向は正直に謝った。
「ごめん。見たけど……訊かない方がいいかなって思って」
「……別に訊いてくれればよかったのに」
「いいの?」
「うん。日向にならいいよ」
そう言うと、瑠偉はまわりのクラスメイトに「親の仕事の都合でね。私は日本に来たかったからちょうどよかったんだ」と説明した。バレエを知らないクラスメイトたちはそれであっさりと納得して引きさがった。
しかし、猛だけは納得していなかった。
彼は休み時間のたびに瑠偉にまとわりつき、「なんでやめたんだ」「なんで日本に来たんだ」と質問を浴びせた。
瑠偉はそれにも丁寧に受け答えしていた。「バレエはやめていない」「日本に来たのは親の都合」しかしどう答えても猛は納得しない。
昼休みにもなると、あまりにもしつこい猛を見て止めに入る者や、冷ややかな視線を送る者が出始めた。
日向も何度かやんわりと止めに入った。しかし日向が仲裁に入れば入るほど、猛はヒートアップしていった。
放課後、帰りの挨拶をしたあとでまた猛が瑠偉に絡みだした。もう今日何度目になるかわからない。瑠偉もいい加減疲れてきたのだろう。彼はめずらしく眉根を寄せてしかめっ面をつくった。
彼の美しい顔に皺が刻まれたのを見たとき、ついに日向は机を叩いた。
「いい加減にしろよ!」
教室に残っていた生徒たちがいっせいに日向を見た。
日向はそれを感じ、こみ上げていた怒りがひっこんでしまった。
「か、帰るから」
小さくそう言うと、彼は驚いて固まる瑠偉の手を引き、同じく驚いて固まる猛の横をすり抜けた。
二人はいつものようにいっしょに校門を抜け、途中でコンビニに寄って飲み物を買ったあと、駅の近くの例の河原に下りた。
並んで適当な場所に腰掛けると、日向は買ったアイスティーの蓋を開けた。瑠偉も同じくペットボトルを取り出す。彼が買ったのは水だった。
日向は小さく言う。
「急に大きな声を出してごめんね」
瑠偉は笑う。
「いいよ。びっくりしたけど、うれしかった。日向も怒ることあるんだねぇ」
お互いになんとなく気まずくて、ちびちびと口をつける。
対岸の河原では小学生が草野球をしているようだった。ちょうどカキンという金属の気持ちいい音が空につきぬけ、わっと歓声があがった。
ランナーが三塁を回って、本塁に戻ろうとして、タッチアウト。どうやらスリーアウトだったらしく、攻守交替をする。
先に口を開いたのは瑠偉だった。
「私は六歳からリッセンバレエスクールにいたんだ」
「え、エリート……!」
その告白に衝撃を受ける。しかし瑠偉は静かに首を振った。
「他の生き方をしらないだけって解釈もできると思わないかい?」
「どういう意味?」
「親に言われて、右も左もわからないうちにバレエをやらされていたんだよ。それってエリートかな? 養殖の魚みたいじゃない?」
「あー……それは、うん。わかる、かも」
瑠偉の姿が、母親に言われるままバレエをはじめた自分と重なる。
瑠偉は小首を傾げた。
「日向はなんでバレエをはじめたの?」
「なんでって、そりゃあ、瑠偉といっしょだよ。母親がバレエ教室の主宰だし……」
「でもバレエ、好きでしょう?」
「好きだけど、嫌いだ。好きだけど」
瑠偉は苦笑した。
「どっち」
慎重に言葉を選びながら日向は言う。
「踊るのは好きだよ。発表会も。でも、バレエをしていることでからかってくる奴もいるでしょう。そういうのが嫌い」
「ああ。そういえばそういう人がいたね。不思議」
余裕たっぷり、という様子で瑠偉は笑った。
日向はそんな瑠偉から目をそらした。瑠偉が子どものころからバレエの専門的な学校にいたということは、彼にとってバレエについてからかってくる同級生など縁遠い存在なのだろう。――そう思うと、少しだけうらやましかった。
日向は唇を尖らせながら尋ねた。
「そんなところにいたのに、瑠偉はバレエが好きじゃないの」
「うーん……いまは好きかも」
「いまは、って?」
次は瑠偉が言葉を選んで話す番だった。
「リッセンバレエスクールにいたときは嫌いだった。嫌いになったんだ。天才だって言われて、どんなこともできて当たり前で、失敗したら「瑠偉らしくない」って言われるんだよ。……嫌にもなるよ」
「ああ……」
それは日向が知らないレベルの悩みだった。しかし、瑠偉の瞳がほの暗くなったのを見て、それがどれほどの苦しみであったのか察する。
瑠偉は続ける。
「それで、一回バレエを楽しむためにリッセンを辞めようと思ったんだ」
彼はぱっと顔をあげた。
「でもいまはバレエが好き。日向のおかげかも。あの日、日向が私のことを魔法使いって呼んでくれたから」
「へ」
突然の話に、日向が虚をつかれた。瑠偉は胸に手を当てて、噛み締めるように言う。
「私の世界には自分とバレエしかなかったんだけど、そう言われて、私のバレエで誰かを幸せにできる可能性に気が付いたんだ」
「……うん。瑠偉のバレエはそうだと思う」
日向の脳裏に、瑠偉に誘われて、踊るつもりがなかったのに勝手に踊りだしたあの日の情景が蘇る。
瑠偉は日向の手を取った。
「私が日向に踊りだす魔法をかけたなら、日向も私にバレエを好きになる魔法をかけてくれたよ」
それは突拍子もない話のように思えた。
日向からすると瑠偉に救われることはたくさんあっても、瑠偉を救ったという実感はなかった。
しかし瑠偉があまりにもまっすぐな視線を向けてくるので、その空気にすっかり飲まれてしまった。
「……そうかな」
瑠偉は片目をつむっていたずらっぽく笑う。
「踊って確かめてみる?」
「ええ? またここで?」
「ここだからいいんじゃない」
瑠偉は返事を待たずに立ち上がる。つられて立ち上がりながら、日向は笑った。
「瑠偉ってバレエ馬鹿だなぁ」
「なにそれ」
「バレエに夢中ってこと」
「じゃあ、日向もバレエ馬鹿じゃない」
「――そうかも」
二人が踊ったのは『くるみ割り人形』だった。
瑠偉はくるみ割り人形、日向はねずみの王様だ。
跳んで、回って、めいっぱい体で表現する。
(楽しい……!)
瑠偉はおもちゃの兵隊を、日向はねずみを従えて戦う。
ほんとうなら険しい表情をつくって戦うべきところではあるが、二人ともその顔には満面の笑みを湛えていた。――まるで好敵手同士の戦いを楽しむかのように。
(バレエ、楽しい……!)
日向は心底、この時がずっと続けばいいと思った。
そしてそれは瑠偉も同じだった。
二人の戦いは決められた振り付けを終えても終わらなかった。
二人はくるみ割り人形とねずみの王様になりきって、いつまでもいつまでも戦い続けた――。
すっかり体力が尽き果て、先に地面に倒れ込んだのは日向だった。
「あー!! 瑠偉の体力おばけ~!」
叫ぶと、瑠偉も隣に座り込んでからからと笑う。
「日向もすごいよ」
「くぅ~まだ余裕ありそうなのが悔しいっ」
瑠偉は額に汗をかいているが、その呼吸はまだ余裕がありそうだった。
日向は仰向きになった。
太陽が雲をひきつれて西を目指していた。
それを見ながら、少しずつ呼吸を整える。
「瑠偉、ありがとう」
そう言うと、隣の彼がこちらを覗き込んだ。
「日向」
「ん?」
瑠偉の顔が近づいてきたと思ったら、ちゅ、と唇に軽い音を残して離れていった。
日向は何が起きたのか分からず硬直した。
「……あ?」
「ごめん。我慢できなくなっちゃった」
ようやく脳が理解をはじめた日向は何度も首を振った。
(瑠偉はフランス人なんだ。だからきっとこう、友情のつもりでキスくらいするんだ……!)
そう思ってもしかし、瑠偉の目にあふれる感情はなんだ。
彼のまばたきのたびにこぼれおちそうなそれはなんだ。
何も言えずにいると、じれたように瑠偉が顎をつかんだ。
そして今度は、しっかりと唇をあわせる。
――音が消え、時間が止まる。
覆いかぶさる瑠偉の金色の髪がカーテンのようになって、世界を切り取る。
内側の世界で、二人きり。
数拍おいて、やっと日向は瑠偉を引き離した。
「お、おい!」
「嫌だった? 何も言わないから、いいのかと思った」
「そ、それはさっ! いや、え、ど、どういう……!」
瑠偉は水色の瞳でまっすぐに日向を見据えた。
「ほんとうに好きになっちゃった。日向のこと」
