次の日から、日向と瑠偉はいっしょに登校しようという話になった。二人の最寄である生良駅の前の交差点が集合場所である。
翌朝、日向がそこに到着すると、もう瑠偉が来ていた。彼はイヤホンをつけてスマートフォンで動画を見ているようだった。日向が片手をあげると、彼は画面から顔をあげ、花がほころぶように笑った。
「おはよう日向」
「おはよう。何見てるの?」
画面を覗き込むと、案の定バレエの動画である。
瑠偉は嬉しそうに話し出す。
「これ、昨日公開されたリッセンバレエスクールのくるみ割り人形の練習動画」
リッセンバレエスクールとはフランス・パリにある名門バレエスクールである。小学校から高校までの課程があり、バレエで高校卒業となる日本にはないスタイルの学校だ。
リッセンバレエスクールは毎年クリスマスにバレエ『くるみ割り人形』を披露する。今回アップロードされたのはそれに向けた講師陣による手本動画だった。
日向は破顔した。
「僕も見た。すごかった。十回は見たよ」
「私は百回だ」
「これ、十六歳から十八歳の生徒が踊るんだろう。そんな年齢の近い子が……すごいよね。リッセンバレエスクールに入れるのは天才ばかりなんだね」
能天気な日向とは対照的に、瑠偉は少し悔しそうである。
「負けていられないよ。……それで、私のことお母さんに話してくれた?」
「うん、話したよ。バレエ教室に興味あるなら見学に来たら、って」
「ほんとう? じゃあさっそく行こうかな。今日にでも」
「え、今日? シューズ持ってる?」
「念のため、持ってきているよ。日向は昨日メッセージを送っても返してくれないんだもの」
「……いやぁ。ごめん」
日向は鼻の頭を掻いた。
昨夜瑠偉からバレエ教室についてのメッセージが来ていたのだが、瑠偉のメッセージアプリのアイコンが舞台の上に立つ彼の写真だったのだ。衣装の美しさもさることながら、眩しいスポットライトの中に背筋を伸ばして立つ瑠偉は美しかった。
それに度肝を抜かれ、日向は返信するのが恐れ多いと感じてしまったのだった。
そんなことを知る由もない瑠偉は日向の顔を覗き込んだ。
「もしかして日向って、メッセージじゃなくて電話派なの?」
「あー……いや。ごめん。昨日はその、バレエの練習で疲れちゃって。早く寝たんだよ」
「ふぅん? いま何を踊っているの?」
「まだ振り入れはしてないんだけど、今度くるみ割り人形を踊る予定。七月に発表会があるんだ。僕はねずみの王様役を狙ってる」
瑠偉はぱあ、と顔を明るくして手を叩いた。
「いいなぁ……! ああ、私も早く踊りたい。早く放課後にならないかなぁ」
それから二人は一緒の電車に乗り、他愛もない話をしたり、バレエの話をしたりした。
金色の髪をして長身の瑠偉は電車でよく目立った。
日向は瑠偉が笑みを向けてくるたびに胸がどきどきした。
(こんなかっこいい人が、僕のバレエ友達……!)
バレエを始めて十二年。日向は自分にそんな存在ができたことがうれしく、瑠偉の顔を見ると思わず口元がゆるんでしまう。
「なぁに、日向?」
「なんでもない!」
瑠偉が不審がるが、日向は笑ってごまかした。
いっしょに校門を抜けると、グラウンドにいた猛がこちらに気が付いたようだった。彼はサッカー部の朝練中のようだった。ちらと日向が目をやると、彼は気まずそうに顔を背けてしまった。
その日、いつもしつこいくらいに日向をからかっていた猛は嘘のように静かだった。しかし彼は休み時間に日向と瑠偉が話をしているとじっと視線を送ってきた。日向が気付いて猛を見ると、またぱっと目をそらすのである。
日向はそれを不気味に感じたが、わざわざこちらから相手をしにいく必要もないので、放っておくことにした。
(昔は仲良かった気がするけどさ……)
日向と猛は幼稚園からの幼馴染だ。そして、たぶん、きっと仲が良かった時期があった。しかし、それは遥か昔のことだ。いまでは彼にからかわれた記憶の方が色濃い。
結局、その日は猛と一言も会話することなく放課後となった。
放課後、瑠偉を自宅兼バレエ教室に連れていくと、瑠偉は肩を震わせた。
「うわあああ……! フロアだぁ……!」
そうして床を撫でます。日向は苦笑する。
「そんな感動すること?」
「感動するよ! もうずっと家でストレッチしかできなくて……! ああ、今日はここで思いっきり踊れるんだ……!」
彼はフロアに頬ずりしそうな勢いである。
建物は二階建てになっていて、一階がバレエスタジオ、二階が自宅になっている。一階は柱なども取り払った広いフロアで、入って左側の壁は一面鏡になっている。更衣室は入って右側である。フロアの上にはロフトのような空間があり事務所になっている。
その事務所から、人影がこちらを覗き込んでいる。
「日向、その子が瑠偉くん?」
見上げると、そこには日向の母、高郷芽衣がいた。彼女は茶色く染めた髪を団子にしてまとめ、遅れ毛ひとつない。
「あ、母さん」
「今日のクラスは18時からよ?」
時計の針はまだ17時にもなっていない。日向は苦笑した。
「そうなんだけど、瑠偉がどうしてもフロアだけ先に見たいっていうから。瑠偉、母さん。このスクールの主宰なんだ」
「はじめまして。風見オーブリー瑠偉です」
「はじめまして。ごめんなさいね。せっかく来てもらったけど、火曜日は18時からなの」
「大丈夫です! ちょっと、ちょっとだけフロアで踊ってみてもいいですか?」
「ふふ。いいわよ。そのうちあの子たちも来るでしょう。電気をつけるわね」
母がそう言うと、フロアの電灯が一気に光を放つ。瑠偉は感無量といった様子でそれを見た。
「ほんとうにバレエが好きなのね」
その様子を見て母が言うと、瑠偉は胸を張った。
「はい! 私、エトワールになるのが夢なんです」
瑠偉が言うと、母は「楽しみね」と応じた。
母が事務所に引っ込むと、瑠偉がこそりと言った。
「お母さん、美人だね。しっかりしてそう」
「そうかなぁ? あれで意外と抜けてるよ……」
「お父さんは何してる人?」
「会社員。いまフィリピンに赴任中」
瑠偉は目を丸くした。
「わあ、それは大変だね」
「たまに電話するよ。英語を教えてくれるんだ」
「最高じゃない」
「瑠偉は? 瑠偉の両親は?」
「母さんは五イラストレーターで、父さんは会社員――日本に赴任中」
「ああ、なるほど。似たり寄ったりだ」
「ほんとうだね」
二人は笑いって、それから更衣室に入った。
バレエの練習着は女子はレオタード、男子は白シャツに黒タイツが一般的である。瑠偉も例にもれずそれを用意していたが、彼はそこに短いパンツを合わせていた。
日向も同じように短いパンツを合わせて着るので、奇しくも二人はお揃いの格好になった。
瑠偉と着替えてストレッチをしていると、ほかの生徒達も続々とやって来た。このバレエ教室は土日の初心者クラスの生徒数が一番多く、こうして平日のクラスにいるのは中級以上の生徒たちで、日向と女子3人しかいない。彼女たちはきっちりと髪をひとつにまとめ、ぴんと伸びた背筋でちゃきちゃきと歩いて入ってくる。
瑠偉は臆することなく彼女たちに挨拶をした。
「はじめまして」
最も年長である高校三年生の牧野歩美が小首を傾げる。
「あなた誰?」
「オーブリー瑠偉です。今日からここの生徒になりました」
日向は瑠偉の言葉を訂正する。
「今日はお試しな」
「もう入るって決めた」
歩美は二人のやりとりを見てちょっと笑ったあと、「牧野歩美よ」と名乗り、「人が増えるのは大歓迎」と言った。彼女は勝気そうな目をしている。
次に口を開いたのは歩美の後ろにいた佐々木恵子である。彼女は顔だけ歩美の後ろから出すと、瑠偉をまじまじと見て言う。
「瑠偉くんってハーフ?」
マイペースな彼女は自己紹介もせずに質問を瑠偉にぶつける。瑠偉は気を悪くした様子もなく答える。
「はい。父がフランス人です」
「へえ。日向くんの同級生?」
「はい。転校してきました」
「じゃあ、私と同い年ね。敬語はやめて。歩美ちゃんと穂香ちゃんは先輩だけど」
三人目は水崎穂香である。彼女は恵子の肩を叩いて「この子は恵子で、私は穂香」と名乗った。
「瑠偉くんはバレエ経験者なの?」
「三歳から習っています」
「わあ、いいじゃん。最高。日向も男子一人でさみしそうだったし、よかったね」
急に話を振られて、日向は慌てて頷く。
「え? あ、はい……」
細かいことによく気が付く彼女はさらに続ける。
「今日ずいぶん来るのはやいね?」
「あ、瑠偉が、早く踊りたいっていうので」
「そうなの?」
瑠偉は胸を張った。
「はい。私、いまから踊りますよ。先輩たちもよかったら見てください」
そうして、瑠偉がフロアの中心で踊りだす。
瑠偉が指先を伸ばし、天に掲げる。
途端、なんの変哲もなかったはずのフロアは舞台に変わる。
河原で踊ったとき、日向は彼の体を見てしなやかで優美だと思った。
しかし、いまの彼は勇壮だった。勇敢に、激しく踊る。――戦っているのだ。
「わあ、くるみ割り人形……!」
瑠偉が踊ったのはバレエ『くるみ割り人形』のまさに「くるみ割り人形」の役であった。
くるみ割り人形は少女クララがクリスマスプレゼントとしてもらったものだ。クリスマスの夜になるとそのくるみ割り人形が率いるおもちゃの兵隊とねずみの王様が戦いはじめ、くるみ割り人形は劣勢に追い込まれるが、それを見たクララがねずみの王様に靴を投げつけてくるみ割り人形を救うというストーリーである。
女子三人は瑠偉の踊りに酔いしれた。もちろん、日向も。
瑠偉が踊るとその後ろにいるおもちゃの兵隊やねずみたちまで見えてくるようだった。クリスマスツリーの煌めきも、としんしんと降り積もる雪の冷たさまで感じる。
そのとき、穂香が日向を振り返った。
「日向も踊りなよ」
「え、でも」
「ねずみの王様がいたらもっと盛り上がるよ?」
――ねずみの王様。
その単語を聞いただけで、体が勝手に動き出した。
(リッセンバレエスクールの『くるみ割り人形』の動画を10回見たって言ったけど……)
日向が参加すると、瑠偉の踊りはますます迫力を増す。
しかし日向も負けていない。
(ほんとうは俺も100回見た)
目に焼き付けた。そして何度も脳内で踊った。ねずみの王様。いまそれを身体に宿せるのがうれしい。
ねずみの王様はしっぽを振り回して戦う。
くるみ割り人形の戦いぶりが勇壮であるなら、ねずみの王様は大暴れという表現に近い。そうして手足を伸ばして暴れまわるのは――楽しかった。
瑠偉と目が合う。
日向はにやりと笑う。追い詰めてやる、と舌なめずりをする。
瑠偉も笑う。来るなら来い、とその目が語る。
――そして戦いはクララの投げた靴によって終わる。
ねずみの王様が逃げ出して、それでこのシーンは終わりだった。
観客たちはいっせいに拍手を送った。
「すごいすごい!瑠偉くん天才じゃん!」
「うますぎる!」
「日向もよかった!」
女子たちは口々に瑠偉を褒める。それを聞いて日向まで嬉しくなる。瑠偉は丁寧にお辞儀をしたあと、にこりと笑った。それにまた観客が沸く。
「ファンサされた!」
「きゃー素敵!」
「かぁっこいい!」
瑠偉は照れたように頬を掻いて、日向の耳元にささやく。
「すごかった。楽しかった。日向は最高だ」
「ううん。瑠偉のおかげだよ」
言ってから、急に日向は恥ずかしさを感じた。
「いっぱい見たんだけど、やっぱり見るのとやるのでは全然違うなぁ。リッセンバレエスクールの踊りには程遠かったと思う」
「そんなことはないさ。練習すれば追いつける」
「そうかなぁ」
頭一つ分高いところにある瑠偉を見上げる。彼は相変わらずぱっとほころぶような笑みを浮かべている。
彼の頬は上気して赤く染まり、乱れた呼吸で胸が上下して瞳はうるんでいる。
(うわぁっ……!)
思わず、瑠偉から勢いよく目をそらした。なんだか見てはいけないものを見た気分だった。なぜか頬が火照りだす。日向は必至でその火照りをさました。
「七月の発表会の配役は決まりかしら?」
声がして振り仰ぐと、母がフロアに降りて来ていた。
彼女はひとりひとりを見たあと、続ける。
「瑠偉くんがくるみ割り人形、日向がねずみの王様、クララが歩美さん、ドロッセルマイヤーが恵子さん、フリッツが穂香さん」
皆一斉に顔を上げた。それは皆望み通りの配役といってもいい。
いいじゃん、という声がどこからともなく漏れた。
しかし日向だけは慌てた。
「ちょ、ちょっと待って母さん、瑠偉はこの教室に入るって決めたわけじゃあ……」
「え、もう入るって決めているけど?」
瑠偉は平然と言う。
「発表会にも出る気か!?」
「もちろん。舞台に立つのがバレエダンサーの喜びだろう?」
「それはそうだけど、発表会に出るなら衣装とかチケットとか、結構いろいろあって、フランスではどうだったか知らないけど、お金がかかるんだよ。親に相談した方がいいんじゃないか?」
日向の心配をよそに、瑠偉は肩を竦める。
「私の親は私がバレエをするのを歓迎すると思うよ」
自分がバレエをするのは当然と言わんばかりの瑠偉を見て、母は笑った。彼女はこういうところちゃっかりしている。決して客を逃さないのだ。
「……入会の書類を渡すわね。説明もそこに書いてあるから、親御さん読んでもらってね」
日向は大慌てだ。
「母さん!」
瑠偉は首を傾げた。
「どうして私が入るのを嫌がるの?」
日向はもごもごと下を向く。
「嫌がっているわけじゃなくて」
「じゃなくて?」
覚悟を決めて真面目な顔をする。
そして声を落として、さっき改めて思った本音を瑠偉にぶつける。
「やっぱり瑠偉はすごいよ。こんなふつうのバレエ教室でいいの? もっと専門的で高度な教室がいいんじゃない? 僕に気を遣ってここに入るって言っているならそんな気遣いしなくていいんだよ?」
それを聞いて、瑠偉は目を丸くした。
「私、すごい?」
「すごいよ。天才だよ」
「天才」
「こんなにバレエを踊っていて楽しかったことないよ、僕」
瑠偉は顎に手を置いて、じっくりと考えたあと、ぱっと顔を上げた。
「日向」
「ん?」
「私も日向と踊って楽しかった。私もこんなにバレエが楽しかったのははじめてだ。またいっしょに踊ってくれる?」
「それはもちろん」
そのとき、唇にあたたかいものが触れた。
へ、と思った時にはそれはもう離れていってしまっていたが、ばつのわるいような、照れたような瑠偉の顔が、彼がいま何をしたのかを語っている。
――キスされたのだ。
「な、な、な……!」
言葉が出ない日向に対して、瑠偉は舌をぺろりと出した。
「ごめん、つい。うれしくて」
「ご、ごめんじゃないよ!!」
日向が慌ててまわりを見渡すと、その場にいた全員が目を丸くしていた。
「ちょ、ちょ……!」
「ありがとう。日向。大好きだよ」
固まる日向に追い打ちをかけるように、瑠偉は日向を抱きしめた。
周りの女性陣は、とても空気を読むのが巧みであった。
「大好きなら仕方ないよね」
「お幸せに」
「私たち着替えて来るね。お邪魔しました~……」
「大きくなったのね。母さんうれしい」
そうそれぞれ言い残すと、生徒たちは更衣室に、母は事務所に消えていった。
「ちょ、ちょっと!?」
日向はその背中に向かって叫んだが、振り返る者は誰もいなかった。
