日向の生活は元通り――瑠偉と出会う前の生活――になった。
九月は暦の上ではもう秋だというが、夏が置いて行かれたように暑い日々が続いていた。
日向はひとりで登校して、ひとりでお昼ご飯を食べて、ひとりで家に帰ってバレエをする。
恵子と穂香は以前よりも日向に声をかけてくれるようになったが、日向はそれに同情の色を感じて素直に受け取れなかった。
バレエに人生を賭けることができない――それが日向の結論だった。
しかし、瑠偉は毎日メッセージをくれる。それで彼が「今日は何を踊ったの」と執拗に聞くので、なんとなくバレエを辞められずにいた。惰性で踊り、瑠偉に踊ったと報告する。バレエをしていなくては瑠偉との細くつながった糸が切れてしまう。日向はそれが嫌で、それだけのために毎日バレエ教室に通った。
九月の二回目の日曜日。瑠偉が電話をかけてきた。夕方だった。日向はちょうど土曜日のレッスンを終えて部屋に入ったところだった。
「瑠偉?」
通話ボタンをタップすると、元気な瑠偉の声が聞こえる。
『日向!』
その声に、思わず息を飲む。まだ離れ離れになって一か月も経っていないのに、その声がもう懐かしい気がしたのだ。
日向は尋ねる。
「電話できるんだね。よかったぁ」
『ふふ、実は土日も午前中は通話禁止なんだけど……話したかったから、こっそりかけているんだ』
「ええ? それっていいの?」
瑠偉はさらりと言う。
『それは、ほら、慣れてくると抜け道に気が付くものだから』
「うっわ、悪い奴……」
くすくすと笑う声が聞こえる。日向はそれを聞きながら、ああ、そういえば瑠偉はこういう風に笑う人だったと思い出した。
(遠い)
瑠偉が、遠い。そして、人間の記憶はあいまいで、どんどん忘れていく。瑠偉の声も、笑い方も、踊り方も、そしてキスの仕方も――。
それが無性に悲しい。
『日向? どうかした?』
押し黙った日向に、瑠偉が怪訝そうな声をかける。日向は努めて明るい声を出す。
「……なんでもない! ちょっとぼーっとしちゃった。何の話?」
『もう、今日は何を踊ったの? って聞いたんだよ』
「いつもと同じだよ。ローザンヌに向けた練習」
『ああ、バジルだね』
「そう」
日向は今年のローザンヌ国際バレエコンクール出場曲として『ドン・キホーテ』のバジルのヴァリエーションを選んでいた。
選んだ理由はふたつある。そこそこの難易度があること、そして発表会で踊ったことである程度バジルのキャラクターが頭に入っていることだ。
瑠偉は楽しそうに言う。
「楽しみだなぁ。知ってた? ローザンヌの本選ってネット中継されるんだよ」
『げ。ほんとう?』
「私も見るからね」
『いいよ、そんな。結果だけ見てよ』
「それじゃ、つまらない」
話を逸らすように、日向は尋ねた。
「瑠偉は? いま何を踊ってるの?」
『私? 私はね、いま『パリの炎』を練習しているよ。あとは創作ダンスに、ケルトダンスもやってる。退学して出戻ったから、ちょっと気まずいかと思ったけど、みんなやさしくて安心した。楽しめている』
「へえ。それはよかった」
日向は少しだけがっかりした。それで、自分が瑠偉がリッセンの生活になじめずに帰って来てくれることに期待していた自分に気が付く。
それが嫌で、日向はまたぐっと黙り込んだ。
瑠偉は呑気に尋ねて来る。
『そっちはそろそろ18時くらいかな? いまから自主練習?』
ぎくりとして、口ごもる。
「うーん……今日は勉強、かな……」
『そうなの? じゃあ、電話つなげたままいっしょにやろうよ。私も今度歴史のテストがあって……』
「あー……その、19時から塾に行くんだ」
「え、塾?」
瑠偉は頓狂な声を上げた。無理もない。しかし日向も考えた末の結論なのだ。
日向はおずおずと説明する。
「うん。もう高校二年生だから……大学受験も考えていかないと、って母さんが」
嘘だ。ほんとうは自分から言い出したのである。
瑠偉は信じられない、と言った様子で言う。
『ローザンヌがあるのに……』
「まぁ、そうだけど」
(瑠偉にはわからないよ)
自分の才能に人生をかける覚悟の有無。それが日向と瑠偉の決定的な違いだ。
「歩美さんもけっきょく大学に行ったけど、苦労してるって聞いた。いまから少しでも勉強しておこうかなって」
『……そう。でも、ちゃんとバレエも続けるんだよね?』
「それは……もちろん」
瑠偉はつらつらと言う。
「練習時間を確保するのが大事だから、塾で1時間つぶれるなら、どこかで1時間バレエに充てて……」
『うん……わかってる』
「去年と同じじゃダメなんだよ。レベルアップしないと」
『わかってるって!』
日向は思わず強く言ってしまった。瑠偉が電話の向こうで息を飲んだのが分かった。
「ごめん、もう切る」
逃げるように電話を切ったあと、日向は奥歯を噛み締めた。
(瑠偉はいま、バレエが楽しくて仕方がないんだ。僕のつまらない悩みを聞いている暇なんてないに決まってる)
「瑠偉のバレエ馬鹿」
ぽつりと言って、それから息を吐いた。
バレエは好きだ。大好きだ。でもいまは嫌いだ。バレエは俺の生きがいで、あこがれで――恋敵だ。
その日は結局メッセージでもう一度謝罪を送った。そうして、何事もなかったかのように何度かメッセージのやり取りをして眠りについた。
そして次の日、家を出るとそこに猛がいた。
日向が驚いて固まっていると、彼はぶっきらぼうに「学校、いっしょに行こうぜ」と言う。
「猛……?」
「なんだよ」
「べ、別に……」
なんとなく断りづらくて、並んで歩きだす。
猛は半歩前を行き、日向はリュックの肩ひもをぎゅっと握って背筋を丸めて歩く。
日向は密かに猛の横顔を観察した。日に焼けた頬、短く刈り上げた髪。筋肉質な肩に、着崩した制服。
(こう見るとでかくなったなぁ)
日向も170cm以上あるが、猛はもっと大きかった。瑠偉が長くてほっそりとした印象なら、彼は長くてがっしりとした印象がある。
(高校二年生になったんだよね、僕たち)
不運なことに、日向は今年も猛と同じクラスだった。振り返ってみると、この幼馴染とはずっと小中高とずっと同じクラスだ。
幸いにも、さすがに今年は猛も日向をからかうことに飽きたらしく、まだ何も言われていない。
(猛もこのまま大人になってくれればいいんだけど)
いつまでも小学生のときのままでは困る。日向はひそかに息を吐いた。
駅が見えてきた頃、猛がようやく口を開く。
「小学校の頃は、こうやっていっしょに学校行ってたな」
「そ、そういえば、そうだね……」
猛と日向の家は近い。いっしょに通っていた時期もあった。――いま仲がいいかどうかは別として。
日向が猛の真意を読み取れずに眉をハの字にした。一瞬目があったと思うと、猛はすぐに逸らしてしまう。
(いったいなんなんだ)
通学通勤ラッシュの満員電車に乗り込む。周りに人がいることで少しだけ安心する。
勇気を出して、日向は尋ねた。
「なんでいっしょに登校しようって思ったの?」
「……別に。深い意味はねぇよ」
「そう」
それで会話がまた途切れる。猛と仲が良かった頃もあったが、それは遥か昔のことで、いま何を話せばいいのかわからない。
隣で大学生らしき男がスマートフォンでゲームをしている。それを見て、日向もゲームをしてこの気まずい雰囲気から逃れようとした。
しかしスマートフォンを取り出したところで猛が話しだした。
「瑠偉、元気にしてんのか?」
「え、あ、ああ……うん。忙しそうだけど、元気にしてるよ」
猛が瑠偉のことを気にかけているとは意外だった。それほど彼が瑠偉と親しくしていた印象はない。しかし、猛が転校してきたときの瑠偉に興味を持っていたことを思い出す。
(瑠偉って目を惹くもんなぁ。リッセンの動画をわざわざ僕に送って来たのも猛だったし)
このまま瑠偉についての質問が続くかと思っていたら、猛の口から飛び出たのは想定外の内容だった。
「まあ、元気出せよ」
「は?」
思わず猛の顔を見上げる。彼は心底不本意だという表情で言う。
「瑠偉がいなくなって、落ち込んでるんだろ」
「……もしかして、間違っていたらごめんだけど、僕のこと励まそうとしてる?」
「……だったらなんだよ」
日向はあっけにとられて、つい本音をこぼす。
「だったら……意外」
「ああ!?」
乗客がいっせいにこちらに目を向けた。
日向は立てた指を唇に押し当てる。
「静かに!」
「……悪い」
電車のアナウンスが陣中高等学校の最寄り駅の名を繰り返す。
二人はいっしょに電車から降り、改札を抜けた。ここから学校まで徒歩10分の距離だ。
橋を渡ったところで日向は言う。
「僕って、そんなに落ち込んでるようにみえる?」
「みえる。瑠偉がいなくなってさみしいんだろ」
「さみしい、とはちょっと違うんだけど……」
日向が言葉を切ると、猛が急に肩を組んできた。彼は明るく言う。
「あー、もうまどろっこしい! 気晴らしに遊ぶぞ!」
「へ?」
「サッカーしようぜ」
唐突な誘いに、日向の目が点になる。
「えー……っと。その、来月にはバレコンの予選があって、足怪我したら大変で……」
「バレコン?」
「バレエコンクールのこと。その、今年も勝手に母さんがエントリーしちゃっててさ」
「まだバレエやってんのか」
「うん、まあ……」
「それって去年と同じやつ?」
「……うん」
「……じゃあ、また二月欠席すんの?」
「……うん」
「期末試験どうすんの?」
「……コツコツ勉強するよ」
「はあ。大学行かねぇの?」
「……わかんない」
日向は黙った。
コンクールに出なければ、バレエスクールへ進む道が閉ざされる。瑠偉と日向をつなげたバレエの糸が切れてしまう。
しかし、世界と戦うには人生を賭ける覚悟がいる。日向にはその覚悟がまだない。
惰性でコンクールに出たところで、結果は目に見えている。
そう思っても、瑠偉のことを想うと踏ん切りがつかない。彼は日向に踊っていてほしいと願っているのだ。
日向は二つの想いの間で身動き取れずにいる。
猛が言う。
「お前、言ってたじゃん。そんなにバレエ好きじゃないって。ちゃんとふつうに授業受けて、試験受けた方が絶対いいぞ」
――バレエが好きじゃない。
その言葉を聞いて、日向の胸がちくりと痛んだ。
(ずっと、そう言ってきたのは僕だ)
いまになって、その言葉が重くのしかかる。
(だからバレエの神様に愛してもらえなかったのかも)
悲劇的な思考は、日向を少しだけ攻撃的にさせた。
日向は眉を吊り上げて言った。
「なんでいきなりそんなこと言い出したのさ?」
「別にいいだろ、なんでも」
日向は早口でまくしたてる。
「バレエのこと、馬鹿にしてたのに、瑠偉の動画も送ってきてたよね。そんなにバレエが気になる? それとも、瑠偉が気になる?」
「は? なんでいまあいつの話になるんだよ」
「答えてよ。瑠偉が気になる?」
「別に、そんなんじゃ……ねぇよ」
歯切れの悪い猛を、さらに追及する。
「瑠偉のバレエを見て、なにか思った?」
猛は降参と言わんばかりに両手を上げた。
「すごいと思ったよ、正直」
猛の素直な評価を聞いて、日向の怒りは静まった。
(やっぱり、すごいよなぁ、瑠偉は)
足元に視線を落とす。しっかりとターンオーバーした自分の足が目に入る。
日向も必死に練習して、ここまで来た。
(なのに、僕は……)
ふと、七月の発表会の光景が目に蘇った。
瑠偉がドン・キホーテを踊り、日向がバジルを踊ったバレエ『ドン・キホーテ』の舞台。
みんな、瑠偉を見た。――主役である日向ではなく。
「……だ」
「ん?」
「ドン・キホーテだ」
日向は一気に言った。
「バレエのドン・キホーテってさ、主人公はバジルとその恋人キトリなんだ。でも、みんなドン・キホーテを見る。僕の人生も、もちろん僕が主人公なんだけど、みんな瑠偉を見る。瑠偉は僕のドン・キホーテだったってことだね」
日向はため息をついた。
「瑠偉がいないと、僕の人生おもしろくない。でも、彼は僕だけのドン・キホーテじゃない」
きっといまに世界中が彼の才能に酔いしれる。
「ドン・キホーテはパリに行っちゃった。僕には彼を縛る手段がない」
「日向?」
日向は首を振った。考えすぎて、頭が爆発しそうだった。
――ただひとつわかっているのは、いま惰性でバレエを続けている自分は瑠偉にふさわしくないということだ。
日向はぐっと拳を握った。
「サッカー、やろうか」
「は?」
「サッカー。……だめなの?」
「いいけど……なんだっていうんだよ」
日向は投げやりに言う。
「天才の瑠偉は天才の道を、平凡な僕は平凡な道を行かないといけないってことだよ。バレエは諦める」
それでなにもかもおしまいだ。
その夜、日向は瑠偉にメッセージを送った。
――別れよう。僕、バレエも辞める。
そしてすぐに瑠偉をブロックした。
彼の反応を見て心が揺らぐのが嫌だった。
日向は大きく息を吐いた。
(さあ、平凡で、分相応の人生を歩もうじゃないか)
バレエだけが二人をつないだ。瑠偉のバレエの魔法にかかっている自分だけを覚えていてほしかった。もう魔法が効かない自分は彼の人生から退場しなくてはいけない。
彼は変わらず美しい。そしてそんな彼に執着している自分が醜くて嫌いだ。
(これでいい、これでいいんだ)
瑠偉もそのうち自分のことなど忘れるはずだ。
彼は天才で、前だけ見て歩いていく。彼の人生において、落伍者を責め立てる時間などないのだから。
日向は目を閉じた。鼻の奥がつんとして、涙の匂いがした。
