――日本に戻ると、瑠偉は一躍時の人となった。
それはリッセンバレエスクールの動画がクラスメイトに見つかったときの比ではない。
地元のテレビ局や新聞社が取材に来て、瑠偉のことを知りたがった。好きなこと、得意科目、そしてリッセンバレエスクールを一度は去った過去、そして再びバレエを好きになった経緯――。
瑠偉は得意気に日向を記者たちに紹介した。日向はそれに応じながら、内心意気消沈していた。
これで二人だけの秘密は消え去ったのだ。日向はそれがたまらなく残念だった。
クラスメイトたちは瑠偉に質問を次々に――それは瑠偉が転校してきたときよりも熱心に――投げかける。
「スカラシップって何?」
「奨学金のことだよ。学費と生活費を出してもらえるんだ」
「どこの学校に行くの?」
「フランスにあるリッセンバレエスクール」
「いつ行くの?」
「八月下旬かな。あっちの学校は九月から新学期なんだ」
「お父さんとお母さんもいっしょに行くの?」
「行かないよ。父さんは日本に仕事があるし、母さんは日本が好きだからね」
クラスの中心にいる瑠偉を見て、日向は誇らしくもあり、寂しくもあった。
クラスメイトたちの何人かは同じ大会に出場した日向にも労いの声をかけてくれたが、日向はその言葉をどんな表情で受け取ればいいかわからなかった。
そして三月。期末試験を日向はぎりぎりで、瑠偉は余裕でクリアした。
春休みになると、瑠偉が自治体の長への表敬訪問をすることになり、またいくつもの取材を受けた。
校長も、担任も、市長も、知事もみんなみんな瑠偉を褒めたたえた。
バレエ教室にも取材が来た。母はめかしこんでそれに応対していた。その甲斐あってだろうか、バレエ教室に見学に来る子どもが増えた。母は大喜びだった。
皆、瑠偉に注目した。皆、瑠偉を褒めた。
努めて、日向も皆と同じようにふるまった。そうしていないといけないと思った。日向は瑠偉に対する羨望と、思慕と、そして自分のバレエへの絶望に引き裂かれそうだった。
まだ日向は自分のなかで渦巻く感情を整理できなかった。
しかし、日向を置いて世界の時計の針はどんどん進んでいく。
「退学ぅ!?」
新学期を目前にした三月下旬。
夜になって瑠偉が電話をかけてきた。そして彼は高校を退学するという。日向は驚いて頓狂な声を上げた。
「いつ!?」
『三月いっぱいで。陣中高校で単位をとってもそれは向こうの卒業単位には認められないからさ』
「ひ、ひぃ~……」
日向は悲鳴を上げた。瑠偉が渡仏するまでまだ数か月あるのでいきなり何か変化があるとは思ってもみなかったのだ。
しかし瑠偉はシレっと言う。
『バレエダンサーにとってはふつうだよ』
「うう……てっきり、リッセンの新学期がはじまる九月まではいっしょに学校に通えると思ってたのに」
『ごめんね』
「いや、まあ、僕が口を挟むことではないから……」
『でも、ちゃんとバレエ教室には行くから』
「へ? そうなの?」
『もちろん。学校を辞めて、その時間も踊るってだけ。芽衣先生からはOKをもらったよ』
「ひぃ~すっげぇ」
日向が感心すると、瑠偉はくすりと笑った。
『何言ってるの。来年は日向もそうなるかもしれないのに』
「うー……ん」
ライバルであるなら、ここで「そうだな。待ってろよ! すぐ追いつくから」とかっこいいことを言うべきなのだろうが、日向の口からはそんな言葉は出なかった。
瑠偉は訝しんだ。
『日向?』
ローザンヌ国際バレエコンクールに参加したときから心はうす暗いままだが、それを瑠偉に伝えられるほど日向は大人ではなかった。
結果、日向は何もないふりをして過ごすほかになかった。
「……何でもない。それより、リッセンに行ったら、連絡ってとれるのかな?」
『私がいたときと同じルールなら、高等部はスマートフォンが持ち込めるはずだよ。平日の通話は禁止だけど』
「え、通話が禁止なの?」
『うん。集団生活だからね。うるさくできないんだよ。あとSNSへの写真投稿も禁止。ほら、バレエダンサーってきれいな子が多いからさ。寮の場所がばれないように細心の注意を払っているんだって』
「ああ……なるほどなー……」
あちらの国も美人は苦労するらしい。
瑠偉は平然と続ける。
『通話ができるのは土日だけだけど……時差を考えるとどちらにしても電話できるのは土日になるけどね』
「電話じゃなくてもいいよ? メッセージは禁止されてないんだよね?」
瑠偉はくすりと笑って尋ねる。
『ほんとう?』
「なんで?」
『日向って、メッセージは返してくれなかったじゃない』
瑠偉が最初に送ってきてくれたメッセージに返事ができなかったことを思い出す。言われてみれば、あれから連絡はずっと電話だった。
「あ、あれは初めてのメッセージだったから緊張してっ!」
日向が慌てると、瑠偉がまたくすくすと笑う。目を細める瑠偉の顔が目に浮かぶようだ。
『じゃあ、次は返してくれる?』
「もちろん!」
日向の元気な返事を聞いて、瑠偉はひそかにそっと息を吐く。
『よかった』
「ん?」
『日向、ずっと元気なかったから』
「……そりゃあ、本番であんな失敗したら、へこむよ。でももう平気。それより、いまは次の発表会のことが悩みだよ」
『発表会?』
「七月のバレエ教室の発表会。去年出ただろ? ほら、『コッペリア』でさ」
瑠偉は電話の向こうで手を叩く。
『あ、ああ! あれはひどいできだった!』
お互いに気持ちを確認し合ってからすぐのステージだったせいで、照れと気恥ずかしさとで頭がいっぱいになりながら踊った――いま思い出しても恥ずかしい発表会だった。
「そうそれ! 今年こそ成功させないといけないだろ? いまからプレッシャーだよ。今年は歩美さんいないし」
『もうそれに悩んでいるの?』
「……本番に弱いのが目下の悩み」
嘘だ。しかし、そう言っておくことにする。
遠くへ行く瑠偉に心配をかけたくない。
日向は声を落として言う。
「母さん、今年はもう演目決めているっぽいんだよね」
『え、早いね』
「瑠偉がいるから、きっと取材も来るだろうし、完成度の高いものを見せたいんでしょ」
『なるほどね。それで、何をするつもりなの?』
「母さんはみんなといっしょの時に教えるって言ってるんだけど、たぶん、『ドン・キホーテ』だ。家にどっさりドン・キホーテの本が届いたのを見たんだ」
『わ、盗み見したの? 悪い子だね』
「見えたんだよ。偶然」
バレエ『ドン・キホーテ』――日本でも有名なセルバンデスの小説「ドン・キホーテ」をもとに作られている。
舞台はスペイン・バルセロナ。宿屋の娘キトリは床屋の青年バジルと恋仲であるが、キトリの父は二人の交際を認めない。キトリは金持ちの貴族ガマーシュと結婚させられそうになり、そこにドン・キホーテが現れて次々と騒ぎを起こし、その隙にキトリとバジルは手と手をとって逃げ出すのである。
「発表会はキトリとバジルの結婚式まではせずに、駆け落ちする第一幕までだって」
日向が言うと、瑠偉は率直に尋ねた。
『日向は何の役をしたいの?』
「うーん……高校生男子が僕と瑠偉だけだから、どっちかがドン・キホーテでどっちかはバジルだと思うんだけど……」
ドン・キホーテは勢いよくダイナミックな踊りが特徴で、バジルは繊細で素朴な踊りが特徴だ。日向は瑠偉にどちらが似合うかと考えると、もちろん前者なのだが――。
悩んでいると、瑠偉が希望を先に言った。
『日向にバジルを踊ってほしいな』
「え? なんで?」
『主役だから』
日向は思わず黙った。
セルバンデスが書いた小説「ドン・キホーテ」において主人公はもちろんドン・キホーテ(だと思い込んでいる老人)なのだが、バレエの主人公はキトリとバジルである。物語の中心はこの二人の恋愛なのだ。
しかし。
「でも、主役は瑠偉がやった方がいいんじゃないかな。ほら、今年はみんな瑠偉を見に来るんだから……」
それが日向が瑠偉にドン・キホーテをするように言えなかった理由でもある。
しかし瑠偉はさらりと言う。
『本番に強くなるためには、いっぱい舞台に出た方がいいと思うんだよね。バジルなら出ずっぱりだ。日向がやるべきだよ』
そう言われてしまえば、もう断れない。
「……そっか。うん、そうする」
そうして芽衣のあずかり知らぬところで配役が決まり、四月になって芽衣が発表会の演目を発表したころには日向と瑠偉はもう各自練習を始めていた。
去年の大失敗を取り戻すべく、瑠偉は熱心に練習していた。
高校を退学した彼は一日のほぼすべての時間をバレエに捧げている。そしてその熱はとどまることを知らず、いつまでもいつまでも踊り続けている。
その勢いはまさにドン・キホーテだ。彼はすっかり役に入り込んでいる。
反対に、日向は練習に熱が入らないままだった。
(芸術に人生を賭けることが、僕にはできるのだろうか)
あの日、ローザンヌの観客席で感じた気持ちは日を増すごとに日向の心に影を落とした。
(意味のないことをしている)
踊ることに、何の意味がある。技術を高めることに、何の意味がある。そんなことをしている時間があるなら、勉強した方が有意義だ。
悪魔のようなささやきが何度も聞こえた。
しかし日向は踊った。惰性でもあったし、やめる勇気がないのもあった。そして、いまバレエを辞めたら、高校を退学した瑠偉との接点がなくなってしまうというのも理由のひとつだ。
(瑠偉といっしょに踊れる最後の舞台なんだから、しっかりしないと)
そう思っても、体は重い。
――苦しかった。
(ちっとも楽しくないや)
踊りながら、何度もそう思った。しかしそれを誰にも打ち明けられなかった。
そうして踊り続けていたある日、日向はふと思いついて学校帰りに例の河原に向かった。
瑠偉と初めていっしょに踊った河原だ。来るときはいつも瑠偉といっしょだったが、いまは瑠偉といっしょに登下校することがなくなってしまって、それ以来ぱたりと来なくなっていた。
六月だった。今日が梅雨入りらしい。雨が水面にぽつりぽつりと落ちてきていた。
日向は傘をさして、その光景をぼんやりと見つめた。
(ここで踊ったらすっきりするかと思ったんだけど)
叶いそうもない。足元はぬかるみ、川もそのうち増水するだろう。
日向は足元の石を蹴飛ばした。石はころがり、ぼちゃんと音を立てて水に沈んでいった。
いつまでそうしていたのか。
「日向」
名前を呼ばれて振り向くと、そこには淡いクリーム色の傘を差した瑠偉が立っていた。
「あれ、瑠偉、レッスンは?」
平日の13時から16時まで、瑠偉は芽衣の個人レッスンを受けているはずだった。
瑠偉は呆れた顔で言う。
「何言ってるの。いま何時だと思ってるのさ」
「へ!?」
慌てて時計を確認すると、もう19時を回っていた。
「やべ、レッスン!」
日向たちの高校生のレッスンは18時からだ。日向が慌てて河原を駆け上がろうとすると、瑠偉がその袖を引いた。
「瑠偉?」
振り返ると、悲しそうな顔をした瑠偉と目が合う。
「何に悩んでいるのか、教えてくれないの?」
「……何の話?」
「ずっと元気がないから」
「……そうかな」
「そうだよ」
瑠偉が悲しそうで、日向も悲しくなる。
瑠偉は日向の腕を引いた。
「踊ろうか?」
日向は慌てた。
「駄目だって。こんなところで踊ったら足とられて転ぶぞ」
「別にいい」
「駄目だって。八月にはリッセンに行くっていうのに、こんなところで怪我させたら大事になる」
「そうかな」
「そうだろ」
瑠偉はすがるような目をして言う。
「じゃあ、私は日向に何をしてあげられる?」
「……十分だよ。ちょっと、ほら、考え事をしているだけだから」
「何を考えているの?」
「いろいろ」
「駄目。教えて」
日向は答えなかった。
それを見て瑠偉は立ち上がり、制止の声を上げる間もなく踊りだした。
彼が踊ったのはスワニルダだった。
バレエ『コッペリア』の主人公の天真爛漫な村娘。
彼女が誘う「いっしょに踊ろう」と。
日向は――踊れなかった。
かつて自然と踊りだしたはずの体は地面に埋め込まれたかのように動かない。
誘う瑠偉の手を握り、踊りを止めた。
「瑠偉」
愛しい恋人の名を呼ぶ。
絞り出すように、苦悩を口にする。
「もし、もし僕がバレエを辞めても恋人のままでいてくれる?」
瑠偉は日向を抱きしめた。彼の体は雨に濡れてしっとりと濡れている。
耳元で彼が言う。
「日向は、バレエが好きだろう?」
「もし、の話だよ」
瑠偉は真剣な顔になったあと、こう言った。
「日向には踊っていてほしい」
「……そうだよね」
日向は彼の腕の中でゆっくりと目を閉じた。
七月の発表会で二人は見事にバレエ『ドン・キホーテ』を踊り切った。
日向はすべての力を出し切った。他でもなく、瑠偉のために。
そして八月になると、瑠偉は去って行った。思えば出会ってから一年と少ししか経っていない。短い青春のときだった。
それはリッセンバレエスクールの動画がクラスメイトに見つかったときの比ではない。
地元のテレビ局や新聞社が取材に来て、瑠偉のことを知りたがった。好きなこと、得意科目、そしてリッセンバレエスクールを一度は去った過去、そして再びバレエを好きになった経緯――。
瑠偉は得意気に日向を記者たちに紹介した。日向はそれに応じながら、内心意気消沈していた。
これで二人だけの秘密は消え去ったのだ。日向はそれがたまらなく残念だった。
クラスメイトたちは瑠偉に質問を次々に――それは瑠偉が転校してきたときよりも熱心に――投げかける。
「スカラシップって何?」
「奨学金のことだよ。学費と生活費を出してもらえるんだ」
「どこの学校に行くの?」
「フランスにあるリッセンバレエスクール」
「いつ行くの?」
「八月下旬かな。あっちの学校は九月から新学期なんだ」
「お父さんとお母さんもいっしょに行くの?」
「行かないよ。父さんは日本に仕事があるし、母さんは日本が好きだからね」
クラスの中心にいる瑠偉を見て、日向は誇らしくもあり、寂しくもあった。
クラスメイトたちの何人かは同じ大会に出場した日向にも労いの声をかけてくれたが、日向はその言葉をどんな表情で受け取ればいいかわからなかった。
そして三月。期末試験を日向はぎりぎりで、瑠偉は余裕でクリアした。
春休みになると、瑠偉が自治体の長への表敬訪問をすることになり、またいくつもの取材を受けた。
校長も、担任も、市長も、知事もみんなみんな瑠偉を褒めたたえた。
バレエ教室にも取材が来た。母はめかしこんでそれに応対していた。その甲斐あってだろうか、バレエ教室に見学に来る子どもが増えた。母は大喜びだった。
皆、瑠偉に注目した。皆、瑠偉を褒めた。
努めて、日向も皆と同じようにふるまった。そうしていないといけないと思った。日向は瑠偉に対する羨望と、思慕と、そして自分のバレエへの絶望に引き裂かれそうだった。
まだ日向は自分のなかで渦巻く感情を整理できなかった。
しかし、日向を置いて世界の時計の針はどんどん進んでいく。
「退学ぅ!?」
新学期を目前にした三月下旬。
夜になって瑠偉が電話をかけてきた。そして彼は高校を退学するという。日向は驚いて頓狂な声を上げた。
「いつ!?」
『三月いっぱいで。陣中高校で単位をとってもそれは向こうの卒業単位には認められないからさ』
「ひ、ひぃ~……」
日向は悲鳴を上げた。瑠偉が渡仏するまでまだ数か月あるのでいきなり何か変化があるとは思ってもみなかったのだ。
しかし瑠偉はシレっと言う。
『バレエダンサーにとってはふつうだよ』
「うう……てっきり、リッセンの新学期がはじまる九月まではいっしょに学校に通えると思ってたのに」
『ごめんね』
「いや、まあ、僕が口を挟むことではないから……」
『でも、ちゃんとバレエ教室には行くから』
「へ? そうなの?」
『もちろん。学校を辞めて、その時間も踊るってだけ。芽衣先生からはOKをもらったよ』
「ひぃ~すっげぇ」
日向が感心すると、瑠偉はくすりと笑った。
『何言ってるの。来年は日向もそうなるかもしれないのに』
「うー……ん」
ライバルであるなら、ここで「そうだな。待ってろよ! すぐ追いつくから」とかっこいいことを言うべきなのだろうが、日向の口からはそんな言葉は出なかった。
瑠偉は訝しんだ。
『日向?』
ローザンヌ国際バレエコンクールに参加したときから心はうす暗いままだが、それを瑠偉に伝えられるほど日向は大人ではなかった。
結果、日向は何もないふりをして過ごすほかになかった。
「……何でもない。それより、リッセンに行ったら、連絡ってとれるのかな?」
『私がいたときと同じルールなら、高等部はスマートフォンが持ち込めるはずだよ。平日の通話は禁止だけど』
「え、通話が禁止なの?」
『うん。集団生活だからね。うるさくできないんだよ。あとSNSへの写真投稿も禁止。ほら、バレエダンサーってきれいな子が多いからさ。寮の場所がばれないように細心の注意を払っているんだって』
「ああ……なるほどなー……」
あちらの国も美人は苦労するらしい。
瑠偉は平然と続ける。
『通話ができるのは土日だけだけど……時差を考えるとどちらにしても電話できるのは土日になるけどね』
「電話じゃなくてもいいよ? メッセージは禁止されてないんだよね?」
瑠偉はくすりと笑って尋ねる。
『ほんとう?』
「なんで?」
『日向って、メッセージは返してくれなかったじゃない』
瑠偉が最初に送ってきてくれたメッセージに返事ができなかったことを思い出す。言われてみれば、あれから連絡はずっと電話だった。
「あ、あれは初めてのメッセージだったから緊張してっ!」
日向が慌てると、瑠偉がまたくすくすと笑う。目を細める瑠偉の顔が目に浮かぶようだ。
『じゃあ、次は返してくれる?』
「もちろん!」
日向の元気な返事を聞いて、瑠偉はひそかにそっと息を吐く。
『よかった』
「ん?」
『日向、ずっと元気なかったから』
「……そりゃあ、本番であんな失敗したら、へこむよ。でももう平気。それより、いまは次の発表会のことが悩みだよ」
『発表会?』
「七月のバレエ教室の発表会。去年出ただろ? ほら、『コッペリア』でさ」
瑠偉は電話の向こうで手を叩く。
『あ、ああ! あれはひどいできだった!』
お互いに気持ちを確認し合ってからすぐのステージだったせいで、照れと気恥ずかしさとで頭がいっぱいになりながら踊った――いま思い出しても恥ずかしい発表会だった。
「そうそれ! 今年こそ成功させないといけないだろ? いまからプレッシャーだよ。今年は歩美さんいないし」
『もうそれに悩んでいるの?』
「……本番に弱いのが目下の悩み」
嘘だ。しかし、そう言っておくことにする。
遠くへ行く瑠偉に心配をかけたくない。
日向は声を落として言う。
「母さん、今年はもう演目決めているっぽいんだよね」
『え、早いね』
「瑠偉がいるから、きっと取材も来るだろうし、完成度の高いものを見せたいんでしょ」
『なるほどね。それで、何をするつもりなの?』
「母さんはみんなといっしょの時に教えるって言ってるんだけど、たぶん、『ドン・キホーテ』だ。家にどっさりドン・キホーテの本が届いたのを見たんだ」
『わ、盗み見したの? 悪い子だね』
「見えたんだよ。偶然」
バレエ『ドン・キホーテ』――日本でも有名なセルバンデスの小説「ドン・キホーテ」をもとに作られている。
舞台はスペイン・バルセロナ。宿屋の娘キトリは床屋の青年バジルと恋仲であるが、キトリの父は二人の交際を認めない。キトリは金持ちの貴族ガマーシュと結婚させられそうになり、そこにドン・キホーテが現れて次々と騒ぎを起こし、その隙にキトリとバジルは手と手をとって逃げ出すのである。
「発表会はキトリとバジルの結婚式まではせずに、駆け落ちする第一幕までだって」
日向が言うと、瑠偉は率直に尋ねた。
『日向は何の役をしたいの?』
「うーん……高校生男子が僕と瑠偉だけだから、どっちかがドン・キホーテでどっちかはバジルだと思うんだけど……」
ドン・キホーテは勢いよくダイナミックな踊りが特徴で、バジルは繊細で素朴な踊りが特徴だ。日向は瑠偉にどちらが似合うかと考えると、もちろん前者なのだが――。
悩んでいると、瑠偉が希望を先に言った。
『日向にバジルを踊ってほしいな』
「え? なんで?」
『主役だから』
日向は思わず黙った。
セルバンデスが書いた小説「ドン・キホーテ」において主人公はもちろんドン・キホーテ(だと思い込んでいる老人)なのだが、バレエの主人公はキトリとバジルである。物語の中心はこの二人の恋愛なのだ。
しかし。
「でも、主役は瑠偉がやった方がいいんじゃないかな。ほら、今年はみんな瑠偉を見に来るんだから……」
それが日向が瑠偉にドン・キホーテをするように言えなかった理由でもある。
しかし瑠偉はさらりと言う。
『本番に強くなるためには、いっぱい舞台に出た方がいいと思うんだよね。バジルなら出ずっぱりだ。日向がやるべきだよ』
そう言われてしまえば、もう断れない。
「……そっか。うん、そうする」
そうして芽衣のあずかり知らぬところで配役が決まり、四月になって芽衣が発表会の演目を発表したころには日向と瑠偉はもう各自練習を始めていた。
去年の大失敗を取り戻すべく、瑠偉は熱心に練習していた。
高校を退学した彼は一日のほぼすべての時間をバレエに捧げている。そしてその熱はとどまることを知らず、いつまでもいつまでも踊り続けている。
その勢いはまさにドン・キホーテだ。彼はすっかり役に入り込んでいる。
反対に、日向は練習に熱が入らないままだった。
(芸術に人生を賭けることが、僕にはできるのだろうか)
あの日、ローザンヌの観客席で感じた気持ちは日を増すごとに日向の心に影を落とした。
(意味のないことをしている)
踊ることに、何の意味がある。技術を高めることに、何の意味がある。そんなことをしている時間があるなら、勉強した方が有意義だ。
悪魔のようなささやきが何度も聞こえた。
しかし日向は踊った。惰性でもあったし、やめる勇気がないのもあった。そして、いまバレエを辞めたら、高校を退学した瑠偉との接点がなくなってしまうというのも理由のひとつだ。
(瑠偉といっしょに踊れる最後の舞台なんだから、しっかりしないと)
そう思っても、体は重い。
――苦しかった。
(ちっとも楽しくないや)
踊りながら、何度もそう思った。しかしそれを誰にも打ち明けられなかった。
そうして踊り続けていたある日、日向はふと思いついて学校帰りに例の河原に向かった。
瑠偉と初めていっしょに踊った河原だ。来るときはいつも瑠偉といっしょだったが、いまは瑠偉といっしょに登下校することがなくなってしまって、それ以来ぱたりと来なくなっていた。
六月だった。今日が梅雨入りらしい。雨が水面にぽつりぽつりと落ちてきていた。
日向は傘をさして、その光景をぼんやりと見つめた。
(ここで踊ったらすっきりするかと思ったんだけど)
叶いそうもない。足元はぬかるみ、川もそのうち増水するだろう。
日向は足元の石を蹴飛ばした。石はころがり、ぼちゃんと音を立てて水に沈んでいった。
いつまでそうしていたのか。
「日向」
名前を呼ばれて振り向くと、そこには淡いクリーム色の傘を差した瑠偉が立っていた。
「あれ、瑠偉、レッスンは?」
平日の13時から16時まで、瑠偉は芽衣の個人レッスンを受けているはずだった。
瑠偉は呆れた顔で言う。
「何言ってるの。いま何時だと思ってるのさ」
「へ!?」
慌てて時計を確認すると、もう19時を回っていた。
「やべ、レッスン!」
日向たちの高校生のレッスンは18時からだ。日向が慌てて河原を駆け上がろうとすると、瑠偉がその袖を引いた。
「瑠偉?」
振り返ると、悲しそうな顔をした瑠偉と目が合う。
「何に悩んでいるのか、教えてくれないの?」
「……何の話?」
「ずっと元気がないから」
「……そうかな」
「そうだよ」
瑠偉が悲しそうで、日向も悲しくなる。
瑠偉は日向の腕を引いた。
「踊ろうか?」
日向は慌てた。
「駄目だって。こんなところで踊ったら足とられて転ぶぞ」
「別にいい」
「駄目だって。八月にはリッセンに行くっていうのに、こんなところで怪我させたら大事になる」
「そうかな」
「そうだろ」
瑠偉はすがるような目をして言う。
「じゃあ、私は日向に何をしてあげられる?」
「……十分だよ。ちょっと、ほら、考え事をしているだけだから」
「何を考えているの?」
「いろいろ」
「駄目。教えて」
日向は答えなかった。
それを見て瑠偉は立ち上がり、制止の声を上げる間もなく踊りだした。
彼が踊ったのはスワニルダだった。
バレエ『コッペリア』の主人公の天真爛漫な村娘。
彼女が誘う「いっしょに踊ろう」と。
日向は――踊れなかった。
かつて自然と踊りだしたはずの体は地面に埋め込まれたかのように動かない。
誘う瑠偉の手を握り、踊りを止めた。
「瑠偉」
愛しい恋人の名を呼ぶ。
絞り出すように、苦悩を口にする。
「もし、もし僕がバレエを辞めても恋人のままでいてくれる?」
瑠偉は日向を抱きしめた。彼の体は雨に濡れてしっとりと濡れている。
耳元で彼が言う。
「日向は、バレエが好きだろう?」
「もし、の話だよ」
瑠偉は真剣な顔になったあと、こう言った。
「日向には踊っていてほしい」
「……そうだよね」
日向は彼の腕の中でゆっくりと目を閉じた。
七月の発表会で二人は見事にバレエ『ドン・キホーテ』を踊り切った。
日向はすべての力を出し切った。他でもなく、瑠偉のために。
そして八月になると、瑠偉は去って行った。思えば出会ってから一年と少ししか経っていない。短い青春のときだった。
