五月。朝、陣中高等学校の校門を抜けると、校庭でサッカーをしているクラスメイトたちの姿が見えた。
 高郷日向は一度立ち止まって、白と黒のボールを追いかける人影の群れを見つめた。

 その人影のひとり、小林猛という少年がボールを奪うと、ディフェンスを三人かわして見事にシュートを決めた。彼は「しゃーっ!」という喝采とともに豪快なガッツポーズを決めて、同じチームのメンバーとハイタッチをする。

 時計を見るとまだ8時5分だった。授業開始まであと25分もある。今日は教員の働き方改革で部活の朝練を行わない日である。サッカー部ではなく、クラスの男子で示し合わせて早めに登校したのだろう。

(僕、誘ってもらってない……)

 日向は足元が崩れていくようなひやりとした感覚を覚えた。
 そのとき、猛がこちらの存在に気が付いた。彼は歓喜の渦の中心から日向を指さすと、大きな声で叫んだ。
「お! バレリーナが来たぞ!」
 そう声をかけられて、日向は一瞬顔をしかめた。その顔を見てまた猛が笑う。
 日向はつとめて無表情をつくり、ゆっくりとした足取りで教室に向かった。猛は反応を返さない日向にがっかりして唇をとがらせた。

 昇降口まで来て猛の視線から隠れられたとき、日向は両頬を叩いた。
(嫌な顔しちゃだめだ)
 自分に言い聞かせる。
(高校生にもなってまだこれだよ……)
 日向は息を吐いた。

 猛と日向は幼馴染だ。彼が日向のことを「バレリーナ」と呼ぶのは小学5年生からはじまった。
 ふつうバレリーナとはバレエを踊る女性をさす。男性をさす場合はバレリーノと言う言葉がある。これはイタリア語であるが、看護婦を看護師と呼称するようになったのと同じく、現在では男女を区別せずにバレエダンサーと呼ぶのが一般的である。
 しかし子どもの彼らがそのようなことを知るわけもなく、彼は日向のことを「バレリーナ」と呼んだ。それは最初、友人同士の冗談のようなものだったのが、次第に侮蔑の色を含んでいった。

 日向はまた大きく息を吐いた。そのうち飽きるだろうと思っていた「からかい」は高校1年生になってもまだ続いている。いいかげんうんざりしていていた。

 日向は三歳でバレエをはじめた。バレエのことは好きだが嫌いだ。
 ステージのきらびやかな感じやスポットライトのあたたかさはやみつきになるほど気に入っていたが、それ以上に人前でタイツを履いて下半身のラインが露わになるのが嫌だった。バレエを習っているのは女子が多かったこともあり、休憩のときに女子が円になって座って日向の居場所がないところも嫌いだった。
 そしてもちろん、猛が「バレリーナ」と彼をからかうのも大嫌いだった。

 何度か彼はこの習い事をやめたいと思ったが、彼が通っているバレエスタジオの主宰が彼の母であり、また自宅の1階部分を改築してスタジオとして使っていたため逃げ道がなかった。
 彼のバレエの腕前はかなりのものである。そこには母の熱心な指導だけでなく、まちがいなく彼のバレエへの愛と努力があったのだが、彼はそれを人に見せなかった。
 彼は猛に「バレリーナ」と呼ばれるたびに肩をすくめてこう答えるのだ。
「親にむりやりやらされているんだ。まいっちゃうよね、ほんと。高校卒業したらやっとやめる許可がおりるんだよ」
 16歳の男子が同級生からのいじりから逃れるには、そう答えるほかになかったのである。

 1年2組の教室に入る。自分の席に座り、手早くカバンから教科書を取り出す。1限目は数学だった。教科書とノートを開き、宿題をやってあることを確認する。大学受験は高校1年生からはじまっているのだ。日向は地元を離れたい一心で東京の有名大学を狙っていた。
 ちらと目をやると、同じ大学を狙っているらしいクラスメイトも同じく席について教科書を広げている。
 数式を見ているうちに少し頭が冷えてきた。
(サッカーなんてやっている暇ないよな)
 ひとりうなずく。そして心の痛みに気が付かないふりをした。

 しばらくすると、がやがやといっせいにサッカーをしていたクラスメイトたちが教室に戻って来た。彼らの頬は火照り、額に汗をうかべている。
 日向は背を丸め、彼らの視界にはいらないことを祈る。
 そうしているうちにチャイムが鳴り、間をおかずに先生が入ってきた。

「今日の日直は、小林くんだね。号令をお願いします」
「はい」
 朝の挨拶を終えると、先生はひとりの生徒を教室に招き入れた。
「今日からクラスメイトが増えます」
 風見オーブリー瑠偉、と先生は彼の名前を黒板に書いた。
「風見オーブリー瑠偉くんです」

 クラス全体が彼をじっと見つめた。彼は長身で、すらりと伸びた手足をもっていた。色素の薄い金色の髪に、同じく色素の薄い水色の瞳。高い鼻筋の上を光がすべり落ちる。
 好奇心の波が一気に押し寄せた。

「転校生?? こんな時期に?」
「オーブリー、だって」
「かっこいいね」
「日本語話せるのかな?」
「どこの国?」
 次々と質問が飛んだが、彼は臆することなくにこりと笑った。さわやかな笑みに、数人のクラスメイトが見惚れる。
「父がフランス人、母が日本人です。日本に来たのははじめてですけど、家では日本語で会話をしています」

 流暢な日本語が聞こえて、ますますクラスメイトたちは前のめりになる。日向も穏やかでどこかきらきらした空気をもつ彼と友達になりたいと思った。

 一拍置いて、転校生は誇らしげに続けた。
「特技はバレエです」
 日向の心臓が跳ねて、そして目を伏せて彼から視線を外した。

 先生が朝のHRを終えて教室を出ていった瞬間、好奇心旺盛なクラスメイトはいっせいに転入生の席の周りに集まった。その中には猛もいる。
「なんて呼んだらいいんだ?」
「瑠偉でいいよ」
「日本語上手だね」
「ほんとう? ありがとう」
「なんで日本に?」
「父さんの仕事で」

 クラスメイトは矢継ぎ早に質問をする。瑠偉という名の転校生はそれらにひとつひとつ丁寧に答えていった。
 瑠偉の席は窓際の列の一番後ろになった。それは日向の斜め後ろである。日向は彼らの会話に耳を傍立てた。

 とりとめもない質問の応酬のあと、ついに日向が聞きたかった質問が投げかけられる。
「バレエをやっているの?」
「うん。ずっと習っているんだ。三歳から」
 どきりとする。しかし、何事もない風を装い筆箱からコンパスを取り出して、その細い足を開いたり閉じたりした。
 日向の心中を知らず、猛がちゃちゃを入れる。
「じゃあ、うちのクラスにバレリーナが二人になったんだな」
「バレリーナ?」
「あいつ」
 瑠偉の疑問に、猛は指をさして答える。その指の先にいるのは日向である。集まっていたクラスメイトたちの視線が一斉に日向に注がれる。

「なあ、日向! 新しいバレリーナだぜ!」
 名前を呼ばれ、しぶしぶ振り返る。懸命に笑顔を顔に張り付ける。
「……まあ、うん、それは……」
「よかったな!」
「えっと」
 日向が言葉に詰まると、瑠偉が口を開いた。
「なんで? なんで彼がバレリーナ?」
「日向もバレエをやっているんだ」
 瑠偉の明るい水色の瞳がめいっぱい開かれる。
「そうなの!?」
 日向はしぶしぶといった様子で答える。
「う、うん……親がバレエ教室の先生だから、その、しかたなく……」
「ならバレリーノだ。いっしょだね!」
 瑠偉はその顔に喜色をうかべて立ち上がって日向に近づいた。日向は眉根を寄せた。

 猛が言った。
「ばれりー、の?」
 瑠偉は振り返って勢いよく答える。
「イタリア語だよ。男のバレエダンサーをそう呼ぶんだ」
 そしてまた日向に向き直って言う。
「うれしいな。どこのバレエ教室? 今度一緒に踊れる?」
「で、できないよ! ちょっと、ちょっと習っているだけなんだ!」
 日向は壊れたおもちゃのように首をぶんぶんと横に振る。
「そうなの?」
 瑠偉の目がちらりと日向の足に向けられる。
「ターンアウトしてる」
 そう言われて、かっと頬が赤くなるのがわかった。

 日向の足は無意識に外向き――ターンアウトの状態になっている。これは日ごろのバレエの研鑽のたまものであるが――。
「ちょ、ちょっと来て!」
 日向は瑠偉の腕をとるとそのまま教室の外に引っ張った。
 廊下を進み、階段を下がり、その踊り場でようやく足を止める。朝のSHRと授業開始までの休み時間は短い。他に教室から出ている生徒の姿は見えない。

 日向は「あのさ!」と勢いよく切り出した。
「あの、僕、その、バレエやっているんだけど、その、あんまり学校でバレエの話をしたくなくて」
 瑠偉はゆっくりと瞬きをして、それから小首をかしげた。
「バレエ、嫌いなの?」
「そういう問題じゃないんだよ」
 日向は努めて語気を強くして言い切った。
「とにかく、バレエの話を学校でするつもりなら、僕にあんまり関わらないで」
 瑠偉は黙ったままだった。日向はその沈黙を肯定ととらえて「じゃ」と言って教室に駆け戻った。
 瑠偉は呆然と日向の背中を見送った。

 その日のうちに瑠偉はクラスの中心的人物になった。
 クラスメイトたちは彼の清廉な雰囲気に吸い寄せられ、そしてすっかり彼のことを好きになった。授業にも彼は熱心で、先生たちもすっかり瑠偉の虜である。

 昼休み、瑠偉は教室の後ろでバレエを踊ってみせた。ピヌエットに、ブリッジ。彼が跳んでくるくるとまわると、その金色の髪がきらきらと太陽のように輝いた。
 拍手と、そして思わず漏れた感嘆の吐息が教室に満ちた。

 日向は努めてそれを見ないようにした。
 彼はただじっと英単語帳に目を落としていた。5限目の授業は英語で、小テストからはじまるのが決まりだった。
 英単語を目で追いながら、頭の中にはもやもやとした黒い感情が渦巻いた。

(たぶん、僕が教室で踊ったら、猛が大声で馬鹿にして、きっと何人かがくすくすと笑うだろう)
 単語帳を持つ手に力が入る。
(……なんか、複雑)
 嫉妬とも恨みともいえない感情だった。ただ瑠偉という存在が日向の心をかき乱していることだけは確かだった。

 そのとき、わっ、と一段と大きな歓声が上がった。教室の前の方にいたクラスメイトたちも、一様に顔をあげてそちら――瑠偉を見る。
 日向もそれにつられて、思わず振り返ってしまった。

 ――そして彼もまた美しいバレリーノを見た。

 瑠偉は高く跳躍する。そして音もなく着地する。その体重を感じさせない動き。指先まで美しいその動き。彼の指先から光の粒が広がっていくかのようだった。
 あの猛までもが、その動きに息を飲んでいる。

 急に力が抜けた。
 日向はため息をひとつついて、机につっぷす。
 机はひんやりとしていて、血が上った頬を冷やしてくれる。
 そうしていくぶんか冷静になると、日向の心に「納得」という言葉が落っこちてきた。

(わかったよ)
 日向は小さく唸った。
(これが僕は笑われて、瑠偉は認められる理由なんだ……)
 みんなが瑠偉を見ている。教室はステージに変わり、差し込む日光はスポットライトに変わる。
(これが魅せるってことかぁ……)
 瑠偉と自分の差、その違い。日向は単語がにじみだすほどに理解した。
(完敗かも)
 人格、魅力、スキル。瑠偉がもつ特別なものになんと名をつけるべきかを日向は知らない。それでもいま自分が抱いた感情の名は知っている。
(最悪……)
 その感情の名前は劣等感である。日向はぐっと奥歯を噛み締めた。

 午後の授業はまったくと言っていいほど頭に入ってこなかった。英語の小テストもできたのかできなかったのか定かではない。
 ぼんやりした頭のまま帰りのSHRを終えて帰路につく。なんだかとても疲れていた。

 校門のところまで歩いた時、後ろから声を掛けられた。
「いっしょに帰ろうよ」
 振り返ると、そこには瑠偉が立っていた。
「いっしょにって……」
「いいでしょう?」
 瑠偉の水色の目がこちらを覗き込む。日向はためらう。

 いち、に、さん、し――。

 沈黙したふたりのうしろから準備体操の掛け声が聞こえた。日向は校庭に視線を送る。そこではサッカー部員たちが整列して体をほぐしはじめていた。そのなかに猛がいる。
 短く刈り上げた髪。日に焼けた健康的な肌。彼は日向の視線に気が付いたようにこちらを見返した。
 かちり、と目があった瞬間、思わず日向は瑠偉に背を向けて駆け出した。
「え!?」
 瑠偉は驚嘆の声をあげたが、日向はそれに構わず走った。

 陣中高等学校は小高い丘の上にある。坂道を駆け下り、三叉路を左に曲がり、それから橋を渡ったところで足を止める。
「はあ、はあ……」
 心臓がどくどくと脈打ち、背中が汗ばむ。
「はあー」
 一度大きく息を吐く。
 呼吸が整ってくると、思考も整ってくる。そして今度は頭を抱える。

(ど、どうしよう)
 日向は立ち尽くした。
(とっさに走っちゃったけど……嫌な奴だって思われたかな……)
 日向はゆっくりと後ろを振り返る。しかし足はいっこうに動き出さず、彼はただそこに立ち尽くした。

 同じく帰宅部らしい他学年の生徒たちが日向に怪訝そうな目を向けながら通り過ぎていく。日向は胸を押さえた。必死に考えているはずなのだが、このあとどう行動するべきか結論がでない。
 途方に暮れている日向の目に、金色の髪の少年が映った。

 彼は日向の後を追ってか――もっとも彼の帰路もこちらなのだが――三叉路に現れた。三叉路の中心で立ち止まってこちらに気が付く。水色の目が立ち尽くす日向をとらえて、彼もまた困ったような顔をする。
 お互いに緊張した空気を感じ取っていた。日向は唾を飲み込んだ。

(困った顔もきれいなんだな)
 そんなどこかのんきなことを考える。そして彼にそんな顔をさせてしまっているのが自分であることに思い至る。
 瑠偉の金色の髪がこころもとなく揺れている。
(転校初日なのに……)
 日向はゆっくりと息を吐く。そして来た道を戻った。

 瑠偉のいる三叉路まで引き返すと、彼は頭を下げた。
「……ごめん」
「いや、べつに……」
 おずおずと顔をあげて瑠偉を見る。彼の表情に怒りがないのを見て取ると、日向は提案した。
「……いっしょに帰る?」
「……いいの?」
「うん……家はどこ?」
「最寄りは生良駅だよ」
「あ、同じだ。駅まで一緒に行こう」
 こうしてふたりは並んで歩きだす。

 五月の陽気は心地よい。日向はそのあたたかい空気を吸い込んでひと息で言った。
「僕さっき風見くんから逃げたわけじゃなくて、なんとなくふたりでいるところをクラスの子に見られたくないような気がしたんだ。風見くんは悪くないんだ」
 瑠偉は少し小首をかしげたあとで気楽に答えた。
「いいよ」
「ごめん」
「瑠偉って呼んでよ」
「うん……じゃあ僕のことは日向でいいよ」
「よろしくね」
 友好的な彼の態度にふれて、日向は小さくまた「ごめん」と繰り返した。

 橋を渡ると大きな病院があって、その隣を抜けると国道に出る。国道を渡ってまた大きな橋があって、その向こうに駅がある。
 国道の横断歩道で立ち止まったとき日向は尋ねる。
「部活見学して行かないの?」
「放課後はバレエをしようかと思っているんだ」
「ふうん……?」
「いいバレエスタジオがあったら教えてほしいんだけど」
「……わかんない」
「なんで?」
「え?」
「なんでそんなにバレエの話を嫌がるんだい?」
「……」

 信号が青に変わる。並んで歩く。しかし会話がなくて、自然とうつむきがちになる。
 二人の足が目に入る。
 しっかりターンアウトした二人分の足。
(こう見たら、僕も負けてないんだけど)
 日向はこっそりため息をついた。

 橋にさしかかったとき、瑠偉が河原を指さして言った。
「踊ろうか」
「は?」
 驚く日向をおいて、瑠偉は河原に飛び出していく。
 瑠偉は鞄を放り投げると、そのままストレッチを始める。
 日向はその姿を見下ろして困ったように言う。
「フロアでもないのに」
「うん。フロアじゃないから、これはバレエじゃない。バレエの話をしたわけじゃないからセーフだ」
 そう言いつつも、彼が踊ったのはバレエだった。

 水面がきらきらと太陽の光を反射している。瑠偉はそのダイヤモンドの輝きをまとって踊る。

 日向はぽつりと言った。
「スワニルダ……」
 瑠偉が踊ったのはバレエ『コッペリア』の主人公スワニルダの第一幕のバリエーションだった。
 少女スワニルダが二階の窓辺に佇む少女に「いっしょに踊ろう」と誘うシーンの踊りである。
 通常は女性が踊るパートであるが、瑠偉はしなやかに体をつかって踊ってみせた。

 瑠偉はスワニルダと同じように日向を踊りに誘う。
「ほら、来て」
「……窓辺に佇む少女は実は人形だから、踊れないんだよ」
 少女の正体は人形技師コッペリアが作った人形なのだ。だから人形は踊らず、誘ったスワニルダは怒り出す、というストーリーだ。
 しかし、瑠偉は嫣然と笑ってみせた。
「私は君が人形ではないことを知っているから、いいんだ」
「そっか」
 完敗だ。クラスメイトを魅了したように、日向もまた瑠偉に魅了された。
 そして動かないはずの人形が、踊りだす。

 瑠偉に誘われて動き出した体はくるくると回り、軽々と跳んだ。
 人形に振り付けなど存在しないが、それでもきっとこう踊っただろうという振り付けが次々と頭に浮かんできて、体が勝手に動いた。
 瑠偉のスワニルダもいっしょに踊ってくれる存在に喜び、どんどん新しい踊りを見せる。
 ――それは夢のような時間だった。

 ひとしきり踊ったあと、息を切らして瑠偉は笑った。
「最高だ」
 日向も笑う。
「ありがとう。瑠偉も最高だった。こんなに気持ちよく踊ったのはじめてかもしれない」
「――ほんとう?」
「うん。瑠偉ってすごいね。魔法使いみたいだ」
「魔法使い?」
「うん。瑠偉につられて、勝手に体が動いたんだ。魔法みたいだった」
 日向がきらきらとした目を向けると、瑠偉は胸を打たれたように息を飲んだ。

「瑠偉?」
「……日向、ありがとう」
「ん?」
「こっちの話……日向ってやっぱりバレエ、好きなんだね?」
 日向は小さく答える。
「内緒ね」
「なんで内緒なの?」
「好きだけど、馬鹿にされるから」
「そう? なんで?」
「バレエなんて、そんなたいしたものじゃないって思っているだろうし」
 瑠偉は日向の太ももを叩いた。
「……こんなに鍛え抜かれた芸術を理解しないだなんて、彼らは不幸だな」
 日向はすっかり照れてしまって、もごもごと何事かを言ったあと小さく「ありがとう」と言った。

 瑠偉は笑う。
「日向がいてくれてよかった。日本に来るとき、少し不安だったから」
「そうなんだ」
「うん。それで? バレエスタジオってどこにあるの」
「へ?」
「今日、日向を見て確信した。いい先生がいるんでしょう? 私にも紹介してよ。日本ってロシア式のバレエしかないのだと思ってた」
 日向はしぶしぶといった様子で答える。
「母さんが、やっているんだ。フランス式だよ」
「ますます、いいじゃない」
 そう言い切られて、日向は頬を掻いて、それから何度も頷いた。
「うん……うん」
「なに?」
「僕、バレエの男友達ができたのはじめてだよ」
 それを聞いて、瑠偉は日向を抱きしめた。
「いいライバルになろうね」
 日向は動揺する。
「ら、ライバル」

 瑠偉は楽しそうに言う。
「私は、エトワールを目指しているんだ。日向も一緒に目指そうよ」
 熱に浮かされるように日向はうなずいた。
「うん」
 瑠偉の後ろで、オレンジの太陽が水平線に落ちていく。
 夜――星の宴――がはじまろうとしている。

(オペラ座に光る一等星――エトワール。バレエダンサーの最高峰)

 日向はまぶしさに目を細めた。



 その翌日、転校生の騒ぎで大人しくなっていた猛が調子を取り戻し「おいバレリーナ」と日向をいじったとき、瑠偉ががたんと立ち上がった。
瑠偉は「俺の親友と、俺の特技がなんだって?」と猛に詰め寄って大騒ぎになった。
 瑠偉も俺も猛も職員室に呼び出されるはめになったが、その最中、瑠偉が意味ありげに日向にウインクをして、日向もそれにくすりと笑った。