入学して間もない頃だった。
 確か、喋り方がキモいとか、そんなしょうもない理由でバレー部の怖い先輩たちに目を付けられたんだと思う。
 最初はせいぜい変に誇張された真似で弄られたり、学校の裏サイトの掲示板に俺の喋り方を揶揄した書き込みをされたりするくらいだったんだ。
 俺はいじめられてるって思われたくなくて、これはちょっと度が過ぎたただのイジリだからって、先輩たちが卒業するまでの我慢だって、自分に言い聞かせて。
 そうやって惨めな気持ちから必死に目を背けて、何でもないフリしてヘラヘラ笑ってた。
 それが良くなかったのかな。
 あの時やめてって言えてたら、あそこまでひどいことにはならなかったのかも。
 ……今となっては、もう全部遅いけど。
 二学期の半ばごろから段々、指導だって言ってトイレに呼び出されて殴られたり、お金を取られたりするようになっていって、気付いた時にはクラスのやつらからもハブられてた。
 みんな、自分が次は先輩たちの標的にされるんじゃないかって怖がって、誰も助けてはくれなかった。
 それでもなんとか休まず学校に行き続けて、一年間が終わってようやく先輩たちが卒業してくれて。
 でも、一度学校の中で出来上がった空気は簡単には変わってくれなくて。
 それで、二年の夏休み前に勇気出して先生に相談してみたんだけどさ、なんか俺がみんなの輪に馴染めてないのが悪いみたいなこと言われちゃって。
 それがトドメで、気持ちがポッキリ折れちゃって、そこからはもうずっと学校に行ってない。
 外に出るのが、ひとと会うのが怖くて家から出られなくてさ。
 放課後の時間帯になると、何日かに一回、誰かしらプリントを持ってきてくれてるみたい。
 インターホンが鳴っても基本頭から布団を被って息を詰めて相手が諦めて帰るの待ってる。
 いつもくしゃくしゃになったプリントが玄関ポストに突っ込んであるのを見ると罪悪感で胸が苦しくて、なんで扉を開けてプリントを受け取るだけのことすら俺は出来ないんだって、その度に気持ちが沈んでますます家から出るのが怖くなった。


◆◆◆


 アスファルトの硬い感触が足裏に響く。
 靴を履いて外を歩くこの感覚、本当に久し振りだ。
 前髪とか、変な癖がついてないかな。
 あんまりにも明人が急かすもんで、洗面台で髪型を確認する余裕すらなかったから。
 怖い、誰かに指差されて笑われてるんじゃないかって気がして、怖い……!

「誰も見てないよ。 怖かったら下向いて目ェ瞑ってていいよ。俺がちゃんとあおちゃんを連れて行くから」

「め、明人」

 明人にそう言われると、少しだけ怖い気持ちが和らぐ。
 気持ちに余裕ができたおかげか、さっきからやけにカラスの鳴き声がうるさいことに気が付いた。
 なんか生臭い臭いもするし、どこかで生ゴミでも散乱してんのかな。
 それと、さっきから車が全然走ってない。
 ていうか、外に出てから一度もひととすれ違ってない。
 お正月の早朝みたいに道路がずっとシーンとしてる。
 この時間帯に自転車すら走ってないなんて、何か事故でもあったんだろうか。
 諸々の些細な違和感を抱いたまま、不安な気持ちで車両侵入禁止の道路を進んでいくと、やがて学校の校舎が姿を現した。
 散りかけの桜に彩られた、四階建ての古びたそれ。
 三年ぶりの学校だ。

「あ……!」

 ぶわりと嫌な記憶が甦って、背中に脂っぽい汗が浮き出た。
 踏み出そうとした足はすくんで、大量のガムでも踏んで地面に足の裏がくっついたみたいに動かせない。
 俺が不登校になって三年経ってる。
 先輩も同級生も、とっくに卒業してるはずだ。
 ……でも、でももし知り合いに会ったらどうしよう。
 震える俺の様子に気付いたのか、明人の冷たい手にきゅっと力がこもる。

「大丈夫だって」

 校門に差し掛かると、門の前に誰かが立っていた。
 俺は思わずぎゅっと目を瞑って俯く。

「おはよーございまーす!」

 明人の快活すぎる挨拶が響いて、そのまま呼び止められることもなく俺たちは校門を通り抜けてグラウンドを突っ切り、俺たちは校舎に入った。
 俺は口から飛び出しそうなくらい心臓バクバクなのに、明人は平然と校内へ廊下を歩いている。
 ていうか、俺たち土足なんだけど、う、上履きとかに履き替えなくていいのかな?

「あおちゃんって何組だった?」

「ディ、D組……」

「じゃあ、二階か。 行こっ」

 明人は軽い足取りで階段を駈け上がり、三年前まで俺がいた二年D組の教室の扉の前に辿り着く。

「待っ、お、おれっ、もうここの生徒じゃないからっ、勝手に入ったら怒られっ」

「ヘーキヘーキ! おはよー!」

 ここまで来て尻込みする俺には構わず、明人は躊躇なく横開きの戸を開けて教室に踏み込んだ。
 途端、中からむわっとなんとも言えない腐敗臭が立ち込める。

「う゛……ッ!」

 く、くさっ! なんだこの臭い!
 俺は咄嗟に鼻と口を手で覆いながら視線を教室の中に向け──固まった。
 教室の中には、確かに何人かの生徒がいた。
 だが一斉にこちらを向いたその土気色の顔は、どれも皮膚が溶けたように爛れて眼球が落ち窪んでいる。
 髪は真っ白で、半分以上が抜け落ちてて男か女かもわからない、もう何日も着替えてないような汚れた身なりの制服で、周囲にぶんぶんと蝿が集ったその有り様は、まさしく──

「ゾ、ゾンビだぁ!」

 俺は上擦った悲鳴を上げて、明人の腕にしがみついた。
 しかし、明人は目の前のゾンビの群れを気にする風でもなく颯爽と教室の中へ入っていく。

「明人! ゾンビだよゾンビ!」

「ゾンビだねぇ」

「何呑気に落ち着いてんの! は、早く逃げなきゃ! ゾンビに噛まれたらゾンビになっちゃうんだぞ?!」

「それは映画とかの話でしょ? 普通の死体は襲ってこないから大丈夫だって。 万が一噛まれたところで怪我なんかしないよ。 だって、こいつら歯茎の腐敗が進んでてもう歯ァ残ってないもん」

 明人は窓際の一番後ろの席まで歩いていくと、窓を全開にした。
 そして、そこに座っていたゾンビふたりの襟ぐりを躊躇なく掴むと、ひとりずつ窓から蹴り落としていく。

「わあ、死んじゃう!」

「だからもう死んでるんだってば。 ほらあおちゃん、席空いたからここに座ろ」

 明人はケロッとした顔で窓際の席に俺を押し込み、自分は隣の机を引き寄せてそこに座る。
 相変わらず明人はニコニコしてるし、なんだこれ、熱が出たときに見る悪い夢?
 そこで、『キンコンカンコン』の音が全部一段階ずつずれたみたいな奇妙なチャイムが鳴り響いた。
 すると、それまでうごうごと海の中のワカメみたいに微動していたゾンビたちは、各々手近な席に着席していく。
 まもなくガラリと教卓側の戸が空いて、出席簿を片手に先生ゾンビが入ってきた。
 あ、あの上下合ってないツーラインジャージは……!

「栴田先生!?」

 間違いない、二年時の担任で生活指導の、……俺のいじめの相談に全く取り合ってくれなかった栴田先生だ。
 先生、ゾンビになってる……。
 唖然とする俺を置いてけぼりにしたまま、ゾンビの先生と生徒たちは授業?を始めた。
 授業といっても、栴田先生のゾンビが不明瞭な呻き声をあげながらチョークで黒板にミミズの這った跡みたいなぐちゃぐちゃ模様を書いては消し、それを生徒ゾンビたちが「あ゛ーー」と大口を開けながら、大人しく座って聞いているだけだけど。
 明人はガタガタと俺の机に自分の机をくっつけてきて、どこから拾ってきたのか茶色いシミで汚れてパリパリになった保健体育の教科書と、同じく汚れて所々破れたノートをふたつの机の間に広げた。
 少し頭を傾けたら、髪の毛が触れあうくらいの距離感。
 ちょっとドキッとする。
 こんなに誰かが近くにいるのって、いつぶりだろう。
 明人、少し会わない間にすごく背が伸びたな。
 もう俺より高いくらいなんじゃないか?
 髪色は明るいし顔立ちもぐっと大人っぽくなってて、耳にはピアスなんかも開けちゃってて。
 なんかスクールカースト高そうっていうか、知らないひとみたい。

『あおちゃんと一緒に授業受けてるみたい! 同い年になったみたいで、なんかちょっと新鮮かも』

 明人がそうノートの上で、これまたどこから拾ってきたのかボールペンを走らせる。
 そして、今度は俺にペン尻を差し出してきた。
 これって、次は俺に書けってことだよな?
 俺は明人からボールペンを受け取ると、震える手で胸の中に渦巻く疑問を文字に書き出す。

『なんで学校にゾンビがいるんだ?』

 すると明人はきょとんと目を丸くした。

『あおちゃん、ニュース見てないの? ゾンビ禍だよゾンビ禍』

 な、なんだよゾンビ禍って!
 俺から受け取ったボールペンで、明人はさらさらとノートに続きを書いていく。

『一年くらい前にね、外国の研究所が秘密裏に開発していた細菌兵器が流出したんだって。 飛沫と接触で爆発的に感染拡大して、俺たち以外の全人類はみんなゾンビになっちゃったんだよ』

 学生の作った自主製作映画の設定かよ……。
 嘘つくならもっとマシな嘘つけって。

『本当だよ。 俺はたまたま家の地下シェルターに避難してたから大丈夫だったけど、少なくともこの辺であおちゃん以外に生き残ってる人は見てないよ』

『で、でもおかしいだろ。 だって俺、ずっと家に居てゲームばっかしてたけど、電気も水道も止まったことなんか一度もなかったぞ。 ネットだって……』

 ……あれ?
 そういや俺、いつからニュースとか見てないんだっけ?
 というか、そんな大規模な災害が起こったんなら、スマホに通知が入るだろうから絶対気付くような……
 固まる俺の耳元に、明人がフッと息を吹き掛ける。

「わきゃっ!?」

「いいの、今さら細かいことなんてどうでも。 世界にゾンビ化ウイルスが溢れて、生き残ってるのは俺たちだけ。 それが全てなの」

 そんなの常識的にも科学的にもありえないだろという俺の意見は、明人の耳打ちが一刀両断。
 そして続くノートの文字。

『なんかね、ゾンビは生前の何時間か前に取ってた行動とか習慣を反芻してるって言ってたよ。 脳は死んでるけど筋肉はウイルスに動かされてる状態なんだって。 だからこいつらはチャイムが鳴る度に延々とここで授業を続けてるし、毎朝の道の掃除が日課だったおばさんはずーっと掃除してる。 電車も動いてるし、多分電気会社や水道局で働いてるひとも同じなんじゃないかなぁ』

 だからまだ辛うじて社会インフラは生きて動いている。
 けど、それもいつまで持つかわからない、と。
 何故なら、ゾンビたちの肉体がそのうち腐敗が進んで朽ち果ててしまって、インフラを維持する人間がいなくなるから。

『世界はとっくに終わっちゃったんだ。 もう笑うしかないよね』

 そう書いて、明人はマスクの下でケラケラ笑う。
 俺はといえば、突き付けられた現実があまりに突飛すぎてぐうの音も出せなかった。
 悲しいとか怖いとか、そういう感情は一切沸いてこなくて、というかそれ以前に、「世界が終わった」っていう明人の言葉が現実感なさすぎて上手く受け入れられない。
 話を聞けば聞くほど、頭の中に浮かぶのは疑問符ばかりだ。
 教室はとても静かで、明人の筆音と俺の荒い息、そしてゾンビたちの間延びした呻吟だけが響いていた。