「落ち着いたか?」

 自販機を抉じ開けてとってきた缶のココアを差し出すと、明人はぐちゃぐちゃに濡れたマスクの下でずび、と鼻を啜る。
 「ついでに鼻もチンしちゃえよ」と拾ってきたポケットティッシュを手渡したら、明人はマスクの上から鼻を擤んで、まとめて丸めてパーカーのポケットに突っ込んだ。
 マスクをとった顔は、やっぱりイケメンだった。
 垂れ目がちで色白でちゃんと歯が生え揃ってて、どことなく昔の泣き虫な面影を残した俺の知ってる明人の顔だ。
 花火を片付けた俺は、泣きじゃくる明人をガレージのキャンピングカーの中に連れてきていた。
 こういう時は、少しでも明るい場所の方がいいかなって思ってさ。
 奥のソファベッドに並んで腰掛けて、そこで嗚咽混じりの明人の話を一通り黙って聞いてた。

「ごめんなさい、あおちゃん」

「だからなんでお前が謝るんだよ。 俺のこと、助けようとしてくれたんだろ?」

「違うよ。 俺は自分のことしか考えてない腰抜けなんだ。 だって、だって俺は……、あおちゃんに抗体薬を使えなかった」

 懺悔するように、明人は背中を丸めて両手で顔を覆う。

「直前で怖くなって、できなかった。 結局俺は、自分が助かるために自分に抗体薬を使ったんだ。 あおちゃんのこと好きなのに、あおちゃんを助けたいって気持ちは本当なのに、俺は好きなひとのために自分の命を賭ける覚悟を持てなかった。『 今度はあおちゃんを助けたい』だなんて、口だけで何にもできなかった。 ごめんなさい、ごめんなさい……」

「明人……」

 ここまで俺を引っ張って来てくれた頼もしい明人。
 でもそれは、俺が不安にならないようにって、相当無理して明るく振る舞ってくれてた姿だったんだな。
 恋愛ドラマに出てくるヒーロー役が『君のためなら死ねる』だなんて軽々しく言うシーンってよくあるけど……。
 世にいるカップルの片割れで、実際そういう状況に追い込まれた時に相手のために迷わず命を賭けられるやつなんてそうはいないだろう。
 それなのに、明人は俺の命と自分の命、一度は天秤にかけようとしてくれたんだ。
 まだ十七歳の、ほんのちょっと前まで高校生だったガキがだぞ?
 俺にはその事実だけで充分だ。

「なあ、ひとつ聞いていいか? 抗体薬を打ってないのになんで俺は今こんなに意識がしっかりしてるんだ? 中期ステージの症状って、確か意識の混濁を起こすんだろ?」

「それは……、あおちゃんには試薬を使ったんだ」

  抗体薬みたいにウイルスを完全に不活性化させることはできないが、試薬にはウイルスの増殖を抑制する効果があるから、と明人は言う。
 他のゾンビはもうとっくに晩期ステージに入っていてもう試薬程度じゃ効かなかったが、中期ステージくらいの状態の俺にはまだ多少の効果があったみたいだ。
 明人は全部で四回に分けて試薬を投与して、一時的に俺のゾンビ化の進行を遅らせることに成功したという。

「あおちゃんの意識が戻った時、奇跡が起きたんだって思った。 神様があおちゃんを助けてくれたんだって、もしかしたらこのままあおちゃんはゾンビにならなくても済むかもって、都合の良いことだけ考えて現実逃避してた。 でも五回目の投与から試薬が効きにくくなってることに気付いて……」

「それで一時は止まってた俺のゾンビ化がまた進行し出した、ってことか」

 俺の髪はゾンビ同様真っ白になっていて、これを見られまいと明人は行く先々で姿が映るようなもの避けてきた。
 たまに香るハッカの匂い。
 あれは明人から香ってるんじゃなくて、明人が俺に防腐剤をかけた後の移り香だったんだな。

「もうひとついいか? 明人は完成品の抗体薬を使ってるから、もう完治してるんだよな? 俺からの感染の心配はないんだよな?」

「そうだけど……」

「そっか。 ならひと安心だな。 せっかく治ったのに、さっきのキスで台無しだったら元も子もないもんな」

「……なんで怒らないの? 俺、自分が助かるためにこれからあおちゃんを見殺しにするんだよ!」

 急に叫んだかと思えば、明人はしゃくりあげながらまた大泣きした。

「俺、あおちゃんに恨まれて当然だ! 映画に出てくるゾンビみたいに、ゾンビが人間を襲ってくれれば良かった! それであおちゃんがゾンビになったあと、俺を食べてくれたら良かったんだ!」

「やだよそんなの。 ただでさえ歯が抜けてんのに、わざわざナマの人間なんて食べにくそうなもの食べたくない。 揚げたてのフライドチキンとかにんにくたっぷりのラーメンとか、もっと柔らかくて美味しいもの食べたいよ俺」

「うううぅ~!」

「言ったろ? 感謝してるんだって」

 俺は泣いてる明人の頭を抱き寄せて、ぽすっとベッドに倒れこんだ。
 汗と脂と染色で傷んだ髪を手櫛で漉きながら、俺は小さい子に絵本でも読んであげるみたいに言い聞かせる。

「それでもお前が罪悪感で辛いんなら、俺のために『明日死んでもいい』って思えるくらい毎日全力過ごしてくれよ。 それでおあいこってことで」

 いつか見たおじさんと犬のロードムービー。
 今なら旅に出たあのおじさんの気持ちがちょっとだけわかる気がする。
 どうでもいいって、このまま溶けて存在ごとこの世から消えられたならって、そう思いながら部屋にとじ込もって生きるより、どんなに過酷な旅でも今が人生で一番楽しいと思いながら死にたい。
 そして、願わくば明人にもそうあってほしい。
 明人はなかなか泣き止まなかった。
 泣き止ませようとおでこに二回キスして、もう一回口にキスしようとしたらもっと泣かれた。