それからはまた、これまでと全く同じルーティーンを繰り返す日々。
ドローンを飛ばして外の様子をモニター越しに見つめて、寝るまも惜しんで働く父さんに水と食料を運び、試薬を打つ。
身体の痒みは日増しに尋常じゃないくらいに強くなっていった。
掻き過ぎで、俺の両腕はもう元の肌の色がわからないくらいだ。
1月になると、雪がちらほらと降り始めた。
この頃になると、うちに備蓄してた水と食糧が少なくなってきたから、俺は外に出てコンビニやスーパーに向かった。
町は静かだったけど、コンビニは電気が煌々と点いててやけに明るかった。
冷凍庫も冷蔵庫も動いてて、店員はいつから煮てるのか不明のおでんらしきものを無心でかき混ぜてる。
ゾンビは生前の行動を反芻すると父さんは言っていた。
だからゾンビになったこの店員も、あおちゃんみたいにゾンビになる前の習慣をずっと繰り返してるんだと思う。
お会計の対応はしてもらえなかったから、カウンターにお金だけ置いて必要なものを調達させてもらった。
たまにあおちゃんの様子も見に行った。
あおちゃんは相変わらず布団の中にくるまってじっと動かないでいるか、たまに下に降りて荷物を運び入れる動きをするかのどっちかだった。
段々物事を考えるのが億劫になってきた。
そろそろ俺も、ゾンビとして行動を反芻するようになるのかも。
いや、もしかしたらもう既にゾンビになってるのかもしれない。
虚脱と空漠だけをなぞる摩耗の日々。
そして痒みが限界になった頃、ついにその時がやって来た。
「抗体薬が完成した」
父さんは静かにそう言い放った。
机の上には、たった一本の注射器。
内筒の中には透明な液体がなみなみと入っている。
「この薬を体内に取り入れれば、体内のウイルスを完全に不活性化することが可能だろう」
やった! 父さんはやったんだ。
これでゾンビにならなくて済む。
あおちゃんや、どこかで助けを待ってるひとたちも、この薬があればきっと助かる。
「これはお前に託そう。自分に打つか、それとも破棄するか、選択はお前に委ねることにする」
「え?」
父さんは何言ってるんだ?
そんなの、自分に打つに決まってる。
父さんが心血を注いでやっと作り上げた薬なのに、破棄なんてするわけがないじゃないか。
「そうか。 お前が決めたことなら、父さんは何も言わないよ」
そこで俺はようやく気付いた。
穏やかに微笑む父さんの髪は真っ白になってて、顔の左半分の肉が奥歯が見えるくらいに崩れてしまってることに。
嫌な冷たさが背筋を舐めた。
「ねえ、父さんの分の抗体薬は?」
すると、父さんは少し困ったみたいに眉尻を下げて首を横に振った。
「材料が底を尽きて、一本しか作れなかったんだ。 だから、それはお前が使いなさい」
「そんな……! それじゃあ父さんがゾンビになっちゃうよ!」
そんなの嫌だ!
ゾンビ化が治ったところで、父さんがいなくなったら俺はこんな世界でひとり取り残されてしまう。
そんなの、絶対嫌だ……!
「そうだ、父さんが先に打ってよ。それで治ったあとに材料を調達して二本目を作ってくれたらいいんだ。 俺、それまで待てるから」
「明人」
父さんは少し強めの口調で俺の言葉を遮った。
「……私はもう手遅れだ。 右腕が思うように動かない。 どうやら既に脳の一部が壊死しかけているらしい。 ここで私が抗体を打って治療したところで、壊死した部分はもう治らない。 脳に障害を負った状態では、どう頑張っても二本目の薬は作れない。 そうしたら、お前を助けることができなくなってしまう」
「い、いやだよ父さん、俺をひとりにしないで」
心細さにたまらなくなって、俺はとっさに父さんの胸にしがみついていた。
駄々を捏ねながら父親に抱きつくなんて小さい子みたいで恥ずかしいとか、今はそんなこと考える余裕もなかった。
「私はいつも仕事優先で、お前にも母さんにも随分寂しい思いをさせてきてしまったな。 今になって思い返してみれば、彼女は私のこういうところに嫌気が差したんだろう。 母さんが失踪してからも仕事漬けで、お前を蔑ろにしてしまっていた自覚はあるんだ」
「そんなこと、ないよ……! 俺の父さんはひとを助けるために働く立派な父さんだよ……!」
「ありがとうな、明人。 ……すまないな」
父さんの魚の干物みたいになったシワシワの手が、ぽんと俺の頭の上に乗せられる。
「私は本来なら研究所に残り、そこで人類を救うため、この抗体薬を一滴でも多く開発することに全力を注がなければならない立場の人間だ。 しかしそれで助かるのは一部の権力者のみで、私の身近な人間には薬は行き渡らない。だから私は研究者としての全てを捨てて、この一本を作るためだけに家に帰ってきたんだ。 これは私の最後のわがままだ。 叶うならどうか、お前に生き延びてほしい」
くしゃくしゃと、父さんは俺の髪を掻き混ぜた。
殆んど紫になった顔に笑顔を張りつけたままの父さん。
急に瞳孔が大きく膨らんだかと思うと、ビクンと痙攣。
しばらくそのまま一時停止したみたいに動かなくなった。
「父さん?」
かと思えば急にくるりと身体の向きを変えて、個別ブースに持ち込んだ研究機材の間に設置している簡易机に着席する。
父さんは机に向かって、カチャカチャと何かを作り始めた。
いや、違う。
手元の実験器具を適当に動かしてるだけだ。
生前行動の反芻が始まったんだってすぐに分かった。
父さんはゾンビになってしまったんだ。
あれから父さんの身体は、少しずつ腐り始めている。
父さんの研究ブースの中で抗体薬を作るまでに出来た大量の試薬が余ってるのを見付けて、「もしかしたら」ってそれを片っ端から注射してみたんだけど……駄目だった。
俺も父さんもこれまでかなりの試薬を投与してきたから、もう薬自体が効きにくくなってるんだ。
どうやっても父さんのゾンビ化を食い止められることはできず、俺は一本しかない抗体薬を前にして、どうするべきなのか悩んでいた。
これを打つべきか打たぬべきか。
何故父さんが俺に選択を委ねると言ったのか今なら分かる。
父さんは、この人類が総ゾンビ化した世界で俺がひとりで取り残されることを心配してくれてたんだ。
どんなに辛くてもひとりで死ぬまで生きていくのか、それとも諦めてみんなと同じようにゾンビになるのか、好きに選んでいいって、そういう意味だったんだ。
これを打ったら、俺は助かる。
人間のままの自分でいられる代わりに、永遠にひとりぼっちになってしまう。
「どうすればいいんだよ……」
頭を抱えてた手を見たら、大量の白い抜け毛が絡んでいた。
父さん同様に、きっと俺に残された時間もそう多くはない。
……怖いよ、誰か助けて。
父さん、……あおちゃん。
「あおちゃん」
はっとして、俺は立ち上がる。
この抗体薬があれば、あおちゃんは助かる。
そうしたら俺はひとりじゃない、あおちゃんが傍にいてくれる。
……その代わり、俺は助からない。
ひとりぼっちは嫌。
ひとりは寂しい、辛い、惨めだ。
でもこのままゾンビになるのも怖い。
身体が少しずつ腐って、死んだことにすら気付けないまま自分が自分じゃなくなっていくのは……怖い……でも、でも……。
散々悩んだ末、机の上の抗体薬をポケットに突っ込むと、俺はシェルターを飛び出した。
いつも通りマスクをして、パーカーを羽織って、護身用に鉄パイプを持って、隣のあおちゃんちへ急ぐ。
目の前がぐちゃぐちゃで、どうするのが正解なのかわからない。
それでも、俺にはもうあおちゃんしかいない。
あおちゃんだけが、俺にとって滅んだ世界の唯一の希望の光なんだ。
──本当に?
ガクンと足の力が抜けて、それ以上進まなくなる。
「あ、あれ……? なんで……?」
どっと全身に冷や汗が浮き出す。
混乱する頭の中で、もうひとりの俺が静かに問い掛けてくる。
──本当に、あおちゃんに抗体薬を使っちゃってもいいの?
