ひとりきりは怖い。
 暗いのはもっと怖い。
 小さい頃、母さんに手を引かれて夜遊びに連れて行ってもらったことがある。
 いつもは「早く寝なさい」とか、「夜更かししたら明日起きられなくなるよ」って21時には布団の中に無理やり押し込められてたのに、その日に限って母さんはすごく機嫌良さそうだった。
 お化粧もバッチリで、爪もピカピカで、耳には普段身につけないような大きいイヤリングなんかつけちゃったりして、「今夜はトクベツなの」って。
 普段は夜に出歩いたりしないから、俺はその『トクベツ』って響きにワクワクしながら母さんに着いていった。
 どこに遊びにつれてってくれるんだろう?
 遊園地かな? それとも動物園かな?
 タクシーで移動して、ついたのは郊外にある自然公園だった。
 よくドングリ拾いに連れてきてもらってる知ってる場所だ。
 誰もいない夜の園内はしーんと静まり返っていた。
 今にも切れそうな街灯がチカチカ明滅していて、ちょっと怖いなと思ったのを覚えてる。
 こんなところで何をするんだろう?
 そう思っていたら急に、本当に何の前触れもなく急に、母さんが繋いでいた俺の手を離したんだ。

「母さん?」

 呼んでも返事はなかった。
 真っ黒な夜の中で溶けてしまったみたいに、母さんは跡形もなく姿を眩ませてしまった。
 そのあとのことは記憶からごっそり抜けてて、多分、パニックを起こして気絶しちゃったんだと思う。
 次に目が覚めた時は病院で、いつもにも増して疲れた顔の父さんがベッドの脇で俺の手を握っていた。
 それ以来、母さんとは会ってない。
 行方不明扱いとして警察に捜索願を出してるけど、未だにそれらしいひとは見付かっていないって。
 俺はどうして母さんがいなくなってしまったのか理解できなくて、ただ悲しくて泣くことしかできなかった。
 父さんは「私が悪いんだ」と何度も謝り続けてたけど、あの頃はなんで父さんが悪いのか分からなくてますます泣いた。
 そしてこの失踪事件を切っ掛けに、俺はたびたびパニック発作を起こすようになった。
 病院で看てもらったら、分離不安症だって。
 赤ちゃんとかが母さんと離れて泣くやつ。
 赤ちゃんじゃなくても、大人でもなるひとがいるんだって。
 ひとりきりになるのがすごく怖かった。
 あの暗い公園で、母さんに手を離された時のことを思い出すから。
 
「これからはなるべく家にいるようにする」

 父さんは戸建てを買って、前のマンションからそっちに引っ越した。
 仕事は殆んど家に持ち込んでリモートワーク。
 なるべく俺をひとりにしないようにって気を使ってくれたんだと思う。
 でも、父さんは仕事に熱中すると周りが見えなくなるタイプで、俺が学校から家に帰っても気付いてもらえない日の方が多かった。
 玄関にはいつも鍵がかかってて、照明が点いてる日は本当に稀で。
 「おかえり」を言ってもらえない玄関に帰るのは寂しくて、悲しくて、家に帰りたくなくて……そんな時に声をかけてきたのがあおちゃんだ。
 
「お前んち親いないの? ……今日おやつドーナツだけど、うち来る?」

「……いいの?」

 あおちゃん──葵兄ちゃんは、隣に住んでる幼馴染みの三つ年上のお兄ちゃんだ。
 小学生の頃、毎日のように一緒に遊んでくれて、俺のことを本当の弟みたいに可愛がってくれたお兄ちゃん。
 「おかえり」をもらえなくなった俺に、「いらっしゃい」をくれたひと。
 ……俺の初恋のひと。
 玄関の扉に鍵が掛かってたって、隣に行けばあおちゃんがいるからひとりじゃない。
 お気に入りの毛布よりも、あおちゃんが手を握っててくれた方がずっと安心できる。
 あおちゃんのおかげで、俺のパニック発作は殆んど現れなくなった。
 あおちゃんが中学に上がってからは、すっかり疎遠気味になっちゃった。
 でもたまに二階の窓際で勉強してるあおちゃんの姿が見えて、俺も頑張ろうって思えた。
 あおちゃんにダサいって思われたくなくて、勉強もスポーツも人並み以上にできるよう真剣に取り組んだ。
 友達付き合いも、あおちゃんに友達がいないやつだって、思われたくなくて色んな相手と仲良くしようとした。
 見た目もちょっと気を付けた。
 悪ぶってピアスとか空けたりもした。
 情けない年下の子どもじゃなくて、あおちゃんの隣に立っても恥ずかしくないような、頼り甲斐のあるりっぱな人間になりたかったから。


 あおちゃんが不登校になったって話は、高校に入学してから知った。
 実は俺、何回か家を訪ねに行ってるんだ。
 生活指導の栴田に、プリント持ってくよう頼まれたことが何回かあるから。
 あおちゃんは会うどころかインターホンにも出ててくれなかった。
 聞いた噂じゃひどい先輩がいて、あおちゃんはいつもいじめみたいなことをされてたって。
 きっと誰とも会いたくないって思うぐらい、心を傷付けられるようなことがあったんだと思う。
 だから無理にあおちゃんに会うのはやめようって、あおちゃんがまた外に出れるようになるまで待とうって、そう決めてたんだ。

「あおちゃん、今頃どうしてるんだろう……」

 一目だけでもいいから会いたいな。
 そんな風に漠然とした想いを抱えながら、なんだかんだ俺は普通の高校生活を送ってたんだ。
 ゾンビパンデミックが起こる、その日までは。

 
◆◆◆


 日に日に壊れていく外の映像を見るのは怖かった。
 でも自分の知らないところで世界が壊れるのはもっと怖かったから、ドローンだけは毎日欠かさず飛ばし続けた。
 抗体の開発に集中する父さんに水とご飯を持ってって、試薬が出来たら注射を打って、ひたすら食い入るようにモニターとにらめっこして、眠気のピークが来たら気絶するみたいに寝てまた起きて、ずっとその繰り返し。
 いつの間にか、友達との連絡は途切れてしまっていて、誰とも話さない時間が増えてますます気が滅入る。
 腕は掻き毟った痕が赤紫の瘡蓋になってて、ところどころ血が滲んでる。
 もしかしたら、自覚してないだけでもう俺もとっくにゾンビになってるのかもしれない。
 そうやって今日も同じルーティーンをなぞってると、モニターの映像内で家の近くでふらふらと、宅配業者の帽子を被った人物が空の荷台を運んでる姿が見えた。
 その宅配業者はうちの前を通りすぎると、隣の午時さん、あおちゃんちのインターホンを押していた。
 二度目のインターホンを鳴らされても、やっぱりあおちゃんが出てくる気配はない。
 宅配業者はそれ以上特に何かするでもなく、またガラガラと荷台を押してどこかに行ってしまった。

「……あおちゃん」

 あおちゃんも、ゾンビになっちゃったんだろうか。
 引っ越してきたばっかりで友達もいなくて、寂しい思いをしていた時にずっと俺の傍に居てくれた。
 俺が大好きなあのあおちゃんには、もう二度と会えないのかな。
 一度でもそんな風に思ってしまったら、もう居ても立ってもいられなかった。

「いかなきゃ」

 父さんは抗体の開発に集中してる。
 今俺がシェルターの外に出ても、ちょっとの間だったら多分気付かれない。
 俺はパーカーを羽織ると、音を立てないようにそっとシェルターの扉の内鍵を外した。
 マスクは……ウイルスが小さすぎて効果ないって父さんは言ってたけど、ないよりはましだよね。
 ていうか、もう感染してるんなら関係ないか。
 ふと、シェルターの入り口に廃材の鉄パイプが立て掛けてあるのが目に入る。
 ゾンビが襲ってくるかもしんないし、一応これも持っていこう。
 深呼吸して心の準備を整えると、俺は何週間かぶりにシェルターの外に出る。 
 そりゃ外に出るのは怖かったけど、でもあおちゃんに会いたかったから。
 一目だけでもいいから、いつも通りのあおちゃんの顔を見て安心したかった。


 空が曇ってるのか、今夜の空は月も星も見えない。
 でも街灯の電力が生きてるから、覚悟してたほど暗くもない。
 久し振りに出た外は、古くなった鶏肉みたいななんともいえない嫌な異臭が漂っていた。
 当たり前か、あっちこっちでゾンビが徘徊してんだから。
 今は12月だからそこまで酷いことにはなってないけど、これが暑い時期だったら今頃鼻がもげてたかも。
 あおちゃんの家の郵便ポストの底板の下には、家に鍵を忘れた時用にスペアキーが隠してある。
 俺とあおちゃんだけが知ってる秘密の鍵だ。
 それを使って、玄関の扉を開けた。

「あおちゃん」

 あおちゃんの家の中はしんと静まり返ってた。 
 長いこと掃除してないのか、埃っぽくて天井の隅っこには黒カビが発生してる。
 階段を上って、あおちゃんの部屋の前まで来た。

「あおちゃん」

 開けるね。
 そう前置いて、そっとドアをそっと開ける。
 あちこちにお菓子やカップラーメンの空き容器が散乱した部屋の中、あおちゃんはベッドの上で頭から布団にくるまっていた。
 パチリと部屋の電気を点ける。

「……あおちゃん」

 一声だけでいいんだ。
 昔みたいに「大丈夫、俺がいるからさみしくないよ」って、そう言ってあおちゃんが笑ってくれたら、俺はもう少し頑張れる。
 だから。
 じっとりと汗ばんだ手で布団を掴み、一気に剥ぐ。
 現れたあおちゃんに、俺は言葉を失った。
 ベッドに横たわるあおちゃんの髪の毛は、色が抜け落ちて真っ白になっていた。
 肌は青白く唇はシワシワで、目は瞬きもせずじっと虚空を見詰めてる。

「あ、」

 鉄パイプが手から滑り落ち、俺はゴミだらけの床に膝から崩れ落ちる。
 あおちゃん、あおちゃん、あおちゃん……。

「うううぅ……」

 こんなことになるなら、無理やりでもいいから会いに来ればよかった。
 あおちゃんが開けてくれなくったって、窓なんか叩き割って勝手に入っちゃえばよかったんだ。
 胸の中に重たい泥がずっしり詰まってるみたいで苦しい。
 吐き出したいのに吐き出せなくて、代わりに涙が溢れてくる。
 そうやってあおちゃんがゾンビになってしまったという現実にうちひしがれていると、不意に、それまで微動だにしなかったあおちゃんが急に起き上がった。

「……あおちゃん?」

 あおちゃんは俺の横を素通りして、部屋を出ていく。
 ぺた、ぺた、と危うげな足取りで階段を下りて、玄関までやってきた。
 そのまま靴も履かずに三和土に下りたあおちゃんは、シーリングライトの明かりが点った庇の下で妙な動きを始めた。
 しゃがんで、おおきなものを両手で拾い上げて、持ち上げて、玄関の中に入れる。
 何してるんだろう、これ。
 まるで何か、家の中に重たい荷物でも運び入れてるみたいな、そんな動きだ。

「筋肉の細胞に潜伏しているウイルスが、感染者に生前の行動を反芻させているんだ」

「っ!」

 慌てて顔を上げる。
 門柱の傍に父さんが立っていた。

「何も言わずに出ていくから、心配したぞ」

「ご、ごめんなさい、俺、勝手に外に出て」

「いいさ。出るなとは言ってなかったんだから。 この子はお隣の……明人が小さい頃、よく遊んでくれてた子だったな。 名前はなんていったか」

「……あおちゃんだよ。 午時葵くん」

 父さんは玄関ポーチまで歩み寄ると、白衣の襟ぐりに差してたペンライトであおちゃんの身体を照らした。

「感染者の症状にはステージがある。 初期ステージに全身に掻痒感を覚え、細胞の壊死が始まる。 中期ステージになると意識の混濁が起こり、ウイルスによる遺伝子の書き換えが進んでそのひとが普段の習慣としてとっていた行動を反芻するようになる。 やがて髪が歯が抜けて、自己治癒が困難なレベルにまで壊死が進行する。 晩期ステージになると肉体の腐敗が始まる。 そうなると、もはや生ける屍だ。 抗体を打ったところで助かる見込みはないだろう。 彼の状態は、中期ステージに入ったばかりと見ていいだろう。 活動量が極端に少ない生活を送っていたからか、外を徘徊している感染者に比べてステージの進行が遅かったようだ。 探せば彼のような軽症の人間もまだどこかにいるかもしれないな」

 一頻り身体を調べてから、父さんはポケットから注射器を取り出す。
 俺たちが普段使ってる、ゾンビ化ウイルスの抗体の試薬だ。
 父さんはあおちゃんの白い首にそれを打つ。
 内筒の中の透明な液体が、ゆっくりとあおちゃんの身体に打ち込まれていく。

「今はこの処置で精一杯だ。 これで少しでもウイルスの進行を遅らせてやれればいいんだが」

「父さん、あおちゃんは助かるの?」

「……帰って抗体薬の開発を急ごう」

 父さんは、あおちゃんが助かるとは言ってくれなかった。
 でも、助からないとも言わなかった。
 その優しい沈黙に、俺は勝手に期待する。
 父さんが抗体薬さえ完成させれば、きっと俺も父さんもあおちゃんもまだ助かるって。
 あおちゃんはまだ何もないところで荷物の運び入れを続けてる。
 そんなあおちゃんをその場に残して、俺は先に帰る父さんを小走りで追って、シェルターに戻った。