「あおちゃーん! ジャーン、見てこれ!」

 そう言って明人がお披露目してくれたのは、普通の自転車だった。
 シルバーの塗装で前かごのついた、27インチのどこにでもありそうな自転車だ。

「どうしたんだ、それ」

「駅前に停めてあるのパクってきた。 チャリなら余計な燃料使わずに遠出できるよね。 これでさ、海行こ海!」

「海ィ?」

「そ! 魚とか釣りに行こ!」

 なんでも、昨日図書館で読んだサバイバル本に魚の捌き方が載ってたから早速実践してみたいらしい。

「内臓を取り出してね、身に塩を詰めるとかなり保存が利くって書いてあったんだ。 鳥とか野生の動物を狩るよりかは魚の方がいくらか抵抗ないし、上手くいけば食糧問題は解決かも」

 明人は自転車の荷台に俺を乗せると、意気揚々とペダルを漕ぎ出した。
 男ふたり分の体重を想定して作られてない自転車は、出だしこそ歩みが重かったものの、二回、三回と漕いでる内にするすると前に推進していく。
 ぐらついてたハンドル捌きもすぐにかじが取れるようになって、自転車はどんどん速度を増してった。
 
「スピード上げるから、しっかり掴まっておいてね」

「わ、わかった」

 俺は荷台に横座りしたまま明人のお腹に手を回して、背中にぎゅっとしがみついた。
 意外と広くてしっかりした背中に頬をくっつけると、明人の匂いがふわっと香る。
 ハッカと、ゾンビを焼いた時の臭い。
 この前ゾンビファイアーでいっぱいゾンビ焼いたから、臭いが随分服に染み付いちゃってるな。
 洗剤つけおきしたら臭いとれるかな。

「なんか、ドキドキするね」

「ん?」

「こんなにあおちゃんとくっつくの初めてかも。なんか俺たち通学中のカップルみたいだね」

「な、なに言ってるんだよっ。チャリのふたり乗りなんか、友達同士でもするだろっ」

「それもそうか。 へへへ」

 道中高速道路に入ったところで交代して、今度は俺がひたすらペダルを漕ぐ。
 が、すぐに力尽きてまた交代。
 坂道は登りがきつそうだけど、明人が頑張って立ち漕ぎして登りきって、下り道はボーナスタイムだ。
 信号なんか無視でシャーッて軽快に車輪が滑り降りていくの、涼しい風が全身を通り抜けていく感覚が気持ちいい。
 そうやってたまに運転を交代しながら二時間半くらい漕いでたら、防波堤が見えてきた。
 磯の香りと湿気を孕んだむず痒い空気が、目的地がもう目と鼻の先だって教えてくれる。

「海だ!」

 遠くに見える水平線を指差して、やがて明人がはしゃいだ声を上げた。
 ザザン、と寄せては返す波の音。
 道の端に自転車を停めてから、俺たちはテトラポットで厳重に囲われた段差を乗り越え波止場に向かう。
 波は穏やかで、この辺はあんまりゾンビはいないみたい。
 いたとしても、多分波に拐われてみんなそのままどっかいっちゃったんだろうな。
 腐敗臭はするから、市場には漁師ゾンビが残ってるのかも。 
 それから、足元には──

「にゃあ」

 あ、猫!
 テトラポットの隙間で、汚れた毛並みのサビ猫がピチャピチャって何かを食べてる。

「かわいい! 撫でれないかな?」

 もっと近くに寄ってみようと覗き込んで、ぎょっとした。
 その毛の塊は、全身が疥癬にかかったみたいにボロボロで、目玉は眼窩から外れて細い神経が紐みたいに釣り下がってる。
 これ、猫じゃなくて猫ゾンビだ!
 しかも食べてるのは、ウミネコの死体だ。

「人間だけじゃなくて、動物もゾンビウイルスに感染するんだ」
 
 そういえばその辺のカラスとか、あんまり姿は見かけないけど近所に住んでるペットももしかしてゾンビになってるのかな?
 だったら魚もゾンビになってるんじゃないか?
 もしそうなら、釣った魚を捌いて食糧にするのは難しそう。

「うーん、でもさ、一応確認のために釣りしようよ。 ほら、海の中だから魚は感染免れてるかもじゃん」

 謎の押しの強さで明人に勧められ、俺たちは波止場の近くの釣具屋に入る。
 カウンターに座ってカクッカクッと歴史の授業中に居眠りを堪える生徒みたいに首を上下させてる釣具屋ゾンビの傍ら、釣竿とルアーとバケツを拝借。
 一式の道具を持って磯に戻ると、さっそく岩場に腰掛けて釣り糸を垂らした。
 何気に釣りって初めてなんだけど、これで合ってるのかな?
 ゆったりと、しかし絶えず波打っては沫立つ紺色の海面を注視してみるけど、今のところ魚影らしきものは見当たらない。
 ほんとに魚いるのかな?
 隣で糸を垂らす明人の横顔は真剣そのもので、なんとなく俺も気を引き締めて竿の握り柄に集中する。
 ……改めて見ると、やっぱりかっこいいなこいつ。
 ただ釣竿持って立ってるだけでサマになってるというか。
 ゾンビ禍前、絶対クラスの女子がほっとかなかったと思う。
 ふたりしてじーーーーっと石になったみたいにその場から動かない。
 このまま何十年、何百年、何億年動かないまま、いつのまにか本物の石になって、身体中が苔むして緑色になって……ってのはさすがに言い過ぎだけど、それくらい動かない。
 駄目だ、集中力が続かない。
 何か雑談してないと、眠くなって海に落っこちちゃいそうだ。

「明人って俺のどこが好きになったの?」

 ボチャン!
 聞いた途端、明人は持ってた釣り竿を海に落としてしまった。

「え? 今そういうこと聞いちゃう?」

「なんか駄目だった?」

「駄目っていうか……そういう話はさ、そういう雰囲気のときにするもんじゃんフツー……」

 明人はマスクで顔を隠しながら、何やらごにょごにょとぼやきつつも、「昔さ」と話し始めた。

「俺、鍵っ子だったでしょ? 父さんはリモートワークでなるべく家に居てくれてたけど、何日も部屋に籠りっぱなしの時の方が多かったからうちの玄関はいつも鍵が閉まってて。 家事代行のひとも俺が学校が終わる前には任されてる仕事全部終えて帰っちゃってるから、家ではずっとひとりでさ。 そんな時、あおちゃんが『うちくる?』って声かけてくれたんだよね」

 「覚えてる?」って明人は困ったみたいに眉尻を下げてこっちに視線をやる。
 ぼんやりとは覚えてる。
 ていうかおじさん家に居たんだな。
 鍵持ってたから、てっきり誰もいないものだとばっかり思ってた。
 それで、幼心に俺より小さい子がひとりでお留守番なんて可哀想だなって……。

「って、まさかそんなことで?」

「俺にとっては『そんなこと』じゃなかったんだよ。 嬉しかったな。 引っ越してきたばっかで他に知り合いとか友達とかいなかったから。 一緒にゲームしたり、アニメ観たりしたよね。 あおちゃんが傍に居てくれたから、俺はちっとも寂しくなかったんだよ」

 波止場で体育座りした明人が、こっちを見て目を細めて笑ってる。

「だから、今度は俺があおちゃんの力になれたらなって思ってる。 あおちゃんがひとりぼっちで辛い気持ちにならなくても済むようにね」

 まるで眩しいものでも見るみたいに黒目をきらきらさせて。
 ……ああ、綺麗だな。
 明人はなんて綺麗な生き物なんだろう。
 こんな澄んだ目でまっすぐに見詰められたこと、今まで生きてきた中で一度もない。
 俺なんか、たまたま隣に住んでたって理由だけで声をかけただけなのに。
 明人みたいな明るくて面白いやつ、俺がいなくたってすぐに周りにひとが集まって人気者になってただろうに。

「……他に、好きな子とかできなかったの? お前モテそうだし、ほら、告白とかされたり……」

「そんなのいないよ。 いたとしても断ってたよ。 だって俺が好きなのはあおちゃんなんだもん」

 それなのに、お前は俺のことを好きだって、必要だって思ってくれるのか。
 こんなにも綺麗な好意、本当に俺が受け取ってしまってもいいんだろうか。
 本当に、こんな俺が……

「あ、あおちゃん! 竿、竿!」

「へっ?」

「引いてる! 引いてるよ!」

「あっ! うわわ、これどうすりゃいいんだ!?」

「リール巻き上げて!」

 慣れない手つきでリールを巻き上げ思いっきり竿先を振り上げる。
 バシャッと糸に釣られて海面から跳ね上がったのは魚……の骨!?
 釣り上げた魚の骨は、俺たちの足元でびちびちと元気良く尾で地面を叩いてる。
 これは、えーと……

「魚のゾンビだ。 泳いでるうちに腐って柔らかくなった肉が骨から剥がれ落ちちゃったんだよきっと」

 ってことは、やっぱり海の中の生き物たちもみんなゾンビになっちゃってるのか。
 これを食べるのは……不可能というほどでもないと思うけど、ちょっと抵抗あるかな。
 どうしたものかと明人と顔を見合わせる。
 と、そこへ猫ゾンビが飛び込んできて、横から骨魚を咥えてかっ浚った。

「あ」

 ゾンビ猫は素早い身のこなしでまたテトラポットの隙間に逃げ込んで、また姿が見えなくなる。
 俺たちにとっては残念な戦果でも、ゾンビ猫にとってはご馳走だったらしい。

「魚は諦めるか」
 
「あーあ、解体の練習したかったのに」

「いいじゃん、猫ちゃんのご飯にはなったんだから」

 来た時同様に自転車に股がり、俺たちは帰路につく。
 西陽を溶かしていく赤い海に背に向けると、どこからともなくニャアンと鳴き声が聞こえた。