季節は過ぎて、十二月。
秋は駆け足で過ぎ去っていき、さすがにコートがないと厳しい季節になってきた。もう少しすれば雪だって降り出すだろう。
そんな中、おれは珍しくも、昼休みに職員室を訪ねていた。
「……ど、どうでしたか、先生……!」
「ううむ……」
おれの目の前では、山本先生が難しい顔をして一枚の紙をじっと見つめている。先週受けたばかりの、振り分けテストの結果表である。
文化祭が終わってすぐ、おれは特進クラスへ進みたいと山本先生に相談した。
優等生の慧は二つ返事で特進クラスへの進級が許可されたけれど、入学試験も一学期目もそこそこの成績だったおれは、進級の条件を二つ課された。
一つ目は二学期目のあらゆるテストで好成績を残すこと。そして二つ目は振り分けテストに合格することだ。
そういうわけで、おれはこの二か月というもの、小テストも頑張り、中間テストも頑張り、期末テストも頑張った。頑張りすぎて犬養さんたち『いぬかいの小屋』のスタッフに心配される程度には、死ぬ気で勉強を頑張った。振り分けテストに至っては、慧に頼み込んで付きっ切りで勉強を見てもらったほどだ。
どうにかこうにか成績をキープし続けた今、おれの特進クラスへの進級許可が下りるかどうかは、この振り分けテストの結果に掛かっていた。
「春日井のテスト結果だが――」
山本先生は焦らしに焦らす。
――どっちだ。どっちなのだ。
どきどきしながら待っていると、山本先生はパッと顔を上げて、にっこりと破顔した。
「全科目九十点を超えている。かなり頑張ったな! おめでとう。合格だ。特進クラスに進めることになったぞ!」
「本当に⁉ 本当ですか⁉ やったー!」
山本先生と握手をし合って喜び合う。
ひとしきり褒めてもらって満足したところで、おれは飛び出すように職員室をあとにした。
走らないぎりぎりの速度で教室に戻ったおれは、中に飛び込むなり、教壇周りで雑談していた慧を見つけて、体当たりする勢いで飛びついた。
「――受かったぞ!」
ぐらりとよろけつつもおれを抱き留めた慧は、ほっとしたように「良かったな」と微笑んだ。
「もっと何かないのか、慧」
「あれだけやったんだから受かって当然だ」
「そうだけどさあ。……まあいいや! これで来年も一緒だな!」
慧が「痛い」と呻くのを聞き流しつつじゃれついていると、横から「おめでと〜」と気の抜けた声が割って入ってくる。
見れば、二人揃ってもこもことしたカーディガンを着た坂上と中野が、苦笑しながらこちらを見つめていた。
「すごいじゃ〜ん! 本当に特進上がっちゃうとは思わなかったぁ」
「本当にね。おめでとう。……ちょうど良かった。今秋月くんにも聞いてたんだけど、春日井もスキー旅行、一緒に来ない?」
いきなり何の話だ。目だけで説明を求めると、慧は短く経緯を教えてくれた。
「クリスマス前にクラスの有志で集まって、近くのスキー場に行くらしい。十人以上だと団体割引が使えるから、俺たちもどうかって」
「まだ十二月だぞ。滑れるくらい雪あんのか?」
「スキー場が開いてるってことは、あるんじゃないのか」
そういうものかと思いつつ、おれは「楽しそうじゃん!」と返事をする。
「じゃあ、参加ね。春日井くんが来るなら、秋月くんも参加でいいよね?」
慧が頷くと、中野は満足そうに口角を上げた。
「オッケー。あとでフォーム送っておくから、親に同意のサインもらっておいてね」
さくさく告げて、中野は「春秋コンビ釣れたよ」と女子たちに声を掛けに行く。
釣れたってなんだ、釣れたって。
釈然としない気持ちで中野を見送っていると、おれの心を読んだかのように、坂上がくすくすと笑いをこぼす。
「春日井くんが来れば秋月くんも来るでしょ〜? 海老で鯛を釣るってやつだよぉ」
「おれは海老かよ」
「いいじゃ〜ん。海老はおいしいし!」
うんうんと満足そうに頷きつつ、坂上はちらりとイタズラっぽい視線を寄越す。
「それにさぁ、追いかけっこしてた時より、セットでついてきてくれる方が、春日井くんだって嬉しいんじゃないの〜?」
「……それはそう!」
「正直〜! 仲直りできてよかったねぇ。さてさて、そんなセット営業のお二人は、今日はどちらで特進合格のお祝いをされるんですかぁ?」
丸めたノートをマイク代わりにして、坂上は茶番を仕掛けてくる。
答えようとした瞬間、坂上は「あ〜! 言わずとも分かってますぅ」と遮ってきた。答えて欲しいのか欲しくないのかどっちなんだ。
「当ててあげようかぁ。今日も『いぬかいの小屋』でお散歩ボランティアでしょ〜」
「残念。今日はボランティアはしないんだ。結果が出た日くらいゆっくりお祝いしたらどうかって、犬養さんが言ってくれたからな」
「えぇ〜?」
坂上が不服そうに唇を尖らせる。
おれの横から、慧はフォローするように言葉を足した。
「ボランティアはしないけど、『いぬかいの家』には行くよ。里親候補さんの家にトライアルに行ってた子が、正式に引き取られることになったらしいから。最後の見送りに行こうと思ってるんだ」
「もしかして、文化祭に来てたチワワちゃん? 引き取り先が見つかったんだぁ! 良かったね〜! どんな人? 大丈夫そうな人だった?」
にこにこと問いかけてくる坂上に、おれと慧は力強く頷いた。
大丈夫も大丈夫に決まっている。チワワのモクレンちゃんの里親に決まった人は、おれたちが知っている中で、多分一番モクレンちゃんを大切にしてくれるだろう人だから。
「ばっちり。きっとモクレンちゃんも幸せに暮らせるよ」
おれの言葉を聞いて、にひひと坂上は笑みを深める。
「今日は良いこといっぱいだねぇ。じゃあ、そのチワワちゃんをお見送りして、夜はそのままお祝いって感じ〜?」
その言葉に、おれは慧をちらりと見上げた。
特に約束はしていない。していないけれど――。
教壇の陰で、おれは誘うように慧の指へと指を絡めた。慧は一度だけ瞬きをして、ほんのわずかに口角を上げる。
「……たまには家に来るか? 光太」
白々しい響きで慧が言う。見えない位置で一瞬だけおれの指先をくすぐって、慧の指は淡い熱を残して離れていく。
「そうだな。久しぶりに遊び倒そうか!」
つい数ヶ月前までだったら、多分おれはこうやって返していただろう。昔の自分の思考をなぞって、おれはいつも通りのフリをする。
おれの言葉は周りにおかしく聞こえていないだろうか。浮ついた気持ちが透けて見えてやいないだろうか。考えるとそわそわするけれど、澄ました顔で慧も同じような思いを抱えているかと思うと、そんな心配事さえ楽しくなった。
「仲良きことはよきことかな〜」
のんびりと言う坂上の声を聞きながら、おれたちはいつも通りに言葉を交わす。
昼下がりが穏やかに過ぎていく。
おれと慧の関係がほんの少しだけ変わってから早数月。世界は相変わらず色鮮やかなままだった。
🦮 🐩 🦮
放課後が来るや否や、いつも通りおれたちは『いぬかいの小屋』に顔を出した。
受付にいた榊のおばちゃんが、おれたちの顔を見るなり、立ち上がって近づいてくる。
「こんにちは、光太くん、慧くん。振り分けテストはどうだった? その顔、良いことがあったんでしょう」
さあさあ聞かせてと迫ってくる榊のおばちゃんに、おれはグッドマークを掲げてみせる。
「合格でした!」
「良かったねえ!」
にこりと榊のおばちゃんは破顔した。
「ふたりで頑張った甲斐があったじゃないの。これで光太くんと慧くんは、来年も来来年も同じクラスってことねえ」
慧くんも嬉しいね、とまるきりおれたちが小学生だったころと同じ声の掛け方をしつつ、榊のおばちゃんはいそいそとおれたちを手招きする。
「さ、行きましょうか。モクレンちゃんの譲渡契約、ちょうどさっき済んだところなの。みんなドッグランの方で待ってるよ」
慣れ親しんだ『いぬかいの小屋』のスタッフさんたちと連れ立って、おれたちはぞろぞろとドッグランに向かっていく。
今日はいわばモクレンちゃんの卒業式だ。保護犬が新しい家に旅立つ時には、こうしてスタッフたちで集まって、最後に写真を撮るのが『いぬかいの小屋』の慣例だった。おれたちはスタッフではないけれど、モクレンちゃんとは何かと縁があったから、今日は特別に参加させてもらうことにしたのだ。
「やあ、みんな来たね」
にこにこと迎えてくれた犬養さんは、「おや、光太くんと慧くんのその顔は――」とわざとらしく片眉をぴくりと上げる。そんな犬養さんに、おれは意気揚々と結果報告をした。
「合格でしたよ! おれも慧と一緒に来年から特進クラスに入れます」
「すごいじゃないか! 二人ともこの一年、すごく頑張っていたもんねえ。良かった良かった」
犬養さんに褒められてはしゃいでいると、周りの犬たちもなんだなんだとばかりに寄ってくる。
詳しい事情は分からなくても、こちらが喜んでいると一緒に盛り上がってくれるのが犬という生き物だ。にっこりと笑う花子を筆頭として、周りの犬たちもぶんぶんと尻尾を振っては、楽しそうに辺りを回ってくれた。
体当たりを仕掛けてくる犬たちを宥めていると、スーツ姿の男性がひとり、そっとおれたちの方へと近づいてくる。
「春日井くん、秋月くん。お久しぶりです」
「朝倉さん! こんにちは」
普段は散歩ボランティア専門の朝倉さんは、今日は大切そうにモクレンちゃんを腕に抱えていた。何を隠そう、この朝倉さんこそがモクレンちゃんの里親だった。
九月の文化祭で、モクレンちゃんの里親候補の振る舞いを目の当たりにした朝倉さんは、あの後心境の変化があったらしい。家族と相談して、お試し同居ことトライアル期間もしっかりと取った上で、モクレンちゃんを引き取ることを決めたのだという。
「朝倉さんが飼い主なら、モクレンちゃんも安心っすね」
「俺もそう思います。モクレンちゃん、見ない間に毛艶もすごく良くなってますし」
モクレンちゃんを覗き込み、おれと慧が口々に言うと、朝倉さんは照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとう。モクレンちゃんを幸せにできるように頑張りますよ。うまくお世話してあげられるか、少し不安ですけどね」
「絶対大丈夫っすよ。朝倉さんは前にもチワワを飼ってたんでしょう?」
はじめて朝倉さんと話したとき、以前も白いチワワを飼っていたと言っていた。その時のことを思い出し、そういえば、とおれは首を傾げる。
「前は新しい子を飼う踏ん切りがつかないって言ってましたよね。どうしてモクレンちゃんを引き取ろうと思ったんですか?」
おれが尋ねると、朝倉さんはぱちぱちと瞬きをしたあとで、にこりと笑っておれを見た。
「春日井くんのおかげですよ」
「おれですか?」
何かしたっけと首を捻りつつ、おれは自分の顔を指差しながら聞き返す。
朝倉さんはにこやかに頷いた。
「文化祭の日、春日井くん、秋月くんを探して一生懸命走っていたでしょう? あの時の春日井くんに、勇気をもらったんです。その……あの時のふたりは、多分、喧嘩をしていたんですよね」
「あ、ああ、見てたんですね」
おれと慧は決まり悪い思いで小さくなる。ちょっとした行き違いで気まずくなっていただけなのに、あの時は周りに散々気を使わせてしまった。
「春日井くんのね、『どうしたらいいか分からないけど、このままじゃ嫌だから』と言って走っていく姿が……なんて言うんでしょう。すごく眩しく見えたんです。完璧なやり方とか、一番良いタイミングとか、待っていたらきりがありませんもんね。尻込みしている間に、不格好でも何かをしてみる方が、ずっと意味があるのかなって思ったんです」
真剣な顔で語ったあとで、朝倉さんはハッとしたように頭を振った。
「いや、不恰好というのは失礼な言い方でした……! ごめんね。つまりその、若いころを思い出したと言いますか、うまくできないこともあるかもしれないけど、自分もやってみようって思えたんです。だから、モクレンちゃんと家族になれたのは、春日井くんのおかげです。ありがとう」
「いえいえ。なんか恥ずかしいですけど、知らないところでお役に立ててたなら、おれも走った甲斐がありました」
互いに照れ合いながら頭を下げていると、慧が「写真の準備、できたみたいですよ」と控えめに声を掛けてくる。
いつの間にやら犬養さんがドッグランの真ん中に陣取って、ぶんぶんと手を振っていた。
「みんな、集まってもらってもいいかな? ぎゅっと並んでくださいね」
犬養さんの声に従って、おれたちはモクレンちゃんと朝倉さんを囲むように並んでいく。
「タイマーをセットして、と」
カメラの撮影ボタンをそっと押して、犬養さんはわたわたとこちらへ駆け寄ってくる。
「はい。みんな、笑ってー」
三、二、一。
犬養さんのカウントに合わせて、おれたちはピースサインを顔の横に掲げた。
パシャリと控えめな音が鳴る。
冬のはじめの空気は澄んでいた。写真撮影なんて知ったこっちゃない犬たちが、賑やかにドッグランを駆け回る。
和やかな笑顔に囲まれて、こうしてモクレンちゃんは『いぬかいの小屋』を卒業していった。
🐕 🐩 🐕
モクレンちゃんを見送ったおれたちは、そのままの足で慧の部屋へと向かった。リビングで宿題をしている慧の弟妹たちに声を掛け、おれたちは何食わぬ顔で部屋の中へと引きこもる。
ぱたりと扉を閉ざした慧は、早々にカーテンを引いていた。そんな慧を尻目に、おれはぐるりと慧の部屋を見て回る。
「慧の部屋に来るの、夏休みの時以来だな」
相変わらずきれいに片付いている部屋を見渡して、おれは肩の荷が下りた気分で伸びをした。
何しろこの数か月間は勉強漬けの日々だった。おれたちがふたりで勉強するときには、いつも学校の自習室や図書室を使うことにしていたから、慧の部屋に来る機会もなかったのだ。勉強くらい互いの部屋でやってもいいような気もしたけれど、頑として慧が同意してくれなかった。
「ずっとテスト勉強、付き合ってくれてありがとうな、慧。何して遊ぶ? ゲーム? それとも動画――」
言いながら振り向いた瞬間、慧の顔が間近に見えた。
肩をそっと掴まれる。唇に慧の唇が軽く重なる。
首を傾げるようにして唇を離した慧は、照れくさそうに「全部、あとで」と呟いた。その表情も言い方も、あざといほどに魅力的だ。
体の奥がカッと燃えるように熱くなる。気づけばおれは、両腕を慧の首に回して、噛みつくように唇を合わせていた。
たまに休みの日に裏山に足を伸ばしては、木の影に隠れるようにして唇を合わせることは何度かあった。けれど、こうしてゆったりと触れ合うのは初めてだ。
慧の手がおれの背を抱く。おれは慧の後頭部を引き寄せる。そうしておれたちは、手探りのまま深く触れ合った。ずっとこうしていたいと思うくらいには幸せで、頭がふわふわとしてくるような時間を、思う存分満喫する。
トン、といつしか背中が壁についていた。ふらついた勢いのまま、おれたちはふたりでずるずると床に座りこむ。
わずかに弾んだ息を殺し、濡れた唇をぐいと拭う。
「……慧くんたら、情熱的~」
「光太だってやめなかったくせに」
赤みを増した慧の唇を横目で見て、おれはフンと照れ隠しに鼻を鳴らした。
「しょうがないだろ。久しぶりなんだから。……そりゃ、部屋に入れてくれないわけだよな」
「当たり前だ。勉強にならない。俺が何年、こうしたいって思ってたか知らないだろ」
「何年?」
「十三年」
おれが慧と出会ったのは三歳の時のはずだから、つまり出会ったときからずっとということだ。
「それはさすがに盛りすぎだろ」
ちらりと慧の本棚に目を向ける。そこには小さなころから直近のものまで、ぽつぽつと写真が並べられていた。
一番古いものは、保育園の年少時代の写真だろうか。園児服を着たおれと慧が並んで映っている。
おれの視線を追った慧は、写真を見つめて、懐かしそうに目を細めた。
「ずっと好きだったって言っただろ。初めて会ったときから、ずっと光太のことが好きだったよ。俺を光太の特別にしてほしいって、ずっと思ってた」
「ずっと特別だったよ。今がもっと特別ってだけで」
「そっか。そうだな」
へにょりと幸せそうに微笑みながら、慧はゆっくりと語ってくれた。
「保育園に入ったのは、この町に引っ越してきてすぐのときだった。町も人も知らないものだらけで、嫌で嫌で仕方なかったよ」
「なんだこのクソ田舎って?」
「それもある」
おれたちは皮肉混じりに笑みを交わす。
育った田舎町に愛着はあるが、都会の話を聞くたび、別の国のように思える程度には、嫌なところも多いのだ。
「保育園も名古屋の園とは全然違ったし、なんでこんなところに来なきゃいけないんだって思ったな。まわりとも馴染めなくて、毎日ひとりで泣いてた気がするよ」
「そうだったか?」
気づいた時には一緒に遊ぶようになっていたので、おれはそこまで詳しく覚えていない。
首を傾げるおれに、「そうだよ」と慧は柔らかく頷いた。
「変えてくれたのは光太だ。俺のところに来て、話しかけてくれた。手を引いてくれた。光太といると、何でも楽しかった。何でもできそうな気がして……毎日が楽しみになった。あの時からずっと、光太は俺の光だよ」
「へへ……、大袈裟だな。でも、おれもそうだ。慧といると何でも楽しかったよ。もちろん、今も」
見つめ合って、手を握る。甘い空気はくすぐったいけれど、たまにはこういうのも悪くない。
もう一度唇を重ねようとしたその時、ガタリと下の階から音がした。
ふたり揃ってびくりと跳ねる。
しばらく経っても音が続かないことを確かめて、おれたちは同時に吹き出した。
「……ビビりすぎだろ、慧!」
「光太が言うか? 光太の驚きっぷりに驚いたよ、俺は」
「強がるなよな」
ひとしきり笑い転げたあとで、おれたちは深々とため息を吐いた。
「早く大学生になりたいなあ……」
おれがぼやくと、慧は神妙な顔で頷いた。
「そうだな。家じゃさすがにこれ以上できない」
「山でやるわけにもいかないしな」
「変な物買ったら一発でバレるし」
「ドラッグストアもコンビニも、店員が知り合いの親たちだからな……」
おれたちは肩を落として項垂れた。
もちろん健全に遊ぶのもいいけれど、恋人になったからには、ちょっとくらい恋人らしいことだってしてみたい。
「……旅行でも行くか? 夏になったら、オープンキャンパスに。役にも立つし、口実にもなる」
慧が悪だくみをするように、ぽつりと呟く。おれはがしりと慧の手を握って頷いた。
「いいな! モチベも上がりそうだし!」
オープンキャンパス。ふたりで遠出。考えるだけで楽しくなってくる。
直近ではクラスの連中とのスキー旅行もあるし、先のことを考えると楽しみが尽きない。
「大学に入ったらルームシェアしような、慧」
「まずは合格してからだ」
頑張ろうなと頷いて、おれたちは鼻先を合わせてじゃれ合った。
未来は未定。でもふたりなら、何があっても怖くない。
だっておれたちは、ふたりでいれば何でもできるのだから。
秋は駆け足で過ぎ去っていき、さすがにコートがないと厳しい季節になってきた。もう少しすれば雪だって降り出すだろう。
そんな中、おれは珍しくも、昼休みに職員室を訪ねていた。
「……ど、どうでしたか、先生……!」
「ううむ……」
おれの目の前では、山本先生が難しい顔をして一枚の紙をじっと見つめている。先週受けたばかりの、振り分けテストの結果表である。
文化祭が終わってすぐ、おれは特進クラスへ進みたいと山本先生に相談した。
優等生の慧は二つ返事で特進クラスへの進級が許可されたけれど、入学試験も一学期目もそこそこの成績だったおれは、進級の条件を二つ課された。
一つ目は二学期目のあらゆるテストで好成績を残すこと。そして二つ目は振り分けテストに合格することだ。
そういうわけで、おれはこの二か月というもの、小テストも頑張り、中間テストも頑張り、期末テストも頑張った。頑張りすぎて犬養さんたち『いぬかいの小屋』のスタッフに心配される程度には、死ぬ気で勉強を頑張った。振り分けテストに至っては、慧に頼み込んで付きっ切りで勉強を見てもらったほどだ。
どうにかこうにか成績をキープし続けた今、おれの特進クラスへの進級許可が下りるかどうかは、この振り分けテストの結果に掛かっていた。
「春日井のテスト結果だが――」
山本先生は焦らしに焦らす。
――どっちだ。どっちなのだ。
どきどきしながら待っていると、山本先生はパッと顔を上げて、にっこりと破顔した。
「全科目九十点を超えている。かなり頑張ったな! おめでとう。合格だ。特進クラスに進めることになったぞ!」
「本当に⁉ 本当ですか⁉ やったー!」
山本先生と握手をし合って喜び合う。
ひとしきり褒めてもらって満足したところで、おれは飛び出すように職員室をあとにした。
走らないぎりぎりの速度で教室に戻ったおれは、中に飛び込むなり、教壇周りで雑談していた慧を見つけて、体当たりする勢いで飛びついた。
「――受かったぞ!」
ぐらりとよろけつつもおれを抱き留めた慧は、ほっとしたように「良かったな」と微笑んだ。
「もっと何かないのか、慧」
「あれだけやったんだから受かって当然だ」
「そうだけどさあ。……まあいいや! これで来年も一緒だな!」
慧が「痛い」と呻くのを聞き流しつつじゃれついていると、横から「おめでと〜」と気の抜けた声が割って入ってくる。
見れば、二人揃ってもこもことしたカーディガンを着た坂上と中野が、苦笑しながらこちらを見つめていた。
「すごいじゃ〜ん! 本当に特進上がっちゃうとは思わなかったぁ」
「本当にね。おめでとう。……ちょうど良かった。今秋月くんにも聞いてたんだけど、春日井もスキー旅行、一緒に来ない?」
いきなり何の話だ。目だけで説明を求めると、慧は短く経緯を教えてくれた。
「クリスマス前にクラスの有志で集まって、近くのスキー場に行くらしい。十人以上だと団体割引が使えるから、俺たちもどうかって」
「まだ十二月だぞ。滑れるくらい雪あんのか?」
「スキー場が開いてるってことは、あるんじゃないのか」
そういうものかと思いつつ、おれは「楽しそうじゃん!」と返事をする。
「じゃあ、参加ね。春日井くんが来るなら、秋月くんも参加でいいよね?」
慧が頷くと、中野は満足そうに口角を上げた。
「オッケー。あとでフォーム送っておくから、親に同意のサインもらっておいてね」
さくさく告げて、中野は「春秋コンビ釣れたよ」と女子たちに声を掛けに行く。
釣れたってなんだ、釣れたって。
釈然としない気持ちで中野を見送っていると、おれの心を読んだかのように、坂上がくすくすと笑いをこぼす。
「春日井くんが来れば秋月くんも来るでしょ〜? 海老で鯛を釣るってやつだよぉ」
「おれは海老かよ」
「いいじゃ〜ん。海老はおいしいし!」
うんうんと満足そうに頷きつつ、坂上はちらりとイタズラっぽい視線を寄越す。
「それにさぁ、追いかけっこしてた時より、セットでついてきてくれる方が、春日井くんだって嬉しいんじゃないの〜?」
「……それはそう!」
「正直〜! 仲直りできてよかったねぇ。さてさて、そんなセット営業のお二人は、今日はどちらで特進合格のお祝いをされるんですかぁ?」
丸めたノートをマイク代わりにして、坂上は茶番を仕掛けてくる。
答えようとした瞬間、坂上は「あ〜! 言わずとも分かってますぅ」と遮ってきた。答えて欲しいのか欲しくないのかどっちなんだ。
「当ててあげようかぁ。今日も『いぬかいの小屋』でお散歩ボランティアでしょ〜」
「残念。今日はボランティアはしないんだ。結果が出た日くらいゆっくりお祝いしたらどうかって、犬養さんが言ってくれたからな」
「えぇ〜?」
坂上が不服そうに唇を尖らせる。
おれの横から、慧はフォローするように言葉を足した。
「ボランティアはしないけど、『いぬかいの家』には行くよ。里親候補さんの家にトライアルに行ってた子が、正式に引き取られることになったらしいから。最後の見送りに行こうと思ってるんだ」
「もしかして、文化祭に来てたチワワちゃん? 引き取り先が見つかったんだぁ! 良かったね〜! どんな人? 大丈夫そうな人だった?」
にこにこと問いかけてくる坂上に、おれと慧は力強く頷いた。
大丈夫も大丈夫に決まっている。チワワのモクレンちゃんの里親に決まった人は、おれたちが知っている中で、多分一番モクレンちゃんを大切にしてくれるだろう人だから。
「ばっちり。きっとモクレンちゃんも幸せに暮らせるよ」
おれの言葉を聞いて、にひひと坂上は笑みを深める。
「今日は良いこといっぱいだねぇ。じゃあ、そのチワワちゃんをお見送りして、夜はそのままお祝いって感じ〜?」
その言葉に、おれは慧をちらりと見上げた。
特に約束はしていない。していないけれど――。
教壇の陰で、おれは誘うように慧の指へと指を絡めた。慧は一度だけ瞬きをして、ほんのわずかに口角を上げる。
「……たまには家に来るか? 光太」
白々しい響きで慧が言う。見えない位置で一瞬だけおれの指先をくすぐって、慧の指は淡い熱を残して離れていく。
「そうだな。久しぶりに遊び倒そうか!」
つい数ヶ月前までだったら、多分おれはこうやって返していただろう。昔の自分の思考をなぞって、おれはいつも通りのフリをする。
おれの言葉は周りにおかしく聞こえていないだろうか。浮ついた気持ちが透けて見えてやいないだろうか。考えるとそわそわするけれど、澄ました顔で慧も同じような思いを抱えているかと思うと、そんな心配事さえ楽しくなった。
「仲良きことはよきことかな〜」
のんびりと言う坂上の声を聞きながら、おれたちはいつも通りに言葉を交わす。
昼下がりが穏やかに過ぎていく。
おれと慧の関係がほんの少しだけ変わってから早数月。世界は相変わらず色鮮やかなままだった。
🦮 🐩 🦮
放課後が来るや否や、いつも通りおれたちは『いぬかいの小屋』に顔を出した。
受付にいた榊のおばちゃんが、おれたちの顔を見るなり、立ち上がって近づいてくる。
「こんにちは、光太くん、慧くん。振り分けテストはどうだった? その顔、良いことがあったんでしょう」
さあさあ聞かせてと迫ってくる榊のおばちゃんに、おれはグッドマークを掲げてみせる。
「合格でした!」
「良かったねえ!」
にこりと榊のおばちゃんは破顔した。
「ふたりで頑張った甲斐があったじゃないの。これで光太くんと慧くんは、来年も来来年も同じクラスってことねえ」
慧くんも嬉しいね、とまるきりおれたちが小学生だったころと同じ声の掛け方をしつつ、榊のおばちゃんはいそいそとおれたちを手招きする。
「さ、行きましょうか。モクレンちゃんの譲渡契約、ちょうどさっき済んだところなの。みんなドッグランの方で待ってるよ」
慣れ親しんだ『いぬかいの小屋』のスタッフさんたちと連れ立って、おれたちはぞろぞろとドッグランに向かっていく。
今日はいわばモクレンちゃんの卒業式だ。保護犬が新しい家に旅立つ時には、こうしてスタッフたちで集まって、最後に写真を撮るのが『いぬかいの小屋』の慣例だった。おれたちはスタッフではないけれど、モクレンちゃんとは何かと縁があったから、今日は特別に参加させてもらうことにしたのだ。
「やあ、みんな来たね」
にこにこと迎えてくれた犬養さんは、「おや、光太くんと慧くんのその顔は――」とわざとらしく片眉をぴくりと上げる。そんな犬養さんに、おれは意気揚々と結果報告をした。
「合格でしたよ! おれも慧と一緒に来年から特進クラスに入れます」
「すごいじゃないか! 二人ともこの一年、すごく頑張っていたもんねえ。良かった良かった」
犬養さんに褒められてはしゃいでいると、周りの犬たちもなんだなんだとばかりに寄ってくる。
詳しい事情は分からなくても、こちらが喜んでいると一緒に盛り上がってくれるのが犬という生き物だ。にっこりと笑う花子を筆頭として、周りの犬たちもぶんぶんと尻尾を振っては、楽しそうに辺りを回ってくれた。
体当たりを仕掛けてくる犬たちを宥めていると、スーツ姿の男性がひとり、そっとおれたちの方へと近づいてくる。
「春日井くん、秋月くん。お久しぶりです」
「朝倉さん! こんにちは」
普段は散歩ボランティア専門の朝倉さんは、今日は大切そうにモクレンちゃんを腕に抱えていた。何を隠そう、この朝倉さんこそがモクレンちゃんの里親だった。
九月の文化祭で、モクレンちゃんの里親候補の振る舞いを目の当たりにした朝倉さんは、あの後心境の変化があったらしい。家族と相談して、お試し同居ことトライアル期間もしっかりと取った上で、モクレンちゃんを引き取ることを決めたのだという。
「朝倉さんが飼い主なら、モクレンちゃんも安心っすね」
「俺もそう思います。モクレンちゃん、見ない間に毛艶もすごく良くなってますし」
モクレンちゃんを覗き込み、おれと慧が口々に言うと、朝倉さんは照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとう。モクレンちゃんを幸せにできるように頑張りますよ。うまくお世話してあげられるか、少し不安ですけどね」
「絶対大丈夫っすよ。朝倉さんは前にもチワワを飼ってたんでしょう?」
はじめて朝倉さんと話したとき、以前も白いチワワを飼っていたと言っていた。その時のことを思い出し、そういえば、とおれは首を傾げる。
「前は新しい子を飼う踏ん切りがつかないって言ってましたよね。どうしてモクレンちゃんを引き取ろうと思ったんですか?」
おれが尋ねると、朝倉さんはぱちぱちと瞬きをしたあとで、にこりと笑っておれを見た。
「春日井くんのおかげですよ」
「おれですか?」
何かしたっけと首を捻りつつ、おれは自分の顔を指差しながら聞き返す。
朝倉さんはにこやかに頷いた。
「文化祭の日、春日井くん、秋月くんを探して一生懸命走っていたでしょう? あの時の春日井くんに、勇気をもらったんです。その……あの時のふたりは、多分、喧嘩をしていたんですよね」
「あ、ああ、見てたんですね」
おれと慧は決まり悪い思いで小さくなる。ちょっとした行き違いで気まずくなっていただけなのに、あの時は周りに散々気を使わせてしまった。
「春日井くんのね、『どうしたらいいか分からないけど、このままじゃ嫌だから』と言って走っていく姿が……なんて言うんでしょう。すごく眩しく見えたんです。完璧なやり方とか、一番良いタイミングとか、待っていたらきりがありませんもんね。尻込みしている間に、不格好でも何かをしてみる方が、ずっと意味があるのかなって思ったんです」
真剣な顔で語ったあとで、朝倉さんはハッとしたように頭を振った。
「いや、不恰好というのは失礼な言い方でした……! ごめんね。つまりその、若いころを思い出したと言いますか、うまくできないこともあるかもしれないけど、自分もやってみようって思えたんです。だから、モクレンちゃんと家族になれたのは、春日井くんのおかげです。ありがとう」
「いえいえ。なんか恥ずかしいですけど、知らないところでお役に立ててたなら、おれも走った甲斐がありました」
互いに照れ合いながら頭を下げていると、慧が「写真の準備、できたみたいですよ」と控えめに声を掛けてくる。
いつの間にやら犬養さんがドッグランの真ん中に陣取って、ぶんぶんと手を振っていた。
「みんな、集まってもらってもいいかな? ぎゅっと並んでくださいね」
犬養さんの声に従って、おれたちはモクレンちゃんと朝倉さんを囲むように並んでいく。
「タイマーをセットして、と」
カメラの撮影ボタンをそっと押して、犬養さんはわたわたとこちらへ駆け寄ってくる。
「はい。みんな、笑ってー」
三、二、一。
犬養さんのカウントに合わせて、おれたちはピースサインを顔の横に掲げた。
パシャリと控えめな音が鳴る。
冬のはじめの空気は澄んでいた。写真撮影なんて知ったこっちゃない犬たちが、賑やかにドッグランを駆け回る。
和やかな笑顔に囲まれて、こうしてモクレンちゃんは『いぬかいの小屋』を卒業していった。
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モクレンちゃんを見送ったおれたちは、そのままの足で慧の部屋へと向かった。リビングで宿題をしている慧の弟妹たちに声を掛け、おれたちは何食わぬ顔で部屋の中へと引きこもる。
ぱたりと扉を閉ざした慧は、早々にカーテンを引いていた。そんな慧を尻目に、おれはぐるりと慧の部屋を見て回る。
「慧の部屋に来るの、夏休みの時以来だな」
相変わらずきれいに片付いている部屋を見渡して、おれは肩の荷が下りた気分で伸びをした。
何しろこの数か月間は勉強漬けの日々だった。おれたちがふたりで勉強するときには、いつも学校の自習室や図書室を使うことにしていたから、慧の部屋に来る機会もなかったのだ。勉強くらい互いの部屋でやってもいいような気もしたけれど、頑として慧が同意してくれなかった。
「ずっとテスト勉強、付き合ってくれてありがとうな、慧。何して遊ぶ? ゲーム? それとも動画――」
言いながら振り向いた瞬間、慧の顔が間近に見えた。
肩をそっと掴まれる。唇に慧の唇が軽く重なる。
首を傾げるようにして唇を離した慧は、照れくさそうに「全部、あとで」と呟いた。その表情も言い方も、あざといほどに魅力的だ。
体の奥がカッと燃えるように熱くなる。気づけばおれは、両腕を慧の首に回して、噛みつくように唇を合わせていた。
たまに休みの日に裏山に足を伸ばしては、木の影に隠れるようにして唇を合わせることは何度かあった。けれど、こうしてゆったりと触れ合うのは初めてだ。
慧の手がおれの背を抱く。おれは慧の後頭部を引き寄せる。そうしておれたちは、手探りのまま深く触れ合った。ずっとこうしていたいと思うくらいには幸せで、頭がふわふわとしてくるような時間を、思う存分満喫する。
トン、といつしか背中が壁についていた。ふらついた勢いのまま、おれたちはふたりでずるずると床に座りこむ。
わずかに弾んだ息を殺し、濡れた唇をぐいと拭う。
「……慧くんたら、情熱的~」
「光太だってやめなかったくせに」
赤みを増した慧の唇を横目で見て、おれはフンと照れ隠しに鼻を鳴らした。
「しょうがないだろ。久しぶりなんだから。……そりゃ、部屋に入れてくれないわけだよな」
「当たり前だ。勉強にならない。俺が何年、こうしたいって思ってたか知らないだろ」
「何年?」
「十三年」
おれが慧と出会ったのは三歳の時のはずだから、つまり出会ったときからずっとということだ。
「それはさすがに盛りすぎだろ」
ちらりと慧の本棚に目を向ける。そこには小さなころから直近のものまで、ぽつぽつと写真が並べられていた。
一番古いものは、保育園の年少時代の写真だろうか。園児服を着たおれと慧が並んで映っている。
おれの視線を追った慧は、写真を見つめて、懐かしそうに目を細めた。
「ずっと好きだったって言っただろ。初めて会ったときから、ずっと光太のことが好きだったよ。俺を光太の特別にしてほしいって、ずっと思ってた」
「ずっと特別だったよ。今がもっと特別ってだけで」
「そっか。そうだな」
へにょりと幸せそうに微笑みながら、慧はゆっくりと語ってくれた。
「保育園に入ったのは、この町に引っ越してきてすぐのときだった。町も人も知らないものだらけで、嫌で嫌で仕方なかったよ」
「なんだこのクソ田舎って?」
「それもある」
おれたちは皮肉混じりに笑みを交わす。
育った田舎町に愛着はあるが、都会の話を聞くたび、別の国のように思える程度には、嫌なところも多いのだ。
「保育園も名古屋の園とは全然違ったし、なんでこんなところに来なきゃいけないんだって思ったな。まわりとも馴染めなくて、毎日ひとりで泣いてた気がするよ」
「そうだったか?」
気づいた時には一緒に遊ぶようになっていたので、おれはそこまで詳しく覚えていない。
首を傾げるおれに、「そうだよ」と慧は柔らかく頷いた。
「変えてくれたのは光太だ。俺のところに来て、話しかけてくれた。手を引いてくれた。光太といると、何でも楽しかった。何でもできそうな気がして……毎日が楽しみになった。あの時からずっと、光太は俺の光だよ」
「へへ……、大袈裟だな。でも、おれもそうだ。慧といると何でも楽しかったよ。もちろん、今も」
見つめ合って、手を握る。甘い空気はくすぐったいけれど、たまにはこういうのも悪くない。
もう一度唇を重ねようとしたその時、ガタリと下の階から音がした。
ふたり揃ってびくりと跳ねる。
しばらく経っても音が続かないことを確かめて、おれたちは同時に吹き出した。
「……ビビりすぎだろ、慧!」
「光太が言うか? 光太の驚きっぷりに驚いたよ、俺は」
「強がるなよな」
ひとしきり笑い転げたあとで、おれたちは深々とため息を吐いた。
「早く大学生になりたいなあ……」
おれがぼやくと、慧は神妙な顔で頷いた。
「そうだな。家じゃさすがにこれ以上できない」
「山でやるわけにもいかないしな」
「変な物買ったら一発でバレるし」
「ドラッグストアもコンビニも、店員が知り合いの親たちだからな……」
おれたちは肩を落として項垂れた。
もちろん健全に遊ぶのもいいけれど、恋人になったからには、ちょっとくらい恋人らしいことだってしてみたい。
「……旅行でも行くか? 夏になったら、オープンキャンパスに。役にも立つし、口実にもなる」
慧が悪だくみをするように、ぽつりと呟く。おれはがしりと慧の手を握って頷いた。
「いいな! モチベも上がりそうだし!」
オープンキャンパス。ふたりで遠出。考えるだけで楽しくなってくる。
直近ではクラスの連中とのスキー旅行もあるし、先のことを考えると楽しみが尽きない。
「大学に入ったらルームシェアしような、慧」
「まずは合格してからだ」
頑張ろうなと頷いて、おれたちは鼻先を合わせてじゃれ合った。
未来は未定。でもふたりなら、何があっても怖くない。
だっておれたちは、ふたりでいれば何でもできるのだから。
