夏休みも終わり、八月下旬。
久しぶりに会うクラスメイトたちとひと通り土産話を交換し、休み明けの課題テストも無事に終わった。午後のホームルームでテスト結果を受け取ったおれたちは、ひそひそと忙しなく互いの結果を確かめ合う。
「春日井くん、どうだったぁ?」
前の席から身を乗り出して、坂上がおれの手元を覗き込む。
やたらめったら科目数が多い定期考査と違って、課題テストは国数英理社の基本的な五科目だけだ。対策しやすかったこともあってか、普段は中の上あたりの成績をさまよっているおれも、今回ばかりはどれも八十点は超えていた。
鼻高々に結果を見せると、坂上は「うぇっ」とカエルが潰れたときのような声を上げた。
「すごっ! 四百点超えてる~!」
「うそ、春日井ってそういうキャラだった? 何したの?」
坂上の声に興味を引かれたのか、中野までもが寄ってきた。
「努力の成果だ! 今年の夏は勉強の夏にしたからな!」
「……ってことは、秋月くんはもっとヤバいってこと?」
「あ、たしかに~。秋月くん、どうだったぁ?」
興味津々といった様子で、中野と坂上は同時に慧へと目を向ける。
いそいそと身を乗り出した坂上は、おれにしたのと同じように、無遠慮に慧の手元を覗き込んだ。
「なるほどね~! 総合は秋月くんの方が高いけど、数学だけは春日井くんが上なんだぁ」
おれは舌打ちをしたい気分で慧を見た。いつも通りの澄まし顔が憎らしい。
頑張った数学で慧に勝てたのはスカッとしたけれど、あれだけ勉強してもほかはおれの負けらしい。面白くない気持ちにはなったが、やっぱり慧はすごいのだなあと思うと、誇らしくもある。
「ふたりでどんな勉強合宿してたの?」
中野が純粋な目で聞いてくる。おれと慧は、同時にふいと顔を背けた。
「合宿はしてない」
「え? でも、勉強の夏って言ったじゃん、今」
「おれはな。慧は慧で頑張ってたみたいだよ」
ちらりと慧に目を向ける。おれと目が合うなり、慧は柔らかく口角を上げた。
外行き用のお行儀の良い顔だ。落ち着かなくて、おれは思わず鼻先に皺を寄せる。
そんなおれたちを見て、中野と坂上は目を丸くした。
「……え、何。喧嘩でもしたの?」
「「してない」」
「絶対してるやつじゃん、それ」
呆れたように中野が突っ込んでくるが、喧嘩も何も、そもそも夏休みが明けてからこの三日間、おれは慧とろくに会話すらしていないのだ。行きの電車は一緒になるけれど、せいぜいテスト範囲の問題を出し合っていた程度だし、昼食と帰りに至っては、もはや完全に別である。
慧曰く、九月の文化祭に向けて、ここから先一か月は文化委員の仕事が忙しくなるらしい。委員会なんて入ってたかなとは思ったけれど、そういえば入学してすぐ、全員が何かしらの委員会に振り分けられていた覚えがあった。
一緒にボランティアに行ける時間が減るのは残念だけれど、本音を言うと、おれはちょっとだけほっとしてもいた。
慧の顔を見ると、なんとなく慧の部屋でされた鼻チューを思い出してしまって、落ち着かない気分になるのだ。おかしな動悸がして、まともに慧の顔を見ていられなくなる。あの日できなかった話をしようにも、言葉がうまく出てこない。
わいわいと女子たちをまじえて話していたその時、にゅっと山本先生が教室の扉から顔を出す。
「――ああ、秋月! まだ帰ってなかったか。例の件、主任に問い合わせてきたぞ。少し話せるか?」
「はい。大丈夫です」
……例の件?
席を立って出ていく慧をぼんやりと見送っていると、中野と坂上は気味の悪いものでも見るような目をおれに向けてきた。
「ねえ、何があったの?」
「だから、何もないって」
あったとすれば慧の方だ。夏期講習にひとりで行った時から始まって、ここ数日はいやに完璧な優等生面を見せている。
口を閉ざしたおれの前で、中野と坂上は困惑したように顔を見合わせた。
「……今週ずーっと、なんかよそよそしいと思ったんだぁ。テスト週間のせいじゃなかったんだねぇ」
「春日井が秋月くんに頼ってばっかりだから、お世話するのが嫌になっちゃったんじゃないの? 早く仲直りしなよ。後回しにすると、ずっと引きずるよ」
してない喧嘩をどう収めろというのか。
ため息を吐いたおれは、それ以上あれこれと言われるのが嫌で、女子たちの視線から逃げるように机に突っ伏した。そうこうしている間にだんだん眠くなってきて、うとうとしているうちに、教室にはほとんど人がいなくなっていた。
間もなくして、慧は教室に戻ってきたらしい。突っ伏し寝をしているおれを見て何を思ったのか、慧は何かを取り出すと、そっとおれの頭の隣にそれを置いていった。
「昼飯、パンひとつじゃ足りないに決まってるだろ」
笑い交じりにそう言って、慧はおれの頭をわしわしと撫でていく。
顔を上げると、目の前にはチョコバーとペットボトルのお茶が置かれていた。礼を言う間もなく、慧は「じゃ、また明日な」と言って委員会へと行ってしまう。
静かな教室の中で、おれは慧に乱された髪をのそのそと整えて、もそりとチョコバーに歯を立てた。
うまい。
うまいが、慧はおれをなんだと思っているのだ。別に腹が減って弱っていたわけではない。そもそも別々で食べていたはずなのに、弁当を忘れたおれが、今日の昼をパンひとつで適当に済ませたとなぜ知っているのか。
突っ込みたいところは色々あったけれど、慧がくれたドライフルーツとビスケットの入ったチョコバーは、間違いなくおれの一番好きな味だった。
「……レーズン、嫌いなくせに」
なんで自分で食いもしない菓子を持ち歩いているのだ。イケメンめ。
くしゃりと包み紙を握って、おれは再度机に突っ伏した。
おかしな動悸は一向に治まりそうにない。
🐕 🐩 🐕
課題テストが終わったあとは、九月祭こと穂波高校の文化祭がやってくる。
おれたちの高校では学年ごとに催し物が決められていて、食べ物を扱う模擬店は三年生、教室を使ったお化け屋敷や迷路などの企画ものは二年生だけに許される特権だ。一年生は一般客向けのキッズルームや町の歴史展など、真面目ぶった催し物で文化祭の名目を保つのが役割だった。
「――というわけで、うちのクラスは動物愛護に関する展示をすることになったぞ!」
心なしか弾んだ声でそう言って、山本先生はクラスのみんなを見渡した。
しかし悲しいかな、おれたちの反応は口が裂けても良いとは言えない。
「展示かあ。キッズルームが良かったなぁ」
「町の歴史展よりマシじゃね?」
「一年でも模擬店やらせて欲しいよねぇ。くじで出し物決められるんじゃ、テンション上がんないし」
ひそひそと囁く声がそこらかしこから聞こえてくる。しかし、そんな不満は予測済みとばかりに、山本先生はきらりと目を輝かせた。
「まあそう言わずに。写真や資料を壁に貼るタイプの展示じゃなくて、実際の動物保護活動を見せるような形でもいいんだぞ。過去には動物保護団体を実際に招いて、里親探しの手伝いをしたクラスもある。ご近所のボランティア活動に参加したことのある生徒も何人かいるだろう?」
山本先生は思わせぶりにおれへアイコンタクトを取ってきた。
「近くで動物保護活動をしている団体の名前は? 誰か分かるかな?」
誰かと言う割には、山本先生の視線はおれをまっすぐに見つめている。その圧に負けて、おれはしぶしぶ「いぬかいの小屋」と呟いた。
満足げに頷いて、山本先生はシェルターの名前を黒板にかつかつと書いていく。
「犬の保護活動をしている団体が『いぬかいの小屋』だな。もうひとつ、駅前にある『猫屋敷ペットクリニック』が猫の保護活動を行っている。今回はこのふたつの団体に協力していただくことになったから、みんな礼儀正しくするように」
かくして動物愛護というテーマを授かったおれたち一年B組は、一ヶ月という短い準備期間をフルに使って、文化祭の準備に奔走した。
色々と話し合った結果、文化祭当日には、動物保護団体の活動についての動画を作って展示代わりに置いておくほか、二つの動物保護団体を招いて、小規模な譲渡会をすることになった。
普段からボランティアをしている縁で、おれと慧は『いぬかいの小屋』との連絡役だ。
さっそく譲渡会の相談に行くと、犬養さんは「話は聞いているよ」と力強く頷いた。
「ありがたいねえ。穂波高校に行くのは久しぶりだ。三、四匹、連れて行こうか」
そう言うと犬養さんは、ここ最近シェルターへ保護されてきた子たちの名前を何匹か上げて、最後にチワワのモクレンちゃんが入ったケージをじっと見つめた。お散歩上がりのモクレンちゃんは、ダルそうに突っ伏して休憩中だ。
「モクレンちゃんも連れていくんですか?」
ちょうど散歩ボランティアに来ていた朝倉さんが、目を輝かせながら問いかける。
モクレンちゃんには、つい最近里親希望の申し込みが一件来たばかりだ。里親候補と顔合わせをするにはぴったりだろう。
予想通り、犬養さんは微笑みながら頷いた。
「そうですねえ。文化祭の時に一度、里親希望の方に顔合わせに来てもらえないか聞いてみましょうか」
「良かったです……! モクレンちゃん。里親候補さん、いい人だといいね」
嬉しそうに朝倉さんがモクレンちゃんに語り掛ける。ちろりと目を開けたモクレンちゃんは、しっぽだけで朝倉さんに返事をした。
🐕 🐩 🐕
文化祭の準備が順調に進む一方で、おれと慧の距離はちっとも元に戻らない。それどころか、日に日におかしくなっていた。
おれもおかしいが、慧も大概あちこちおかしい。今朝の電車もそうだった。
「今日、小テストだっけ。範囲、どこ?」
慧の腕に手を掛けて、おれは慧の手元を覗き込む。自分の単語帳を取り出すのが面倒だったから、慧のものを一緒に見ようと思っただけだ。
今まで何度もしてきたことのはずなのに、おれが身を寄せた途端、慧はあからさまに身を強張らせて固まった。
五分経っても一ページも進まないものだから、不審に思って横目で見上げると、こっちを向いた慧と、至近距離で目が合った。
「何だよ」
「何だろうな」
触れ合った肩が妙に熱く感じる。
なるほど慧が固まるわけだ。こんなのいつもやっていたことなのに、今はどうしてこの距離で慧と触れ合っていて平気だったのか、自分で自分が分からない。
――次は穂波駅、穂波駅。左側のドアが開きます。ご注意ください――。
のんびりとした車掌さんのアナウンスが流れてくる。同校生に「すみません」と声を掛けられ、おれたちは弾けるように距離を取る。
声を掛けられなかったら、おれたちは不自然に見つめ合ったままでいたかもしれない。
不自然と言えば、たまたま慧の委員会の用事がなかった日、一緒に中庭で昼飯を食べていたときもそうだ。
その日は午前に体育があったから、おれは腹が死ぬほど減っていた。弁当だけでは足りる気がしなかったので、購買でたこ焼きを買ってきた。その新味のマヨポンたこ焼きが意外とおいしかったものだから、慧にも分けてやりたくなったのだ。
「慧、あーん」
丁寧に弁当を食べている慧に声を掛け、慧が顔を上げた瞬間、おれは慧の口元にたこ焼きを押し付ける。
「……っ!」
「新味。うまいだろ」
慧のびっくりした顔が嬉しくて笑っていると、慧はもぐもぐとたこ焼きを咀嚼した後で、スッとティッシュを差し出してきた。
「うまいけど、マヨ、口の横についてるぞ」
犬たちを見るような優しい目で見られると、そわそわと落ち着かない気分になってくる。貰ったティッシュで唇の端を拭った後で、おれは照れ隠しついでにへらりと笑った。
「ありがとう。慧ってさあ、優しいよな」
今思うと、なぜそんなことをわざわざ言ってしまったのか分からない。夏休みからの文化祭準備と来て、慧と一緒に昼飯を食べるのはずいぶんと久しぶりだったから、浮かれていたのかもしれない。
「光太が色々やらかすから、気になるだけだよ」
「気にしてくれるのが優しいんじゃん。ありがとうな」
「……うん」
慧は照れたように視線を泳がせていて、それを見たおれも、なんだかちょっと気恥ずかしくなった。
そっと目を逸らし、おれたちは黙々とたこ焼きを食べ続ける。そんなおれたちを、近くで弁当を食べていた中野と坂上は白けた目で見つめていた。
「何なの? この間まで喧嘩してなかった?」
「ていうか、な〜んか空気が甘いんだよねぇ。付き合ってる~?」
ぴくりと慧が肩を揺らす。中野と坂上の軽口なんていつものことなのに、その日に限って慧は少し様子が違った。
「たしかに……ちょっと近すぎるかもな」
優等生然とした苦笑を浮かべた慧は、その日からおれにつれなくなった。
……というより、おれから逃げ回るようになった。
「慧。今日は『いぬかいの小屋』は?」
「行けない。委員会の集まりがあるから」
委員会を口実に、ろくに話もせずに爽やかに去っていく日もあれば、
「慧! 悪いけど教科書、見せ、て……」
「――ああごめん。俺に用事みたいだ。どうしたんだ、光太?」
わざとおれに見せつけるかのように、普段絡んでいないクラスメイトと仲良さげに話している姿を見る日もあった。
「慧。昼飯食べよう!」「中野さんたちも誘ってみようか」
「慧。そろそろ電車来るぞ……!」「用事があるから、先に帰ってていいよ」
「……慧……。お前いい加減にしろよ……!」「何の話か分からないな……!」
つれなくされる心当たりはまるでない。おれが何かしたのかとも思ったけれど、その割には相変わらず「そのアンケートは明日提出だからな」だの「四限目の選択授業、場所変更してから間違えるなよ」だの、危ないところで助けてくれるから、別におれが嫌いになったというわけではないはずだ。
逃げられると逃げられるほど追いたくなる。
おれの何が気に入らないんだとウザ絡みしたくなる気持ちを押さえつつ、おれは来る日も来る日も慧を追いかけた。
けれどもどうやら、おれが思うほどおれの気持ちは抑え切れてはいなかったらしい。おれが慧不足で弱っていくにつれて、日に日にクラスメイトの視線は優しくなっていった。
「当たって砕けろ」
「がんばれ~、春日井くん」
おれが慧に突き放されるたびに菓子をくれる中野と坂上から始まって、
「喧嘩したのか? 早く許してもらえるといいな」
「頑張れ」
ろくに話したことのない男子生徒までもが、同情するように声を掛けてくれたこともあった。
ついには山本先生までもが、ホームルームの終わりにちょいちょいとおれを呼び出して、「……春日井、秋月に何をしたんだ?」と、優しく声を掛けにくる始末である。
この一か月、おれはクラスの中で話せる知り合いが一気に増えたような気がしてならない。人の優しさに泣けばいいのか、十中八九おれが悪いと思われるおれの信頼度を嘆けばいいのか、悩むところであった。
そんなこんなで、一か月という短い準備期間はあっという間に過ぎて、九月下旬。
空は快晴。気温はほどよい。文化祭当日の穂波高校は、今までにないほど賑やかな空気で染まっていた。
渡り廊下の両脇には模擬店が立ち並び、校舎は垂れ幕やら風船やらでド派手に飾られている。中学の時にも文化祭はあったけれど、規模も人の入りも全然違う。まるでパーティー会場だ。
「春日井くん、屋台行ったぁ? おいしいよ~」
もぐもぐとチュロスを咀嚼しながら、机の上に座った坂上が自慢するように言ってくる。
クラス展示の見張り番はふたり一組。おれのペアは坂上だった。幸か不幸か、おれたちの当番時間は昼時に被っているので、客はひとりも来やしない。
「何も食ってないよ。さっきまで譲渡会の手伝い行ってたし」
「お疲れ様ぁ。朝一番で、あのチワワちゃんの里親候補さんが来たんでしょ~? どんな感じだったぁ?」
「……ダメだった。病気のある子は嫌だって」
モクレンちゃんの里親候補の顔を思い出し、おれはへの字に口を曲げる。
いかにも仕事のできそうな若い女性だった。でもいやに高圧的で、モクレンちゃんは推定四歳と聞いた途端に表情を曇らせていたし、てんかんの可能性について説明をした犬養さんに対して、「そんなの聞いてません」と不機嫌そうに告げていた。挙句の果てにはモクレンちゃんを撫でることもせずに早々に帰ってしまったとあって、とてもじゃないが良い印象は残っていない。
おれだったらあんな人には嫌な顔しかできそうにないが、終始にこやかに対応していた犬養さんはさすがである。
そう話すと、坂上はむむっと大袈裟に唇を尖らせた。
「おかしくない? 病気のこと、ホームページに書いておいたんじゃないのぉ?」
「書いてあったよ。でも、写真しか見ない人もいるんだよ」
話が進む前に里親候補の人となりが分かってよかったと思うべきなのだろう。悲しい思いをして保護シェルターに来た子に、新しい家でまで悲しい思いはしてほしくない。
深々とため息を吐くと、坂上はぽんぽんと肩を叩いてくれた。
「まあまあ、元気出しなよ~。午後もあるし、明日もあるじゃん? チワワちゃんにも、運命の出会いがあるかもよ~?」
そう願いたい。でないとおれ以上にモクレンちゃんを気にしている朝倉さんも気の毒だ。普段は散歩ボランティア専門なのに、モクレンちゃんが気になりすぎて文化祭に来てしまったという朝倉さんは、里親候補の振る舞いを見て泣きそうな顔をしていた。
ごくりとチュロスの最後の一口を飲み込んだ坂上は、「それで、どうよ~」と適当に話を変えてくる。人が来なさすぎて暇なのだろう。気持ちは分かる。
「いい加減秋月くんはつかまったのぉ?」
「つかまってくれねえよ……」
今日の朝も一緒に文化祭を回ろうと誘ってみたが、だめだった。
ここ最近というもの、毎日欠かさずおれが追い掛け回してきたせいか、おれはもちろんのこと、もはや慧の方も引くに引けないところに来ているのだろう。何を言っても反射のようにNOを返してくる。
「残念だねぇ。お祭り一緒に回ったら楽しそうなのに~」
そういう坂上は、午後は中野と一緒に校内展示を制覇して回る予定らしい。いいな、とおれは肩を落とす。おれだって慧と回りたかった。
「おれ、きっと慧と二度と一緒に遊べないんだ……!」
わっと両手で顔を覆うと、くすくすと坂上が控えめな笑い声を上げた。
「大袈裟~。秋月くんも春日井くんも理系なんでしょ? 目指すものが一緒なら、来年も再来年もきっと一緒でしょ~。カリキュラムが一緒なんだからさぁ」
あ、でもぉ。
わざとらしく坂上は口元に手を当てた。
「秋月くんが特進クラスに進むなら別かもねぇ。あのクラス、カリキュラムも模試もひとつだけ違うって聞くし~」
坂上の言葉を聞いた瞬間、おれは雷に打たれたような気分になった。
特進クラス。
二年から分かれるクラスには、文系、理系に加えて、特進というクラスがひとつ存在する。難関大への進学を希望する生徒を集めたクラスであり、成績優秀者だけが入れる特別なクラスだ。
「特進クラスに入る人たちって、入学する前から候補になってるんだって。振り分けテストは冬にやるっぽいから、後から入りたくなった人は、そろそろ先生に相談してるころなんじゃないかな~?」
意味深におれへ流し目を向けながら、坂上はぺらぺらと教えてくれた。
そう言われると、夏休み明けに、慧は「例の件」などと言って、山本先生と二人で何かを話していたはずだ。
「前に慧が山本先生に呼び出されてたのって、もしかして――」
にやりと笑った坂上は、「特進クラスの話かもねぇ」とおれの言葉を引き継いだ。
「気になるなら、秋月くん本人に聞いてきたら~? ちょうど今、譲渡会の手伝いしてるみたいだよぉ」
そう言って坂上はスマホを見せてきた。
クラスの女子トークルームと思わしき画面の中には、看板犬の花子をはじめとした『いぬかいの小屋』の犬たちと、そんな犬たちの中心でぎこちなくポーズを取る慧の写真が、何枚も上げられている。
「撮影会じゃないんだぞ。慧、困ってるじゃんか」
「だって春日井くんと一緒にいないせいで、今、秋月くんがフリーじゃん? みんなこの文化祭で仲良くなりたいなぁって狙ってるんだよぉ」
聞き捨てならない。坂上の言葉を聞いた途端に、嫌なモヤモヤが胸に広がった。そんなおれの顔を覗き込み、吹き出すように坂上が笑いだす。
「大丈夫だよ〜! 春日井くん以上に秋月くんを追い掛け回してる人、絶対いないからさ~。今日こそ鬼ごっこ、勝てるといいねぇ」
「つかまる気がしないよ。慧は午後には委員会の仕事に行っちゃうだろうし」
「なら、午後まで待たなきゃいいのさ~! 人も来ないし、ここはあたしに任せて行ってきなよ、相棒~」
ひょいと机から飛び降りて、坂上は芝居がかった動作で教室の扉をくいと指す。
「ありがたいけど、いいのか?」
「いいってことよ~。元はと言えば、あたしが春秋コンビが付き合ってるみたいなんて言ったせいで秋月くんが変に気にしちゃったみたいだからさぁ。ふたりがギスってると、胸が痛むわけよ~。文化祭マジックでさくっと仲直りしちゃってぇ!」
別に坂上のせいではないと思うけれど、慧とこのままぎくしゃくしているのはおれも嫌だ。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな。ありがとな、坂上」
「どういたしましてぇ。頑張ってね~」
スタッフの名札を胸から取り去ったおれは、「ファイト〜」という気の抜けるような坂上の声援を背中で受けつつ、教室の外へと飛び出した。
🐕 🐩 🐕
昼の空が目に眩しい。ざわざわと騒がしい屋台の通りをかき分けながら、おれはまっすぐに廊下を進む。
目指すは犬たちの尻尾が揺れる中庭だ。
段ボールを二段抱える上級生をささっと手伝い、迷子と思わしき子どもをキッズルームへと送り届けて、道中で出くわした問題に対応しつつ、おれは渡り廊下を抜けて中庭に出る。
模擬店が立ち並ぶ渡り廊下とは打って変わって、保護犬譲渡会が行われている中庭に入ると、客の年齢層は一気に上がる。
おれが中庭に踏み込むと、看板犬こと花子が真っ先に気づいてくれた。家族連れの手を離れ、ふさふさと尻尾を揺らす花子は、おれと目が合うなり、にぱっと花開くように笑ってくれる。
花子を撫でつつ、クラスメイトや『いぬかいの小屋』のスタッフたちに挨拶をしていると、少し離れたところでたこ焼きを食べている犬養さんを見つけた。いつも通りの派手なオレンジのツナギ姿に、イベント仕様と思わしき肉球印のカウボーイハットが良く似合う。
「お疲れ様、光太くん。慧くんなら、ちょうど保健室にいったところだよ」
おれが聞くより前に、犬養さんは校舎を指差しながら教えてくれた。
保健室という言葉に、おれはしぱしぱと目を瞬く。
「あいつ、どこか怪我でもしたんですか」
「いやいや。学生さんでひとり、具合が悪くなってしまった子がいてね。保健室まで送ってくるって、慧くんが真っ先に動いてくれたんだ」
そう言いながら、犬養さんは何かを思い出したように苦笑する。
「君たちは本当に優しくて、似た者同士のふたりだね。光太くんもさっき迷子の子を送ってあげていただろう? 本当にいい子たちで、私も勝手に鼻が高いよ」
どうやら見られていたらしい。なんとなく気恥ずかしくて頭をかくと、犬養さんは微笑ましいものを見るように目を細めた。
「慧くんと仲直りできるといいね」
「喧嘩したわけじゃないんですけどね……」
「でもここ最近ずっとぎくしゃくしているだろう? 夏休みの時くらいからかな。何かあったんじゃないのかい」
ボランティアの時は普通にできていたと思ったのに、犬養さんにはバレていたらしい。昔から変わらず優しい犬養さんの顔を見ていると、弱音を吐きたくなってくる。
「……多分、おれが何かしたんだと思います。慧は理由もなくこういうことをするやつじゃないから。でもどうしたらいいのか、本当はおれ、よく分からないんです。話さなきゃとは思うんですけど、何を話したらいいのかもよく分からなくて。このままずっとこうなのかな……」
夏休みの最後の日、慧は「何も言わなくて大丈夫」だなんて言っていたけれど、全然大丈夫じゃない。
慧が何を考えているのか分からない。ずっとこのままだなんて、考えるだけでも嫌になる。
おれがしょんぼりと下を向くと、犬養さんは力強く両手で肩を叩いてくれた。
「そう悲しい顔をするものじゃないよ。今言ったことをそのまま正直に伝えてみればいいんだよ。それに、言葉がうまく出てこないときは、無理に言葉にしなくたっていいんだ。誰かと仲良くなる方法を、私たちは誰より教えてもらっているだろう?」
「教えてもらってる……?」
「そう。――犬たちに!」
ちらりと犬養さんが花子に目くばせする。心得たとばかりに、花子は素早くおれの腿に前足を掛けた。
「わ、花子! 何だよ」
ぶんぶんと尻尾を振りながら、花子はつぶらな瞳でおれを見上げてくる。わしわしと首元を撫でてやると、お返しとばかりに花子は湿った鼻を手にも頬にも押し付けてくる。暑苦しいくらいに全身で伝えられる愛情は、まさに犬たち特有の愛情表現だ。
いつの間にかおれは、花子につられるように笑っていた。
「あははっ、くすぐったいって」
「うん、いい顔だ」
満足そうに犬養さんはにこにこと笑う。花子を座らせながら、犬養さんは悪だくみをするようにちらりとおれを見た。
「大事な話をするには、まず笑顔がないとね。大好きだって全身で伝えられると、顔も心も自然に緩んでしまうだろう?」
「あ……。そうですね。本当にそうだ」
犬たちはいつでも全身で愛情を伝えてくれる。だからおれも全力で犬たちに向き合いたくなるし、悲しいことも嬉しいことも、犬たちの前では隠さずにいられる。
おれは犬ではないけれど、ずっと犬と近しく生きてきた。犬たちが教えてくれたことを、おれが実行せずしてどうするのだ。
「おれ、慧を探してきます」
言葉はするりとこぼれ出てきた。
「――おれ、慧が大好きなので! とりあえずそれだけでも伝えてきます!」
「そうかい、そうかい」
犬養さんは嬉しそうに笑った。前に『好き』の種類について犬養さんと話をした覚えがあるけれど、おれの『好き』がどんな『好き』なのか、犬養さんは聞かなかった。代わりに犬養さんは、ただ優しく笑って、いつものようにおれを見送ってくれる。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
犬養さんと花子に手を振って、おれは保健室目掛けて駆け出した。
🐕 🐩 🐕
「――やっと来た。遅かったね、春日井」
保健室の中では、青白い顔をした中野がひとり、ベッドの上で身を起こして待っていた。そろりとベッドの脇に近づきながら、立ち上がろうとする中野を手で制する。
「寝てていいよ。倒れたのって中野だったのか。大丈夫か? つーか、保険医の先生は? それに、遅かったねって?」
「一度に聞きすぎ。私は貧血起こしただけだから大丈夫。先生は今、トイレに行ってる」
耳に髪をかけながら、中野はクールに口角を上げた。
「遅かったねっていうのは、春秋コンビの隠れ鬼が始まったって、咲菜が連絡くれたから。そのうち春日井もここに来るだろうなって思って、待ってたの」
「そりゃどうも」
咲菜というと、坂上か。抜かりない。ピースをする坂上の姿が目に浮かぶようだった。
「でも、隠れ鬼って?」
「言葉のとおり。最近は毎日追いかけっこしてたじゃん。春日井はいっつも鬼で可哀想だね」
「そう思うなら、いい加減観念しろって慧に言ってくれよ」
「自分で言えば?」
すげなく返して、中野はごそごそとポケットを探ったかと思うと、パッと何かをおれの前へと差し出してきた。
小ぶりなロボット型のキーホルダー。いつも慧が持っていたものだ。
「秋月くんに返しておいて。さっき、落としちゃったみたいなの。あと、ついでにありがとうって伝えておいてくれる? 手間かけさせちゃったのに、お礼を言う間もなかったから」
「慧、そんなすぐに出て行っちゃったのか?」
礼を告げる間もないほどと言ったらよっぽどだ。キーホルダーを受け取りながら尋ねると、中野は疲れた様子で肩をすくめた。
「文化委員の先輩に連れてかれちゃった。人手が足りないとか言ってたけど、大方一緒にお化け屋敷回りたいだけでしょ。『暑いの分かってたのになんで水飲まないの』とかってねちねち言われて嫌な思いしたし、引くくらい秋月くんとべったりなところ見せつけて、他人が入る余地なんてないってこと、分からせてやってよ」
おれに慧のキーホルダーを渡しながら、中野はニヤリと口角を上げた。
「べったりって言うほどべったりしてないだろ、別に」
ここ最近はむしろ避けられているし。
おれがそう抗議すると、中野はとんでもないバカでも見るような冷たい目をおれに向けてきた。
「秋月くんに『そのキーホルダーいつも付けてるよね』って聞いてみたことがあるの。そうしたら、なんて言ったと思う? 『昔、光太にもらったんだ』って言ったんだよ」
「えっ、おれ?」
ぽかんとしながら自分を指さす。おれの動きと連動するように冷たさを増した中野の視線は、もはや氷そのものと言っても過言ではない。
「貴重なものだから大事にしろ、毎日つけろって言ったらしいじゃん。当の本人は丸っと忘れてるのに、律儀に約束守って大切にして、秋月くんも報われないね」
「げっ、約束? えーっと……」
慌てて記憶を探るおれに、中野は呆れきった声で追撃してきた。
「十歳の時の誕生日プレゼントだったって言ってたよ」
その言葉を聞いた途端、ぱっと脳内に記憶がよみがえってきた。
「ああ、あれか!」
家族旅行に行ったとき、たまたま高性能な土産物を見つけたのだ。ライトにもなるし、当時のおれの目には格好良く見えたロボットのネックレス。慧にやりたいと思って、小遣い全部を使って買った覚えがある。
今はキーホルダーになっているようだが、チェーンが壊れても、慧は律儀に使い続けてくれたということだろう。
「物持ちのいいやつだなあ。まさかまだ持ってると思わなかった」
「サイテー。自分で言ったことも忘れるなんて、ほんっと最低」
返す言葉もない。
中野はやさぐれた様子でフンと鼻を鳴らして、独りごとのように何かをぼそりと呟いた。
「私、結構本気で秋月くんのこと好きだったのに。そんなの聞かされる身にもなれって話だよ」
「え? 何? 何か言ったか?」
「……何でもない! 早く行ったら? ぐずぐずしてると、秋月くん、また別のところに行っちゃうよ」
それはたしかにその通り。粛々とカーテンを引いたおれは、去り際、ベッドに横たわる中野を振り返る。
「ありがとな、中野。休んでたのに、邪魔してごめん」
「別に。私が勝手に起きてただけだし。秋月くん、捕まるといいね」
ぶっきらぼうに応援してくれる中野に、おれは「頑張るよ」と手を上げた。
🐕 🐩 🐕
かくしておれの慧探しこと、校内ひとりオリエンテーリングの最終目的地は、旧校舎となった。
本校舎と比べると出し物の数は少ないとはいえ、広い旧校舎の中のどこに慧がいるか分からない。手当たり次第に探していくつもりだったが、意外にも慧の姿はすぐに見つかった。
「ねえ、秋月くん。せっかくだから次は脱出ゲームも一緒に行かない?」
「いえ、そろそろ俺もクラス展示に戻らないといけないので。先輩もご自分のクラスに戻られた方がいいんじゃないでしょうか。人手、足りてないんですよね?」
「大丈夫。秋月くんが手伝ってくれてた間に、代わりの人が来てくれたから。……そうだ! その分のお礼もさせて。ね? いいでしょ?」
「いえ、そんな。お気遣いなく」
絡まれている。いかにも肉食系の女性の先輩にがっつり腕を組まれた慧は、逃げようにも逃げられないのか、笑みを引きつらせて困り果てていた。
おれよりよっぽど頭が回るはずなのに、慧は勢いで押してくる相手には弱いのだ。要はヘタレというやつである。
「慧」
手を振りながら、おれはお化け屋敷の前へと近づいていく。
今日という今日は逃がさない。そんなおれの決意を読み取ったのか、おれと目が合った瞬間、慧は「すみません」と一言傍らの先輩に謝って、腕を振りほどく。そして即座にくるりとおれに背を向けた。
「あっ! ちょっと、秋月くん?」
「用事を思い出しました!」
「うそつけ、バカ慧! つかまえたからな! 逃がさない!」
「まだつかまえてないだろ!」
ひと言応酬し合って、おれたちは人混みの中を駆けだした。
周りの人たちにとってはいい迷惑だったろう。申し訳ないとは思うが、おれもなりふり構っていられないのだ。許してほしい。
このままずっと慧とぎくしゃくしているのは、どうしても嫌なのだ。
「逃げるな、慧!」
「じゃあ追いかけてくるんじゃない!」
「やなこった!」
おれたちはふたりとも帰宅部だが、伊達に普段から犬の世話をしているわけじゃない。体力にだけは自信がある。
真っ昼間の一番暑い時間帯に、おれたちは全速力で追いかけっこをした。関係者以外立ち入り禁止と書かれた黄色いテープを乗り越えて、慧は旧校舎の階段をぐんぐんと上っていく。
「優等生がそんなことしていいのかよ!」
「うるさい!」
もはや向こうもやけくそだ。慧がこうまで声を荒げるのは珍しい。
そんなにも余裕を失うほど、慧が何をひとりで思いつめてきたのか、おれはどうしても問いたださねばならない。
古びた静かな校舎の中を、おれたちは縦横無尽に駆け巡る。展示会場になっている本校舎とは違って、旧校舎は一部を除いて、基本的には物置きだ。人気なんてあるはずもなく、おれたちがいくら走り回ったところで気にする人は誰もいない。
こちらの体力切れを狙っているのか、慧は階段を上がり切った直後に、今度は校舎の外側にある非常階段を下り始めた。
一段とばしに階段を下りる慧を見ていると、少しだけ嫌な予感がしてくる。
スプレーやペンキを使った作業は、だいたいみんな、匂いを嫌って外でやる。非常階段の踊り場は、格好の作業場所なのだ。
当日に展示物の用意をする生徒は普通ならいないかもしれないが、何しろ穂波高校が掲げる校風は『自由』である。当日の思い付きで、誰が何をやっていたっておかしくない。
カラフルに染まった踊り場を駆け抜けた慧は、二階へ降りた勢いのまま、一階に続く階段に踏み込んだ。その瞬間、ずるりと慧の足がペンキで滑る。
「……っ!」
「慧!」
がくりと体勢を崩した慧に、おれは飛びつくように手を伸ばす。
なんとか慧の肩口を掴み、踊り場の方へ引き戻したまでは良いものの、踏み込んだ位置が悪かった。慧の二の舞を踏んだおれは、それは見事に絵の具に滑ると、階段に向かって頭から突っ込んでいく。
「やべ……っ」
体勢が良くない。頭を打ったら、それこそ小学生の時の転落事件の二の舞だ。
迫りくる階段がスローモーションのように目の前に広がっていく。事ここに至っては、おれにできることはせめて打ち身か脱臼で済みますようにと祈ることだけだ。ぎゅっと身を竦めたおれは、衝撃に備えて目をつむる。
「光太!」
悲鳴のような声が聞こえた。焦りきった慧の声を聞いた瞬間、昔、崖から落ちたときの記憶が走馬灯のようにあふれ出す。
力強い手がおれの腕を掴む。肩が抜けそうなほどの痛みを感じた直後に、ドゴンと重苦しい音が間近で聞こえた。
したたかに打ち付けた膝の痛みに涙ぐむ間もなく、全身を強く抱きすくめられる。
「う……、え?」
階段を転げ落ちたにしては軽すぎる衝撃だ。おそるおそる目を開けると、慧の白いシャツが視界いっぱいに広がっていた。
ぎりぎりのところで、慧がおれを踊り場に引き戻してくれたらしい。ドゴンという音は、おれを抱きかかえるようにして倒れ込んだ慧が、階段の手すりにぶつかった音だったようだ。
「あ、あ、あぶねー……。ありがとう、慧」
ドキドキとやかましく響く鼓動を宥めつつ、おれは引きつった声で礼を言う。途端に、怒鳴り声が降ってきた。
「……バカ光太!」
思わずびくりと身を竦める。
「なんで光太は、いつもいつもそういう危ないことばっかりするんだよ……っ!」
「おれだってしようと思ってしてるわけじゃねえもん! 体が勝手に動くんだよ」
「バカじゃないのか! 考えて動けっていつも言ってるだろ! 滑ったって、俺は階段から落ちるほど間抜けじゃないんだよ! あんな危ないやり方で助けてなんてほしくない!」
慧の声は聞いたこともないくらい感情的だった。ともすれば、涙さえ混ざっていたかもしれない。
「……しょうがないだろ。だっておれ、慧が大事なんだから」
「……っ、俺は自分だけ助かったって嬉しくないって言ってるんだ!」
顔を上げると、悲痛に顔を歪めた慧と目が合った。幸いにも泣いてはいなかったが、怒りなのか悲しみなのか、何なのかも分からない激情でゆらゆらと瞳が揺れている。
その目を見た瞬間、あ、と思った。
「……思い出した……!」
そうだ。五年前は校舎ではなく裏山で鬼ごっこをしていたけれど、あの時だってこうだった――!
五年前、おれから逃げようとした慧は、おれの目の前で崖から落ちた。おれは慧を守ろうとして、腕を掴んで、空中で必死に慧を抱き込んだのだ。
今日の十五歳の慧には、十五歳のおれと自分を両方助けられるだけの力があった。
でも、五年前の十歳だったおれには、自分も慧も助けるだけの力はなかった。
ふたり揃って崖から落ちた。せめて慧の怪我が浅くなるように、自分の体で庇うことしかできなかった。
どうして忘れていたのだろう。
好きな人はと尋ねたおれに、「俺をつかまえられたら教えてやる」と、小学生の慧は言った。
ズルいごまかし方をしたおれの言葉をそのまま信じて、両想いだと誤解して、幸せそうに笑っていた。
おれが何も言えなかったせいで、慧を死ぬほど悲しませた。
熱っぽい目で見られてびっくりしたけれど、あの時だって、おれはかけらも嫌だなんて思わなかった。その理由が今なら分かる。
――光太、……光太! いやだよ、起きろよ……!
――ごめん。……ごめん、光太……、俺のせいだ。全部、俺のせい……!
――今、人を呼んでくるから。絶対に助けるから。
――大丈夫。もう大丈夫だから。
ゆらゆらと揺れる瞳も、泣きそうな声も、覚えている。心の一番深いところに、ちゃんと残っている。
慧はいつだっておれを助けてくれる。安心をくれる。言葉にすることだってためらわない。
それならおれも、同じことをしなくては。
「ごめん、慧。今まで本当にごめん。全部、やり直させて」
「やり直し……? 何の?」
「五年前の隠れ鬼の時から、全部」
慧は何のことやら分からないとばかりに、おれを抱き込んだまま顔いっぱいに疑問符を浮かべている。
そんな慧に構わず、おれは幼いころにそうしたように、ぎゅうと両腕を慧の体に巻き付けた。
「覚えてるか、慧? おれが慧をつかまえたら、好きな人を教えてくれるって約束だった。五年前の約束だ」
つかまえた、と小声で耳元に囁くと、ようやく慧はおれが何の話をしているのか気づいたらしい。ぴしりと体を硬直させた。
「――いや! あれは子どもの時の話だから! 忘れてくれって言ったじゃないか……!」
「おれが忘れたくないんだ。ずっと忘れててごめんな。今、全部思い出した。ようやく思い出したんだ」
「今……? 前に思い出したって言ってなかったか」
慧がぽかんとおれを見つめる。おれもぽかんと慧を見返す。
「前? いつの話だよ」
「俺の部屋に来たとき」
なるほど、どうやらおれたちはそこも食い違ってしまっていたらしい。
思い込みの激しい慧と、咄嗟の状況になると言葉が出ないおれは、いつもこうだ。おれたちは多分、言葉が足りていなさすぎる。
「……ああもう!」
頭を掻きむしりたい気持ちになった。
こうなればヤケだ。格好よく言おうだとかちゃんと話をしようだとか、そんなことを考えるからうまく行かないのだ。不格好だろうが、一番大事なことを伝えなければ始まらない。
鼻先が触れ合うほど近くで慧を睨みつけ、おれは掠れた声で告白する。
「おれ、慧が好きなんだよ。大好きだ。ずっと一緒にいたい。このままぎくしゃくしてるの、嫌だよ。前みたいに、ふたりで何でもしたいんだ」
「分かってる。俺がうまくできないだけだ。……ごめん、光太。前みたいに友だちの距離でいたいって、俺だって思ってる。でも、近すぎて苦しいんだ。光太が忘れてくれてた時にはちゃんとできたのに、今は……」
だめだ。何も伝わっていない。
なまじ五年前に『好き』の食い違いを起こしてしまったせいで、おれがいくら好きだと言っても、慧は友だちとしての好きだとしか受け取ってくれない。
どうしたら伝わるんだろう。何を言えばいいんだろう。伝えたいのに、うまい言葉が見つからない。
ぐるぐると空回りする頭で思い出したのは、ここに来る直前に贈られた、花子の生暖かく湿った鼻チューの感触だった。
そうだ。言葉にしなくたって伝えられる方法はあるじゃないか。
「大丈夫だから、光太。うまくできないのは、今だけだから。近すぎるなら、環境を少し変えればいいだけだ」
ぐだぐだと何かを言っている慧の胸倉をおれはむんずと掴んで引き寄せる。
「だから――んぅ!?」
がつりと音を立てて、唇と唇が重なった。勢いよく歯と歯がぶつかったせいで、間に挟まれた唇が最悪に痛い。
慧がまんまるに目を見開く。キスのやり方なんて知らない。したこともない。でも、たまたま当たっただけだなんて間違っても思えないよう、おれは必死に自分の唇を慧のそれに押し付けた。
息が苦しくなるまで押し付けて、ゆっくりと唇を離していく。
「……な、な、何……っ、え? 何?」
慧は面白いくらいに動揺していた。ほんのりと血の滲んだ唇をぱくぱくと金魚みたいに開閉しながら、信じられないものでも見るような目でおれを見ている。
「無理やりでごめん。でもおれ、慧が好きなんだ……! 鼻チューだけじゃ足りない、そういう好きに、もうなった。分かってくれよ……!」
慧のせいだ責任を取れと言ってやりたい気もしたけれど、おれが勝手に好きになっておいて慧のせいにするのは、さすがに筋違いだ。
「え、あ……、好き? え? 夢? 現実?」
ボケたことを言い出す慧に、ぐいと鼻先を押し付け、犬のようにすり寄せる。
「……わっ」
「現実に決まってるだろ。慧がまだおれのこと、昔と同じ意味で好きでいてくれるなら、慧の好きなひと、もう一回教えてくれよ……!」
支離滅裂だ。自分でも分かっている。
それでも伝えたかった。伝えないといけないと思った。
慧の顔は茹でダコみたいに赤かった。おれの頬も、大概に熱かった。そろり、そろりと慧は確かめるようにおれの頬に手を這わせていく。じっと待っていると、慧は泣く直前みたいに唇を震わせながら、ようやく五年前と同じ言葉を紡いでくれた。
「こ、光太」
「おれが、何?」
「光太が好きだ……! ずっと、ずっと好きだった……!」
おそるおそるといった調子で背に回ってきた腕は、やがて痛いくらいの強さでおれを抱き寄せる。ばしばしと慧の背中を叩きながら、おれは苦い思いでかすかに笑った。
「……じゃあおれたち、今度こそ本当に両想いだな。もう逃げるなよな。慧に避けられるとへこむから」
「うん。ごめん」
へなへなと全身から力が抜けた。散々走り回ったツケが今になって吹き出てきたのか、体が一気に重くなる。遠慮なしに慧に体重を預けて初めて、おれは自分がひどく緊張していたことに気がついた。
どこもかしこも熱い慧の体温を確かめながら、おれはぽつりと口を開く。
「……なあ、さっきも今までも、いつも助けてくれてありがとうな、慧。五年前も、犬養さんたちを呼んできてくれてありがとう。慧もおれの大恩人だった」
言えよな、と慧の肩口に顔を埋めながら告げると、慧は力なく首を横に振った。
「恩人なんかじゃない。元はと言えば全部俺のせいなんだから」
おれが慧を庇おうとしたことを言っているのかと思ったけれど、どうやらそれだけではないらしい。懺悔でもするかのように、慧はぼそぼそと話し出す。
「昔、裏山で遊ぼうって光太を誘ったのは俺なんだ。覚えてないか?」
「そうだったっけ」
「そうだよ。俺、光太に他に仲のいい友だちができるのが嫌だった。校庭で遊ぶと知らない間に遊ぶ人数が増えてたし、光太は俺以外ともよく話してたから、邪魔の入らない場所で、ふたりだけで遊びたかったんだ。裏山は俺たちの家の近くだし、他の誰にも邪魔されない。だから、危ないって分かってたけど、光太を裏山に誘った」
「……ふうん?」
おれは釈然としない気持ちで慧の言葉を聞いていた。
おれから見たら慧の方がよほど人に囲まれていたし、寄ってくる連中やおれに話しかけてきた連中は、おそらくおれ経由で慧と仲良くなりたがっていただけである。だからこそおれも、慧を独り占めできる裏山での遊びが大好きだったのだから。
「言い始めたのが慧だろうが、裏山に行ってたのはふたりで決めたからだろ。なんで全部慧のせいになるんだよ」
「だって、入るなって言われたところに光太を連れて行った挙句に、俺が変なこと言ったせいでああなった」
「それを言ったら、おれが最初に紛らわしいこと言ったのが悪いだろ。ふたりで落ちてふたりとも助かったんだから、その辺はもういいんじゃね?」
「でも――」
おれがいくら言葉を重ねても、慧は納得できないらしい。変なところで頑固なやつだ。
「慧は考えすぎなんだよ」
顔を上げて、おれは慧をじとりと睨む。
「光太が考えなさすぎるんだ」
やり返すように、慧もおれを睨み返してきた。
文化祭の喧騒が遠くに聞こえる。吹奏楽部の奏でる軽やかなマーチが、楽しげな手拍子とともに響いてくる。
しばらく睨み合ったあとで、おれたちは同時に吹き出した。
「――おれが考えなさすぎって言うけどさ、アホみたいに散々逃げ回ってたのは慧だろ! 慧のせいでおれ、山本先生にまでかわいそうなやつ扱いされたんだからな!」
「バカのひとつ覚えみたいに光太が追いかけ回してくるからだろ。俺はちょっと距離を置こうとしただけなのに、後追いしてくるそっちが悪い」
「勝手に距離なんて取ろうとするからだ、バーカ!」
げらげらと笑いながら、おれたちはゆっくりと立ち上がる。ペンキ塗れになった互いの姿をひとしきり笑い合ったあとで、おれたちは手すりに腕を預けるようにして、横並びに立った。
「慧が特進クラスに行く気なら、おれも行くからな」
おれが宣言すると、慧は驚いたように目を見張った。
「気づいてたのか」
「坂上と話してて気がついた。おれから逃げられると思うなよ!」
じとりと睨むと、慧は決まり悪そうに目を逸らした。
「……もう逃げないよ」
「当然だ。おれが考えなさすぎで、慧が考えすぎなら、ふたり合わせたらちょうどいいだろ? 目指すものが一緒なら、せっかくなら大学も一番いいところを一緒に目指そう! それならいいだろ?」
「一番いいところって?」
「北大」
「……漫画読んだろ」
読んだ。家の本棚にあった。
北海道の獣医学部を舞台にしたコメディ漫画は、かなり年季が入っていた。多分、物持ちのいい父さんのものだろう。
――物持ちがいいといえば。
おれはロボットのキーホルダーをポケットから取り出すと、そっと慧に差し出した。
「落とし物。さっきはありがとうって、中野が言ってたよ」
「中野さんが拾っててくれたのか」
慧はほっとしたようにキーホルダーを受け取って、大切そうに手の中に閉じ込めた。
「それ、おれがあげたやつだよな」
くすぐったい気持ちになりながら問いかける。
おれが覚えていることが意外だったのか、慧がびっくりしたように肩眉を上げた。
「中野と話してて、思い出したんだ。ずっと大事にしてくれてたんだな」
下から覗くように慧の顔を見上げると、慧は決まり悪そうに目を逸らした。
「……光太が小遣い全額注ぎ込んだって言うから」
「貰いものは捨てられないもんな、慧」
「貰いものっていうか、光太が俺にくれた物だからだよ。大切にするに決まってる」
言った後で恥ずかしくなったのか、慧は照れ隠しのようにキーホルダーを手の中で転がした。
小さなボタンを押すたび、ロボットの目がピカピカと忙しなく点滅する。
五年前はネックレスだったキーホルダー。おれの記憶の中できらめいていたものは、当時の慧の胸元に下げられていた、このロボットのネックレスだったのだろう。小学生の時はスマホなんて持っていなかったから、日が沈んだ後の裏山で、慧はこのロボットを懐中電灯代わりに使っていたに違いない。
「今度はもっと良いもの用意するよ。もうじき慧の誕生日だしな!」
にかりと笑ってそう言うと、慧は泣き笑いのように唇を歪ませた。
「……これ以上ないくらい最高のもの、もう貰ったよ」
「へ?」
何のことかと慧を見つめる。慧はそれ以上言葉にせずに、黙っておれを見つめ返した。
潤んだ瞳は幸せそうで、見ているとおれまで嬉しくなってくる。
慧の手が頬に触れる。両手で掬い上げるようにおれの顔を上向ける。そこまでされてようやく、おれは慧の言葉の意味を理解した。
目を閉じた方がいいのかなあなんて頬を熱くしながら考える。考えた末に、おれはぼそりと慧を挑発した。
「間違えて鼻にするなよ」
「するか。光太じゃあるまいし」
おれは勢い余って歯をぶつけただけだ。鼻チューしかできなかったヘタレの慧と一緒にされたくない。
慧の後頭部に手を回す。近づいてくる顔を見ながら、おれはゆっくりと目を閉じた。
くすりと笑う気配とともに、唇に唇が重なった。
覚えたばかりのキスをして、おれたちはひっそりと笑い合う。
気の抜けた慧の顔はこっちが恥ずかしくなるくらい幸せそうで、でもきっとおれも同じような顔をしているのだろうなと思ったら、胸がいっぱいになった。
秋の空はどこまでも高く青く澄んでいる。
世界が輝いて見えるという言葉の意味が、初めて本当に分かった気がした。
久しぶりに会うクラスメイトたちとひと通り土産話を交換し、休み明けの課題テストも無事に終わった。午後のホームルームでテスト結果を受け取ったおれたちは、ひそひそと忙しなく互いの結果を確かめ合う。
「春日井くん、どうだったぁ?」
前の席から身を乗り出して、坂上がおれの手元を覗き込む。
やたらめったら科目数が多い定期考査と違って、課題テストは国数英理社の基本的な五科目だけだ。対策しやすかったこともあってか、普段は中の上あたりの成績をさまよっているおれも、今回ばかりはどれも八十点は超えていた。
鼻高々に結果を見せると、坂上は「うぇっ」とカエルが潰れたときのような声を上げた。
「すごっ! 四百点超えてる~!」
「うそ、春日井ってそういうキャラだった? 何したの?」
坂上の声に興味を引かれたのか、中野までもが寄ってきた。
「努力の成果だ! 今年の夏は勉強の夏にしたからな!」
「……ってことは、秋月くんはもっとヤバいってこと?」
「あ、たしかに~。秋月くん、どうだったぁ?」
興味津々といった様子で、中野と坂上は同時に慧へと目を向ける。
いそいそと身を乗り出した坂上は、おれにしたのと同じように、無遠慮に慧の手元を覗き込んだ。
「なるほどね~! 総合は秋月くんの方が高いけど、数学だけは春日井くんが上なんだぁ」
おれは舌打ちをしたい気分で慧を見た。いつも通りの澄まし顔が憎らしい。
頑張った数学で慧に勝てたのはスカッとしたけれど、あれだけ勉強してもほかはおれの負けらしい。面白くない気持ちにはなったが、やっぱり慧はすごいのだなあと思うと、誇らしくもある。
「ふたりでどんな勉強合宿してたの?」
中野が純粋な目で聞いてくる。おれと慧は、同時にふいと顔を背けた。
「合宿はしてない」
「え? でも、勉強の夏って言ったじゃん、今」
「おれはな。慧は慧で頑張ってたみたいだよ」
ちらりと慧に目を向ける。おれと目が合うなり、慧は柔らかく口角を上げた。
外行き用のお行儀の良い顔だ。落ち着かなくて、おれは思わず鼻先に皺を寄せる。
そんなおれたちを見て、中野と坂上は目を丸くした。
「……え、何。喧嘩でもしたの?」
「「してない」」
「絶対してるやつじゃん、それ」
呆れたように中野が突っ込んでくるが、喧嘩も何も、そもそも夏休みが明けてからこの三日間、おれは慧とろくに会話すらしていないのだ。行きの電車は一緒になるけれど、せいぜいテスト範囲の問題を出し合っていた程度だし、昼食と帰りに至っては、もはや完全に別である。
慧曰く、九月の文化祭に向けて、ここから先一か月は文化委員の仕事が忙しくなるらしい。委員会なんて入ってたかなとは思ったけれど、そういえば入学してすぐ、全員が何かしらの委員会に振り分けられていた覚えがあった。
一緒にボランティアに行ける時間が減るのは残念だけれど、本音を言うと、おれはちょっとだけほっとしてもいた。
慧の顔を見ると、なんとなく慧の部屋でされた鼻チューを思い出してしまって、落ち着かない気分になるのだ。おかしな動悸がして、まともに慧の顔を見ていられなくなる。あの日できなかった話をしようにも、言葉がうまく出てこない。
わいわいと女子たちをまじえて話していたその時、にゅっと山本先生が教室の扉から顔を出す。
「――ああ、秋月! まだ帰ってなかったか。例の件、主任に問い合わせてきたぞ。少し話せるか?」
「はい。大丈夫です」
……例の件?
席を立って出ていく慧をぼんやりと見送っていると、中野と坂上は気味の悪いものでも見るような目をおれに向けてきた。
「ねえ、何があったの?」
「だから、何もないって」
あったとすれば慧の方だ。夏期講習にひとりで行った時から始まって、ここ数日はいやに完璧な優等生面を見せている。
口を閉ざしたおれの前で、中野と坂上は困惑したように顔を見合わせた。
「……今週ずーっと、なんかよそよそしいと思ったんだぁ。テスト週間のせいじゃなかったんだねぇ」
「春日井が秋月くんに頼ってばっかりだから、お世話するのが嫌になっちゃったんじゃないの? 早く仲直りしなよ。後回しにすると、ずっと引きずるよ」
してない喧嘩をどう収めろというのか。
ため息を吐いたおれは、それ以上あれこれと言われるのが嫌で、女子たちの視線から逃げるように机に突っ伏した。そうこうしている間にだんだん眠くなってきて、うとうとしているうちに、教室にはほとんど人がいなくなっていた。
間もなくして、慧は教室に戻ってきたらしい。突っ伏し寝をしているおれを見て何を思ったのか、慧は何かを取り出すと、そっとおれの頭の隣にそれを置いていった。
「昼飯、パンひとつじゃ足りないに決まってるだろ」
笑い交じりにそう言って、慧はおれの頭をわしわしと撫でていく。
顔を上げると、目の前にはチョコバーとペットボトルのお茶が置かれていた。礼を言う間もなく、慧は「じゃ、また明日な」と言って委員会へと行ってしまう。
静かな教室の中で、おれは慧に乱された髪をのそのそと整えて、もそりとチョコバーに歯を立てた。
うまい。
うまいが、慧はおれをなんだと思っているのだ。別に腹が減って弱っていたわけではない。そもそも別々で食べていたはずなのに、弁当を忘れたおれが、今日の昼をパンひとつで適当に済ませたとなぜ知っているのか。
突っ込みたいところは色々あったけれど、慧がくれたドライフルーツとビスケットの入ったチョコバーは、間違いなくおれの一番好きな味だった。
「……レーズン、嫌いなくせに」
なんで自分で食いもしない菓子を持ち歩いているのだ。イケメンめ。
くしゃりと包み紙を握って、おれは再度机に突っ伏した。
おかしな動悸は一向に治まりそうにない。
🐕 🐩 🐕
課題テストが終わったあとは、九月祭こと穂波高校の文化祭がやってくる。
おれたちの高校では学年ごとに催し物が決められていて、食べ物を扱う模擬店は三年生、教室を使ったお化け屋敷や迷路などの企画ものは二年生だけに許される特権だ。一年生は一般客向けのキッズルームや町の歴史展など、真面目ぶった催し物で文化祭の名目を保つのが役割だった。
「――というわけで、うちのクラスは動物愛護に関する展示をすることになったぞ!」
心なしか弾んだ声でそう言って、山本先生はクラスのみんなを見渡した。
しかし悲しいかな、おれたちの反応は口が裂けても良いとは言えない。
「展示かあ。キッズルームが良かったなぁ」
「町の歴史展よりマシじゃね?」
「一年でも模擬店やらせて欲しいよねぇ。くじで出し物決められるんじゃ、テンション上がんないし」
ひそひそと囁く声がそこらかしこから聞こえてくる。しかし、そんな不満は予測済みとばかりに、山本先生はきらりと目を輝かせた。
「まあそう言わずに。写真や資料を壁に貼るタイプの展示じゃなくて、実際の動物保護活動を見せるような形でもいいんだぞ。過去には動物保護団体を実際に招いて、里親探しの手伝いをしたクラスもある。ご近所のボランティア活動に参加したことのある生徒も何人かいるだろう?」
山本先生は思わせぶりにおれへアイコンタクトを取ってきた。
「近くで動物保護活動をしている団体の名前は? 誰か分かるかな?」
誰かと言う割には、山本先生の視線はおれをまっすぐに見つめている。その圧に負けて、おれはしぶしぶ「いぬかいの小屋」と呟いた。
満足げに頷いて、山本先生はシェルターの名前を黒板にかつかつと書いていく。
「犬の保護活動をしている団体が『いぬかいの小屋』だな。もうひとつ、駅前にある『猫屋敷ペットクリニック』が猫の保護活動を行っている。今回はこのふたつの団体に協力していただくことになったから、みんな礼儀正しくするように」
かくして動物愛護というテーマを授かったおれたち一年B組は、一ヶ月という短い準備期間をフルに使って、文化祭の準備に奔走した。
色々と話し合った結果、文化祭当日には、動物保護団体の活動についての動画を作って展示代わりに置いておくほか、二つの動物保護団体を招いて、小規模な譲渡会をすることになった。
普段からボランティアをしている縁で、おれと慧は『いぬかいの小屋』との連絡役だ。
さっそく譲渡会の相談に行くと、犬養さんは「話は聞いているよ」と力強く頷いた。
「ありがたいねえ。穂波高校に行くのは久しぶりだ。三、四匹、連れて行こうか」
そう言うと犬養さんは、ここ最近シェルターへ保護されてきた子たちの名前を何匹か上げて、最後にチワワのモクレンちゃんが入ったケージをじっと見つめた。お散歩上がりのモクレンちゃんは、ダルそうに突っ伏して休憩中だ。
「モクレンちゃんも連れていくんですか?」
ちょうど散歩ボランティアに来ていた朝倉さんが、目を輝かせながら問いかける。
モクレンちゃんには、つい最近里親希望の申し込みが一件来たばかりだ。里親候補と顔合わせをするにはぴったりだろう。
予想通り、犬養さんは微笑みながら頷いた。
「そうですねえ。文化祭の時に一度、里親希望の方に顔合わせに来てもらえないか聞いてみましょうか」
「良かったです……! モクレンちゃん。里親候補さん、いい人だといいね」
嬉しそうに朝倉さんがモクレンちゃんに語り掛ける。ちろりと目を開けたモクレンちゃんは、しっぽだけで朝倉さんに返事をした。
🐕 🐩 🐕
文化祭の準備が順調に進む一方で、おれと慧の距離はちっとも元に戻らない。それどころか、日に日におかしくなっていた。
おれもおかしいが、慧も大概あちこちおかしい。今朝の電車もそうだった。
「今日、小テストだっけ。範囲、どこ?」
慧の腕に手を掛けて、おれは慧の手元を覗き込む。自分の単語帳を取り出すのが面倒だったから、慧のものを一緒に見ようと思っただけだ。
今まで何度もしてきたことのはずなのに、おれが身を寄せた途端、慧はあからさまに身を強張らせて固まった。
五分経っても一ページも進まないものだから、不審に思って横目で見上げると、こっちを向いた慧と、至近距離で目が合った。
「何だよ」
「何だろうな」
触れ合った肩が妙に熱く感じる。
なるほど慧が固まるわけだ。こんなのいつもやっていたことなのに、今はどうしてこの距離で慧と触れ合っていて平気だったのか、自分で自分が分からない。
――次は穂波駅、穂波駅。左側のドアが開きます。ご注意ください――。
のんびりとした車掌さんのアナウンスが流れてくる。同校生に「すみません」と声を掛けられ、おれたちは弾けるように距離を取る。
声を掛けられなかったら、おれたちは不自然に見つめ合ったままでいたかもしれない。
不自然と言えば、たまたま慧の委員会の用事がなかった日、一緒に中庭で昼飯を食べていたときもそうだ。
その日は午前に体育があったから、おれは腹が死ぬほど減っていた。弁当だけでは足りる気がしなかったので、購買でたこ焼きを買ってきた。その新味のマヨポンたこ焼きが意外とおいしかったものだから、慧にも分けてやりたくなったのだ。
「慧、あーん」
丁寧に弁当を食べている慧に声を掛け、慧が顔を上げた瞬間、おれは慧の口元にたこ焼きを押し付ける。
「……っ!」
「新味。うまいだろ」
慧のびっくりした顔が嬉しくて笑っていると、慧はもぐもぐとたこ焼きを咀嚼した後で、スッとティッシュを差し出してきた。
「うまいけど、マヨ、口の横についてるぞ」
犬たちを見るような優しい目で見られると、そわそわと落ち着かない気分になってくる。貰ったティッシュで唇の端を拭った後で、おれは照れ隠しついでにへらりと笑った。
「ありがとう。慧ってさあ、優しいよな」
今思うと、なぜそんなことをわざわざ言ってしまったのか分からない。夏休みからの文化祭準備と来て、慧と一緒に昼飯を食べるのはずいぶんと久しぶりだったから、浮かれていたのかもしれない。
「光太が色々やらかすから、気になるだけだよ」
「気にしてくれるのが優しいんじゃん。ありがとうな」
「……うん」
慧は照れたように視線を泳がせていて、それを見たおれも、なんだかちょっと気恥ずかしくなった。
そっと目を逸らし、おれたちは黙々とたこ焼きを食べ続ける。そんなおれたちを、近くで弁当を食べていた中野と坂上は白けた目で見つめていた。
「何なの? この間まで喧嘩してなかった?」
「ていうか、な〜んか空気が甘いんだよねぇ。付き合ってる~?」
ぴくりと慧が肩を揺らす。中野と坂上の軽口なんていつものことなのに、その日に限って慧は少し様子が違った。
「たしかに……ちょっと近すぎるかもな」
優等生然とした苦笑を浮かべた慧は、その日からおれにつれなくなった。
……というより、おれから逃げ回るようになった。
「慧。今日は『いぬかいの小屋』は?」
「行けない。委員会の集まりがあるから」
委員会を口実に、ろくに話もせずに爽やかに去っていく日もあれば、
「慧! 悪いけど教科書、見せ、て……」
「――ああごめん。俺に用事みたいだ。どうしたんだ、光太?」
わざとおれに見せつけるかのように、普段絡んでいないクラスメイトと仲良さげに話している姿を見る日もあった。
「慧。昼飯食べよう!」「中野さんたちも誘ってみようか」
「慧。そろそろ電車来るぞ……!」「用事があるから、先に帰ってていいよ」
「……慧……。お前いい加減にしろよ……!」「何の話か分からないな……!」
つれなくされる心当たりはまるでない。おれが何かしたのかとも思ったけれど、その割には相変わらず「そのアンケートは明日提出だからな」だの「四限目の選択授業、場所変更してから間違えるなよ」だの、危ないところで助けてくれるから、別におれが嫌いになったというわけではないはずだ。
逃げられると逃げられるほど追いたくなる。
おれの何が気に入らないんだとウザ絡みしたくなる気持ちを押さえつつ、おれは来る日も来る日も慧を追いかけた。
けれどもどうやら、おれが思うほどおれの気持ちは抑え切れてはいなかったらしい。おれが慧不足で弱っていくにつれて、日に日にクラスメイトの視線は優しくなっていった。
「当たって砕けろ」
「がんばれ~、春日井くん」
おれが慧に突き放されるたびに菓子をくれる中野と坂上から始まって、
「喧嘩したのか? 早く許してもらえるといいな」
「頑張れ」
ろくに話したことのない男子生徒までもが、同情するように声を掛けてくれたこともあった。
ついには山本先生までもが、ホームルームの終わりにちょいちょいとおれを呼び出して、「……春日井、秋月に何をしたんだ?」と、優しく声を掛けにくる始末である。
この一か月、おれはクラスの中で話せる知り合いが一気に増えたような気がしてならない。人の優しさに泣けばいいのか、十中八九おれが悪いと思われるおれの信頼度を嘆けばいいのか、悩むところであった。
そんなこんなで、一か月という短い準備期間はあっという間に過ぎて、九月下旬。
空は快晴。気温はほどよい。文化祭当日の穂波高校は、今までにないほど賑やかな空気で染まっていた。
渡り廊下の両脇には模擬店が立ち並び、校舎は垂れ幕やら風船やらでド派手に飾られている。中学の時にも文化祭はあったけれど、規模も人の入りも全然違う。まるでパーティー会場だ。
「春日井くん、屋台行ったぁ? おいしいよ~」
もぐもぐとチュロスを咀嚼しながら、机の上に座った坂上が自慢するように言ってくる。
クラス展示の見張り番はふたり一組。おれのペアは坂上だった。幸か不幸か、おれたちの当番時間は昼時に被っているので、客はひとりも来やしない。
「何も食ってないよ。さっきまで譲渡会の手伝い行ってたし」
「お疲れ様ぁ。朝一番で、あのチワワちゃんの里親候補さんが来たんでしょ~? どんな感じだったぁ?」
「……ダメだった。病気のある子は嫌だって」
モクレンちゃんの里親候補の顔を思い出し、おれはへの字に口を曲げる。
いかにも仕事のできそうな若い女性だった。でもいやに高圧的で、モクレンちゃんは推定四歳と聞いた途端に表情を曇らせていたし、てんかんの可能性について説明をした犬養さんに対して、「そんなの聞いてません」と不機嫌そうに告げていた。挙句の果てにはモクレンちゃんを撫でることもせずに早々に帰ってしまったとあって、とてもじゃないが良い印象は残っていない。
おれだったらあんな人には嫌な顔しかできそうにないが、終始にこやかに対応していた犬養さんはさすがである。
そう話すと、坂上はむむっと大袈裟に唇を尖らせた。
「おかしくない? 病気のこと、ホームページに書いておいたんじゃないのぉ?」
「書いてあったよ。でも、写真しか見ない人もいるんだよ」
話が進む前に里親候補の人となりが分かってよかったと思うべきなのだろう。悲しい思いをして保護シェルターに来た子に、新しい家でまで悲しい思いはしてほしくない。
深々とため息を吐くと、坂上はぽんぽんと肩を叩いてくれた。
「まあまあ、元気出しなよ~。午後もあるし、明日もあるじゃん? チワワちゃんにも、運命の出会いがあるかもよ~?」
そう願いたい。でないとおれ以上にモクレンちゃんを気にしている朝倉さんも気の毒だ。普段は散歩ボランティア専門なのに、モクレンちゃんが気になりすぎて文化祭に来てしまったという朝倉さんは、里親候補の振る舞いを見て泣きそうな顔をしていた。
ごくりとチュロスの最後の一口を飲み込んだ坂上は、「それで、どうよ~」と適当に話を変えてくる。人が来なさすぎて暇なのだろう。気持ちは分かる。
「いい加減秋月くんはつかまったのぉ?」
「つかまってくれねえよ……」
今日の朝も一緒に文化祭を回ろうと誘ってみたが、だめだった。
ここ最近というもの、毎日欠かさずおれが追い掛け回してきたせいか、おれはもちろんのこと、もはや慧の方も引くに引けないところに来ているのだろう。何を言っても反射のようにNOを返してくる。
「残念だねぇ。お祭り一緒に回ったら楽しそうなのに~」
そういう坂上は、午後は中野と一緒に校内展示を制覇して回る予定らしい。いいな、とおれは肩を落とす。おれだって慧と回りたかった。
「おれ、きっと慧と二度と一緒に遊べないんだ……!」
わっと両手で顔を覆うと、くすくすと坂上が控えめな笑い声を上げた。
「大袈裟~。秋月くんも春日井くんも理系なんでしょ? 目指すものが一緒なら、来年も再来年もきっと一緒でしょ~。カリキュラムが一緒なんだからさぁ」
あ、でもぉ。
わざとらしく坂上は口元に手を当てた。
「秋月くんが特進クラスに進むなら別かもねぇ。あのクラス、カリキュラムも模試もひとつだけ違うって聞くし~」
坂上の言葉を聞いた瞬間、おれは雷に打たれたような気分になった。
特進クラス。
二年から分かれるクラスには、文系、理系に加えて、特進というクラスがひとつ存在する。難関大への進学を希望する生徒を集めたクラスであり、成績優秀者だけが入れる特別なクラスだ。
「特進クラスに入る人たちって、入学する前から候補になってるんだって。振り分けテストは冬にやるっぽいから、後から入りたくなった人は、そろそろ先生に相談してるころなんじゃないかな~?」
意味深におれへ流し目を向けながら、坂上はぺらぺらと教えてくれた。
そう言われると、夏休み明けに、慧は「例の件」などと言って、山本先生と二人で何かを話していたはずだ。
「前に慧が山本先生に呼び出されてたのって、もしかして――」
にやりと笑った坂上は、「特進クラスの話かもねぇ」とおれの言葉を引き継いだ。
「気になるなら、秋月くん本人に聞いてきたら~? ちょうど今、譲渡会の手伝いしてるみたいだよぉ」
そう言って坂上はスマホを見せてきた。
クラスの女子トークルームと思わしき画面の中には、看板犬の花子をはじめとした『いぬかいの小屋』の犬たちと、そんな犬たちの中心でぎこちなくポーズを取る慧の写真が、何枚も上げられている。
「撮影会じゃないんだぞ。慧、困ってるじゃんか」
「だって春日井くんと一緒にいないせいで、今、秋月くんがフリーじゃん? みんなこの文化祭で仲良くなりたいなぁって狙ってるんだよぉ」
聞き捨てならない。坂上の言葉を聞いた途端に、嫌なモヤモヤが胸に広がった。そんなおれの顔を覗き込み、吹き出すように坂上が笑いだす。
「大丈夫だよ〜! 春日井くん以上に秋月くんを追い掛け回してる人、絶対いないからさ~。今日こそ鬼ごっこ、勝てるといいねぇ」
「つかまる気がしないよ。慧は午後には委員会の仕事に行っちゃうだろうし」
「なら、午後まで待たなきゃいいのさ~! 人も来ないし、ここはあたしに任せて行ってきなよ、相棒~」
ひょいと机から飛び降りて、坂上は芝居がかった動作で教室の扉をくいと指す。
「ありがたいけど、いいのか?」
「いいってことよ~。元はと言えば、あたしが春秋コンビが付き合ってるみたいなんて言ったせいで秋月くんが変に気にしちゃったみたいだからさぁ。ふたりがギスってると、胸が痛むわけよ~。文化祭マジックでさくっと仲直りしちゃってぇ!」
別に坂上のせいではないと思うけれど、慧とこのままぎくしゃくしているのはおれも嫌だ。
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな。ありがとな、坂上」
「どういたしましてぇ。頑張ってね~」
スタッフの名札を胸から取り去ったおれは、「ファイト〜」という気の抜けるような坂上の声援を背中で受けつつ、教室の外へと飛び出した。
🐕 🐩 🐕
昼の空が目に眩しい。ざわざわと騒がしい屋台の通りをかき分けながら、おれはまっすぐに廊下を進む。
目指すは犬たちの尻尾が揺れる中庭だ。
段ボールを二段抱える上級生をささっと手伝い、迷子と思わしき子どもをキッズルームへと送り届けて、道中で出くわした問題に対応しつつ、おれは渡り廊下を抜けて中庭に出る。
模擬店が立ち並ぶ渡り廊下とは打って変わって、保護犬譲渡会が行われている中庭に入ると、客の年齢層は一気に上がる。
おれが中庭に踏み込むと、看板犬こと花子が真っ先に気づいてくれた。家族連れの手を離れ、ふさふさと尻尾を揺らす花子は、おれと目が合うなり、にぱっと花開くように笑ってくれる。
花子を撫でつつ、クラスメイトや『いぬかいの小屋』のスタッフたちに挨拶をしていると、少し離れたところでたこ焼きを食べている犬養さんを見つけた。いつも通りの派手なオレンジのツナギ姿に、イベント仕様と思わしき肉球印のカウボーイハットが良く似合う。
「お疲れ様、光太くん。慧くんなら、ちょうど保健室にいったところだよ」
おれが聞くより前に、犬養さんは校舎を指差しながら教えてくれた。
保健室という言葉に、おれはしぱしぱと目を瞬く。
「あいつ、どこか怪我でもしたんですか」
「いやいや。学生さんでひとり、具合が悪くなってしまった子がいてね。保健室まで送ってくるって、慧くんが真っ先に動いてくれたんだ」
そう言いながら、犬養さんは何かを思い出したように苦笑する。
「君たちは本当に優しくて、似た者同士のふたりだね。光太くんもさっき迷子の子を送ってあげていただろう? 本当にいい子たちで、私も勝手に鼻が高いよ」
どうやら見られていたらしい。なんとなく気恥ずかしくて頭をかくと、犬養さんは微笑ましいものを見るように目を細めた。
「慧くんと仲直りできるといいね」
「喧嘩したわけじゃないんですけどね……」
「でもここ最近ずっとぎくしゃくしているだろう? 夏休みの時くらいからかな。何かあったんじゃないのかい」
ボランティアの時は普通にできていたと思ったのに、犬養さんにはバレていたらしい。昔から変わらず優しい犬養さんの顔を見ていると、弱音を吐きたくなってくる。
「……多分、おれが何かしたんだと思います。慧は理由もなくこういうことをするやつじゃないから。でもどうしたらいいのか、本当はおれ、よく分からないんです。話さなきゃとは思うんですけど、何を話したらいいのかもよく分からなくて。このままずっとこうなのかな……」
夏休みの最後の日、慧は「何も言わなくて大丈夫」だなんて言っていたけれど、全然大丈夫じゃない。
慧が何を考えているのか分からない。ずっとこのままだなんて、考えるだけでも嫌になる。
おれがしょんぼりと下を向くと、犬養さんは力強く両手で肩を叩いてくれた。
「そう悲しい顔をするものじゃないよ。今言ったことをそのまま正直に伝えてみればいいんだよ。それに、言葉がうまく出てこないときは、無理に言葉にしなくたっていいんだ。誰かと仲良くなる方法を、私たちは誰より教えてもらっているだろう?」
「教えてもらってる……?」
「そう。――犬たちに!」
ちらりと犬養さんが花子に目くばせする。心得たとばかりに、花子は素早くおれの腿に前足を掛けた。
「わ、花子! 何だよ」
ぶんぶんと尻尾を振りながら、花子はつぶらな瞳でおれを見上げてくる。わしわしと首元を撫でてやると、お返しとばかりに花子は湿った鼻を手にも頬にも押し付けてくる。暑苦しいくらいに全身で伝えられる愛情は、まさに犬たち特有の愛情表現だ。
いつの間にかおれは、花子につられるように笑っていた。
「あははっ、くすぐったいって」
「うん、いい顔だ」
満足そうに犬養さんはにこにこと笑う。花子を座らせながら、犬養さんは悪だくみをするようにちらりとおれを見た。
「大事な話をするには、まず笑顔がないとね。大好きだって全身で伝えられると、顔も心も自然に緩んでしまうだろう?」
「あ……。そうですね。本当にそうだ」
犬たちはいつでも全身で愛情を伝えてくれる。だからおれも全力で犬たちに向き合いたくなるし、悲しいことも嬉しいことも、犬たちの前では隠さずにいられる。
おれは犬ではないけれど、ずっと犬と近しく生きてきた。犬たちが教えてくれたことを、おれが実行せずしてどうするのだ。
「おれ、慧を探してきます」
言葉はするりとこぼれ出てきた。
「――おれ、慧が大好きなので! とりあえずそれだけでも伝えてきます!」
「そうかい、そうかい」
犬養さんは嬉しそうに笑った。前に『好き』の種類について犬養さんと話をした覚えがあるけれど、おれの『好き』がどんな『好き』なのか、犬養さんは聞かなかった。代わりに犬養さんは、ただ優しく笑って、いつものようにおれを見送ってくれる。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
犬養さんと花子に手を振って、おれは保健室目掛けて駆け出した。
🐕 🐩 🐕
「――やっと来た。遅かったね、春日井」
保健室の中では、青白い顔をした中野がひとり、ベッドの上で身を起こして待っていた。そろりとベッドの脇に近づきながら、立ち上がろうとする中野を手で制する。
「寝てていいよ。倒れたのって中野だったのか。大丈夫か? つーか、保険医の先生は? それに、遅かったねって?」
「一度に聞きすぎ。私は貧血起こしただけだから大丈夫。先生は今、トイレに行ってる」
耳に髪をかけながら、中野はクールに口角を上げた。
「遅かったねっていうのは、春秋コンビの隠れ鬼が始まったって、咲菜が連絡くれたから。そのうち春日井もここに来るだろうなって思って、待ってたの」
「そりゃどうも」
咲菜というと、坂上か。抜かりない。ピースをする坂上の姿が目に浮かぶようだった。
「でも、隠れ鬼って?」
「言葉のとおり。最近は毎日追いかけっこしてたじゃん。春日井はいっつも鬼で可哀想だね」
「そう思うなら、いい加減観念しろって慧に言ってくれよ」
「自分で言えば?」
すげなく返して、中野はごそごそとポケットを探ったかと思うと、パッと何かをおれの前へと差し出してきた。
小ぶりなロボット型のキーホルダー。いつも慧が持っていたものだ。
「秋月くんに返しておいて。さっき、落としちゃったみたいなの。あと、ついでにありがとうって伝えておいてくれる? 手間かけさせちゃったのに、お礼を言う間もなかったから」
「慧、そんなすぐに出て行っちゃったのか?」
礼を告げる間もないほどと言ったらよっぽどだ。キーホルダーを受け取りながら尋ねると、中野は疲れた様子で肩をすくめた。
「文化委員の先輩に連れてかれちゃった。人手が足りないとか言ってたけど、大方一緒にお化け屋敷回りたいだけでしょ。『暑いの分かってたのになんで水飲まないの』とかってねちねち言われて嫌な思いしたし、引くくらい秋月くんとべったりなところ見せつけて、他人が入る余地なんてないってこと、分からせてやってよ」
おれに慧のキーホルダーを渡しながら、中野はニヤリと口角を上げた。
「べったりって言うほどべったりしてないだろ、別に」
ここ最近はむしろ避けられているし。
おれがそう抗議すると、中野はとんでもないバカでも見るような冷たい目をおれに向けてきた。
「秋月くんに『そのキーホルダーいつも付けてるよね』って聞いてみたことがあるの。そうしたら、なんて言ったと思う? 『昔、光太にもらったんだ』って言ったんだよ」
「えっ、おれ?」
ぽかんとしながら自分を指さす。おれの動きと連動するように冷たさを増した中野の視線は、もはや氷そのものと言っても過言ではない。
「貴重なものだから大事にしろ、毎日つけろって言ったらしいじゃん。当の本人は丸っと忘れてるのに、律儀に約束守って大切にして、秋月くんも報われないね」
「げっ、約束? えーっと……」
慌てて記憶を探るおれに、中野は呆れきった声で追撃してきた。
「十歳の時の誕生日プレゼントだったって言ってたよ」
その言葉を聞いた途端、ぱっと脳内に記憶がよみがえってきた。
「ああ、あれか!」
家族旅行に行ったとき、たまたま高性能な土産物を見つけたのだ。ライトにもなるし、当時のおれの目には格好良く見えたロボットのネックレス。慧にやりたいと思って、小遣い全部を使って買った覚えがある。
今はキーホルダーになっているようだが、チェーンが壊れても、慧は律儀に使い続けてくれたということだろう。
「物持ちのいいやつだなあ。まさかまだ持ってると思わなかった」
「サイテー。自分で言ったことも忘れるなんて、ほんっと最低」
返す言葉もない。
中野はやさぐれた様子でフンと鼻を鳴らして、独りごとのように何かをぼそりと呟いた。
「私、結構本気で秋月くんのこと好きだったのに。そんなの聞かされる身にもなれって話だよ」
「え? 何? 何か言ったか?」
「……何でもない! 早く行ったら? ぐずぐずしてると、秋月くん、また別のところに行っちゃうよ」
それはたしかにその通り。粛々とカーテンを引いたおれは、去り際、ベッドに横たわる中野を振り返る。
「ありがとな、中野。休んでたのに、邪魔してごめん」
「別に。私が勝手に起きてただけだし。秋月くん、捕まるといいね」
ぶっきらぼうに応援してくれる中野に、おれは「頑張るよ」と手を上げた。
🐕 🐩 🐕
かくしておれの慧探しこと、校内ひとりオリエンテーリングの最終目的地は、旧校舎となった。
本校舎と比べると出し物の数は少ないとはいえ、広い旧校舎の中のどこに慧がいるか分からない。手当たり次第に探していくつもりだったが、意外にも慧の姿はすぐに見つかった。
「ねえ、秋月くん。せっかくだから次は脱出ゲームも一緒に行かない?」
「いえ、そろそろ俺もクラス展示に戻らないといけないので。先輩もご自分のクラスに戻られた方がいいんじゃないでしょうか。人手、足りてないんですよね?」
「大丈夫。秋月くんが手伝ってくれてた間に、代わりの人が来てくれたから。……そうだ! その分のお礼もさせて。ね? いいでしょ?」
「いえ、そんな。お気遣いなく」
絡まれている。いかにも肉食系の女性の先輩にがっつり腕を組まれた慧は、逃げようにも逃げられないのか、笑みを引きつらせて困り果てていた。
おれよりよっぽど頭が回るはずなのに、慧は勢いで押してくる相手には弱いのだ。要はヘタレというやつである。
「慧」
手を振りながら、おれはお化け屋敷の前へと近づいていく。
今日という今日は逃がさない。そんなおれの決意を読み取ったのか、おれと目が合った瞬間、慧は「すみません」と一言傍らの先輩に謝って、腕を振りほどく。そして即座にくるりとおれに背を向けた。
「あっ! ちょっと、秋月くん?」
「用事を思い出しました!」
「うそつけ、バカ慧! つかまえたからな! 逃がさない!」
「まだつかまえてないだろ!」
ひと言応酬し合って、おれたちは人混みの中を駆けだした。
周りの人たちにとってはいい迷惑だったろう。申し訳ないとは思うが、おれもなりふり構っていられないのだ。許してほしい。
このままずっと慧とぎくしゃくしているのは、どうしても嫌なのだ。
「逃げるな、慧!」
「じゃあ追いかけてくるんじゃない!」
「やなこった!」
おれたちはふたりとも帰宅部だが、伊達に普段から犬の世話をしているわけじゃない。体力にだけは自信がある。
真っ昼間の一番暑い時間帯に、おれたちは全速力で追いかけっこをした。関係者以外立ち入り禁止と書かれた黄色いテープを乗り越えて、慧は旧校舎の階段をぐんぐんと上っていく。
「優等生がそんなことしていいのかよ!」
「うるさい!」
もはや向こうもやけくそだ。慧がこうまで声を荒げるのは珍しい。
そんなにも余裕を失うほど、慧が何をひとりで思いつめてきたのか、おれはどうしても問いたださねばならない。
古びた静かな校舎の中を、おれたちは縦横無尽に駆け巡る。展示会場になっている本校舎とは違って、旧校舎は一部を除いて、基本的には物置きだ。人気なんてあるはずもなく、おれたちがいくら走り回ったところで気にする人は誰もいない。
こちらの体力切れを狙っているのか、慧は階段を上がり切った直後に、今度は校舎の外側にある非常階段を下り始めた。
一段とばしに階段を下りる慧を見ていると、少しだけ嫌な予感がしてくる。
スプレーやペンキを使った作業は、だいたいみんな、匂いを嫌って外でやる。非常階段の踊り場は、格好の作業場所なのだ。
当日に展示物の用意をする生徒は普通ならいないかもしれないが、何しろ穂波高校が掲げる校風は『自由』である。当日の思い付きで、誰が何をやっていたっておかしくない。
カラフルに染まった踊り場を駆け抜けた慧は、二階へ降りた勢いのまま、一階に続く階段に踏み込んだ。その瞬間、ずるりと慧の足がペンキで滑る。
「……っ!」
「慧!」
がくりと体勢を崩した慧に、おれは飛びつくように手を伸ばす。
なんとか慧の肩口を掴み、踊り場の方へ引き戻したまでは良いものの、踏み込んだ位置が悪かった。慧の二の舞を踏んだおれは、それは見事に絵の具に滑ると、階段に向かって頭から突っ込んでいく。
「やべ……っ」
体勢が良くない。頭を打ったら、それこそ小学生の時の転落事件の二の舞だ。
迫りくる階段がスローモーションのように目の前に広がっていく。事ここに至っては、おれにできることはせめて打ち身か脱臼で済みますようにと祈ることだけだ。ぎゅっと身を竦めたおれは、衝撃に備えて目をつむる。
「光太!」
悲鳴のような声が聞こえた。焦りきった慧の声を聞いた瞬間、昔、崖から落ちたときの記憶が走馬灯のようにあふれ出す。
力強い手がおれの腕を掴む。肩が抜けそうなほどの痛みを感じた直後に、ドゴンと重苦しい音が間近で聞こえた。
したたかに打ち付けた膝の痛みに涙ぐむ間もなく、全身を強く抱きすくめられる。
「う……、え?」
階段を転げ落ちたにしては軽すぎる衝撃だ。おそるおそる目を開けると、慧の白いシャツが視界いっぱいに広がっていた。
ぎりぎりのところで、慧がおれを踊り場に引き戻してくれたらしい。ドゴンという音は、おれを抱きかかえるようにして倒れ込んだ慧が、階段の手すりにぶつかった音だったようだ。
「あ、あ、あぶねー……。ありがとう、慧」
ドキドキとやかましく響く鼓動を宥めつつ、おれは引きつった声で礼を言う。途端に、怒鳴り声が降ってきた。
「……バカ光太!」
思わずびくりと身を竦める。
「なんで光太は、いつもいつもそういう危ないことばっかりするんだよ……っ!」
「おれだってしようと思ってしてるわけじゃねえもん! 体が勝手に動くんだよ」
「バカじゃないのか! 考えて動けっていつも言ってるだろ! 滑ったって、俺は階段から落ちるほど間抜けじゃないんだよ! あんな危ないやり方で助けてなんてほしくない!」
慧の声は聞いたこともないくらい感情的だった。ともすれば、涙さえ混ざっていたかもしれない。
「……しょうがないだろ。だっておれ、慧が大事なんだから」
「……っ、俺は自分だけ助かったって嬉しくないって言ってるんだ!」
顔を上げると、悲痛に顔を歪めた慧と目が合った。幸いにも泣いてはいなかったが、怒りなのか悲しみなのか、何なのかも分からない激情でゆらゆらと瞳が揺れている。
その目を見た瞬間、あ、と思った。
「……思い出した……!」
そうだ。五年前は校舎ではなく裏山で鬼ごっこをしていたけれど、あの時だってこうだった――!
五年前、おれから逃げようとした慧は、おれの目の前で崖から落ちた。おれは慧を守ろうとして、腕を掴んで、空中で必死に慧を抱き込んだのだ。
今日の十五歳の慧には、十五歳のおれと自分を両方助けられるだけの力があった。
でも、五年前の十歳だったおれには、自分も慧も助けるだけの力はなかった。
ふたり揃って崖から落ちた。せめて慧の怪我が浅くなるように、自分の体で庇うことしかできなかった。
どうして忘れていたのだろう。
好きな人はと尋ねたおれに、「俺をつかまえられたら教えてやる」と、小学生の慧は言った。
ズルいごまかし方をしたおれの言葉をそのまま信じて、両想いだと誤解して、幸せそうに笑っていた。
おれが何も言えなかったせいで、慧を死ぬほど悲しませた。
熱っぽい目で見られてびっくりしたけれど、あの時だって、おれはかけらも嫌だなんて思わなかった。その理由が今なら分かる。
――光太、……光太! いやだよ、起きろよ……!
――ごめん。……ごめん、光太……、俺のせいだ。全部、俺のせい……!
――今、人を呼んでくるから。絶対に助けるから。
――大丈夫。もう大丈夫だから。
ゆらゆらと揺れる瞳も、泣きそうな声も、覚えている。心の一番深いところに、ちゃんと残っている。
慧はいつだっておれを助けてくれる。安心をくれる。言葉にすることだってためらわない。
それならおれも、同じことをしなくては。
「ごめん、慧。今まで本当にごめん。全部、やり直させて」
「やり直し……? 何の?」
「五年前の隠れ鬼の時から、全部」
慧は何のことやら分からないとばかりに、おれを抱き込んだまま顔いっぱいに疑問符を浮かべている。
そんな慧に構わず、おれは幼いころにそうしたように、ぎゅうと両腕を慧の体に巻き付けた。
「覚えてるか、慧? おれが慧をつかまえたら、好きな人を教えてくれるって約束だった。五年前の約束だ」
つかまえた、と小声で耳元に囁くと、ようやく慧はおれが何の話をしているのか気づいたらしい。ぴしりと体を硬直させた。
「――いや! あれは子どもの時の話だから! 忘れてくれって言ったじゃないか……!」
「おれが忘れたくないんだ。ずっと忘れててごめんな。今、全部思い出した。ようやく思い出したんだ」
「今……? 前に思い出したって言ってなかったか」
慧がぽかんとおれを見つめる。おれもぽかんと慧を見返す。
「前? いつの話だよ」
「俺の部屋に来たとき」
なるほど、どうやらおれたちはそこも食い違ってしまっていたらしい。
思い込みの激しい慧と、咄嗟の状況になると言葉が出ないおれは、いつもこうだ。おれたちは多分、言葉が足りていなさすぎる。
「……ああもう!」
頭を掻きむしりたい気持ちになった。
こうなればヤケだ。格好よく言おうだとかちゃんと話をしようだとか、そんなことを考えるからうまく行かないのだ。不格好だろうが、一番大事なことを伝えなければ始まらない。
鼻先が触れ合うほど近くで慧を睨みつけ、おれは掠れた声で告白する。
「おれ、慧が好きなんだよ。大好きだ。ずっと一緒にいたい。このままぎくしゃくしてるの、嫌だよ。前みたいに、ふたりで何でもしたいんだ」
「分かってる。俺がうまくできないだけだ。……ごめん、光太。前みたいに友だちの距離でいたいって、俺だって思ってる。でも、近すぎて苦しいんだ。光太が忘れてくれてた時にはちゃんとできたのに、今は……」
だめだ。何も伝わっていない。
なまじ五年前に『好き』の食い違いを起こしてしまったせいで、おれがいくら好きだと言っても、慧は友だちとしての好きだとしか受け取ってくれない。
どうしたら伝わるんだろう。何を言えばいいんだろう。伝えたいのに、うまい言葉が見つからない。
ぐるぐると空回りする頭で思い出したのは、ここに来る直前に贈られた、花子の生暖かく湿った鼻チューの感触だった。
そうだ。言葉にしなくたって伝えられる方法はあるじゃないか。
「大丈夫だから、光太。うまくできないのは、今だけだから。近すぎるなら、環境を少し変えればいいだけだ」
ぐだぐだと何かを言っている慧の胸倉をおれはむんずと掴んで引き寄せる。
「だから――んぅ!?」
がつりと音を立てて、唇と唇が重なった。勢いよく歯と歯がぶつかったせいで、間に挟まれた唇が最悪に痛い。
慧がまんまるに目を見開く。キスのやり方なんて知らない。したこともない。でも、たまたま当たっただけだなんて間違っても思えないよう、おれは必死に自分の唇を慧のそれに押し付けた。
息が苦しくなるまで押し付けて、ゆっくりと唇を離していく。
「……な、な、何……っ、え? 何?」
慧は面白いくらいに動揺していた。ほんのりと血の滲んだ唇をぱくぱくと金魚みたいに開閉しながら、信じられないものでも見るような目でおれを見ている。
「無理やりでごめん。でもおれ、慧が好きなんだ……! 鼻チューだけじゃ足りない、そういう好きに、もうなった。分かってくれよ……!」
慧のせいだ責任を取れと言ってやりたい気もしたけれど、おれが勝手に好きになっておいて慧のせいにするのは、さすがに筋違いだ。
「え、あ……、好き? え? 夢? 現実?」
ボケたことを言い出す慧に、ぐいと鼻先を押し付け、犬のようにすり寄せる。
「……わっ」
「現実に決まってるだろ。慧がまだおれのこと、昔と同じ意味で好きでいてくれるなら、慧の好きなひと、もう一回教えてくれよ……!」
支離滅裂だ。自分でも分かっている。
それでも伝えたかった。伝えないといけないと思った。
慧の顔は茹でダコみたいに赤かった。おれの頬も、大概に熱かった。そろり、そろりと慧は確かめるようにおれの頬に手を這わせていく。じっと待っていると、慧は泣く直前みたいに唇を震わせながら、ようやく五年前と同じ言葉を紡いでくれた。
「こ、光太」
「おれが、何?」
「光太が好きだ……! ずっと、ずっと好きだった……!」
おそるおそるといった調子で背に回ってきた腕は、やがて痛いくらいの強さでおれを抱き寄せる。ばしばしと慧の背中を叩きながら、おれは苦い思いでかすかに笑った。
「……じゃあおれたち、今度こそ本当に両想いだな。もう逃げるなよな。慧に避けられるとへこむから」
「うん。ごめん」
へなへなと全身から力が抜けた。散々走り回ったツケが今になって吹き出てきたのか、体が一気に重くなる。遠慮なしに慧に体重を預けて初めて、おれは自分がひどく緊張していたことに気がついた。
どこもかしこも熱い慧の体温を確かめながら、おれはぽつりと口を開く。
「……なあ、さっきも今までも、いつも助けてくれてありがとうな、慧。五年前も、犬養さんたちを呼んできてくれてありがとう。慧もおれの大恩人だった」
言えよな、と慧の肩口に顔を埋めながら告げると、慧は力なく首を横に振った。
「恩人なんかじゃない。元はと言えば全部俺のせいなんだから」
おれが慧を庇おうとしたことを言っているのかと思ったけれど、どうやらそれだけではないらしい。懺悔でもするかのように、慧はぼそぼそと話し出す。
「昔、裏山で遊ぼうって光太を誘ったのは俺なんだ。覚えてないか?」
「そうだったっけ」
「そうだよ。俺、光太に他に仲のいい友だちができるのが嫌だった。校庭で遊ぶと知らない間に遊ぶ人数が増えてたし、光太は俺以外ともよく話してたから、邪魔の入らない場所で、ふたりだけで遊びたかったんだ。裏山は俺たちの家の近くだし、他の誰にも邪魔されない。だから、危ないって分かってたけど、光太を裏山に誘った」
「……ふうん?」
おれは釈然としない気持ちで慧の言葉を聞いていた。
おれから見たら慧の方がよほど人に囲まれていたし、寄ってくる連中やおれに話しかけてきた連中は、おそらくおれ経由で慧と仲良くなりたがっていただけである。だからこそおれも、慧を独り占めできる裏山での遊びが大好きだったのだから。
「言い始めたのが慧だろうが、裏山に行ってたのはふたりで決めたからだろ。なんで全部慧のせいになるんだよ」
「だって、入るなって言われたところに光太を連れて行った挙句に、俺が変なこと言ったせいでああなった」
「それを言ったら、おれが最初に紛らわしいこと言ったのが悪いだろ。ふたりで落ちてふたりとも助かったんだから、その辺はもういいんじゃね?」
「でも――」
おれがいくら言葉を重ねても、慧は納得できないらしい。変なところで頑固なやつだ。
「慧は考えすぎなんだよ」
顔を上げて、おれは慧をじとりと睨む。
「光太が考えなさすぎるんだ」
やり返すように、慧もおれを睨み返してきた。
文化祭の喧騒が遠くに聞こえる。吹奏楽部の奏でる軽やかなマーチが、楽しげな手拍子とともに響いてくる。
しばらく睨み合ったあとで、おれたちは同時に吹き出した。
「――おれが考えなさすぎって言うけどさ、アホみたいに散々逃げ回ってたのは慧だろ! 慧のせいでおれ、山本先生にまでかわいそうなやつ扱いされたんだからな!」
「バカのひとつ覚えみたいに光太が追いかけ回してくるからだろ。俺はちょっと距離を置こうとしただけなのに、後追いしてくるそっちが悪い」
「勝手に距離なんて取ろうとするからだ、バーカ!」
げらげらと笑いながら、おれたちはゆっくりと立ち上がる。ペンキ塗れになった互いの姿をひとしきり笑い合ったあとで、おれたちは手すりに腕を預けるようにして、横並びに立った。
「慧が特進クラスに行く気なら、おれも行くからな」
おれが宣言すると、慧は驚いたように目を見張った。
「気づいてたのか」
「坂上と話してて気がついた。おれから逃げられると思うなよ!」
じとりと睨むと、慧は決まり悪そうに目を逸らした。
「……もう逃げないよ」
「当然だ。おれが考えなさすぎで、慧が考えすぎなら、ふたり合わせたらちょうどいいだろ? 目指すものが一緒なら、せっかくなら大学も一番いいところを一緒に目指そう! それならいいだろ?」
「一番いいところって?」
「北大」
「……漫画読んだろ」
読んだ。家の本棚にあった。
北海道の獣医学部を舞台にしたコメディ漫画は、かなり年季が入っていた。多分、物持ちのいい父さんのものだろう。
――物持ちがいいといえば。
おれはロボットのキーホルダーをポケットから取り出すと、そっと慧に差し出した。
「落とし物。さっきはありがとうって、中野が言ってたよ」
「中野さんが拾っててくれたのか」
慧はほっとしたようにキーホルダーを受け取って、大切そうに手の中に閉じ込めた。
「それ、おれがあげたやつだよな」
くすぐったい気持ちになりながら問いかける。
おれが覚えていることが意外だったのか、慧がびっくりしたように肩眉を上げた。
「中野と話してて、思い出したんだ。ずっと大事にしてくれてたんだな」
下から覗くように慧の顔を見上げると、慧は決まり悪そうに目を逸らした。
「……光太が小遣い全額注ぎ込んだって言うから」
「貰いものは捨てられないもんな、慧」
「貰いものっていうか、光太が俺にくれた物だからだよ。大切にするに決まってる」
言った後で恥ずかしくなったのか、慧は照れ隠しのようにキーホルダーを手の中で転がした。
小さなボタンを押すたび、ロボットの目がピカピカと忙しなく点滅する。
五年前はネックレスだったキーホルダー。おれの記憶の中できらめいていたものは、当時の慧の胸元に下げられていた、このロボットのネックレスだったのだろう。小学生の時はスマホなんて持っていなかったから、日が沈んだ後の裏山で、慧はこのロボットを懐中電灯代わりに使っていたに違いない。
「今度はもっと良いもの用意するよ。もうじき慧の誕生日だしな!」
にかりと笑ってそう言うと、慧は泣き笑いのように唇を歪ませた。
「……これ以上ないくらい最高のもの、もう貰ったよ」
「へ?」
何のことかと慧を見つめる。慧はそれ以上言葉にせずに、黙っておれを見つめ返した。
潤んだ瞳は幸せそうで、見ているとおれまで嬉しくなってくる。
慧の手が頬に触れる。両手で掬い上げるようにおれの顔を上向ける。そこまでされてようやく、おれは慧の言葉の意味を理解した。
目を閉じた方がいいのかなあなんて頬を熱くしながら考える。考えた末に、おれはぼそりと慧を挑発した。
「間違えて鼻にするなよ」
「するか。光太じゃあるまいし」
おれは勢い余って歯をぶつけただけだ。鼻チューしかできなかったヘタレの慧と一緒にされたくない。
慧の後頭部に手を回す。近づいてくる顔を見ながら、おれはゆっくりと目を閉じた。
くすりと笑う気配とともに、唇に唇が重なった。
覚えたばかりのキスをして、おれたちはひっそりと笑い合う。
気の抜けた慧の顔はこっちが恥ずかしくなるくらい幸せそうで、でもきっとおれも同じような顔をしているのだろうなと思ったら、胸がいっぱいになった。
秋の空はどこまでも高く青く澄んでいる。
世界が輝いて見えるという言葉の意味が、初めて本当に分かった気がした。
