七月も後半になると、夏休みより前に地獄の時期がやってくる。
期末テストに初の模試。おまけに三者面談と文理選択。忙しすぎて、ろくに息をつく間もありやしない。
おれと慧はテスト前には一緒に勉強をすることにしているので、七月後半は散歩ボランティアの頻度を抑えつつ、真面目に膝をつき合わせてテスト勉強することに専念した。
けれど、そんな欝々しい日々もようやく終わる。
「――これで夏休みだ!」
通知表を右手に掲げて、おれは父さんの運転する車の後部座席で伸びをする。
何を隠そう、おれはつい先ほど母さんと担任の山本先生との三者面談を終えたばかりだった。土曜日の日程に当たってしまったのは災難だったが、終わってしまえば何でもいい。
「赤点もなかったし、頑張ったじゃない」
「よっぽど補習に出たくなかったんだな。光太にしては珍しい」
母さんと父さんは、そう言っておれをからかった。面談に出た母さんはともかく、運転手をわざわざ買って出た父さんは、おれをからかうためだけにわざわざ来たのかと言ってやりたくなる。
「珍しいってなんだよ。やるときはちゃんとやるよ、おれは」
下手に赤点を取ってしまうと補修だの追加の宿題だので時間が取られて煩わしいし、慧にテストでぼろ負けするのも腹が立つ。
「……赤点なんて一回しか取ったことないし」
「その一回で慧くんに泣きついたから、いつも一緒にテスト勉強してるんだもんな」
からからと父さんは笑う。おれはぐっと言葉に詰まった。
「今日は慧くん、車に乗せてあげなくてよかったのか? この後はふたりでまたボランティアに行くんだろう? 最近父さん、慧くんと会えてなくて寂しいなあ。家にも全然遊びに来ないし」
「慧の面談はおれの後だから。つーか慧んちだって親が来るんだから、おれたちと一緒には帰らないだろ、普通に」
「ああそっか、そうだったな。なんかもう第二の息子みたいなものだから、つい」
父さんはたまにボケたことを言う。おまけに一度何かが気になるとそこからどんどんと連想して色々聞いてくるものだから、正直おれは、父さんと話しているとちょっとイラつく。口にしようものなら「おっ、反抗期だ!」と喜ばれるから言わないが。
「面談といえば――」
ほらきた。
「光太は文系と理系、結局どっちにしたんだ?」
のん気な父の問いかけに、おれはべえと舌を出して答えた。そんなおれを見かねてか、母さんがそっと口を挟んでくる。
「まだ決めてないんだって。いつも通り、ぎりぎりまで考えたいみたい。お姉ちゃんはなんでもすぐに決めてたのに、姉弟で面白いくらい違うよね」
六つ上の姉の興味は外の世界に向いているらしく、今は国際協力事業団の職員として世界を渡り歩いている。たまにひょっこり帰ってきては変な土産物を置いていくので、おれから見たら自由気ままな変人でしかない。
「こだわりがないなら、光太も理系にしたらどうだ? 在宅メインの仕事に就けば、犬も飼えるぞ。預かりのボランティアもしやすいし」
「それも有りかもなあ……」
やりたい仕事を考えなければいけないと思っていたけれど、どんな生活をしていきたいかで将来を決めるのも有りかもしれない。
(慧はどっちにするんだろう?)
考え込むおれを呆れたように見て、母さんは雑に話をまとめた。
「なんでもいいけど、夏休みの間に決めておきなさいね」
「分かってるよ」
うんざりしながら返事をしつつ、おれはシェルターの犬たちに想いを馳せた。
進路の話は後回しだ。何はともあれ、テスト週間中ボランティアを控えていたおれは、とにかく犬に会いたくてたまらなかった。
🐕 🐩 🐕
保護犬のためのボランティア活動は色々ある。この間のように犬たちを散歩に連れて行くこともあるけれど、今日のおれの仕事は犬洗いこと、シャンプーボランティアだ。
おあつらえ向きに空は快晴だし、空気もからりと温かい。
「こんにちはー! シャンプー日和ですね!」
いそいそと扉を開けて、おれはいつも通りに榊のおばちゃんに挨拶をした。
「はい、こんにちは。晴れてよかったねえ、光太くん。今日はひとりなの?」
「慧は後から来ます。今日は三者面談だったんで」
返事をしつつ、おれは犬養さんの姿を探す。しかし、なにやら異様に人は少ないし、犬たちのシェルターも不自然に空きが多かった。
「なんか今日、人少なくないっすか? 犬も少ないし」
「ああ、みんな譲渡会に出かけてるの。夕方になれば帰ってくるよ」
譲渡会は、いわば保護犬たちと里親候補たちのお見合いパーティーだ。ホームセンターや町民会館、はたまたハウジングセンターなどの敷地を借りて、犬と人とが直接顔を合わせてお互いの相性を確かめる。保護犬の里親探しに欠かせないイベントでもある。
「おれも免許があればなあ」
犬養さんたちのように全部の仕事はできずとも、せめて犬たちの送迎くらいはしてあげられるのに。
おれがそうぼやくと、榊のおばちゃんは微笑ましそうにクスクスと笑った。
「あと何年かしたらいやでも大人になるんだから、焦らない、焦らない」
慰めとともにパイン飴を貰ったおれは、榊のおばちゃんからひと通りシャンプーボランティアについての注意事項を聞いた後で、他のボランティアさんたちと一緒に洗い場へ向かう。
犬を洗うのは、なかなかの大仕事だ。水に濡れるのが好きな子もいれば、洗われることをひどく怖がる犬もいる。
噛み癖のある子や、保護されたばかりの子は、経験豊富なスタッフやプロのトリマーさんが担当するので、未成年のおれが任せてもらえるのは、穏やかな老犬やシャンプー慣れした犬だけだ。
各自が担当の犬のシャンプーに取り掛かり始めると、洗い場にはデレデレとした声が飛び交うようになった。
「よーし、偉いぞ! 天才!」
「ちょっとだけ我慢してね。いい子にできて偉いねえ」
「すぐ終わるからね。……はーい、終わり! 偉かったね!」
おれもまた例に漏れず、水浸しの体をブルブルするビーグルに、「いい子だなー!」と全力で声を掛けた。にぱっと笑顔を浮かべたビーグルは、じゃれつくように濡れた体をおれの肩口へと押し付けてくる。
犬という生き物は、笑ってしまうくらいに感情表現が分かりやすい。シャワーを始めた直後は「どうしてこんな仕打ちをするんですか」と言わんばかりの虚無った目で恨めしげに見てくるくせに、おれたちが一声掛けるたびに犬たちの目は輝きを取り戻し、ついには尻尾を振って笑ってくれるようになるのだ。こんな素直な反応を返された日には、偉いと褒めて撫でたくなるのも当然である。
「はい、ドライヤーも終わり! 偉いぞ! あとは日向ぼっこしてしっかり乾かしてな」
疲れ切った顔の犬を洗い場の外へと送ったあとで、おれはふうと額の汗を手の甲で拭う。
ひと段落ついたところで辺りを見渡してみると、ボランティアで来ているトリマーさんが、仕上げのカットを始めている様子が目に入った。
カットは時間もかかるし、嫌がる子も多いので、里親さんの家へお試し同居に出掛ける直前の犬や、直近で譲渡会に参加する犬だけの特権だ。
(トリマーもアリだな)
トリマーボランティアさんの手でモデル犬のように生まれ変わっていく犬を見ながら、おれはうむむと腕を組む。ボランティアでも犬と触れ合うことはできるけれど、犬に関わる仕事を選べば、一日の大半を犬とともに過ごせるようになる。それは結構魅力的だ。
シャンプーボランティアを終えてシェルターに戻ると、散歩ボランティアの朝倉さんが来ていた。手にはリードを握っているが、何やらケージの前に座り込み、途方に暮れている様子である。
「モクレンちゃん。大丈夫だよ。ほら、お散歩に行こう? お散歩、好きだろう?」
情けない声で懇願する朝倉さんの前にいるのは、いかにもムスッとしているモクレンちゃんだった。初めて散歩に行った時から、モクレンちゃんは朝倉さんに懐いているように見えたのに、いったい何があったのか。
「どうかしたんですか?」
声を掛けると、朝倉さんは「ああ、春日井くん!」と弱りきった顔をしながら振り向いた。
「いや、それがね。モクレンちゃん、お散歩に行くのが怖くなってしまったみたいなんですよ」
しょんぼりとしながら、朝倉さんはおれがボランティアに来られなかったテスト期間中のことを教えてくれた。
「僕が悪いんです。あの後も何度かモクレンちゃんのお散歩を担当させてもらったんですけどね。前々回の時、車が来ているのに気づかなくて、クラクションを鳴らされちゃって……。音がよほど怖かったのか、モクレンちゃん、お散歩自体が怖くなってしまったみたいなんです」
「あー……なるほど」
このド田舎で狭い道をわざわざ通る車に出くわすこと自体が珍しいが、不幸に不幸が重なってしまったとしか言いようがない。
おれの記憶がたしかなら、モクレンちゃんは元々、犬が繁殖しすぎて手に負えなくなったという無責任な飼い主のもとから保護されてきた子だ。そういう悪環境から助け出されてきた子は繊細な子も多く、神経質なところがあったり、ちょっとしたことでトラウマがよみがえってしまったりすることも珍しくない。
「シェルターの前の道路が怖いなら、道路のないところで散歩してみるのはどうっすかね」
おれが提案すると、朝倉さんはパッと表情を明るくした。
「そうだね、場所を変えてみるのはいいかもしれない! 裏山の方なら車もめったに来ないし、ぴったりだ」
頷きあったおれたちは、さっと榊のおばちゃんのところへ行って、裏山方面への散歩許可を取りつけた。
「裏山ね。いいんじゃない? 猿に出くわさないように気をつけてね」
「はい。ちょっと歩いたら帰ってきます」
モクレンちゃんを抱き上げたおれたちは、榊のおばちゃんを交えて、一緒に散歩に連れていく犬を話し合った。モクレンちゃんと仲が良く、おおらかな犬がいいだろうということで、同行犬はミニチュアダックスフンドのマロンに決まった。
ぷるぷる震えるモクレンちゃんと、ぷりぷりとお尻を振るマロンを連れて、おれと朝倉さんは早速裏山に足を伸ばす。
裏山の麓に着いたところで、朝倉さんはそっとモクレンちゃんを地面に下ろした。
「ほら、モクレンちゃん。怖くないよ。匂いを嗅いでごらん」
モクレンちゃんはしばらく固まっていたが、マロンが自分の庭かのように辺りを駆け回っているのを見て安心したのか、ゆっくりと辺りの匂いを嗅ぎ始める。そんなモクレンちゃんをじっと見つめて、朝倉さんは嬉しそうに頬を緩ませた。
「ああ、よかった。獣道なら怖くないんだね」
「そうですね。……ビビりなのはどうしようもないみたいですけど」
アスファルトの上に居たときよりはマシだけれど、モクレンちゃんの様子はリラックスしているとは言いがたい。虫が近くで飛び上がるたび、身を震わせるビビりっぷりは、見ていて気の毒になるほどだった。小さな体で、こうまで神経質になってしまうなんて、過去にどんな生活を送っていたのだろう。
同じことを考えたのか、朝倉さんは悲しそうにぽつりと呟いた。
「こんな天使みたいな子たちを、どうして大切にできない人がいるんでしょうね」
譲渡会で里親を見つけても、毎週のように新しい保護犬はシェルターへとやってくる。もちろんやむを得ない経緯でやってくることもあるけれど、大半はそうではない。身勝手な人に振り回されて心に傷を負った犬を、これまで何匹も見てきた。
モクレンちゃんのように多頭飼育からレスキューされた犬もいれば、虐待をされていた犬もいる。無責任な飼い主に捨てられて、ガリガリの野犬として保護されてくる犬だって後を絶たない。
「ひどい話っすよね。動物のこと、動くぬいぐるみだとでも思ってんのかな」
「犬は家族なのにね」
しゅんとしながら語り合い、おれたちは獣道を歩くモクレンちゃんとマロンの後ろをゆったり歩く。
「そういえば、今日は秋月くんは一緒じゃないんですね。珍しい」
まるでおれと慧が四六時中一緒にいるかのような口ぶりだ。間違いではないけれど。
苦笑しながら、おれは榊のおばちゃんにも言った言葉を繰り返す。
「今日は三者面談だったので。慧も多分、そろそろ来てると思いますよ」
「三者面談ですか。懐かしいなあ」
「朝倉さんは文系と理系、どっちだったんですか?」
せっかくなので聞いてみると、朝倉さんは記憶を懐かしむようにゆっくりと瞬きをした。
「僕は商業高校だったから、はっきりした文理選択はなかったなあ。今も公務員をやってますし、文系理系とは無縁の人生ですね」
「文理選択、ないところもあるんですね」
「もちろん。ないところもありますし、理数科みたいにはじめから理系って決まってるところもあるし、そんな早くに進路を決めても仕方がないってことで、文理選択自体を廃止している高校も最近はあるって聞きますよ」
羨ましい。考える時間なんて、長ければ長い方がいいに決まっている。
「……うちの高校も文理選択なんてなかったらよかったのに。将来のことを考えて文理を決めろって言われるんですけど、やりたいことなんて、そんなすぐに分かんないっすよ」
おれがぼやくと、朝倉さんは人の良い笑顔を浮かべて「大丈夫、大丈夫」と優しく呟いた。
「難しく考えなくたっていいんです。将来やりたいことって、要はずっとやっても苦にならないことですからね。僕はこの町が好きだったので、ずっとここにいられる仕事にしました。春日井くんも、今自然にやっていることが、案外自分のやりたいことだったりするかもしれませんよ」
「自然にやってることかあ……」
いざ言われると難しい。
うんうん唸りながら考えていると、そんなおれを見かねたのか、朝倉さんはそっと言葉を足してくれた。
「これをやれって言われて抵抗があることは、つまりやりたくないってことだし、言われなくてもやってることは、自分が好きでやりたいことです」
「それで言うと、やっぱり犬関連ですね」
昔から、犬は当たり前におれの生活の中にいた。犬はもちろん、犬を通じて色んな人と話すのだって大好きだ。
おれがそう言うと、朝倉さんは嬉しそうに頷いた。
「春日井くんに向いていると思いますよ。獣医にトリマー、NGO法人……色んな仕事がありますし、夢が広がりますね!」
広がってもらっては困る。おれは選択肢を狭めて決めたいのだ。
そんな調子で朝倉さんとお喋りをしていたその時、どさりとおかしな音が聞こえてきた。
「モクレンちゃん⁉」
見れば、モクレンちゃんが地面に横倒しになっていた。がくがくと手足を震えさせながら、ぼうっと遠くの方を見ている。明らかに普通の状態ではない。
慌てて朝倉さんがモクレンちゃんのそばに膝をつく。おれもまた、何事かと様子を窺うマロンを押し留めつつ、おろおろとモクレンちゃんの様子を見守った。
「熱中症でしょうか? 拾い食いはしてないですよね?」
「ええ。おかしなことは何もなかったはずです。とりあえず、シェルターに連れて帰りましょう」
おれたちが話している間に、モクレンちゃんのけいれんはスッと何事もなかったかのように収まった。
よろよろと立ち上がったモクレンちゃんは、寝ぼけたような足取りで、ふらふらと辺りを回り始める。
「治った……のかな?」
首を傾げつつ、朝倉さんはモクレンちゃんに手を伸ばす。多分、抱き上げようとしたのだろう。
しかし、最悪のタイミングで邪魔が入った。
――ガガガッ。
カラスの声を濁らせたような耳障りな音が、木の上から落ちてくる。
喉を鳴らすような短い音の連なりは、あからさまな威嚇の声だった。
猿だ。近くの木の上に、小さな猿の姿が見える。いち早く姿勢を低くしたマロンちゃんが、勇ましくキャンキャンと木の上に向かって吠え始めた。
その声が決定打だった。
「ああっ、モクレンちゃん!」
ただでさえ神経質なモクレンちゃんは、猿とマロンの二重の鳴き声を受けて、パニックを起こしたらしい。じたばたとものすごい勢いで暴れたかと思えば、すっぽりとハーネスを抜けて、弾丸のように森へと飛び込んでいく。
「マロンを見ててください!」
咄嗟におれは、マロンのリードを朝倉さんに押し付けた。
さっきあんなにおかしな症状を見せていたのに、ここで迷子になるようなことがあったら、モクレンちゃんの命に関わるかもしれない。
助けなければ。その一心で、おれは日の落ちかけた森に飛び込み、真っ白な毛玉の弾丸と化したモクレンちゃんを全速力で追いかけていく。
しかし悲しいかな、不運に不運は重なるものだ。
森に飛び込んでほどなくして、雲行きがみるみる怪しくなってきた。大粒のぬるい雨を背に感じつつ、おれは必死にモクレンちゃんとの距離を詰めていく。
ようやく手が届きそうな距離にまで追いついたところで、おれはぎょっと目を見開いた。
モクレンちゃんが向かっているのは、崖だった。
「行ったらダメだ!」
飛びつくようにモクレンちゃんを制止する。ずるりと足元が滑る嫌な感触がしたと思ったときには、おれの視界はぐるりと回って、黒い雨雲でいっぱいになっていた。
🐕 🐩 🐕
時をわずかに戻して、いぬかいの小屋にて。
よりにもよって土曜の午後の最終枠に三者面談を入れられてしまった慧は、ようやく『いぬかいの小屋』へと足を運ぶや否や、鬱憤を晴らすように野菜をざくざく切っていた。犬たちの夜ご飯を作るためだ。
一見するといつも通りの品行方正な優等生だが、その実、慧の内心は穏やかではなかった。
ひとえに、いつも一緒にいる幼馴染の姿が見えないためである。
(光太、何もやらかしてないといいけど……)
アスファルトを怖がるモクレンちゃんのため、裏山まで散歩に出ていったとは聞いている。けれどそれにしては、あまりにも戻ってくるのが遅いのではないか。
光太が目に入るところにいないと、不安で仕方がない。何しろあの幼馴染は、常に頭より先に体を動かす。
階段を踏み外した生徒を助けようとして足を捻挫したこともあれば、飛んできた硬球から人を守って、肩に青あざを作ったこともある。
光太というのは、いつだって自分のことは二の次で、目の前の相手を助けることしか考えないお人好しなのだ。
あの時だってそうだった。
ズキリと痛んだ肩をそっと押さえて、慧はちらりと窓の外に目を向ける。
日の暮れかけた空には、凶悪そうな雷雲が広がり始めていた。
「雨が降りそうだねえ」
犬養所長がひょこりとキッチンに顔を出す。肩を押さえる慧を見るなり、犬養所長は心配そうに眉尻を下げた。
「傷跡が痛むのかい」
うろうろと目を泳がせたあとで、慧はしぶしぶと肯定する。他人に弱みなんて見せたくはないけれど、犬養所長の前で強がったって意味がない。
「……そうですね。雨の降る前は、少しだけ」
「無理もない。深い傷だったものね」
「いいえ、軽い傷でした」
光太が負った怪我と比べたら、こんな傷、ないようなものだ。
この傷ができた日のこと――光太が崖に落ちて、救急車で運ばれた五年前のことは、あまり思い出したくない。考えるだけで、自分を殺したくなる。
ぽつり、ぽつりと雨が降り出す。あっという間に勢いを増す雨を見つめて、慧はそっと目を眇めた。
光太は大丈夫だろうか。雨で焦って走った挙句、転んで怪我をしないといいけれど。
「――ねえ、慧くん。ずっと気になっていたことがあるんだ。聞いてもいいかい」
犬養所長が静かに問いかける。慧が小さく頷くと、犬養所長は意を決したように口を開いた。
「どうして慧くんは、光太くんに本当のことを言わないんだい? 五年前の事故のとき、光太くんは私が彼を見つけたんだと思っているよね。私のことを命の恩人だと言って、好意を向けてくれている。でも、それは違うじゃないか。あの日、本当に光太くんを見つけたのは――」
「――犬養さんですよ」
皆まで聞かず、慧は淡々と犬養所長の言葉を遮った。
「あの日、崖から落ちた日、光太を助けてくれたのは花子と犬養さんです。光太がそう思ってるなら、それが全部です」
それに、と口には出さずに、胸中で呟く。
覚えていないなら、その方がいい。
勝手に両想いだと思い込んで好きだと言って、慧は光太を困らせた。自分が忘れてくれだなんて願ったせいで、光太は頭を打って、本当にあの時のことを忘れてしまった。
何もかもが自分のせいだ。もう二度と、あんな風に光太を困らせたくはない。
「……光太には言いたくないんです。子どもの頃の話とはいえ、恥ずかしくて」
目を泳がせながらそう言うと、慌てたように犬養所長は両手を振った。
「恥ずかしがることなんて何もないよ。あれは不運な事故だったんだから……。でも、慧くんが言いたくないなら、今まで通り秘密にしておくから。安心してね」
犬養所長は優しい人だ。ありがとうございますと礼を告げつつ、慧はポケットの中のロボット型のキーホルダーを握り込む。
苦い思いで笑みを浮かべたその時、ブブブ、とポケットの中でスマホが震えた。
光太からの着信だ。首を傾げながら通話アイコンをタップする。途端に、焦り切った光太の声が耳元で響いた。
『慧か? 今どこにいる? シェルターにいるか?』
「ああ、シェルターにいるよ。どうしたんだ」
『ちょっと色々あって……ああ、くそっ。どうしよう⁉』
どこまで散歩に行ったのか、光太の声は、やたら音質が悪くて聞き取りにくい。
ざあざあと激しく降る雨音に、ノイズじみた雑音が何度も混ざった。走っているのか、それとも別の理由があるのか、光太の息はおかしなくらいに弾んでいる。
嫌な予感がした。
『どうしよう、どうしよう。慧……!』
光太の呼吸がどんどんと早まっていく。耳を澄ませると、泣き叫ぶような犬の鳴き声がかすかに聞こえた。
やっぱり何かあったらしい。ぎゅっと眉根を寄せて、慧はできるだけ柔らかい声を作って光太を宥める。
「落ち着いて。今行くから。どこにいる?」
『や、山。裏山。表から入ってすぐのところに――あ、いや、モクレンちゃんを捕まえなくちゃと思って走ったんだ。でも土手から落ちて、だから、えっと』
相当混乱している。要領を得ない説明を遮って、「分かった。裏山だな」と慧は強引に言葉を被せた。
光太は自分の怪我には動じない。これだけ動揺しているところを見ると、一緒にいる犬の身に何かが起きたのだろう。
「後ろの鳴き声、モクレンちゃんだよな? 怪我してるのか? それとも何か起きたのか」
『けいれんして、泡を吹いてるんだ……! さっきもあって、二回目で』
「……てんかんかな。この時間ならまだペットクリニックも開いてるはずだ。大丈夫」
確証はない。けれど、この間読んだ本の中に、似たような症状が載っていた。
「大丈夫だから、光太。そのままそこから動くなよ。迎えに行くから、通話はこのまま――」
言いかけたところで、ぷつりと通話が途切れた。ツーツーと空しく響く電子音を聞きながら、慧はチッと小さく舌打ちする。
多分、電池切れだろう。光太はこういう時に限ってやらかすやつなのだ。
くるりと犬養所長に向き直り、慧は素早く状況を伝えた。
「裏山でモクレンちゃんの様子がおかしくなったみたいです。二度立てつづけにけいれんしたらしいので、病院に連れて行った方がいいかもしれません。車で来ていただいてもいいですか」
サッと表情を引き締めて、犬養所長は力強く頷いた。
「もちろんだよ。車を持ってくるから、少し待っててね」
「ありがとうございます。でも俺はいいです。先に行きます。花子を連れて行ってもいいですか」
言った瞬間、「呼んだ?」とばかりに、ひょこりと花子が扉から顔を出す。慧と目が合うや否や、花子は嬉しそうに尻尾を振った。
「『もちろん』だって」
犬養所長がくすりと笑う。
夕立はすっかりと止んでいた。
「私もすぐに後からいくから」
険しい顔をした犬養所長に頷き返して、慧は花子とともに、保護犬シェルターを飛び出した。
🐕 🐩 🐕
まずったなあ。
泥だらけになったおれは、土手に刻まれた無様な滑り跡を見上げて途方に暮れた。ぎりぎりのところでモクレンちゃんを抱き上げたはいいものの、ぬかるんだ地面に足を取られて、この様だ。
スマホは最悪のタイミングで電池が切れてしまったし、右足は嫌な感じにズキズキと痛んでいる。
加えてモクレンちゃんの状態も良くない。おれの足元では、ようやくけいれんの止まったモクレンちゃんが、ぐったりと横になっていた。呼吸が安定していることを何度も確かめ、おれは震える息を吐く。
「ごめんな。すぐ、迎えに来てくれるからな」
――大丈夫。
スマホ越しに聞いた慧の声を思い出す。
いつも通りの落ち着いた声だった。てんかんかもしれないと慧は言っていたし、動物病院へ連れて行ってあげれば、きっとなんとかなるはずだ。
「大丈夫。大丈夫だよ」
モクレンちゃんに言っているのか、それとも自分に言い聞かせているのか、自分でも分からなくなりそうだった。
「上に登っておこうな」
動くなとは言われたけれど、下に落ちたままでは、慧が探しに来てくれたとしても見つけられないだろう。
モクレンちゃんを抱き上げて、おれは草の生えた獣道をゆっくりと登っていく。夕立に降られたせいで、うっかりすると濡れた草に足を取られそうになるのが煩わしい。
大きめの段差に差し掛かったところで、おれは背伸びをしながら、近くのツタをぐっと掴んだ。
(昔、こういうところで慧と遊んだなあ……)
懐かしく思い返した瞬間、ぶちりと景気のいい音を立ててツタがちぎれた。
今日は厄日だ。
「……っ!」
片腕でモクレンちゃんをしっかりと抱きかかえつつ、おれは尻もちをつく覚悟を決める。
しかし幸運にも、おれが痛い目に遭うより前に、まるで野球のスライディングでもするような滑り込みの音が聞こえてきた。ぐっと腕を掴まれ、倒れ込みかけた体を引き戻される。
「バカ光太……っ! 動くなって言っただろ!」
その声を聞いた瞬間、体からふっと力が抜けた。
慧だ。本当にすぐ来てくれた。
「……先にモクレンちゃんを頼むよ」
「分かってる」
おれの腕からサッとモクレンちゃんを抱き上げた慧は、背負っていたペット用のキャリーバッグを下ろすと、手際よくモクレンちゃんを中に収めた。次いで、おれに手を差し伸べると、上に登る手伝いをしてくれる。
ふたり揃ってべちゃべちゃの地面に座り込んだところで、おれたちは示し合わせたようにため息をついた。
「……ありがとう、慧! 尻にでかい青あざができるところだった」
「こっちの身にもなってくれ。心臓が止まるかと思った」
「しょうがないだろ。意外とあのツタ、弱かったんだから」
「そんなものを縄代わりにするからだ」
なんでここが分かったのかと聞こうと思ったけれど、聞くまでもなく理由は分かった。ふすふすと鼻を動かす花子が、嬉しそうにおれの頬をぺろりと舐めてきたからだ。
「花子がおれを見つけてくれたのか?」
「光太をって言うか、多分、光太の持ってるジャーキーの匂いだけどな」
そう言われると、花子はやたらと熱心におれのポケットのあたりをふんふん嗅いでいる気がする。
散歩ボランティアをしていると、途中で歩くのに飽きてしまう子もいるので、そういう子を説得するため、おれはいつも犬用の菓子を持たせてもらっているのだ。
「ポケットに色々入れると落とすぞって言ってるのに。今回だけは光太のやらかしのおかげで命拾いしたな」
呆れのこもった慧の口調から察するに、どうやらおれは道中にジャーキーを零していたらしい。走るのに必死で気づかなかった。
お礼代わりに、おれは犬用ジャーキーを花子にひとつ食べさせてやる。
「ありがとう、花子。花子はおれの女神さまだ。おれが困った時には、いつも花子が見つけてくれるんだな!」
軽く首まわりに抱きつくと、花子はお返しのように湿った鼻を頬に押し付けてくれた。愛の鼻チューだ。
「慧もありがとう!」
「ありがとうは一回でいいよ」
花子にハグをした流れで慧にも抱きつこうとしたが、しかめ面で押しのけられてしまった。つれないやつである。
「モクレンちゃん、大丈夫かな」
慧が持ってきてくれたキャリーバッグの窓から、そっと様子を伺う。モクレンちゃんは視線はこちらに向けてくれたが、口がうまく動かないのか、ひくひくとまだ顔を引きつらせているままだった。
おれの横からモクレンちゃんを覗いた慧は、スマホで何やら動画を撮りながらも、落ち着いた態度で頷いた。
「少なくとも、今すぐどうこうって風には見えない。獣医さんに診てもらおう。犬養さんが車で迎えに来てくれる。朝倉さんが入り口で誘導してくれてるはずだ」
短い動画を撮り終わると、慧は誰かに電話を掛け始めた。どうやら、おれとモクレンちゃんを見つけた旨を、犬養さんに伝えているらしい。
さすがは慧。おれのやらかしの後始末なんて、手慣れたものだ。パニックになっていた自分が恥ずかしくなってくる。
犬養さんの通話を終えた慧をじっと見つめる。すると、おれがまだ混乱しているとでも思ったのか、慧は先ほどまでの塩対応とは打って変わった優しい手つきで、そっと背中を叩いてくれた。
「そんな心配しなくたって大丈夫だよ。犬養さんなら、モクレンちゃんをすぐに病院に連れて行ってくれる。だからもう大丈夫。な?」
聞いた途端に不安がすうっと消えていくような、優しい響きのこもった声だった。添えられた手の体温も相まって、うっかりすると目が潤みそうになる。慌てて涙を飲み下しつつ、おれはへらりと笑みを浮かべた。
「……そうだな。ありがとう、慧」
「うん。さ、行こう」
慧に続いて立とうとした瞬間、ズキリと足首が鈍く痛んだ。
「い……っ」
ふらつくおれに、慧は慌てたように手を伸ばした。
「足、ひねったのか」
「少しだけ。でもまあ歩けるから、平気だよ」
「動かさない方がいい」
平気だと言っているのに、慧はどうやら信じていないらしい。心配そうにおれを見たかと思うと、いいことを思いついたとばかりに、モクレンちゃんの入ったリュックキャリーを腹側に回して、そっとおれの前にしゃがみ込んだ。
「ん」
どうやら背負ってくれる気らしい。おれは顔を引きつらせて、「いいって!」と慧に抗議した。
「歩けるって言っただろ」
「いいから、早く。モクレンちゃんを病院に連れて行ってやりたいんだろ」
その言い方はずるい。
しぶしぶと慧の首に腕を回すと、ぐんと視点が高くなる。軽々と背負われたことが地味にショックで、おれは照れ隠しに悪態をついた。
「……背中、濡れてね? じっとりしてる」
「そりゃそうだろ。さっきまで雨が降ってたんだから。文句言うなよな」
慧はそう言うけれど、これが雨のせいでないことくらい、おれにだって分かる。一緒に来た花子がふわふわのままなのだから、慧だって雨に降られたはずがない。
慧の首筋にも額にも、汗の粒がいくつも見えた。
多分、電話で話してすぐに、慧は花子と一緒に全力で走ってきてくれたのだろう。花子は舌を出してへっへっと呼吸を弾ませているし、慧は慧で、抑えてはいるけれど、やはり息が上がっていた。
(カッコつけ野郎め)
こういうところが、慧がイケメンと呼ばれる所以なのだろう。胸がいっぱいになって、おれはぎゅうと慧に抱きつく力を強める。
「さっき、モクレンちゃんの動画撮ってたよな。なんで?」
無言で背負われているのも気恥ずかしくて、おれはなんとなく口を開いていた。
慧は理由のないことはしない。必要だから撮ったのだろう。思った通り、慧は「診察の役に立つかもしれないから」とさらりと答えた。
「けいれんにも種類があるんだって。口で言うより動画で見せた方が、獣医さんも分かりやすいだろ」
「そっか、てんかんかもって言ってたもんな」
モクレンちゃんが二度目にけいれんし始めた時、このまま死んでしまうのではないかと怖かった。けれど、慧が電話の向こう側で冷静に宥めてくれたから、あの時おれも落ち着けたのだ。
「……てんかんって、治るのかな」
「まずはちゃんと検査してみないと分からない。もし突発性のてんかんだったら、犬にはよくあることらしいし、薬で発作の頻度は抑えられるはずだ。きっと大丈夫だよ」
慧の淀みない言葉を聞いていると、本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。慧は物知りだから、知識に裏付けされた言葉には、自然と力が籠るのだろう。
おれもこうなりたい。こんな風に、犬も人も一緒に安心させてあげられるようになりたい。
そう思ったら、自然と言葉がこぼれ出ていた。
「……おれ、獣医になろうかな」
ただの思い付きだ。でも、いざ口に出してみると、なんだかとてもしっくりきた。
「うん。獣医学部に行きたいな」
「いきなりだな」
おれの唐突な言葉を、慧は驚くでもなく、自然に笑って受け止めた。
ちらりと慧がおれを見る。苦笑を滲ませるその目には、悪ガキのような色がほのかに浮かんでいた。その目を見た瞬間、おれはなんとなく慧の考えていることが分かったような気がした。
「なあ、慧もそうなんだろ。違うか?」
「なんでそう思うんだ?」
「てんかんかもしれないって、すぐに口に出てくるくらい勉強してるじゃん。それにおれたち、こういうときは似てるから」
咄嗟の時の行動や、やりたいことを決める時、いつもだいたいおれたちは同じことを考える。いままでもずっとそうだった。
おれがそう言うと、慧はくすりと笑って、「そうだよ」と頷いた。
「保護されてくる犬たちには、怪我や病気をしてる子も多いだろ。治してあげられたらいいのにって、ずっと思ってた。獣医が診るのは犬だけじゃないけどさ、獣医になりたいって、中学の時から考えてたよ」
やっぱりだ。ぼそりと返された言葉を聞いた瞬間、ぐわりと嬉しさが爆発しそうになった。
「だよな! そんな気がしたんだ。おれたちふたりとも、理系ってことだな」
「……ちゃんと考えたのか? 光太は流されやすいから、心配だ」
「保護者面するなよな。おれは直感で生きることにしてるんだ。これだって思ったら、それでいいんだよ。ピンときたことなら後悔しないから」
「適当だなあ」
話しているうちに、裏山の出口が見えてきた。
木々のトンネルをくぐり抜けるなり、犬養さんと朝倉さんが慌てた様子で駆け寄ってくる。
「ああよかった! 春日井くん、任せてしまって本当に申し訳ない。怪我をしたんですか? 大丈夫ですか? モクレンちゃんも……!」
慧に背負われているおれと、リュックキャリーに入ったモクレンちゃんを見て、朝倉さんは心配そうに眉尻を下げた。
「おれは足捻っただけなんで、心配しないでください。それより、モクレンちゃんをお願いします」
慧の背中から降ろしてもらい、おれたちはモクレンちゃんの入ったリュックキャリーを朝倉さんに手渡した。
褒めてと言わんばかりにしっぽを揺らして犬養さんに駆け寄っていく花子の横で、朝倉さんは涙ながらにリュックキャリーを抱きしめる。
「ごめんね、モクレンちゃん。僕のせいで、びっくりさせてばかりだね」
なんのことか分からないとばかりに、モクレンちゃんは朝倉さんをきょとんと見上げる。そんなモクレンちゃんの様子を確かめて、犬養さんは落ち着いた調子で頷いた。
「このまま病院に連れて行こう。クリニックの先生には電話しておいたから」
「よかった。ありがとうございます!」
「こちらこそ。モクレンちゃんを守ってくれて、ありがとうね」
泥だらけになったおれと慧をじっと眺めて、犬養さんはかすかに苦笑する。
「……昔を思い出すね」
言葉の意味がよく分からない。おれは首を傾げて、慧はふいと目を逸らした。
気分を切り替えるように、犬養さんはゆるゆると首を横に振る。そしてサッと車の鍵を取り出すなり、おれたち全員を『いぬかいの小屋』のワゴン車へと誘導した。
「さあ、行こうか。朝倉さんとマロンちゃんはシェルターに戻ってもらうとして、光太くんと慧くんは、今日はもうおうちに帰ろう。怪我の手当てをしないとね。親御さんにも説明したいし、家まで送らせてもらうよ」
その言葉に、慌てておれは待ったをかける。
「いいです! おれは勝手に転んだだけなんで。そんなことしてもらわなくても大丈夫ですから」
「私がそうしたいんだ。ボランティアをしてもらってた最中のことだし、光太くんのお父さんお母さんにはいつもお世話になってるからね。少し挨拶に伺うだけだから。ね?」
「……すみません」
しゅんとおれは小さくなった。
早く成人したいと思うのはこういう時だ。おれが勝手にやらかしたポカでも、その責任を取るのはおれではない。
縮こまるおれを慰めるように、慧はおれの腕をぽんぽんと叩いた。
🐕 🐩 🐕
朝倉さんとマロンをシェルターに届けて、車はおれたちの家へと向かっていく。犬養さんの運転する車がおれの家の前へと差し掛かるころ、不意に慧が「あ」と焦ったような声を上げた。
「どうしたんだよ。スマホ、裏山に置いてきちゃったのか?」
「置いてくるわけないだろ。光太じゃあるまいし」
どういう意味だ。
「そうじゃなくて、うちの家族、買い物に出るって言ってたなって。多分まだ帰ってきてないと思う。家出るとき、鍵を持ってくれば良かったな……」
しかめ面で慧は言葉を継いだ。そんな慧に、おれはにかりと笑いかける。
「皆帰ってくるまでうちにいればいいじゃん。泥だらけだし、ついでに風呂も入ってけば?」
二人目の息子と父さんが言っていたように、おれも慧も昔から家族ぐるみの付き合いだ。今さら遠慮をする理由もない。
もっとも、中学高校と進むにつれて慧が家に遊びに来る頻度は減っていたし、最近に至ってはおれの部屋に来るどころか、慧の部屋にすらいれててくれなくなってしまったが。
「家の前で待ちぼうけしてる方がおかしいだろ?」
渋りに渋る慧を、おれはそう言って説き伏せる。
「……じゃあ、少しだけ」
「決まりな!」
慧が頷いたのをいいことに、おれは意気揚々と自分の家へと慧を引きずり込んだ。
おれが怪我をした事情を、犬養さんは親に丁寧に説明してくれた。動物病院へ向かうモクレンちゃんと犬養さんを見送るなり、母さんは当たり前のようにおれと慧を合わせて風呂場に放り込む。
「ふたりともとりあえずお風呂ね。どろどろの体、綺麗にしなさい」
「いや、俺はあとでいいですから……!」
慧は必死に抵抗したが、押しの強い母さんに逆らえるはずもない。
「濡れたままじゃ風邪引くよ。湯船とシャワー、交代で使えばいいんじゃない? そうしたら洗濯物も一気に洗えるし、一石二鳥!」
高校生の男ふたりを一緒に風呂に押し込むのはどうかとおれでさえ思うが、母さんはいつまで経ってもおれたちに五歳児と変わらぬ扱いをしてくる。
「汚れ物は隅にまとめておいてね」
有無を言わさず言い残して、母さんはぴしゃりと風呂場の扉を閉めてしまった。
無言で慧と見つめ合い、おれはふるふると諦めを込めて頭を振る。
「……しょうがねえ。とっとと入っちゃおう、慧」
ひと声掛けて、おれはてきぱきと湯を張り始める。
小学生のころには、こうして二人して泥まみれになって風呂場に押し込まれるのは、よくあることだった。懐かしいなあと思いつつ、おれはさっさと汚れた服を脱いでいく。
「わ」
しかし、慧はおれがシャツを脱ぎ去った途端に、サッと不自然に目を逸らした。
「なんだよ」
「あ、ああ、いや、えっと……」
ガン見されてもそれはそれで気まずいが、そんな見てはいけないものを見てしまったかのような反応をされると、気になって仕方がない。
「……足! 痛めてるんだから、温めない方がいいんじゃないのか」
ごまかし方が下手すぎる。いきなり挙動不審になって、どうしたというのか。
首を傾げつつ、おれは早々に裸になって浴室に上がる。
「おれはシャワーだけにするから大丈夫。慧は湯船も使っていいからな」
「ああ、うん。ありがとう……」
足を捻ったとはいえ、見た感じそこまで腫れはひどくない。歩けないほどでもないし、これなら風呂上がりにテーピングをするだけで十分だろう。
そんなことを考えつつ雑に髪を洗っていると、慧もおずおずと浴室に入ってきた。所在なげに立ち尽くした慧は、まだろくに湯の溜まっていない湯船につかり、小さくなって膝を抱える。
「一緒に風呂入るって、なんか修学旅行みたいだな」
「光太は修学旅行で大風呂行ったことないだろ」
「……まあそうだけど!」
小学生のときは食べすぎて腹痛で寝込んでいたし、中学のときはタイミング悪く捻挫したばかりだったから、そもそも湯船に浸かれなかった。いかにも修学旅行らしい大浴場というイベントを逃し続けてきたのがおれである。
修学旅行と言えば――。
「なあ、慧が好きなやつって誰?」
びくりと慧が肩を揺らした。
修学旅行といえば恋バナ。単純な連想だ。聞こうと思ってタイミングを逃し続けてきた慧の恋の相手とやらを問い詰めるにも、絶好の機会に違いない。
「……いきなり何だよ」
「ずっと聞こうと思ってたんだ。見込みのない恋をしてるとか何とか、前に言ってたじゃん。相手、誰? 聞かせろよ。クラスのやつ? それともボランティアに来てる人?」
慧の性格からすると、こいつは見た目で惚れるというよりは、中身に惚れるタイプだろう。とすると、ある程度親交のある相手があやしい。
クラスメイトなら中野か坂上、ボランティアなら参加歴の長いベテランたちか。叶わぬ恋というからには、相手にはすでにパートナーがいるか、年が相当に離れている可能性もある。
にやりと笑って、おれは慧を振り返る。
「当ててやろうか。榊のおばちゃんか、犬養さんだろ!」
「……なんでだよ。そんなわけないだろ……」
慧は疲れたように肩を落とした。違うらしい。
「えー、じゃあ誰だよ。おれも会ったことあるやつ?」
「誰でもいいだろ」
「よくないよ。気になるじゃん」
叶わぬ恋だと慧は言うけれど、相手がどう思うかはまた別の話だ。
慧に恋人ができたらどうなるのかなど考えたくもない。慧は優しいから、誰かと付き合うとなれば、相手をとても大切にするはずだ。時間だってたっぷり使って、甲斐甲斐しく世話を焼いてやるに違いない。
登下校も昼飯もボランティア活動も今までずっとおれと一緒にしてきたくせに、ぽっと出の誰かがおれの立場を取っていくのかと思うと、想像するだけで胸がムカムカとした。どろどろとした焦りを腹の奥深くに押し込んで、おれは恋バナの体で探りを入れる。
「なあ、『好き』ってどんな感じ?」
「どういう意味だ」
「犬養さんがいつだか言ってただろ。誰かに惹かれる『好き』は、ほかの好きとは違うんだって。慧もそうなのか?」
「……しつこいな。なんでそんなに気にするんだよ」
なんでと言いたいのはおれの方だ。
だって、慧の一番の友だちはおれではないか。それなのに、慧の中にはおれの知らない『一番』がいる。ならばせめて、その想い人とやらの名前くらい教えてもらわなければ気が済まない。
背は高いのか。
足は速いか。
知り合ってどれくらい経つんだ。
どこで会ったんだ。
なんで好きなんだ。
あの手この手で言葉を変えて探っていると、何度目かの問いかけで、ようやく慧は観念した。
「ああもう、いい加減にしてくれ! ……同じクラスのやつだよ! これでいいだろ!」
「よくないなあ。どんなやつ?」
「元気で優しい。名前通りの性格のやつ」
じとりとおれを睨みながら、慧は呻くように白状する。
あいまいすぎる。けれど名前通りと言うからには、慧の想い人は何かしら象徴的な名前をしているのだろう。たとえば花とか。
体を泡まみれにしながら、おれはクラスメイトの名前を必死に思い出そうとした。けれど、さっぱり思い当たらない。
さすがにもう少しヒントが欲しい。
「なあ、慧――」
くるりと振り向くと、慧はおれに背を向けるようにして湯舟の中に座っていた。いかにも落ち着かない様子で、手で水鉄砲を作って遊んでいる。普段話をするときには当たり前のように目が合うのに、今の慧は不自然なくらい、自分の手元しか見ていなかった。
慧が気づかないのを良いことに、おれはまじまじと幼馴染の背中を観察する。
先ほどおんぶしてもらったときも思ったけれど、慧の体には帰宅部とは思えないくらいしっかりと筋肉が付いていた。水泳の授業のときは皆ウェットスーツに近いジェンダーレス水着を着ているから、思えばこうやって裸を見る機会は今までなかった気がする。
犬たちの世話をしているおかげで、おれだってそれなりに筋肉はついている方だと思うが、それでも慧とは体の分厚さに差があった。
(おれに隠れて筋トレでもしてるのか?)
別におれに報告する義務はまったくないが、地味に悔しい。背だって昔はおれの方が高かったのに、いつの間にやら結構な差をつけられてきているし、これ以上慧に負けたくない。
「ん……?」
じっと背中を見つめていたその時、おれはふと見覚えのない傷跡を慧の肩に見つけた。体を洗い終えたところで、シャワーを流しっぱなしにしたまま、おれはそろりと慧の肩へと手を伸ばす。
「え? わ……っ!」
おれの指がその傷跡に触れた瞬間、慧はびくりと体を震わせ、文字通り垂直に飛び上がる。さながらくつろいでいた犬の体に急に触ったときのような驚きっぷりに、触ったおれまでびっくりした。
「ごめん」
「な、な……っ!」
バッと振り返った慧は、まずおれの顔を見て、それから視線を少しだけ下ろして、おれの体を思わずといったようにじっと見た。それからまたおれの顔に視線を戻した慧は、おれと目を合わせるなり、じわじわと頬に血を上らせていく。
「ぅ、あ」
「や、そんなところに傷跡、あったかなって……思って……」
言い訳にもならない言い訳が、おれの口の中でしおしおと消えていく。
言葉を取り繕えない慧なんて、はじめてだった。あからさまにうろたえている慧は、おれが触った肩の傷跡を自分の手で覆って、皮膚が白くなるほどぎゅっと掴んでいる。
慧は耳まで赤くなっていた。緊張していて、動揺していて、――そして、怯えているのがひと目で分かる。
おれが傷跡のことを聞いたせいじゃない。多分、裸で、手を伸ばせば肌に触れられる距離にふたりきりでいるこの状況が、慧をおかしくさせている。もっと言うなら、おれが慧に触ったからか。
友だちとふたりで狭い風呂に入るのは、それはまあ居心地が良いものではないだろう。でも、そこまで緊張するほどのことではないはずだ。だって相手はおれなんだから。
そこまで考えて、いや、とおれは直感的に自分の考えを否定した。
ここにいるのがおれだからこそ、多分、慧はこんなにも動揺しているのだ。
『見込みのない恋なら、ずっとしてる』
前に聞いた慧の言葉が、急に奇妙な生々しさを持って、おれの胸にストンと落ちてきた。
思えば慧は、おれが服を脱ごうとしただけで目を逸らしていた。体を洗っている間、こちらを見ようともしなかった。おまけにたった一瞬指が触れただけで、こうしてただの友だちに対するものにしては過敏すぎる反応を見せている。
それはおれを特別意識しているからだと思うのは、おれの自惚れなのだろうか。
「……あ、あはは……。びっくりした。ごめんな、光太」
上擦る声で、慧がごまかすように無理やり笑う。真っ赤になった慧の顔は、いつもと違って妙に幼く、頼りなく見えた。
「慧が謝ることじゃないだろ。おれが勝手に触ったんだから」
「ああ、うん。そうか。そうだな」
自分の肩を押さえていた手を、慧がぎこちなく外していく。正面から慧の傷跡を見たおれは、ついつい口を開いていた。
「それ、触ってもいいか」
「え? まあ、うん」
改めて許可を取った後で、おれは指先で慧の肩に触れる。
しっとりと濡れた慧の肌は吸い付くように熱くて、触れた瞬間、おれは自分の指が慧に吸い込まれるような、不思議な気分になった。このままずっと触っていたら、自分の肌と慧の肌の境目が分からなくなりそうだ。
――やっぱりだ。
でこぼことした傷跡を指で確かめて、おれはひそかに目を伏せる。
大きさこそおれの傷跡の方が濃く大きいけれど、傷のつき方といい、位置といい、おれの肩にある傷跡とよく似ている。
おれの傷跡は右肩にあるけれど、慧のそれは左側にある。たとえばおれたち二人が向き合った状態でどこかに落ちて、鋭い岩で肩を抉られたとしたら、こういうことになるかもしれない。でも、慧まで跡に残るほどの怪我をしていたなんて話は聞いたことがなかった。
おれが考え込んでいる間も、妙に慧は静かだった。
指を離して、顔を上げる。直後におれは息を呑む。
膝を抱えて座る慧は、半身で振り向いた体勢のまま固まっていた。唇をきつく引き結び、何かを耐えるように目を閉じている。
なんだかエロい。見ようによっては、いわゆるキス待ち顔に見えなくもない。
(慧はこういう顔も絵になるんだな)
思わず顔を寄せ、しげしげと慧の表情を眺めた後で、おれは自分で自分の思考にびっくりした。
何を考えているのだ。
慌てて顔を引こうとした拍子に、うっかり鼻先が慧の鼻に当たった。その感触を不審に思ったのか、慧がそろりと目を開く。
ぱちりと至近距離で目が合った。
おれたちは、ふたり揃って固まった。
「……何してるんだ、光太」
慧が上ずった声で聞いてくる。
まさか馬鹿正直に見惚れてましたなんて言えるはずもない。おれは笑ってごまかそうとした。
「や、あはは、愛の鼻チュー……なんつって……」
「愛?」
妙なところで慧が食いついてきた。
「そう。愛! 犬たちもよくやるだろ? 慧はおれの一番大好きな友だちだからな!」
「……友だち? 友だちか。……そうだな」
慧は苦しそうに目を伏せた。
どうして慧がそんな顔をするのか、その理由はおれには分からない。分からないけれど、取り返しのつかないことを口にしてしまったかのような、とんでもない罪悪感だけがおれの胸を埋めていた。
気まずい雰囲気がおれたちの間に立ち込めたその時、かたりと外から音が聞こえてくる。
「――ねえ、ちょっと」
母さんの声だった。
どうやら脱衣所の外にいるらしい。びくりと飛び上がったおれたちは、別に悪いことをしていたわけでもないのに、ふたり揃って大袈裟なくらいに距離を取る。
「……か、母さん? 何? 何か用?」
「タオル、ちょうど全部洗濯しちゃってたなって思い出したの。新しいやつを持ってきたんだけど、今、脱衣所に入っても大丈夫?」
「ああ、うん。大丈夫。ありがとう」
すりガラス越しに、母さんの影がさっと脱衣所に入ってくる。
「ふたり分、ここに置いておくからね。着替えもあとで持ってくるから」
「いいよ、それくらい自分でやるし」
「自分でやるも何も、光太、下着も持ってきてないじゃない」
持っていく間もなく風呂場に押し込んだのは母さんじゃないか。
物申したい気持ちにはなったが、おれはぐっと我慢する。無言のままでいると、母さんはため息をついて「まあいいや」と呟いた。
「光太のパンツだけここに置いておくから。慧くんの分はあとで光太が用意してあげなさいね」
「言われなくても――」
おれの返事も待たぬまま、母さんはおれたちが脱いだ服を洗濯機にささっと入れて出ていった。
「ああもう! 自分でやるってのに……!」
イライラが口をついて出た。
母さんのおかげで、さっきまでのおかしな雰囲気はすっかり消えてなくなった。惜しいことをしたような、ほっとしたような、何とも言えない気持ちだ。
顔を俯けた慧は、おれの視線から逃げるように背を丸める。
「洗い終わったなら先に出てろよ、光太。足の手当て、早くした方がいいだろ」
まるでさっきのことなんてなかったみたいな振る舞いで、慧は早々におれを追い出しにかかった。
なんだか一枚壁を張られてしまった気分だ。でも蒸し返すのもおかしい気がして、おれも慧の言葉にそのまま乗っかることにした。
「……そうだな。慧の着替えも持ってこないとだし、先出とくわ」
「ありがとう。足、ちゃんと冷やしておけよ」
「分かってるって」
浴室の扉を抜けて、タオルを被る。
髪を拭くふりをして、おれは盛大に頭を抱えた。頭の中はぐちゃぐちゃだった。
おれの傷と鏡写しのような位置にある、慧の傷跡。五年前の事故と無関係とは思えない。それなのに、あの日あったことをいくら考えても、なぜ慧が怪我をしているのか思い出せないことがもどかしい。
そしてあの挙動不審な慧の態度はなんだ。なんでそんな目でおれを見るんだ。なんで傷ついたような顔をするんだ。
(叶わない恋の相手って、まさか――)
顔を上げる。鏡の中の自分と目が合った。
おれか。おれなのか。いつからだ。
情けない自分の顔を見ていられなくて、パッとおれは視線を逸らす。
慧に聞きたいことは山のようにあるのに、何から聞けばいいのか分からない。普段なら慧に意見を求めるところだけれど、困ったことに、今はその慧こそが悩みのもとだ。
(……いや! おれの気のせいかもしれないし!)
ここはいったん、考える時間を置いた方がいいだろう。頭が冷えて冷静になったときに、またゆっくりと話をすればいい。
けれど、おれは慧を甘く見ていた。普段冷静で真面目なやつが思い詰めたとき、思いもかけない方向に暴走することを忘れていたのだ。
おれたちの波乱の夏休みの始まりだった。
期末テストに初の模試。おまけに三者面談と文理選択。忙しすぎて、ろくに息をつく間もありやしない。
おれと慧はテスト前には一緒に勉強をすることにしているので、七月後半は散歩ボランティアの頻度を抑えつつ、真面目に膝をつき合わせてテスト勉強することに専念した。
けれど、そんな欝々しい日々もようやく終わる。
「――これで夏休みだ!」
通知表を右手に掲げて、おれは父さんの運転する車の後部座席で伸びをする。
何を隠そう、おれはつい先ほど母さんと担任の山本先生との三者面談を終えたばかりだった。土曜日の日程に当たってしまったのは災難だったが、終わってしまえば何でもいい。
「赤点もなかったし、頑張ったじゃない」
「よっぽど補習に出たくなかったんだな。光太にしては珍しい」
母さんと父さんは、そう言っておれをからかった。面談に出た母さんはともかく、運転手をわざわざ買って出た父さんは、おれをからかうためだけにわざわざ来たのかと言ってやりたくなる。
「珍しいってなんだよ。やるときはちゃんとやるよ、おれは」
下手に赤点を取ってしまうと補修だの追加の宿題だので時間が取られて煩わしいし、慧にテストでぼろ負けするのも腹が立つ。
「……赤点なんて一回しか取ったことないし」
「その一回で慧くんに泣きついたから、いつも一緒にテスト勉強してるんだもんな」
からからと父さんは笑う。おれはぐっと言葉に詰まった。
「今日は慧くん、車に乗せてあげなくてよかったのか? この後はふたりでまたボランティアに行くんだろう? 最近父さん、慧くんと会えてなくて寂しいなあ。家にも全然遊びに来ないし」
「慧の面談はおれの後だから。つーか慧んちだって親が来るんだから、おれたちと一緒には帰らないだろ、普通に」
「ああそっか、そうだったな。なんかもう第二の息子みたいなものだから、つい」
父さんはたまにボケたことを言う。おまけに一度何かが気になるとそこからどんどんと連想して色々聞いてくるものだから、正直おれは、父さんと話しているとちょっとイラつく。口にしようものなら「おっ、反抗期だ!」と喜ばれるから言わないが。
「面談といえば――」
ほらきた。
「光太は文系と理系、結局どっちにしたんだ?」
のん気な父の問いかけに、おれはべえと舌を出して答えた。そんなおれを見かねてか、母さんがそっと口を挟んでくる。
「まだ決めてないんだって。いつも通り、ぎりぎりまで考えたいみたい。お姉ちゃんはなんでもすぐに決めてたのに、姉弟で面白いくらい違うよね」
六つ上の姉の興味は外の世界に向いているらしく、今は国際協力事業団の職員として世界を渡り歩いている。たまにひょっこり帰ってきては変な土産物を置いていくので、おれから見たら自由気ままな変人でしかない。
「こだわりがないなら、光太も理系にしたらどうだ? 在宅メインの仕事に就けば、犬も飼えるぞ。預かりのボランティアもしやすいし」
「それも有りかもなあ……」
やりたい仕事を考えなければいけないと思っていたけれど、どんな生活をしていきたいかで将来を決めるのも有りかもしれない。
(慧はどっちにするんだろう?)
考え込むおれを呆れたように見て、母さんは雑に話をまとめた。
「なんでもいいけど、夏休みの間に決めておきなさいね」
「分かってるよ」
うんざりしながら返事をしつつ、おれはシェルターの犬たちに想いを馳せた。
進路の話は後回しだ。何はともあれ、テスト週間中ボランティアを控えていたおれは、とにかく犬に会いたくてたまらなかった。
🐕 🐩 🐕
保護犬のためのボランティア活動は色々ある。この間のように犬たちを散歩に連れて行くこともあるけれど、今日のおれの仕事は犬洗いこと、シャンプーボランティアだ。
おあつらえ向きに空は快晴だし、空気もからりと温かい。
「こんにちはー! シャンプー日和ですね!」
いそいそと扉を開けて、おれはいつも通りに榊のおばちゃんに挨拶をした。
「はい、こんにちは。晴れてよかったねえ、光太くん。今日はひとりなの?」
「慧は後から来ます。今日は三者面談だったんで」
返事をしつつ、おれは犬養さんの姿を探す。しかし、なにやら異様に人は少ないし、犬たちのシェルターも不自然に空きが多かった。
「なんか今日、人少なくないっすか? 犬も少ないし」
「ああ、みんな譲渡会に出かけてるの。夕方になれば帰ってくるよ」
譲渡会は、いわば保護犬たちと里親候補たちのお見合いパーティーだ。ホームセンターや町民会館、はたまたハウジングセンターなどの敷地を借りて、犬と人とが直接顔を合わせてお互いの相性を確かめる。保護犬の里親探しに欠かせないイベントでもある。
「おれも免許があればなあ」
犬養さんたちのように全部の仕事はできずとも、せめて犬たちの送迎くらいはしてあげられるのに。
おれがそうぼやくと、榊のおばちゃんは微笑ましそうにクスクスと笑った。
「あと何年かしたらいやでも大人になるんだから、焦らない、焦らない」
慰めとともにパイン飴を貰ったおれは、榊のおばちゃんからひと通りシャンプーボランティアについての注意事項を聞いた後で、他のボランティアさんたちと一緒に洗い場へ向かう。
犬を洗うのは、なかなかの大仕事だ。水に濡れるのが好きな子もいれば、洗われることをひどく怖がる犬もいる。
噛み癖のある子や、保護されたばかりの子は、経験豊富なスタッフやプロのトリマーさんが担当するので、未成年のおれが任せてもらえるのは、穏やかな老犬やシャンプー慣れした犬だけだ。
各自が担当の犬のシャンプーに取り掛かり始めると、洗い場にはデレデレとした声が飛び交うようになった。
「よーし、偉いぞ! 天才!」
「ちょっとだけ我慢してね。いい子にできて偉いねえ」
「すぐ終わるからね。……はーい、終わり! 偉かったね!」
おれもまた例に漏れず、水浸しの体をブルブルするビーグルに、「いい子だなー!」と全力で声を掛けた。にぱっと笑顔を浮かべたビーグルは、じゃれつくように濡れた体をおれの肩口へと押し付けてくる。
犬という生き物は、笑ってしまうくらいに感情表現が分かりやすい。シャワーを始めた直後は「どうしてこんな仕打ちをするんですか」と言わんばかりの虚無った目で恨めしげに見てくるくせに、おれたちが一声掛けるたびに犬たちの目は輝きを取り戻し、ついには尻尾を振って笑ってくれるようになるのだ。こんな素直な反応を返された日には、偉いと褒めて撫でたくなるのも当然である。
「はい、ドライヤーも終わり! 偉いぞ! あとは日向ぼっこしてしっかり乾かしてな」
疲れ切った顔の犬を洗い場の外へと送ったあとで、おれはふうと額の汗を手の甲で拭う。
ひと段落ついたところで辺りを見渡してみると、ボランティアで来ているトリマーさんが、仕上げのカットを始めている様子が目に入った。
カットは時間もかかるし、嫌がる子も多いので、里親さんの家へお試し同居に出掛ける直前の犬や、直近で譲渡会に参加する犬だけの特権だ。
(トリマーもアリだな)
トリマーボランティアさんの手でモデル犬のように生まれ変わっていく犬を見ながら、おれはうむむと腕を組む。ボランティアでも犬と触れ合うことはできるけれど、犬に関わる仕事を選べば、一日の大半を犬とともに過ごせるようになる。それは結構魅力的だ。
シャンプーボランティアを終えてシェルターに戻ると、散歩ボランティアの朝倉さんが来ていた。手にはリードを握っているが、何やらケージの前に座り込み、途方に暮れている様子である。
「モクレンちゃん。大丈夫だよ。ほら、お散歩に行こう? お散歩、好きだろう?」
情けない声で懇願する朝倉さんの前にいるのは、いかにもムスッとしているモクレンちゃんだった。初めて散歩に行った時から、モクレンちゃんは朝倉さんに懐いているように見えたのに、いったい何があったのか。
「どうかしたんですか?」
声を掛けると、朝倉さんは「ああ、春日井くん!」と弱りきった顔をしながら振り向いた。
「いや、それがね。モクレンちゃん、お散歩に行くのが怖くなってしまったみたいなんですよ」
しょんぼりとしながら、朝倉さんはおれがボランティアに来られなかったテスト期間中のことを教えてくれた。
「僕が悪いんです。あの後も何度かモクレンちゃんのお散歩を担当させてもらったんですけどね。前々回の時、車が来ているのに気づかなくて、クラクションを鳴らされちゃって……。音がよほど怖かったのか、モクレンちゃん、お散歩自体が怖くなってしまったみたいなんです」
「あー……なるほど」
このド田舎で狭い道をわざわざ通る車に出くわすこと自体が珍しいが、不幸に不幸が重なってしまったとしか言いようがない。
おれの記憶がたしかなら、モクレンちゃんは元々、犬が繁殖しすぎて手に負えなくなったという無責任な飼い主のもとから保護されてきた子だ。そういう悪環境から助け出されてきた子は繊細な子も多く、神経質なところがあったり、ちょっとしたことでトラウマがよみがえってしまったりすることも珍しくない。
「シェルターの前の道路が怖いなら、道路のないところで散歩してみるのはどうっすかね」
おれが提案すると、朝倉さんはパッと表情を明るくした。
「そうだね、場所を変えてみるのはいいかもしれない! 裏山の方なら車もめったに来ないし、ぴったりだ」
頷きあったおれたちは、さっと榊のおばちゃんのところへ行って、裏山方面への散歩許可を取りつけた。
「裏山ね。いいんじゃない? 猿に出くわさないように気をつけてね」
「はい。ちょっと歩いたら帰ってきます」
モクレンちゃんを抱き上げたおれたちは、榊のおばちゃんを交えて、一緒に散歩に連れていく犬を話し合った。モクレンちゃんと仲が良く、おおらかな犬がいいだろうということで、同行犬はミニチュアダックスフンドのマロンに決まった。
ぷるぷる震えるモクレンちゃんと、ぷりぷりとお尻を振るマロンを連れて、おれと朝倉さんは早速裏山に足を伸ばす。
裏山の麓に着いたところで、朝倉さんはそっとモクレンちゃんを地面に下ろした。
「ほら、モクレンちゃん。怖くないよ。匂いを嗅いでごらん」
モクレンちゃんはしばらく固まっていたが、マロンが自分の庭かのように辺りを駆け回っているのを見て安心したのか、ゆっくりと辺りの匂いを嗅ぎ始める。そんなモクレンちゃんをじっと見つめて、朝倉さんは嬉しそうに頬を緩ませた。
「ああ、よかった。獣道なら怖くないんだね」
「そうですね。……ビビりなのはどうしようもないみたいですけど」
アスファルトの上に居たときよりはマシだけれど、モクレンちゃんの様子はリラックスしているとは言いがたい。虫が近くで飛び上がるたび、身を震わせるビビりっぷりは、見ていて気の毒になるほどだった。小さな体で、こうまで神経質になってしまうなんて、過去にどんな生活を送っていたのだろう。
同じことを考えたのか、朝倉さんは悲しそうにぽつりと呟いた。
「こんな天使みたいな子たちを、どうして大切にできない人がいるんでしょうね」
譲渡会で里親を見つけても、毎週のように新しい保護犬はシェルターへとやってくる。もちろんやむを得ない経緯でやってくることもあるけれど、大半はそうではない。身勝手な人に振り回されて心に傷を負った犬を、これまで何匹も見てきた。
モクレンちゃんのように多頭飼育からレスキューされた犬もいれば、虐待をされていた犬もいる。無責任な飼い主に捨てられて、ガリガリの野犬として保護されてくる犬だって後を絶たない。
「ひどい話っすよね。動物のこと、動くぬいぐるみだとでも思ってんのかな」
「犬は家族なのにね」
しゅんとしながら語り合い、おれたちは獣道を歩くモクレンちゃんとマロンの後ろをゆったり歩く。
「そういえば、今日は秋月くんは一緒じゃないんですね。珍しい」
まるでおれと慧が四六時中一緒にいるかのような口ぶりだ。間違いではないけれど。
苦笑しながら、おれは榊のおばちゃんにも言った言葉を繰り返す。
「今日は三者面談だったので。慧も多分、そろそろ来てると思いますよ」
「三者面談ですか。懐かしいなあ」
「朝倉さんは文系と理系、どっちだったんですか?」
せっかくなので聞いてみると、朝倉さんは記憶を懐かしむようにゆっくりと瞬きをした。
「僕は商業高校だったから、はっきりした文理選択はなかったなあ。今も公務員をやってますし、文系理系とは無縁の人生ですね」
「文理選択、ないところもあるんですね」
「もちろん。ないところもありますし、理数科みたいにはじめから理系って決まってるところもあるし、そんな早くに進路を決めても仕方がないってことで、文理選択自体を廃止している高校も最近はあるって聞きますよ」
羨ましい。考える時間なんて、長ければ長い方がいいに決まっている。
「……うちの高校も文理選択なんてなかったらよかったのに。将来のことを考えて文理を決めろって言われるんですけど、やりたいことなんて、そんなすぐに分かんないっすよ」
おれがぼやくと、朝倉さんは人の良い笑顔を浮かべて「大丈夫、大丈夫」と優しく呟いた。
「難しく考えなくたっていいんです。将来やりたいことって、要はずっとやっても苦にならないことですからね。僕はこの町が好きだったので、ずっとここにいられる仕事にしました。春日井くんも、今自然にやっていることが、案外自分のやりたいことだったりするかもしれませんよ」
「自然にやってることかあ……」
いざ言われると難しい。
うんうん唸りながら考えていると、そんなおれを見かねたのか、朝倉さんはそっと言葉を足してくれた。
「これをやれって言われて抵抗があることは、つまりやりたくないってことだし、言われなくてもやってることは、自分が好きでやりたいことです」
「それで言うと、やっぱり犬関連ですね」
昔から、犬は当たり前におれの生活の中にいた。犬はもちろん、犬を通じて色んな人と話すのだって大好きだ。
おれがそう言うと、朝倉さんは嬉しそうに頷いた。
「春日井くんに向いていると思いますよ。獣医にトリマー、NGO法人……色んな仕事がありますし、夢が広がりますね!」
広がってもらっては困る。おれは選択肢を狭めて決めたいのだ。
そんな調子で朝倉さんとお喋りをしていたその時、どさりとおかしな音が聞こえてきた。
「モクレンちゃん⁉」
見れば、モクレンちゃんが地面に横倒しになっていた。がくがくと手足を震えさせながら、ぼうっと遠くの方を見ている。明らかに普通の状態ではない。
慌てて朝倉さんがモクレンちゃんのそばに膝をつく。おれもまた、何事かと様子を窺うマロンを押し留めつつ、おろおろとモクレンちゃんの様子を見守った。
「熱中症でしょうか? 拾い食いはしてないですよね?」
「ええ。おかしなことは何もなかったはずです。とりあえず、シェルターに連れて帰りましょう」
おれたちが話している間に、モクレンちゃんのけいれんはスッと何事もなかったかのように収まった。
よろよろと立ち上がったモクレンちゃんは、寝ぼけたような足取りで、ふらふらと辺りを回り始める。
「治った……のかな?」
首を傾げつつ、朝倉さんはモクレンちゃんに手を伸ばす。多分、抱き上げようとしたのだろう。
しかし、最悪のタイミングで邪魔が入った。
――ガガガッ。
カラスの声を濁らせたような耳障りな音が、木の上から落ちてくる。
喉を鳴らすような短い音の連なりは、あからさまな威嚇の声だった。
猿だ。近くの木の上に、小さな猿の姿が見える。いち早く姿勢を低くしたマロンちゃんが、勇ましくキャンキャンと木の上に向かって吠え始めた。
その声が決定打だった。
「ああっ、モクレンちゃん!」
ただでさえ神経質なモクレンちゃんは、猿とマロンの二重の鳴き声を受けて、パニックを起こしたらしい。じたばたとものすごい勢いで暴れたかと思えば、すっぽりとハーネスを抜けて、弾丸のように森へと飛び込んでいく。
「マロンを見ててください!」
咄嗟におれは、マロンのリードを朝倉さんに押し付けた。
さっきあんなにおかしな症状を見せていたのに、ここで迷子になるようなことがあったら、モクレンちゃんの命に関わるかもしれない。
助けなければ。その一心で、おれは日の落ちかけた森に飛び込み、真っ白な毛玉の弾丸と化したモクレンちゃんを全速力で追いかけていく。
しかし悲しいかな、不運に不運は重なるものだ。
森に飛び込んでほどなくして、雲行きがみるみる怪しくなってきた。大粒のぬるい雨を背に感じつつ、おれは必死にモクレンちゃんとの距離を詰めていく。
ようやく手が届きそうな距離にまで追いついたところで、おれはぎょっと目を見開いた。
モクレンちゃんが向かっているのは、崖だった。
「行ったらダメだ!」
飛びつくようにモクレンちゃんを制止する。ずるりと足元が滑る嫌な感触がしたと思ったときには、おれの視界はぐるりと回って、黒い雨雲でいっぱいになっていた。
🐕 🐩 🐕
時をわずかに戻して、いぬかいの小屋にて。
よりにもよって土曜の午後の最終枠に三者面談を入れられてしまった慧は、ようやく『いぬかいの小屋』へと足を運ぶや否や、鬱憤を晴らすように野菜をざくざく切っていた。犬たちの夜ご飯を作るためだ。
一見するといつも通りの品行方正な優等生だが、その実、慧の内心は穏やかではなかった。
ひとえに、いつも一緒にいる幼馴染の姿が見えないためである。
(光太、何もやらかしてないといいけど……)
アスファルトを怖がるモクレンちゃんのため、裏山まで散歩に出ていったとは聞いている。けれどそれにしては、あまりにも戻ってくるのが遅いのではないか。
光太が目に入るところにいないと、不安で仕方がない。何しろあの幼馴染は、常に頭より先に体を動かす。
階段を踏み外した生徒を助けようとして足を捻挫したこともあれば、飛んできた硬球から人を守って、肩に青あざを作ったこともある。
光太というのは、いつだって自分のことは二の次で、目の前の相手を助けることしか考えないお人好しなのだ。
あの時だってそうだった。
ズキリと痛んだ肩をそっと押さえて、慧はちらりと窓の外に目を向ける。
日の暮れかけた空には、凶悪そうな雷雲が広がり始めていた。
「雨が降りそうだねえ」
犬養所長がひょこりとキッチンに顔を出す。肩を押さえる慧を見るなり、犬養所長は心配そうに眉尻を下げた。
「傷跡が痛むのかい」
うろうろと目を泳がせたあとで、慧はしぶしぶと肯定する。他人に弱みなんて見せたくはないけれど、犬養所長の前で強がったって意味がない。
「……そうですね。雨の降る前は、少しだけ」
「無理もない。深い傷だったものね」
「いいえ、軽い傷でした」
光太が負った怪我と比べたら、こんな傷、ないようなものだ。
この傷ができた日のこと――光太が崖に落ちて、救急車で運ばれた五年前のことは、あまり思い出したくない。考えるだけで、自分を殺したくなる。
ぽつり、ぽつりと雨が降り出す。あっという間に勢いを増す雨を見つめて、慧はそっと目を眇めた。
光太は大丈夫だろうか。雨で焦って走った挙句、転んで怪我をしないといいけれど。
「――ねえ、慧くん。ずっと気になっていたことがあるんだ。聞いてもいいかい」
犬養所長が静かに問いかける。慧が小さく頷くと、犬養所長は意を決したように口を開いた。
「どうして慧くんは、光太くんに本当のことを言わないんだい? 五年前の事故のとき、光太くんは私が彼を見つけたんだと思っているよね。私のことを命の恩人だと言って、好意を向けてくれている。でも、それは違うじゃないか。あの日、本当に光太くんを見つけたのは――」
「――犬養さんですよ」
皆まで聞かず、慧は淡々と犬養所長の言葉を遮った。
「あの日、崖から落ちた日、光太を助けてくれたのは花子と犬養さんです。光太がそう思ってるなら、それが全部です」
それに、と口には出さずに、胸中で呟く。
覚えていないなら、その方がいい。
勝手に両想いだと思い込んで好きだと言って、慧は光太を困らせた。自分が忘れてくれだなんて願ったせいで、光太は頭を打って、本当にあの時のことを忘れてしまった。
何もかもが自分のせいだ。もう二度と、あんな風に光太を困らせたくはない。
「……光太には言いたくないんです。子どもの頃の話とはいえ、恥ずかしくて」
目を泳がせながらそう言うと、慌てたように犬養所長は両手を振った。
「恥ずかしがることなんて何もないよ。あれは不運な事故だったんだから……。でも、慧くんが言いたくないなら、今まで通り秘密にしておくから。安心してね」
犬養所長は優しい人だ。ありがとうございますと礼を告げつつ、慧はポケットの中のロボット型のキーホルダーを握り込む。
苦い思いで笑みを浮かべたその時、ブブブ、とポケットの中でスマホが震えた。
光太からの着信だ。首を傾げながら通話アイコンをタップする。途端に、焦り切った光太の声が耳元で響いた。
『慧か? 今どこにいる? シェルターにいるか?』
「ああ、シェルターにいるよ。どうしたんだ」
『ちょっと色々あって……ああ、くそっ。どうしよう⁉』
どこまで散歩に行ったのか、光太の声は、やたら音質が悪くて聞き取りにくい。
ざあざあと激しく降る雨音に、ノイズじみた雑音が何度も混ざった。走っているのか、それとも別の理由があるのか、光太の息はおかしなくらいに弾んでいる。
嫌な予感がした。
『どうしよう、どうしよう。慧……!』
光太の呼吸がどんどんと早まっていく。耳を澄ませると、泣き叫ぶような犬の鳴き声がかすかに聞こえた。
やっぱり何かあったらしい。ぎゅっと眉根を寄せて、慧はできるだけ柔らかい声を作って光太を宥める。
「落ち着いて。今行くから。どこにいる?」
『や、山。裏山。表から入ってすぐのところに――あ、いや、モクレンちゃんを捕まえなくちゃと思って走ったんだ。でも土手から落ちて、だから、えっと』
相当混乱している。要領を得ない説明を遮って、「分かった。裏山だな」と慧は強引に言葉を被せた。
光太は自分の怪我には動じない。これだけ動揺しているところを見ると、一緒にいる犬の身に何かが起きたのだろう。
「後ろの鳴き声、モクレンちゃんだよな? 怪我してるのか? それとも何か起きたのか」
『けいれんして、泡を吹いてるんだ……! さっきもあって、二回目で』
「……てんかんかな。この時間ならまだペットクリニックも開いてるはずだ。大丈夫」
確証はない。けれど、この間読んだ本の中に、似たような症状が載っていた。
「大丈夫だから、光太。そのままそこから動くなよ。迎えに行くから、通話はこのまま――」
言いかけたところで、ぷつりと通話が途切れた。ツーツーと空しく響く電子音を聞きながら、慧はチッと小さく舌打ちする。
多分、電池切れだろう。光太はこういう時に限ってやらかすやつなのだ。
くるりと犬養所長に向き直り、慧は素早く状況を伝えた。
「裏山でモクレンちゃんの様子がおかしくなったみたいです。二度立てつづけにけいれんしたらしいので、病院に連れて行った方がいいかもしれません。車で来ていただいてもいいですか」
サッと表情を引き締めて、犬養所長は力強く頷いた。
「もちろんだよ。車を持ってくるから、少し待っててね」
「ありがとうございます。でも俺はいいです。先に行きます。花子を連れて行ってもいいですか」
言った瞬間、「呼んだ?」とばかりに、ひょこりと花子が扉から顔を出す。慧と目が合うや否や、花子は嬉しそうに尻尾を振った。
「『もちろん』だって」
犬養所長がくすりと笑う。
夕立はすっかりと止んでいた。
「私もすぐに後からいくから」
険しい顔をした犬養所長に頷き返して、慧は花子とともに、保護犬シェルターを飛び出した。
🐕 🐩 🐕
まずったなあ。
泥だらけになったおれは、土手に刻まれた無様な滑り跡を見上げて途方に暮れた。ぎりぎりのところでモクレンちゃんを抱き上げたはいいものの、ぬかるんだ地面に足を取られて、この様だ。
スマホは最悪のタイミングで電池が切れてしまったし、右足は嫌な感じにズキズキと痛んでいる。
加えてモクレンちゃんの状態も良くない。おれの足元では、ようやくけいれんの止まったモクレンちゃんが、ぐったりと横になっていた。呼吸が安定していることを何度も確かめ、おれは震える息を吐く。
「ごめんな。すぐ、迎えに来てくれるからな」
――大丈夫。
スマホ越しに聞いた慧の声を思い出す。
いつも通りの落ち着いた声だった。てんかんかもしれないと慧は言っていたし、動物病院へ連れて行ってあげれば、きっとなんとかなるはずだ。
「大丈夫。大丈夫だよ」
モクレンちゃんに言っているのか、それとも自分に言い聞かせているのか、自分でも分からなくなりそうだった。
「上に登っておこうな」
動くなとは言われたけれど、下に落ちたままでは、慧が探しに来てくれたとしても見つけられないだろう。
モクレンちゃんを抱き上げて、おれは草の生えた獣道をゆっくりと登っていく。夕立に降られたせいで、うっかりすると濡れた草に足を取られそうになるのが煩わしい。
大きめの段差に差し掛かったところで、おれは背伸びをしながら、近くのツタをぐっと掴んだ。
(昔、こういうところで慧と遊んだなあ……)
懐かしく思い返した瞬間、ぶちりと景気のいい音を立ててツタがちぎれた。
今日は厄日だ。
「……っ!」
片腕でモクレンちゃんをしっかりと抱きかかえつつ、おれは尻もちをつく覚悟を決める。
しかし幸運にも、おれが痛い目に遭うより前に、まるで野球のスライディングでもするような滑り込みの音が聞こえてきた。ぐっと腕を掴まれ、倒れ込みかけた体を引き戻される。
「バカ光太……っ! 動くなって言っただろ!」
その声を聞いた瞬間、体からふっと力が抜けた。
慧だ。本当にすぐ来てくれた。
「……先にモクレンちゃんを頼むよ」
「分かってる」
おれの腕からサッとモクレンちゃんを抱き上げた慧は、背負っていたペット用のキャリーバッグを下ろすと、手際よくモクレンちゃんを中に収めた。次いで、おれに手を差し伸べると、上に登る手伝いをしてくれる。
ふたり揃ってべちゃべちゃの地面に座り込んだところで、おれたちは示し合わせたようにため息をついた。
「……ありがとう、慧! 尻にでかい青あざができるところだった」
「こっちの身にもなってくれ。心臓が止まるかと思った」
「しょうがないだろ。意外とあのツタ、弱かったんだから」
「そんなものを縄代わりにするからだ」
なんでここが分かったのかと聞こうと思ったけれど、聞くまでもなく理由は分かった。ふすふすと鼻を動かす花子が、嬉しそうにおれの頬をぺろりと舐めてきたからだ。
「花子がおれを見つけてくれたのか?」
「光太をって言うか、多分、光太の持ってるジャーキーの匂いだけどな」
そう言われると、花子はやたらと熱心におれのポケットのあたりをふんふん嗅いでいる気がする。
散歩ボランティアをしていると、途中で歩くのに飽きてしまう子もいるので、そういう子を説得するため、おれはいつも犬用の菓子を持たせてもらっているのだ。
「ポケットに色々入れると落とすぞって言ってるのに。今回だけは光太のやらかしのおかげで命拾いしたな」
呆れのこもった慧の口調から察するに、どうやらおれは道中にジャーキーを零していたらしい。走るのに必死で気づかなかった。
お礼代わりに、おれは犬用ジャーキーを花子にひとつ食べさせてやる。
「ありがとう、花子。花子はおれの女神さまだ。おれが困った時には、いつも花子が見つけてくれるんだな!」
軽く首まわりに抱きつくと、花子はお返しのように湿った鼻を頬に押し付けてくれた。愛の鼻チューだ。
「慧もありがとう!」
「ありがとうは一回でいいよ」
花子にハグをした流れで慧にも抱きつこうとしたが、しかめ面で押しのけられてしまった。つれないやつである。
「モクレンちゃん、大丈夫かな」
慧が持ってきてくれたキャリーバッグの窓から、そっと様子を伺う。モクレンちゃんは視線はこちらに向けてくれたが、口がうまく動かないのか、ひくひくとまだ顔を引きつらせているままだった。
おれの横からモクレンちゃんを覗いた慧は、スマホで何やら動画を撮りながらも、落ち着いた態度で頷いた。
「少なくとも、今すぐどうこうって風には見えない。獣医さんに診てもらおう。犬養さんが車で迎えに来てくれる。朝倉さんが入り口で誘導してくれてるはずだ」
短い動画を撮り終わると、慧は誰かに電話を掛け始めた。どうやら、おれとモクレンちゃんを見つけた旨を、犬養さんに伝えているらしい。
さすがは慧。おれのやらかしの後始末なんて、手慣れたものだ。パニックになっていた自分が恥ずかしくなってくる。
犬養さんの通話を終えた慧をじっと見つめる。すると、おれがまだ混乱しているとでも思ったのか、慧は先ほどまでの塩対応とは打って変わった優しい手つきで、そっと背中を叩いてくれた。
「そんな心配しなくたって大丈夫だよ。犬養さんなら、モクレンちゃんをすぐに病院に連れて行ってくれる。だからもう大丈夫。な?」
聞いた途端に不安がすうっと消えていくような、優しい響きのこもった声だった。添えられた手の体温も相まって、うっかりすると目が潤みそうになる。慌てて涙を飲み下しつつ、おれはへらりと笑みを浮かべた。
「……そうだな。ありがとう、慧」
「うん。さ、行こう」
慧に続いて立とうとした瞬間、ズキリと足首が鈍く痛んだ。
「い……っ」
ふらつくおれに、慧は慌てたように手を伸ばした。
「足、ひねったのか」
「少しだけ。でもまあ歩けるから、平気だよ」
「動かさない方がいい」
平気だと言っているのに、慧はどうやら信じていないらしい。心配そうにおれを見たかと思うと、いいことを思いついたとばかりに、モクレンちゃんの入ったリュックキャリーを腹側に回して、そっとおれの前にしゃがみ込んだ。
「ん」
どうやら背負ってくれる気らしい。おれは顔を引きつらせて、「いいって!」と慧に抗議した。
「歩けるって言っただろ」
「いいから、早く。モクレンちゃんを病院に連れて行ってやりたいんだろ」
その言い方はずるい。
しぶしぶと慧の首に腕を回すと、ぐんと視点が高くなる。軽々と背負われたことが地味にショックで、おれは照れ隠しに悪態をついた。
「……背中、濡れてね? じっとりしてる」
「そりゃそうだろ。さっきまで雨が降ってたんだから。文句言うなよな」
慧はそう言うけれど、これが雨のせいでないことくらい、おれにだって分かる。一緒に来た花子がふわふわのままなのだから、慧だって雨に降られたはずがない。
慧の首筋にも額にも、汗の粒がいくつも見えた。
多分、電話で話してすぐに、慧は花子と一緒に全力で走ってきてくれたのだろう。花子は舌を出してへっへっと呼吸を弾ませているし、慧は慧で、抑えてはいるけれど、やはり息が上がっていた。
(カッコつけ野郎め)
こういうところが、慧がイケメンと呼ばれる所以なのだろう。胸がいっぱいになって、おれはぎゅうと慧に抱きつく力を強める。
「さっき、モクレンちゃんの動画撮ってたよな。なんで?」
無言で背負われているのも気恥ずかしくて、おれはなんとなく口を開いていた。
慧は理由のないことはしない。必要だから撮ったのだろう。思った通り、慧は「診察の役に立つかもしれないから」とさらりと答えた。
「けいれんにも種類があるんだって。口で言うより動画で見せた方が、獣医さんも分かりやすいだろ」
「そっか、てんかんかもって言ってたもんな」
モクレンちゃんが二度目にけいれんし始めた時、このまま死んでしまうのではないかと怖かった。けれど、慧が電話の向こう側で冷静に宥めてくれたから、あの時おれも落ち着けたのだ。
「……てんかんって、治るのかな」
「まずはちゃんと検査してみないと分からない。もし突発性のてんかんだったら、犬にはよくあることらしいし、薬で発作の頻度は抑えられるはずだ。きっと大丈夫だよ」
慧の淀みない言葉を聞いていると、本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。慧は物知りだから、知識に裏付けされた言葉には、自然と力が籠るのだろう。
おれもこうなりたい。こんな風に、犬も人も一緒に安心させてあげられるようになりたい。
そう思ったら、自然と言葉がこぼれ出ていた。
「……おれ、獣医になろうかな」
ただの思い付きだ。でも、いざ口に出してみると、なんだかとてもしっくりきた。
「うん。獣医学部に行きたいな」
「いきなりだな」
おれの唐突な言葉を、慧は驚くでもなく、自然に笑って受け止めた。
ちらりと慧がおれを見る。苦笑を滲ませるその目には、悪ガキのような色がほのかに浮かんでいた。その目を見た瞬間、おれはなんとなく慧の考えていることが分かったような気がした。
「なあ、慧もそうなんだろ。違うか?」
「なんでそう思うんだ?」
「てんかんかもしれないって、すぐに口に出てくるくらい勉強してるじゃん。それにおれたち、こういうときは似てるから」
咄嗟の時の行動や、やりたいことを決める時、いつもだいたいおれたちは同じことを考える。いままでもずっとそうだった。
おれがそう言うと、慧はくすりと笑って、「そうだよ」と頷いた。
「保護されてくる犬たちには、怪我や病気をしてる子も多いだろ。治してあげられたらいいのにって、ずっと思ってた。獣医が診るのは犬だけじゃないけどさ、獣医になりたいって、中学の時から考えてたよ」
やっぱりだ。ぼそりと返された言葉を聞いた瞬間、ぐわりと嬉しさが爆発しそうになった。
「だよな! そんな気がしたんだ。おれたちふたりとも、理系ってことだな」
「……ちゃんと考えたのか? 光太は流されやすいから、心配だ」
「保護者面するなよな。おれは直感で生きることにしてるんだ。これだって思ったら、それでいいんだよ。ピンときたことなら後悔しないから」
「適当だなあ」
話しているうちに、裏山の出口が見えてきた。
木々のトンネルをくぐり抜けるなり、犬養さんと朝倉さんが慌てた様子で駆け寄ってくる。
「ああよかった! 春日井くん、任せてしまって本当に申し訳ない。怪我をしたんですか? 大丈夫ですか? モクレンちゃんも……!」
慧に背負われているおれと、リュックキャリーに入ったモクレンちゃんを見て、朝倉さんは心配そうに眉尻を下げた。
「おれは足捻っただけなんで、心配しないでください。それより、モクレンちゃんをお願いします」
慧の背中から降ろしてもらい、おれたちはモクレンちゃんの入ったリュックキャリーを朝倉さんに手渡した。
褒めてと言わんばかりにしっぽを揺らして犬養さんに駆け寄っていく花子の横で、朝倉さんは涙ながらにリュックキャリーを抱きしめる。
「ごめんね、モクレンちゃん。僕のせいで、びっくりさせてばかりだね」
なんのことか分からないとばかりに、モクレンちゃんは朝倉さんをきょとんと見上げる。そんなモクレンちゃんの様子を確かめて、犬養さんは落ち着いた調子で頷いた。
「このまま病院に連れて行こう。クリニックの先生には電話しておいたから」
「よかった。ありがとうございます!」
「こちらこそ。モクレンちゃんを守ってくれて、ありがとうね」
泥だらけになったおれと慧をじっと眺めて、犬養さんはかすかに苦笑する。
「……昔を思い出すね」
言葉の意味がよく分からない。おれは首を傾げて、慧はふいと目を逸らした。
気分を切り替えるように、犬養さんはゆるゆると首を横に振る。そしてサッと車の鍵を取り出すなり、おれたち全員を『いぬかいの小屋』のワゴン車へと誘導した。
「さあ、行こうか。朝倉さんとマロンちゃんはシェルターに戻ってもらうとして、光太くんと慧くんは、今日はもうおうちに帰ろう。怪我の手当てをしないとね。親御さんにも説明したいし、家まで送らせてもらうよ」
その言葉に、慌てておれは待ったをかける。
「いいです! おれは勝手に転んだだけなんで。そんなことしてもらわなくても大丈夫ですから」
「私がそうしたいんだ。ボランティアをしてもらってた最中のことだし、光太くんのお父さんお母さんにはいつもお世話になってるからね。少し挨拶に伺うだけだから。ね?」
「……すみません」
しゅんとおれは小さくなった。
早く成人したいと思うのはこういう時だ。おれが勝手にやらかしたポカでも、その責任を取るのはおれではない。
縮こまるおれを慰めるように、慧はおれの腕をぽんぽんと叩いた。
🐕 🐩 🐕
朝倉さんとマロンをシェルターに届けて、車はおれたちの家へと向かっていく。犬養さんの運転する車がおれの家の前へと差し掛かるころ、不意に慧が「あ」と焦ったような声を上げた。
「どうしたんだよ。スマホ、裏山に置いてきちゃったのか?」
「置いてくるわけないだろ。光太じゃあるまいし」
どういう意味だ。
「そうじゃなくて、うちの家族、買い物に出るって言ってたなって。多分まだ帰ってきてないと思う。家出るとき、鍵を持ってくれば良かったな……」
しかめ面で慧は言葉を継いだ。そんな慧に、おれはにかりと笑いかける。
「皆帰ってくるまでうちにいればいいじゃん。泥だらけだし、ついでに風呂も入ってけば?」
二人目の息子と父さんが言っていたように、おれも慧も昔から家族ぐるみの付き合いだ。今さら遠慮をする理由もない。
もっとも、中学高校と進むにつれて慧が家に遊びに来る頻度は減っていたし、最近に至ってはおれの部屋に来るどころか、慧の部屋にすらいれててくれなくなってしまったが。
「家の前で待ちぼうけしてる方がおかしいだろ?」
渋りに渋る慧を、おれはそう言って説き伏せる。
「……じゃあ、少しだけ」
「決まりな!」
慧が頷いたのをいいことに、おれは意気揚々と自分の家へと慧を引きずり込んだ。
おれが怪我をした事情を、犬養さんは親に丁寧に説明してくれた。動物病院へ向かうモクレンちゃんと犬養さんを見送るなり、母さんは当たり前のようにおれと慧を合わせて風呂場に放り込む。
「ふたりともとりあえずお風呂ね。どろどろの体、綺麗にしなさい」
「いや、俺はあとでいいですから……!」
慧は必死に抵抗したが、押しの強い母さんに逆らえるはずもない。
「濡れたままじゃ風邪引くよ。湯船とシャワー、交代で使えばいいんじゃない? そうしたら洗濯物も一気に洗えるし、一石二鳥!」
高校生の男ふたりを一緒に風呂に押し込むのはどうかとおれでさえ思うが、母さんはいつまで経ってもおれたちに五歳児と変わらぬ扱いをしてくる。
「汚れ物は隅にまとめておいてね」
有無を言わさず言い残して、母さんはぴしゃりと風呂場の扉を閉めてしまった。
無言で慧と見つめ合い、おれはふるふると諦めを込めて頭を振る。
「……しょうがねえ。とっとと入っちゃおう、慧」
ひと声掛けて、おれはてきぱきと湯を張り始める。
小学生のころには、こうして二人して泥まみれになって風呂場に押し込まれるのは、よくあることだった。懐かしいなあと思いつつ、おれはさっさと汚れた服を脱いでいく。
「わ」
しかし、慧はおれがシャツを脱ぎ去った途端に、サッと不自然に目を逸らした。
「なんだよ」
「あ、ああ、いや、えっと……」
ガン見されてもそれはそれで気まずいが、そんな見てはいけないものを見てしまったかのような反応をされると、気になって仕方がない。
「……足! 痛めてるんだから、温めない方がいいんじゃないのか」
ごまかし方が下手すぎる。いきなり挙動不審になって、どうしたというのか。
首を傾げつつ、おれは早々に裸になって浴室に上がる。
「おれはシャワーだけにするから大丈夫。慧は湯船も使っていいからな」
「ああ、うん。ありがとう……」
足を捻ったとはいえ、見た感じそこまで腫れはひどくない。歩けないほどでもないし、これなら風呂上がりにテーピングをするだけで十分だろう。
そんなことを考えつつ雑に髪を洗っていると、慧もおずおずと浴室に入ってきた。所在なげに立ち尽くした慧は、まだろくに湯の溜まっていない湯船につかり、小さくなって膝を抱える。
「一緒に風呂入るって、なんか修学旅行みたいだな」
「光太は修学旅行で大風呂行ったことないだろ」
「……まあそうだけど!」
小学生のときは食べすぎて腹痛で寝込んでいたし、中学のときはタイミング悪く捻挫したばかりだったから、そもそも湯船に浸かれなかった。いかにも修学旅行らしい大浴場というイベントを逃し続けてきたのがおれである。
修学旅行と言えば――。
「なあ、慧が好きなやつって誰?」
びくりと慧が肩を揺らした。
修学旅行といえば恋バナ。単純な連想だ。聞こうと思ってタイミングを逃し続けてきた慧の恋の相手とやらを問い詰めるにも、絶好の機会に違いない。
「……いきなり何だよ」
「ずっと聞こうと思ってたんだ。見込みのない恋をしてるとか何とか、前に言ってたじゃん。相手、誰? 聞かせろよ。クラスのやつ? それともボランティアに来てる人?」
慧の性格からすると、こいつは見た目で惚れるというよりは、中身に惚れるタイプだろう。とすると、ある程度親交のある相手があやしい。
クラスメイトなら中野か坂上、ボランティアなら参加歴の長いベテランたちか。叶わぬ恋というからには、相手にはすでにパートナーがいるか、年が相当に離れている可能性もある。
にやりと笑って、おれは慧を振り返る。
「当ててやろうか。榊のおばちゃんか、犬養さんだろ!」
「……なんでだよ。そんなわけないだろ……」
慧は疲れたように肩を落とした。違うらしい。
「えー、じゃあ誰だよ。おれも会ったことあるやつ?」
「誰でもいいだろ」
「よくないよ。気になるじゃん」
叶わぬ恋だと慧は言うけれど、相手がどう思うかはまた別の話だ。
慧に恋人ができたらどうなるのかなど考えたくもない。慧は優しいから、誰かと付き合うとなれば、相手をとても大切にするはずだ。時間だってたっぷり使って、甲斐甲斐しく世話を焼いてやるに違いない。
登下校も昼飯もボランティア活動も今までずっとおれと一緒にしてきたくせに、ぽっと出の誰かがおれの立場を取っていくのかと思うと、想像するだけで胸がムカムカとした。どろどろとした焦りを腹の奥深くに押し込んで、おれは恋バナの体で探りを入れる。
「なあ、『好き』ってどんな感じ?」
「どういう意味だ」
「犬養さんがいつだか言ってただろ。誰かに惹かれる『好き』は、ほかの好きとは違うんだって。慧もそうなのか?」
「……しつこいな。なんでそんなに気にするんだよ」
なんでと言いたいのはおれの方だ。
だって、慧の一番の友だちはおれではないか。それなのに、慧の中にはおれの知らない『一番』がいる。ならばせめて、その想い人とやらの名前くらい教えてもらわなければ気が済まない。
背は高いのか。
足は速いか。
知り合ってどれくらい経つんだ。
どこで会ったんだ。
なんで好きなんだ。
あの手この手で言葉を変えて探っていると、何度目かの問いかけで、ようやく慧は観念した。
「ああもう、いい加減にしてくれ! ……同じクラスのやつだよ! これでいいだろ!」
「よくないなあ。どんなやつ?」
「元気で優しい。名前通りの性格のやつ」
じとりとおれを睨みながら、慧は呻くように白状する。
あいまいすぎる。けれど名前通りと言うからには、慧の想い人は何かしら象徴的な名前をしているのだろう。たとえば花とか。
体を泡まみれにしながら、おれはクラスメイトの名前を必死に思い出そうとした。けれど、さっぱり思い当たらない。
さすがにもう少しヒントが欲しい。
「なあ、慧――」
くるりと振り向くと、慧はおれに背を向けるようにして湯舟の中に座っていた。いかにも落ち着かない様子で、手で水鉄砲を作って遊んでいる。普段話をするときには当たり前のように目が合うのに、今の慧は不自然なくらい、自分の手元しか見ていなかった。
慧が気づかないのを良いことに、おれはまじまじと幼馴染の背中を観察する。
先ほどおんぶしてもらったときも思ったけれど、慧の体には帰宅部とは思えないくらいしっかりと筋肉が付いていた。水泳の授業のときは皆ウェットスーツに近いジェンダーレス水着を着ているから、思えばこうやって裸を見る機会は今までなかった気がする。
犬たちの世話をしているおかげで、おれだってそれなりに筋肉はついている方だと思うが、それでも慧とは体の分厚さに差があった。
(おれに隠れて筋トレでもしてるのか?)
別におれに報告する義務はまったくないが、地味に悔しい。背だって昔はおれの方が高かったのに、いつの間にやら結構な差をつけられてきているし、これ以上慧に負けたくない。
「ん……?」
じっと背中を見つめていたその時、おれはふと見覚えのない傷跡を慧の肩に見つけた。体を洗い終えたところで、シャワーを流しっぱなしにしたまま、おれはそろりと慧の肩へと手を伸ばす。
「え? わ……っ!」
おれの指がその傷跡に触れた瞬間、慧はびくりと体を震わせ、文字通り垂直に飛び上がる。さながらくつろいでいた犬の体に急に触ったときのような驚きっぷりに、触ったおれまでびっくりした。
「ごめん」
「な、な……っ!」
バッと振り返った慧は、まずおれの顔を見て、それから視線を少しだけ下ろして、おれの体を思わずといったようにじっと見た。それからまたおれの顔に視線を戻した慧は、おれと目を合わせるなり、じわじわと頬に血を上らせていく。
「ぅ、あ」
「や、そんなところに傷跡、あったかなって……思って……」
言い訳にもならない言い訳が、おれの口の中でしおしおと消えていく。
言葉を取り繕えない慧なんて、はじめてだった。あからさまにうろたえている慧は、おれが触った肩の傷跡を自分の手で覆って、皮膚が白くなるほどぎゅっと掴んでいる。
慧は耳まで赤くなっていた。緊張していて、動揺していて、――そして、怯えているのがひと目で分かる。
おれが傷跡のことを聞いたせいじゃない。多分、裸で、手を伸ばせば肌に触れられる距離にふたりきりでいるこの状況が、慧をおかしくさせている。もっと言うなら、おれが慧に触ったからか。
友だちとふたりで狭い風呂に入るのは、それはまあ居心地が良いものではないだろう。でも、そこまで緊張するほどのことではないはずだ。だって相手はおれなんだから。
そこまで考えて、いや、とおれは直感的に自分の考えを否定した。
ここにいるのがおれだからこそ、多分、慧はこんなにも動揺しているのだ。
『見込みのない恋なら、ずっとしてる』
前に聞いた慧の言葉が、急に奇妙な生々しさを持って、おれの胸にストンと落ちてきた。
思えば慧は、おれが服を脱ごうとしただけで目を逸らしていた。体を洗っている間、こちらを見ようともしなかった。おまけにたった一瞬指が触れただけで、こうしてただの友だちに対するものにしては過敏すぎる反応を見せている。
それはおれを特別意識しているからだと思うのは、おれの自惚れなのだろうか。
「……あ、あはは……。びっくりした。ごめんな、光太」
上擦る声で、慧がごまかすように無理やり笑う。真っ赤になった慧の顔は、いつもと違って妙に幼く、頼りなく見えた。
「慧が謝ることじゃないだろ。おれが勝手に触ったんだから」
「ああ、うん。そうか。そうだな」
自分の肩を押さえていた手を、慧がぎこちなく外していく。正面から慧の傷跡を見たおれは、ついつい口を開いていた。
「それ、触ってもいいか」
「え? まあ、うん」
改めて許可を取った後で、おれは指先で慧の肩に触れる。
しっとりと濡れた慧の肌は吸い付くように熱くて、触れた瞬間、おれは自分の指が慧に吸い込まれるような、不思議な気分になった。このままずっと触っていたら、自分の肌と慧の肌の境目が分からなくなりそうだ。
――やっぱりだ。
でこぼことした傷跡を指で確かめて、おれはひそかに目を伏せる。
大きさこそおれの傷跡の方が濃く大きいけれど、傷のつき方といい、位置といい、おれの肩にある傷跡とよく似ている。
おれの傷跡は右肩にあるけれど、慧のそれは左側にある。たとえばおれたち二人が向き合った状態でどこかに落ちて、鋭い岩で肩を抉られたとしたら、こういうことになるかもしれない。でも、慧まで跡に残るほどの怪我をしていたなんて話は聞いたことがなかった。
おれが考え込んでいる間も、妙に慧は静かだった。
指を離して、顔を上げる。直後におれは息を呑む。
膝を抱えて座る慧は、半身で振り向いた体勢のまま固まっていた。唇をきつく引き結び、何かを耐えるように目を閉じている。
なんだかエロい。見ようによっては、いわゆるキス待ち顔に見えなくもない。
(慧はこういう顔も絵になるんだな)
思わず顔を寄せ、しげしげと慧の表情を眺めた後で、おれは自分で自分の思考にびっくりした。
何を考えているのだ。
慌てて顔を引こうとした拍子に、うっかり鼻先が慧の鼻に当たった。その感触を不審に思ったのか、慧がそろりと目を開く。
ぱちりと至近距離で目が合った。
おれたちは、ふたり揃って固まった。
「……何してるんだ、光太」
慧が上ずった声で聞いてくる。
まさか馬鹿正直に見惚れてましたなんて言えるはずもない。おれは笑ってごまかそうとした。
「や、あはは、愛の鼻チュー……なんつって……」
「愛?」
妙なところで慧が食いついてきた。
「そう。愛! 犬たちもよくやるだろ? 慧はおれの一番大好きな友だちだからな!」
「……友だち? 友だちか。……そうだな」
慧は苦しそうに目を伏せた。
どうして慧がそんな顔をするのか、その理由はおれには分からない。分からないけれど、取り返しのつかないことを口にしてしまったかのような、とんでもない罪悪感だけがおれの胸を埋めていた。
気まずい雰囲気がおれたちの間に立ち込めたその時、かたりと外から音が聞こえてくる。
「――ねえ、ちょっと」
母さんの声だった。
どうやら脱衣所の外にいるらしい。びくりと飛び上がったおれたちは、別に悪いことをしていたわけでもないのに、ふたり揃って大袈裟なくらいに距離を取る。
「……か、母さん? 何? 何か用?」
「タオル、ちょうど全部洗濯しちゃってたなって思い出したの。新しいやつを持ってきたんだけど、今、脱衣所に入っても大丈夫?」
「ああ、うん。大丈夫。ありがとう」
すりガラス越しに、母さんの影がさっと脱衣所に入ってくる。
「ふたり分、ここに置いておくからね。着替えもあとで持ってくるから」
「いいよ、それくらい自分でやるし」
「自分でやるも何も、光太、下着も持ってきてないじゃない」
持っていく間もなく風呂場に押し込んだのは母さんじゃないか。
物申したい気持ちにはなったが、おれはぐっと我慢する。無言のままでいると、母さんはため息をついて「まあいいや」と呟いた。
「光太のパンツだけここに置いておくから。慧くんの分はあとで光太が用意してあげなさいね」
「言われなくても――」
おれの返事も待たぬまま、母さんはおれたちが脱いだ服を洗濯機にささっと入れて出ていった。
「ああもう! 自分でやるってのに……!」
イライラが口をついて出た。
母さんのおかげで、さっきまでのおかしな雰囲気はすっかり消えてなくなった。惜しいことをしたような、ほっとしたような、何とも言えない気持ちだ。
顔を俯けた慧は、おれの視線から逃げるように背を丸める。
「洗い終わったなら先に出てろよ、光太。足の手当て、早くした方がいいだろ」
まるでさっきのことなんてなかったみたいな振る舞いで、慧は早々におれを追い出しにかかった。
なんだか一枚壁を張られてしまった気分だ。でも蒸し返すのもおかしい気がして、おれも慧の言葉にそのまま乗っかることにした。
「……そうだな。慧の着替えも持ってこないとだし、先出とくわ」
「ありがとう。足、ちゃんと冷やしておけよ」
「分かってるって」
浴室の扉を抜けて、タオルを被る。
髪を拭くふりをして、おれは盛大に頭を抱えた。頭の中はぐちゃぐちゃだった。
おれの傷と鏡写しのような位置にある、慧の傷跡。五年前の事故と無関係とは思えない。それなのに、あの日あったことをいくら考えても、なぜ慧が怪我をしているのか思い出せないことがもどかしい。
そしてあの挙動不審な慧の態度はなんだ。なんでそんな目でおれを見るんだ。なんで傷ついたような顔をするんだ。
(叶わない恋の相手って、まさか――)
顔を上げる。鏡の中の自分と目が合った。
おれか。おれなのか。いつからだ。
情けない自分の顔を見ていられなくて、パッとおれは視線を逸らす。
慧に聞きたいことは山のようにあるのに、何から聞けばいいのか分からない。普段なら慧に意見を求めるところだけれど、困ったことに、今はその慧こそが悩みのもとだ。
(……いや! おれの気のせいかもしれないし!)
ここはいったん、考える時間を置いた方がいいだろう。頭が冷えて冷静になったときに、またゆっくりと話をすればいい。
けれど、おれは慧を甘く見ていた。普段冷静で真面目なやつが思い詰めたとき、思いもかけない方向に暴走することを忘れていたのだ。
おれたちの波乱の夏休みの始まりだった。
