窓から吹き込む柔らかな風が、ぱたぱたと控えめにカーテンを揺らす。古びた教室に飛び込んできた風は、学生たちの髪をさらりと撫でては、プールの名残を感じる塩素の香りを広げていった。
ド田舎にある県立高校こと穂波高校、一年B組。
五限目・現代文の授業が進む教室の中では、今まさに何人もの生徒がうつらうつらと舟をこいでいる最中だった。
それもそのはず。なにしろこれは、午後一番の水泳の授業でほどよく疲れた直後の授業である。眠くならない方が難しい。
「――よし、じゃあ次の段落を音読してもらおうか。今日は七月二日だから、九番の……春日井!」
おれの耳にそんな言葉が飛び込んできたのは、うっかりうたた寝をしている最中のことだった。
誰かが焦ったようにおれの腕をシャーペンでつつく。
「……光太。光太ってば。当てられてる」
当てられてる……?
何の話かと理解するより早く、からかうように山本先生が声を張り上げる。
「春日井。春日井光太くーん。起きろー。昼寝の時間じゃないぞー」
「……はっ!」
慌てて頭を上げると、くすくすと周りから忍び笑いが聞こえてきた。
慌てて教科書をめくるおれに、隣に座る秋月慧が、「三十七、三段落目」と囁き声で教えてくれる。
目だけで慧に感謝しつつ、おれは読みにくい文をえっちらおっちら読み上げる。
「……『一旦いいそびれた私は、また向うから働き掛けられる時機を待つより外に仕方がなかったのです』」
今やっているのは夏目漱石の『こころ』だが、何やら幼なじみの恋愛相談を受けたら想い人が同じだったという話らしい。腹を割って話せばいいだけの話なのに、たったそれだけのことの何がそんなにも難しいというのだろう。釈然としない気持ちで、おれは担当の部分を読み上げた。
おれが音読を終えると、山本先生は満足そうに頷いた。解説を始める山本先生の声に紛れるように、ぽそりと苦笑まじりの声が隣から聞こえてくる。
「バカだなあ、光太」
「しょうがないだろ!」
いつでもそつのない幼馴染をじとりと横目で睨みつつ、おれは恥ずかしさをごまかすように、黒板に書かれた単語を無駄に丁寧にノートへと書き写していった。
ちょっとしたやらかしこそあったものの、無事に授業が終わったあとは、待ちに待った放課後だ。
うちの高校は自由の校風が売りということもあって、課外活動にはかなり力を入れている。
というより、それくらいしかやることがないのだ。
都会ならば塾にバイト、はたまた買い食いと、色々な選択肢があるのだろうが、ここではそんなものは夢のまた夢。新しいドラッグストアひとつやってくるだけでも町中が喜ぶ田舎町では、高校生の娯楽といえば部活か趣味か、せいぜいが友達の家でゲームをするくらいだ。
当然、おれにも日々青春を捧げるものがあった。
いそいそと荷物をまとめていると、前の席に座っていた女子ふたりが、くるりと振り返って話しかけてきた。
「ずいぶん気持ちよさそうに寝てたね、春日井」
「本当だよぉ。春日井くんたら、後ろですうすう寝息立てて寝てるんだもん。うっかりあたしも寝ちゃいそうだった~」
私服校だというのになぜか制服風な服を着ている中野渚と坂上咲菜は、片や黒髪ロングのクール系、片や茶髪パーマのふわふわ系と、見た目は正反対な二人組だ。聞けばどこぞに中野坂上という駅があるらしく、お互いの苗字がきっかけで仲良くなったらしい。
授業中のやらかしを笑うふたりに、おれはムッと唇を尖らせる。
「あれはしょうがいないだろ? プールのあとに山本先生の声なんて子守唄みたいなもんだって」
「まあね~。あたし、苗字が『さ』行で良かったよぉ。当てられてたらヤバかった~」
けらけらと笑いながら、ちらりと坂上はおれの脇へと視線を送る。隣では、おれの幼馴染こと慧が帰り支度を整えていた。
柔らかそうな黒髪に、すっと通った鼻筋。クラスメイトより頭ひとつ高い身長に、均整の取れた体格はもちろんのこと、つり目がちながら澄んだ瞳。年を重ねるごとに増すそのイケメンっぷりといったら、幼馴染のおれですら惚れ惚れする。
毎日カーゴパンツにシンプルなシャツを合わせているだけだというのに、どれだけ適当な服だろうが、慧が着ると様になるのだから不思議なものだ。こいつが愛用しているキーホルダーは謎のロボットのゆるキャラだというのに、それさえ不思議とおしゃれに見える。
童顔の上にどこもかしこも平々凡々なおれでは、似たような格好をしたところで小学生と間違われるのが関の山だろう。世の中というものは本当に不公平だ。
「今日もふたりでボランティアに行くの?」
中野がちらりと慧を見る。おれをだしにして慧に話しかけようとしているのがバレバレだ。
「保護犬ボランティア……だっけ? 春日井たち、四月からずっと行ってるよね。大変じゃない?」
「そうでもない。保護犬シェルター、おれたちの家のすぐそばにあるし」
「ふたりはご近所さんだもんねぇ」
にやにやしながら坂上が口を挟んできた。同じ中学だったせいか、坂上は時々話した覚えのないことまで知っている。
「中学の時もずーっと一緒に行ってたもんねぇ。仲良しだよね~」
「まあ、元々親がやってたから、その流れだよ」
昔からおれの親は、保健所から処分寸前の捨て犬を一時的に引き出して里親を探す『預かりボランティア』をやっていた。物心ついたときには、家で入れ替わり立ち替わり知らぬ犬が一緒に暮らしているのが当たり前だったし、二軒隣の家で暮らす慧もまた、おれの家へ遊びにくるうちに、自然と犬と触れ合うようになっていた。
元々そうやって親が保護犬ボランティア活動をしていたものだから、その繋がりで、おれたちは当たり前のように保護犬シェルターに通うようになった。
散歩にシャンプー、ブラシにエサやり。もちろん未成年の身では制限も多いけれど、大好きな犬のためにしてあげられることはたくさんある。
保護犬シェルターに通うのは、ボランティアというより、もはや生活の一環だ。おれにとって何より熱い課外活動と言ってもいい。
(それに――)
おれはちらりと自分の腕に視線を落とす。Tシャツで隠された肩の近くには、幼いころについた深い傷跡が、今も消えないまま残っている。
――大丈夫。もう大丈夫だから
記憶の中に残る優しい声を思い出し、ふ、と息をつく。
おれにとって保護シェルターでのボランティア活動は、命の恩人への下心と感謝を込めた、せめてもの恩返しでもあるのだ。
「中学の時は大人の手伝いしかさせてもらえなかったけど、高校に入ってからは犬の世話も任せてもらえるようになったから、楽しいんだよ。最近は犬の散歩も任せてもらえるようになったし。――な、慧!」
ぐいと慧の肩を掴んで引き寄せる。苦笑しながらも、慧は「そうだな」と穏やかに笑ってくれた。
「休みの日も参加できるようになったし、やりがいがある」
「だよな!」
うんうん頷くおれたちを、中野と坂上は呆気にとられたように見つめてくる。
「朝も一緒に来て、昼も一緒で、放課後もずっと一緒なのに、この上休みの日まで一緒にいるの……? べったりすぎない?」
「中学の時からこの二人、ずっとこうなんだよぉ。距離感おかしいよね~?」
ひそひそ囁く女子たちをよそに、慧は手慣れた様子でおれの机を覗くと、くしゃくしゃになったプリントを取り出し、苦笑した。
「……今日ふたつめのやらかしだ、光太。ちゃんと見せないと、おばさんたちがまた怒るぞ」
進路希望調査の紙だ。そろそろ文理希望を取ると山本先生が言っていた。
律儀にしわを伸ばしてよこされたそれを、おれは決まり悪く慧から受け取る。
「やべー。忘れてた……。いつのだろ」
忘れたままでいたかった。しぶしぶと進路希望調査の紙をしまっていると、中野が面白がるように聞いてくる。
「それ、文理調査の紙だよね。文系と理系、もう決めた?」
げ、と内心でおれは舌打ちした。正直なところ、あんまり聞かれたくない質問だ。それが決まっているなら、こんなところに進路調査の紙など押し込みはしない。
「あたしは理系だよ〜! 理学療法士になりたいんだぁ」
はいはい、と手を上げ、真っ先に坂上が答える。聞き覚えのない職業に、おれは眉をぎゅっと寄せた。
「理学療法士って?」
「リハビリの専門家。おばあちゃんが手術のあとにお世話になったんだけどね、かっこいいなあって思ったんだぁ」
照れくさそうに、けれどはっきりと坂上は答えた。
こんなにふわふわして見える坂上でさえ、なりたい職業がしっかりと決まっているのかと思うと、失礼な話、おれはかなりショックを受けた。
「私も理系」
嬉しそうに中野が続く。
「まだどこの大学とか学部とか、そういうのは全然決めてないんだけど、医療系に行きたいなって」
「お揃いだねぇ、渚ちゃん」
来年もよろしく、と気の早いことを言いながら、手を合わせて女子二人は喜んだ。
「春日井たちは?」
当然のように水を向けられ、おれはぐっと言葉に詰まる。
「えー……、数学苦手だし、文系かな……?」
「ダメの代表みたいな決め方するよねぇ。得意苦手じゃなくて将来やりたいことで決めなよ〜って、山ちゃん先生も言ってたじゃん」
「いいだろ、別に。……慧は? もう決まってるのか?」
縋るように幼馴染を見上げると、慧はちらりとおれを見たあとで、ほんのりと口角を上げた。
「秘密」
妙に色っぽい言い方だ。きゃあ、とはしゃぐ女子たちの横で、おれはひくりと頬を引きつらせた。
「なんだ秘密って」
「俺が言ったら光太もつられて同じにしそうだから。光太が決めたら教えてやるよ」
否定はできない。が、正直に認めるのも癪だった。
じとりと睨むおれをよそに、慧はひょいとおれの机を顎で指す。
「光太、まだ机の中にプリント入ってる」
「え? 何入れてたっけ……ああ!」
ごそごそと机の奥を探ると、二つ折りになった紙が出てきた。保護犬ボランティアの募集のちらしだ。
「なになに、『いぬかいの小屋』?」
ポップなフォントで書かれたそれを、中野が思わずといったように読み上げる。おれは胸を張って、ここぞとばかりに宣伝した。
「そう。おれたちがいつも行ってる保護犬シェルター。興味があったら、中野と坂上も来てみてよ。人手はあればあるほど助かるって犬養さんも言ってたし」
「誰、犬養さんって」
「保護犬シェルターの所長さん。おれの大好きな人だよ!」
好きな人は誰かと言われたら、おれは真っ先に犬養さんの名を挙げる。ボランティアに来てくれる人が増えれば、きっと犬養さんも喜ぶだろう。
(「光太くんは頼りになるね」なんて言ってくれたりして……!)
うっかり幸せな妄想に耽りそうになったその時、慧が拗ねたように「光太」と声を掛けてきた。
「犬養さんの話ばっかりしてないで、そろそろ行こう。電車が来る」
「やべっ、もうそんな時間?」
慌てておれは荷物を背負う。
田舎町では、電車は一時間に一本しか来ないのだ。この電車を逃すわけにはいかない。
「幼馴染っていうか、秋月くんは春日井くんの保護者ポジだよね〜」
聞き捨てならない言葉が聞こえてきたが、あいにくこれ以上構っている余裕はない。
「じゃあ、おれたち帰るから。また明日!」
中野と坂上に背を向けて、おれは慧と並び立って教室を飛び出した。
🐕 🐩 🐕
家に寄り、荷物を置いたら準備は万端。家の前で慧と合流して、おれたちは通い慣れた保護犬シェルター『いぬかいの小屋』へとまっすぐ向かう。
「こんにちはー!」
「こんにちは。あら、光太くん、慧くん。いらっしゃい」
にこやかに受付で出迎えてくれたのは、保護犬シェルターで働いている榊のおばちゃんだ。おっとりと辺りを見渡した榊のおばちゃんは、ややあってお目当ての人物が近くにいないことに気づいたのか、残念そうに眉尻を下げた。
「ごめんねえ、犬養さんたら、またドッグランの方に行ってるみたい。暇があるとすぐ犬たちのところに行っちゃうんだから。またスマホも置きっぱなしだし」
「届けてきますよ。おれたち今日は夕方の散歩当番なので、ドッグランから直で行きますね!」
「いつもありがとうね」
榊のおばちゃんに会釈をしつつ、おれと慧は勝手知ったるシェルターの中を歩いていく。
裏口から外に出て少し行くと、犬たちが自由に走れるドッグランが見えてきた。
ふかふかの芝生に、ところどころに作られた丘。飼い犬ならば毎日散歩に連れて行けるけれど、二十匹近くの犬が暮らすシェルターではそうもいかない。こうしたドッグランで駆け回ってもらうのは、犬たちの健康維持とストレス発散には欠かせないのだ。
ドッグランの中心には、ひとりのツナギ姿の男が立っていた。
クセの強い猫っ毛に、狐のように細い糸目。年はたしか今年で三十五になると言っていた。
このいかにも優しそうな男性こそ、保護犬シェルター『いぬかいの小屋』の所長・犬養和真さんだ。
大型犬をひょいと抱き上げられるくらいに鍛えられた体をオレンジ色のつなぎですっぽりと覆った犬養さんは、にこにこと微笑みながら犬たちと戯れている。動くたびにきらめく胸元のファスナーが目に眩しい。
おれたちが門に近づいていくと、いち早く気づいた犬たちがパッとこちらに顔を向ける。中でもおれたちと付き合いの長いゴールデンレトリバーの花子は、尻尾を振りながら門まで迎えに来てくれた。
「こんにちは、花子」
中に入るなりおれと慧の周りをぐるぐると回り出した花子の背中を、おれたちはふたり揃ってわしわしと撫で回す。
花子は『いぬかいの小屋』で飼われている犬だ。元は警察犬になる訓練を受けていたらしいが、難病を患って衰弱した状態でこのシェルターにやってきた。犬養さんは看取るつもりで飼うことにしたそうだが、その後めきめきと回復した花子は、五年経った今もこうして元気に生きている。
「光太くん、慧くん。もう学校は終わったのかい。早いねえ」
花子に続くように、犬養さんが門の方へとやってきた。
「こんにちは、犬養さん!」
「はい、こんにちは。ええと、今日は何をお願いするんだったかな」
犬養さんはごそごそとポケットを探り出す。多分、ボランティアの割り振りを書いたスマホを見ようとしたのだろう。しかし、残念ながらお探しのスマホはおれたちの手の中にある。
「今日は夕方の散歩当番に当たっています」
慧はさらりとそう告げて、「忘れてましたよ」とスマホを犬養さんに手渡した。
「ないと思ってたんだ。ありがとう」
恥ずかしそうに笑って、犬養さんはうんうんと頷いた。
「そうか、散歩当番か。もう散歩も任せられる年になったんだねえ。ふたりとも本当に大きくなったねえ」
「毎回言ってますよ、それ。もう高校に入学して三ヶ月も経ちました」
慧は呆れたように苦笑する。歳だけで見ればおれたちよりかなり年上のはずなのに、良くも悪くも犬養さんには威厳というか、近づきがたさというものがまったくない。
(そんなところも素敵だ……!)
知り合ったときからずっと、犬養さんはおれの憧れの人だ。
この人の穏やかな雰囲気に触れると、子どもも大人も、野犬も傷ついた犬も、いつの間にやら表情が緩んでしまう。おっとりしすぎた性格は時々心配になるが、とにかくすごい人なのだ。
「今日は小型犬の散歩からお願いできるかな」
おれと慧、そしてもう二人の散歩ボランティアを集めた犬養さんは、散歩に連れていく犬をそれぞれ丁寧に割り振っていく。
一回の散歩で連れていくのは、『いぬかいの小屋』ではひとり一匹。多頭散歩は人間側にも負担があるし、犬たちに何かあったときに対応が難しくなるから、兄弟犬などの例外を除いて、このシェルターではひとりのボランティアが複数の犬のリードを持つことは基本的にない。
「今日はここで初めてお散歩デビューする子がいるから、ちょっと気をつけて見てあげてくださいね」
モクレンちゃんといいます、と言いながら、犬養さんが一匹の小さな犬を抱き上げた。ぷるぷると震える小さなチワワは、シェルターに保護されたばかりなのか、落ち着かない様子で尻尾を丸めていた。
おれはミニチュアダックスフンドのマロン、慧は豆柴のモモの散歩担当になった。
初夏の風は爽やかでいい。気温の下がる日暮れ時は特に、歩くだけでも気分が上がる。
「……っ、こら、引っ張るな。モモ」
人懐っこくて散歩が大好きなモモは、高齢だった飼い主さんが亡くなったあと、引き取り手が見つからずにこのシェルターへとやってきた。走ることが好きらしく、ああして散歩のたびにリードを持つボランティアを引っ張っていく。
モモに連れられるがまま、小走りでひとり先へと行ってしまった慧を眺めていると、不意に近くのボランティアさんと目が合った。つぶらな瞳に、サイズのちょっと合っていない丸メガネが印象的なおじさんは、多分おれの父親と同年代くらいだろう。何度か散歩ボランティアで見かけたおぼえのある人だ。
「豆柴ちゃんは元気ですね」
はにかみながら話しかけてくれたおじさんの名前は、朝倉さんというらしい。へらりと笑って、おれは朝倉さんの連れるチワワのモクレンちゃんに目を向けた。
「モモは走るのが大好きですから。モクレンちゃんも、初めての散歩なのにちゃんと歩けてよかった」
「本当に。お散歩が好きなんですかね。うちの犬は散歩慣れするまで一ヶ月掛かったのに」
「犬、飼ってるんですか」
おれが尋ねると、朝倉さんは懐かしそうに目を細めた。寂しそうな、愛おしそうな、優しい笑い方だった。
「昔、一緒に住んでいました。一年前に病気で死んでしまって、今はもういないんですけどね。ちょうどモクレンちゃんと同じ、真っ白なチワワだったなあ……」
「また飼いたいですか?」
「そうですね。ご縁があったら、また一緒に暮らしたいですね。でも、なかなか踏ん切りがつかなくて」
てくてく歩く犬を見ながら、おれと朝倉さんはぽんぽん言葉をやりとりする。
年が離れていようが、共通する話題がなかろうが、ここに来ているのはほぼ間違いなく犬好きだ。犬のために何かをしたいものどうし、何はなくとも犬がすべてを繋いでくれる。
「春日井くんと秋月くんとは、ずっと話してみたいなあと思ってたんです。高校生で毎日のようにボランティア活動をしている子なんて、珍しいですから。春日井くんくらいの年代だと、部活やバイトをしている子の方が多いでしょう? それとも、ボランティア部の活動ですか?」
なるほどボランティア部という部活動にしてしまえば、周りに説明しやすくなるのか。ボランティアなんて、暇なときになんとなくでやっていいものだとおれは思うけど、やたらと高尚なもののように言われて返しに困ることが多いのだ。便利な言葉を頭の中に書き留めつつ、おれは「や、違います」と苦笑いを返した。
「本当にただのボランティアです。つーか、個人的な恩返しみたいなもんですよ」
「恩返し? 犬たちに?」
「犬にっていうか、犬養さんにというか、その両方ですかね」
うんちがしたくなったのか、モクレンちゃんがくるくると道端で回り出す。その儀式のような動きを見るともなしに見守りながら、おれは曖昧な記憶をたどって、五年前の話を朝倉さんにぽつぽつと語って聞かせた。
「小学五年生の時、おれ、裏山で崖から落ちたんです。あ、崖って言ってもそこまで大きい崖じゃないっすよ」
入ってはいけないと言われていた裏山を、当時のおれと慧はひそかに放課後の遊び場にしていた。崖際の危ない位置を攻めつつ隠れ鬼をするのが、当時のおれたちの間のブームだったのだ。多分、遊んでいる最中に足を踏み外して落ちたのだろう。落ちた拍子に頭を打ったせいか、あの日の記憶はとても曖昧だ。
「あちこち怪我しちゃって、自力じゃ動けなかったことだけは覚えてます。頭からも肩からも血がどくどく流れてましたし、もしかしておれ、ここでひとりで死ぬのかなあって思って、とにかく怖かったですよ」
落ちた経緯も落ちる最中のこともろくに覚えていない。ただ、おれの肩には岩で抉られたひどい傷跡が残っているから、ひどい落ち方をしたことだけはたしかだろう。
「そんな! 大丈夫だったんですか……?」
ごくりと朝倉さんが唾を飲み込む。
おれは今ここに元気に立っているのだから大丈夫だったに決まっているのだが、なかなかノリのいい人だ。
朝倉さんに合わせて真面目ぶった顔を作ったおれは、内緒話をするように声を落とした。
「それがですね、なんと救いの女神がいたんですよ」
「女神?」
「もうだめだと思ったその時、『ワン!』って声が聞こえたんです!」
その時おれを見つけてくれた犬こそ、当時はまだ保護犬だったゴールデンレトリバーの花子である。意識が朦朧とする中、ワンワン鳴いて駆けつけてくれた花子は、おれの頬を優しく舐めてくれた。
「花子がワンワン鳴いて、そのあと大人の足音がして、誰かがおれを助けに下まで降りてきてくれたんです。隣で手を握って、『もう大丈夫』って、ずっと優しく声を掛け続けてくれました」
救急車に乗せられたおれが眠りに落ちるまでずっと、その人は手を握ってくれていた。痛くて怖くてたまらなかったけれど、その声と手の感触のおかげで、泣きたいくらいにほっとしたのだ。
思い出すだけで胸がほっこりとあたたかくなる。花子がおれの恩犬なら、あのときおれを助けてくれた彼は、まさしくおれの恩人だった。
物理的にという意味以上に、精神的な恩人だ。痛くて怖くて、真っ暗闇で震えることしかできなかった、おれの心を救ってくれた。
ははあ、と朝倉さんは息を吐いた。
「なるほどねえ。それが犬養さんだったってことですか」
「はい! 多分!」
おれが元気いっぱいに頷くと、朝倉さんは不思議そうに首を傾げた。
「『多分』? どういうことですか?」
「意識がもうろうとしてたんで、顔も声も、ほとんど覚えてないんですよ。花子と一緒にいたってことは、まず間違いなく犬養さんだとは思うんですけど……。胸元にこう、キラッとするものがあったのは間違いないので」
「ああ、犬養さんのツナギ、ファスナーの持ち手がやたら大きいですもんね。ライトが当たれば目立ちそうだ」
納得したとばかりに朝倉さんは頷いた。
当時のおれは、退院したあとで親と一緒に『いぬかいの小屋』に礼を言いに行った。助けてくれてありがとうと頭を下げるおれたちに、「いつも光太くんが花子と遊んでくれていたおかげですよ」と犬養さんはにこやかに笑うばかりで、自分の善行を詳しく語ろうとはしなかった。
そういうわけで真偽のほどはたしかではないのだが、状況的におれの恩人は犬養さんに違いないと確信している。
「そういうわけで、ここに通ってるのはおれの恩返し半分、趣味半分なんです」
「なるほど。素敵なご縁ですね」
モクレンちゃんのうんちを袋に入れつつ、朝倉さんはにこりと微笑んだ。力強く頷き返して、おれはぐっと拳を握り込む。
「犬たちの役にも立てるし、いい運動にもなるし、良いこと尽くめですよね! ついでおれの頑張りに犬養さんが惚れてくれたら完璧です!」
「うんうん、そうですね。惚れてくれたら――えっ? 惚れる?」
かぱりと朝倉さんが口を開ける。振り返った拍子に、ぽろりとモクレンちゃんのうんちが落ちた。丸メガネが今にも落ちてしまいそうで、見ていて少し心配になる。
「大丈夫っすか?」
「あ、ああああ、うん、大丈夫!」
大丈夫と口では言っているが、見た感じどうも大丈夫そうではない。動揺しすぎてふらついている朝倉さんに、そこうんち落ちてるので気をつけて、と声を掛けようとしたその時、背後からぬっと慧が顔を出した。
「朝倉さんをびっくりさせるなよ、光太」
「「うわあああ!」」
びっくりさせているのはそっちの方だ。
前に行ったはずなのになんで後ろから来るのかと思えば、なんと慧とモモは、おれたちが話している間に裏道を一周してきたらしい。視線を落とせば、 へっへっと息を荒くしたモモが、つぶらな瞳でおれを見上げていた。
「朝倉さん。そこ、うんち落ちてるので気をつけてくださいね」
「あっ、ありがとう」
おれが言おうと思っていたことと一言一句違わぬ言葉をを朝倉さんに投げかけつつ、慧はやれやれとでも言いたげに片眉を上げる。
「惚れたのなんだのって、何でもかんでも喋るのはやめた方がいいって前にも言ったじゃないか」
「好きで何が悪いんだよ」
「色々悪い。見込みもないのにずっと片思いしてるのもどうかと思う。相手にだって迷惑だ」
突き放すような言い方に、おれは思わずむっと唇を尖らせる。
「慧に何が分かるんだよ。恋なんてしたことないくせに」
物心つくより前からそばにいるけれど、慧が誰かを好きだと言うところなんて聞いたこともないし、誰かを目で追いかけているところだって見たことがない。
そう思ったのに、慧は真面目な顔で「あるよ」と言った。
「見込みのない恋なら、ずっとしてる」
大人びた苦みを滲ませながら吐き捨てて、慧は束の間、もの言いたげにおれの顔をじっと見つめた。言い方自体も気になったけれど、それ以上におれは、慧の言葉に衝撃を受けた。
「……なんだよそれ。聞いてないぞ。いつからだ。相手は?」
「光太には関係ない」
胸が異様にモヤついた。幼馴染だからといって、たしかにお互い全部を伝える必要はない。分かっているけれど、おれが知らぬ間に慧がどこかの誰かに恋をして、しかもそれをちらりとも匂わせなかったのだと思うと、なんだかとても気に入らない。
慧はおれの慧じゃないのか。
ズキリと頭が妙に痛む。
無言で見つめ合うおれたちの間に、困りきった顔で朝倉さんが入ってきた。
「ま、まあまあ。とりあえず、散歩を終わらせましょう。まだまだシェルターで待っている子たちもいるでしょうから」
「あ……、すみません」
すっかり周りが見えなくなっていた。慌てておれは、足元に座る犬たちへと視線を戻す。
待ちくたびれてしまったらしい犬たちは、思い思いの体勢で地面に座り込み、後ろ足で首をかいていた。
顔を見合わせたおれと慧は、ひとつ頷き前を向く。
歩き始めた拍子に、慧のポケットから覗くロボット型のキーホルダーが、きらりと夕焼けを映して輝いていた。
🐕 🐩 🐕
犬たちの散歩が終わるころになると、明るかった空もすっかり暮れていた。近くの田んぼからは、そろそろ聞き納めだろうカエルの合唱が賑やかに響いてくる。
「皆さん、今日はどうもありがとうございました。よかったらお茶とお菓子を持って帰っていってくださいね」
にこやかに微笑む犬養さんが、お茶と煎餅を手ずからボランティアに配って渡す。『いぬかいの小屋』では、ボランティアの時間が終わると、いつもこうしてささやかな差し入れをくれるのだ。
ただ、犬養さんの好みはおれからするとかなり渋い。煎餅やおかきならまだいい方で、栗しぐれやら水無月やら、じいちゃんばあちゃんの家で見るようなお菓子が出てくると、おれはしょっぱい気持ちになる。
「光太くんと慧くんにも。はい、どうぞ」
今日の差し入れはプチ最中だった。悪くない。
「今日も本当にありがとうねえ。みんなも散歩に行けて嬉しそうだったし、いつも本当に助かるよ」
「いえいえ、おれも犬たちに会えるのが嬉しいですし、何より大恩人の犬養さんのこと、おれ、大好きですから!」
「ありがとう。嬉しいよ」
てれてれと頭をかく犬養さんはかわいらしいが、告白したのに今日もさらりと流されてしまった。けれど、一度でダメなら二度言うまでだ。
「おれ、犬養さんが好きです! おれと付き合ってください!」
「気持ちは嬉しいけど、それはできないなあ」
苦笑する犬養さんに、ぐぬぬとおれは歯噛みする。
「あらまあ光太くん、またやってるの」
「昔っから変わらないねえ。『犬養さん、おれと結婚してください!』って言ってたものねえ」
くすくすと微笑ましそうに笑うスタッフさんたちに、目だけの抗議を無言で向ける。子どものときに出会うとこれだから厄介なのだ。何年経っても誰も彼もがいつまでもおれのことを子ども扱いしてくる。
おれはキッと犬養さんを見上げた。
「おれの何がダメなんですか?」
「ダメというかね、まず光太くんは、別に私と付き合いたいわけじゃないだろう?」
問われてちょっと考える。そう言われるとそうかもしれない。おれは犬養さんのようになりたいのであって、別に恋人になりたいわけではない。
「……そうですけど、でもおれ、犬養さんみたいなダンディな大人になりたいんです。この気持ちに嘘はありません! 好きです!」
「ありがとう。でもそれは尊敬の好きってやつだね。付き合いたい『好き』っていうのは、誰かに強烈に惹かれる気持ちのことだからね」
言葉は正しく使おうね。犬養さんはまるきり子どもを諭すように言ってくる。
「分類はともかく、おれ、犬養さんが大好きなのに」
食い下がるおれを見て、呆れたように慧が横から口を出してくる。
「いい加減にしろ、光太。何度同じことやれば気が済むんだよ。引き際ってものを――ん?」
不意に慧が言葉を止めた。遅れておれや周りもスタッフも、外から響く物音に気づく。
「こら! 待て!」
何やら外が騒がしい。困り果てた人間の声に、興奮したような犬の鳴き声。そしておそらくは鍵束だろうものがガチャガチャ鳴る音が聞こえてくる。……と来れば、おそらくはシェルターの施錠をしている最中に、脱走した犬が出たのだろう。
考えるより前に、おれと慧は同時に外へと飛び出していた。
門をくぐるや否や、小さな犬が弾丸のように目の前を駆け抜けていく。
ビーグルの梅吉だ。別名・脱走犬。
花子と同じく、保護された時には衰弱死する寸前で、看取りのためにシェルターへと引き取られてきた……はずなのだが、何年経とうと天に召される気配はない。むしろ年々元気になっている。
フレンドリーなやつではあるが、隙あらば首輪抜けする問題犬でもあった。
「梅吉だな」
「ああ」
おれと慧の間に、細かい言葉は必要ない。目を合わせれば、何を考えているのかなんてだいたい分かる。
パッと二手に分かれたおれたちは、裏道に繋がる小道に陣取って、両脇から細い裏道を攻めていく。
ダダダッとすごい勢いで走ってきた梅吉は、おれの顔を見るなり急ブレーキをかけ、鋭く方角を反転した。
どうやら梅吉はこれを完全に遊びだと思っているらしい。尻尾はぶんぶんと勢いよく振られているし、表情に至ってはあからさまなイタズラ犬だ。
「こら! ノーリードの散歩はダメだぞ、梅吉!」
おれはわざと大袈裟に声を上げて追いかける。
追えば逃げるし、逃げれば追いたくなるのが犬というものだ。思った通り、おれから逃げるように走り出した太郎は、まっすぐ裏道を進んでいく。
つまりは慧が待ち構える、出口の方へ。
「おいで、梅吉」
慧が両腕を広げて体勢を低くする。慧を見つけた梅吉はきょろきょろとおれと慧を交互に見て、観念したように慧の腕に向かって飛び込んだ。
「なんでおれじゃなくて慧の方に行くんだよ!」
「そりゃ、人徳じゃないか」
おれと慧の間に人徳の差があってたまるか。
唇を尖らせるおれを尻目に、慧はワシワシと梅吉の首元をモフっている。たくさん走って満足したのか、太郎はへっへっと荒い息をつきながらもご機嫌にしっぽを振っていた。
「あれ? もう捕まえたのかい!」
ひょいと犬養さんたちが曲がり角から顔を出す。犬養さん含め、シェルターに常駐しているスタッフの人たちの手には、犬の気を引くためのおやつにボール、そして身を守るための分厚い手袋が抱えられていた。遅れて、榊のおばちゃんが捕獲用の檻を持ってやってくる。
「あら、檻はいらなかったみたいね。さすが光太くんたちは早いねえ」
「息ぴったりでびっくりしたよ。これがニコイチってやつかい」
「やあ、若い、若い。さすが高校生は瞬発力があるなあ」
スタッフさんたちはおれたちを褒めてねぎらってくれたけれど、犬養さんだけは心配そうな顔を崩さなかった。
「捕まえてくれたのはありがたいけど、何の準備もなしに追いかけてはいけないよ。普段は温厚な犬でも、興奮すると噛んでくることがあるからね。君たちが怪我をしてしまったら悲しいし、人を噛んでしまえば犬も里親のもとに行けなくなってしまう。まどろっこしく思えるかもしれないけど、次から気をつけようね」
「……すみません。大通りに出ちゃったら危ないと思って、つい」
しゅんと頭を下げるおれとは真逆に、慧は堂々と「梅吉以外だったら追いかけてません」と言い返した。
「ちゃんと手袋もつけていきましたし、大丈夫です」
その言葉に慧の腕を見ると、いつの間にやらペットグローブが嵌まっていた。どうやら飛び出す直前に持ち出してきていたらしい。
さすがは慧。用意周到なやつである。
「遊ぶならドッグランの中だけにしろよ、梅吉」
慧が梅吉に話しかけると、くぅんと梅吉は甘え鳴きをした。言葉を分かっているわけではないだろうが、嬉しそうに慧にじゃれつく様子を見ていると、だんだん頬が引きつってくる。
「こいつ、全然反省してねえな……」
ぼそりとおれが呟くと、くすくすとスタッフたちの間に朗らかな笑いが広がった。
その後、梅吉をシェルターに送り届けたおれたちは、並んでふたりで帰路につく。
「あー! 梅吉のせいでまたうやむやにされちまった」
「犬養さんのことか? いい加減諦めたらいいのに」
「軽く言うなよな。おれにとっては初恋なんだから!」
「恋じゃないって言われたばっかりだろ」
「そうだけど、なんでもいいだろ! 好きには違いないんだから」
日の落ちた道を歩いていると、コオロギなんだか鈴虫なんだかも分からない夏虫たちの声がどこからともなく聞こえてくる。やや季節外れに田んぼの上を飛ぶ蛍を、おれはじっと目で追いかけた。
「犬養さんには怒られちゃったけど、やっぱりああいう大人なところがたまらないんだよな」
さすがは山で迷子になったおれを、救急隊を引き連れて迎えにきてくれるだけのことはある。
おれがひとりでうんうん頷いていると、慧はつまらなさそうに口をへの字に曲げた。
「……そんなに好きか」
「当然だろ! だって犬養さんは、おれの命の恩人だぞ」
反射的に言い返したところで、はたとおれは立ち止まる。
「そういえばさ、五年前の事故の時、慧も一緒にいたんだよな? 落ちた時のこと、覚えてるか?」
おれが問いかけると、慧は嫌そうに顔を顰めた。
「なんだよその顔」
「なんでもいいだろ」
吐き捨てるように言って、慧はぷいと顔を背けた。
どうやら慧は、よほどあの事故の話をしたくないらしい。普段スマートな慧にしては珍しく、あからさまな話題の変え方をしてきた。
「進路希望のプリント、ちゃんとおばさんに渡しておけよ」
「分かってるよ」
「……犬養さん犬養さんって、毎日聞かされる方の身にもなれよな。光太と一緒にいるのは俺なのに」
聞き間違いかと思うほど小さな声で、慧はぽつりと呟いた。
気づけばおれたちは、おれの家の前に着いていた。門の前にぽつんと立って、慧はいつも通りに手を上げる。
「じゃあな。おやすみ、光太」
「ああ、うん。おやすみ、慧。また明日」
なんだったんだ。
釈然としないまま帰宅したおれは、気が進まないながらも、仕方がないので慧に釘を差された通り、進路調査の紙を母さんに渡した。
「三者面談⁉」
母さんが悲痛な声を上げる。
「光太! 日程調整のいる紙はちゃんと出しなさいって言ってるでしょう! これ、明日提出しなきゃって書いてあるよ!?」
くしゃくしゃになった紙を確認するなり顔を引きつらせた母親は、恐るべき瞬発力で怒りを顔に浮かべてそう言った。
こうなるから出したくなかったのだ。
「おれだってわざと出さなかったわけじゃねえし。慧に言われるまで忘れてたの!」
「堂々と言うことじゃないでしょう! 慧くんにはいっつも光太のお世話させちゃって、ほんと頭が上がらないわあ……。同い年なのに、光太とはえらい違い」
「お世話なんてされてねえもん。……おれ、先に風呂入ってくるから!」
それ以上嫌味を言われる前に、おれは風呂場に退散する。
そもそも、スマホがあるのにわざわざ紙で日程希望なんて取る山本先生が悪いのだ。心の中で担任に八つ当たりをしつつ、おれは熱いシャワーを頭から被る。
風呂場の鏡に映った傷跡を見るともなしに眺めつつ、ふんとおれは鼻を鳴らした。
(みんなして慧をおれの保護者だのなんだのって……!)
ニコイチとやらのレトロな響きでセット扱いされるならともかく、おれが一方的に慧に世話されているかのような言われ方は納得がいかない。
たしかに慧は見た目も中身も基本的にはイケメンではあるものの、みんなが思うほどあいつは大人じゃない。現に、おれがちょっとばかし犬養さんの話をしていたというだけで、やきもちを焼いて拗ねていたくらいだ。
そこまで考えたところで、はたとおれはシャンプーをする手を止めた。
(……ん? やきもち?)
そうだ。やきもちだ。
すっきりとして、おれはぽんと手を打った。
保護犬を長期間預かっていると、うっかりよその犬に気を取られたとき、その預かっている犬がやきもちを焼いて怒り出すことがたまにある。おれたち家族を好きになってくれたからこそ、犬はおれたちの関心がよそに向くことが嫌なのだ。
慧が見せた反応は、まるきりそれと同じに見えた。
(なるほどなあ。あいつ、おれに構ってほしかったのか)
慧も何か話したいことがあったのかもしれないし、単純におれが犬養さんばかりを褒めるものだから面白くなかったのかもしれない。
「ガキだなー、あいつ……」
じわじわと勝手に口角が上がっていく。
慧がおれの保護者みたいだと周りは言うが、とんでもない。たしかにおれにも抜けているところがあるにはあるが、実際のところ面倒くさいのはあいつの方だ。
(慧の言ってた見込みのない恋っていうのも、聞き出さないとな)
おれに隠しごとをするなんて許さない。
キュッと蛇口を捻って止めて、おれはいそいそと風呂場を出た。
ド田舎にある県立高校こと穂波高校、一年B組。
五限目・現代文の授業が進む教室の中では、今まさに何人もの生徒がうつらうつらと舟をこいでいる最中だった。
それもそのはず。なにしろこれは、午後一番の水泳の授業でほどよく疲れた直後の授業である。眠くならない方が難しい。
「――よし、じゃあ次の段落を音読してもらおうか。今日は七月二日だから、九番の……春日井!」
おれの耳にそんな言葉が飛び込んできたのは、うっかりうたた寝をしている最中のことだった。
誰かが焦ったようにおれの腕をシャーペンでつつく。
「……光太。光太ってば。当てられてる」
当てられてる……?
何の話かと理解するより早く、からかうように山本先生が声を張り上げる。
「春日井。春日井光太くーん。起きろー。昼寝の時間じゃないぞー」
「……はっ!」
慌てて頭を上げると、くすくすと周りから忍び笑いが聞こえてきた。
慌てて教科書をめくるおれに、隣に座る秋月慧が、「三十七、三段落目」と囁き声で教えてくれる。
目だけで慧に感謝しつつ、おれは読みにくい文をえっちらおっちら読み上げる。
「……『一旦いいそびれた私は、また向うから働き掛けられる時機を待つより外に仕方がなかったのです』」
今やっているのは夏目漱石の『こころ』だが、何やら幼なじみの恋愛相談を受けたら想い人が同じだったという話らしい。腹を割って話せばいいだけの話なのに、たったそれだけのことの何がそんなにも難しいというのだろう。釈然としない気持ちで、おれは担当の部分を読み上げた。
おれが音読を終えると、山本先生は満足そうに頷いた。解説を始める山本先生の声に紛れるように、ぽそりと苦笑まじりの声が隣から聞こえてくる。
「バカだなあ、光太」
「しょうがないだろ!」
いつでもそつのない幼馴染をじとりと横目で睨みつつ、おれは恥ずかしさをごまかすように、黒板に書かれた単語を無駄に丁寧にノートへと書き写していった。
ちょっとしたやらかしこそあったものの、無事に授業が終わったあとは、待ちに待った放課後だ。
うちの高校は自由の校風が売りということもあって、課外活動にはかなり力を入れている。
というより、それくらいしかやることがないのだ。
都会ならば塾にバイト、はたまた買い食いと、色々な選択肢があるのだろうが、ここではそんなものは夢のまた夢。新しいドラッグストアひとつやってくるだけでも町中が喜ぶ田舎町では、高校生の娯楽といえば部活か趣味か、せいぜいが友達の家でゲームをするくらいだ。
当然、おれにも日々青春を捧げるものがあった。
いそいそと荷物をまとめていると、前の席に座っていた女子ふたりが、くるりと振り返って話しかけてきた。
「ずいぶん気持ちよさそうに寝てたね、春日井」
「本当だよぉ。春日井くんたら、後ろですうすう寝息立てて寝てるんだもん。うっかりあたしも寝ちゃいそうだった~」
私服校だというのになぜか制服風な服を着ている中野渚と坂上咲菜は、片や黒髪ロングのクール系、片や茶髪パーマのふわふわ系と、見た目は正反対な二人組だ。聞けばどこぞに中野坂上という駅があるらしく、お互いの苗字がきっかけで仲良くなったらしい。
授業中のやらかしを笑うふたりに、おれはムッと唇を尖らせる。
「あれはしょうがいないだろ? プールのあとに山本先生の声なんて子守唄みたいなもんだって」
「まあね~。あたし、苗字が『さ』行で良かったよぉ。当てられてたらヤバかった~」
けらけらと笑いながら、ちらりと坂上はおれの脇へと視線を送る。隣では、おれの幼馴染こと慧が帰り支度を整えていた。
柔らかそうな黒髪に、すっと通った鼻筋。クラスメイトより頭ひとつ高い身長に、均整の取れた体格はもちろんのこと、つり目がちながら澄んだ瞳。年を重ねるごとに増すそのイケメンっぷりといったら、幼馴染のおれですら惚れ惚れする。
毎日カーゴパンツにシンプルなシャツを合わせているだけだというのに、どれだけ適当な服だろうが、慧が着ると様になるのだから不思議なものだ。こいつが愛用しているキーホルダーは謎のロボットのゆるキャラだというのに、それさえ不思議とおしゃれに見える。
童顔の上にどこもかしこも平々凡々なおれでは、似たような格好をしたところで小学生と間違われるのが関の山だろう。世の中というものは本当に不公平だ。
「今日もふたりでボランティアに行くの?」
中野がちらりと慧を見る。おれをだしにして慧に話しかけようとしているのがバレバレだ。
「保護犬ボランティア……だっけ? 春日井たち、四月からずっと行ってるよね。大変じゃない?」
「そうでもない。保護犬シェルター、おれたちの家のすぐそばにあるし」
「ふたりはご近所さんだもんねぇ」
にやにやしながら坂上が口を挟んできた。同じ中学だったせいか、坂上は時々話した覚えのないことまで知っている。
「中学の時もずーっと一緒に行ってたもんねぇ。仲良しだよね~」
「まあ、元々親がやってたから、その流れだよ」
昔からおれの親は、保健所から処分寸前の捨て犬を一時的に引き出して里親を探す『預かりボランティア』をやっていた。物心ついたときには、家で入れ替わり立ち替わり知らぬ犬が一緒に暮らしているのが当たり前だったし、二軒隣の家で暮らす慧もまた、おれの家へ遊びにくるうちに、自然と犬と触れ合うようになっていた。
元々そうやって親が保護犬ボランティア活動をしていたものだから、その繋がりで、おれたちは当たり前のように保護犬シェルターに通うようになった。
散歩にシャンプー、ブラシにエサやり。もちろん未成年の身では制限も多いけれど、大好きな犬のためにしてあげられることはたくさんある。
保護犬シェルターに通うのは、ボランティアというより、もはや生活の一環だ。おれにとって何より熱い課外活動と言ってもいい。
(それに――)
おれはちらりと自分の腕に視線を落とす。Tシャツで隠された肩の近くには、幼いころについた深い傷跡が、今も消えないまま残っている。
――大丈夫。もう大丈夫だから
記憶の中に残る優しい声を思い出し、ふ、と息をつく。
おれにとって保護シェルターでのボランティア活動は、命の恩人への下心と感謝を込めた、せめてもの恩返しでもあるのだ。
「中学の時は大人の手伝いしかさせてもらえなかったけど、高校に入ってからは犬の世話も任せてもらえるようになったから、楽しいんだよ。最近は犬の散歩も任せてもらえるようになったし。――な、慧!」
ぐいと慧の肩を掴んで引き寄せる。苦笑しながらも、慧は「そうだな」と穏やかに笑ってくれた。
「休みの日も参加できるようになったし、やりがいがある」
「だよな!」
うんうん頷くおれたちを、中野と坂上は呆気にとられたように見つめてくる。
「朝も一緒に来て、昼も一緒で、放課後もずっと一緒なのに、この上休みの日まで一緒にいるの……? べったりすぎない?」
「中学の時からこの二人、ずっとこうなんだよぉ。距離感おかしいよね~?」
ひそひそ囁く女子たちをよそに、慧は手慣れた様子でおれの机を覗くと、くしゃくしゃになったプリントを取り出し、苦笑した。
「……今日ふたつめのやらかしだ、光太。ちゃんと見せないと、おばさんたちがまた怒るぞ」
進路希望調査の紙だ。そろそろ文理希望を取ると山本先生が言っていた。
律儀にしわを伸ばしてよこされたそれを、おれは決まり悪く慧から受け取る。
「やべー。忘れてた……。いつのだろ」
忘れたままでいたかった。しぶしぶと進路希望調査の紙をしまっていると、中野が面白がるように聞いてくる。
「それ、文理調査の紙だよね。文系と理系、もう決めた?」
げ、と内心でおれは舌打ちした。正直なところ、あんまり聞かれたくない質問だ。それが決まっているなら、こんなところに進路調査の紙など押し込みはしない。
「あたしは理系だよ〜! 理学療法士になりたいんだぁ」
はいはい、と手を上げ、真っ先に坂上が答える。聞き覚えのない職業に、おれは眉をぎゅっと寄せた。
「理学療法士って?」
「リハビリの専門家。おばあちゃんが手術のあとにお世話になったんだけどね、かっこいいなあって思ったんだぁ」
照れくさそうに、けれどはっきりと坂上は答えた。
こんなにふわふわして見える坂上でさえ、なりたい職業がしっかりと決まっているのかと思うと、失礼な話、おれはかなりショックを受けた。
「私も理系」
嬉しそうに中野が続く。
「まだどこの大学とか学部とか、そういうのは全然決めてないんだけど、医療系に行きたいなって」
「お揃いだねぇ、渚ちゃん」
来年もよろしく、と気の早いことを言いながら、手を合わせて女子二人は喜んだ。
「春日井たちは?」
当然のように水を向けられ、おれはぐっと言葉に詰まる。
「えー……、数学苦手だし、文系かな……?」
「ダメの代表みたいな決め方するよねぇ。得意苦手じゃなくて将来やりたいことで決めなよ〜って、山ちゃん先生も言ってたじゃん」
「いいだろ、別に。……慧は? もう決まってるのか?」
縋るように幼馴染を見上げると、慧はちらりとおれを見たあとで、ほんのりと口角を上げた。
「秘密」
妙に色っぽい言い方だ。きゃあ、とはしゃぐ女子たちの横で、おれはひくりと頬を引きつらせた。
「なんだ秘密って」
「俺が言ったら光太もつられて同じにしそうだから。光太が決めたら教えてやるよ」
否定はできない。が、正直に認めるのも癪だった。
じとりと睨むおれをよそに、慧はひょいとおれの机を顎で指す。
「光太、まだ机の中にプリント入ってる」
「え? 何入れてたっけ……ああ!」
ごそごそと机の奥を探ると、二つ折りになった紙が出てきた。保護犬ボランティアの募集のちらしだ。
「なになに、『いぬかいの小屋』?」
ポップなフォントで書かれたそれを、中野が思わずといったように読み上げる。おれは胸を張って、ここぞとばかりに宣伝した。
「そう。おれたちがいつも行ってる保護犬シェルター。興味があったら、中野と坂上も来てみてよ。人手はあればあるほど助かるって犬養さんも言ってたし」
「誰、犬養さんって」
「保護犬シェルターの所長さん。おれの大好きな人だよ!」
好きな人は誰かと言われたら、おれは真っ先に犬養さんの名を挙げる。ボランティアに来てくれる人が増えれば、きっと犬養さんも喜ぶだろう。
(「光太くんは頼りになるね」なんて言ってくれたりして……!)
うっかり幸せな妄想に耽りそうになったその時、慧が拗ねたように「光太」と声を掛けてきた。
「犬養さんの話ばっかりしてないで、そろそろ行こう。電車が来る」
「やべっ、もうそんな時間?」
慌てておれは荷物を背負う。
田舎町では、電車は一時間に一本しか来ないのだ。この電車を逃すわけにはいかない。
「幼馴染っていうか、秋月くんは春日井くんの保護者ポジだよね〜」
聞き捨てならない言葉が聞こえてきたが、あいにくこれ以上構っている余裕はない。
「じゃあ、おれたち帰るから。また明日!」
中野と坂上に背を向けて、おれは慧と並び立って教室を飛び出した。
🐕 🐩 🐕
家に寄り、荷物を置いたら準備は万端。家の前で慧と合流して、おれたちは通い慣れた保護犬シェルター『いぬかいの小屋』へとまっすぐ向かう。
「こんにちはー!」
「こんにちは。あら、光太くん、慧くん。いらっしゃい」
にこやかに受付で出迎えてくれたのは、保護犬シェルターで働いている榊のおばちゃんだ。おっとりと辺りを見渡した榊のおばちゃんは、ややあってお目当ての人物が近くにいないことに気づいたのか、残念そうに眉尻を下げた。
「ごめんねえ、犬養さんたら、またドッグランの方に行ってるみたい。暇があるとすぐ犬たちのところに行っちゃうんだから。またスマホも置きっぱなしだし」
「届けてきますよ。おれたち今日は夕方の散歩当番なので、ドッグランから直で行きますね!」
「いつもありがとうね」
榊のおばちゃんに会釈をしつつ、おれと慧は勝手知ったるシェルターの中を歩いていく。
裏口から外に出て少し行くと、犬たちが自由に走れるドッグランが見えてきた。
ふかふかの芝生に、ところどころに作られた丘。飼い犬ならば毎日散歩に連れて行けるけれど、二十匹近くの犬が暮らすシェルターではそうもいかない。こうしたドッグランで駆け回ってもらうのは、犬たちの健康維持とストレス発散には欠かせないのだ。
ドッグランの中心には、ひとりのツナギ姿の男が立っていた。
クセの強い猫っ毛に、狐のように細い糸目。年はたしか今年で三十五になると言っていた。
このいかにも優しそうな男性こそ、保護犬シェルター『いぬかいの小屋』の所長・犬養和真さんだ。
大型犬をひょいと抱き上げられるくらいに鍛えられた体をオレンジ色のつなぎですっぽりと覆った犬養さんは、にこにこと微笑みながら犬たちと戯れている。動くたびにきらめく胸元のファスナーが目に眩しい。
おれたちが門に近づいていくと、いち早く気づいた犬たちがパッとこちらに顔を向ける。中でもおれたちと付き合いの長いゴールデンレトリバーの花子は、尻尾を振りながら門まで迎えに来てくれた。
「こんにちは、花子」
中に入るなりおれと慧の周りをぐるぐると回り出した花子の背中を、おれたちはふたり揃ってわしわしと撫で回す。
花子は『いぬかいの小屋』で飼われている犬だ。元は警察犬になる訓練を受けていたらしいが、難病を患って衰弱した状態でこのシェルターにやってきた。犬養さんは看取るつもりで飼うことにしたそうだが、その後めきめきと回復した花子は、五年経った今もこうして元気に生きている。
「光太くん、慧くん。もう学校は終わったのかい。早いねえ」
花子に続くように、犬養さんが門の方へとやってきた。
「こんにちは、犬養さん!」
「はい、こんにちは。ええと、今日は何をお願いするんだったかな」
犬養さんはごそごそとポケットを探り出す。多分、ボランティアの割り振りを書いたスマホを見ようとしたのだろう。しかし、残念ながらお探しのスマホはおれたちの手の中にある。
「今日は夕方の散歩当番に当たっています」
慧はさらりとそう告げて、「忘れてましたよ」とスマホを犬養さんに手渡した。
「ないと思ってたんだ。ありがとう」
恥ずかしそうに笑って、犬養さんはうんうんと頷いた。
「そうか、散歩当番か。もう散歩も任せられる年になったんだねえ。ふたりとも本当に大きくなったねえ」
「毎回言ってますよ、それ。もう高校に入学して三ヶ月も経ちました」
慧は呆れたように苦笑する。歳だけで見ればおれたちよりかなり年上のはずなのに、良くも悪くも犬養さんには威厳というか、近づきがたさというものがまったくない。
(そんなところも素敵だ……!)
知り合ったときからずっと、犬養さんはおれの憧れの人だ。
この人の穏やかな雰囲気に触れると、子どもも大人も、野犬も傷ついた犬も、いつの間にやら表情が緩んでしまう。おっとりしすぎた性格は時々心配になるが、とにかくすごい人なのだ。
「今日は小型犬の散歩からお願いできるかな」
おれと慧、そしてもう二人の散歩ボランティアを集めた犬養さんは、散歩に連れていく犬をそれぞれ丁寧に割り振っていく。
一回の散歩で連れていくのは、『いぬかいの小屋』ではひとり一匹。多頭散歩は人間側にも負担があるし、犬たちに何かあったときに対応が難しくなるから、兄弟犬などの例外を除いて、このシェルターではひとりのボランティアが複数の犬のリードを持つことは基本的にない。
「今日はここで初めてお散歩デビューする子がいるから、ちょっと気をつけて見てあげてくださいね」
モクレンちゃんといいます、と言いながら、犬養さんが一匹の小さな犬を抱き上げた。ぷるぷると震える小さなチワワは、シェルターに保護されたばかりなのか、落ち着かない様子で尻尾を丸めていた。
おれはミニチュアダックスフンドのマロン、慧は豆柴のモモの散歩担当になった。
初夏の風は爽やかでいい。気温の下がる日暮れ時は特に、歩くだけでも気分が上がる。
「……っ、こら、引っ張るな。モモ」
人懐っこくて散歩が大好きなモモは、高齢だった飼い主さんが亡くなったあと、引き取り手が見つからずにこのシェルターへとやってきた。走ることが好きらしく、ああして散歩のたびにリードを持つボランティアを引っ張っていく。
モモに連れられるがまま、小走りでひとり先へと行ってしまった慧を眺めていると、不意に近くのボランティアさんと目が合った。つぶらな瞳に、サイズのちょっと合っていない丸メガネが印象的なおじさんは、多分おれの父親と同年代くらいだろう。何度か散歩ボランティアで見かけたおぼえのある人だ。
「豆柴ちゃんは元気ですね」
はにかみながら話しかけてくれたおじさんの名前は、朝倉さんというらしい。へらりと笑って、おれは朝倉さんの連れるチワワのモクレンちゃんに目を向けた。
「モモは走るのが大好きですから。モクレンちゃんも、初めての散歩なのにちゃんと歩けてよかった」
「本当に。お散歩が好きなんですかね。うちの犬は散歩慣れするまで一ヶ月掛かったのに」
「犬、飼ってるんですか」
おれが尋ねると、朝倉さんは懐かしそうに目を細めた。寂しそうな、愛おしそうな、優しい笑い方だった。
「昔、一緒に住んでいました。一年前に病気で死んでしまって、今はもういないんですけどね。ちょうどモクレンちゃんと同じ、真っ白なチワワだったなあ……」
「また飼いたいですか?」
「そうですね。ご縁があったら、また一緒に暮らしたいですね。でも、なかなか踏ん切りがつかなくて」
てくてく歩く犬を見ながら、おれと朝倉さんはぽんぽん言葉をやりとりする。
年が離れていようが、共通する話題がなかろうが、ここに来ているのはほぼ間違いなく犬好きだ。犬のために何かをしたいものどうし、何はなくとも犬がすべてを繋いでくれる。
「春日井くんと秋月くんとは、ずっと話してみたいなあと思ってたんです。高校生で毎日のようにボランティア活動をしている子なんて、珍しいですから。春日井くんくらいの年代だと、部活やバイトをしている子の方が多いでしょう? それとも、ボランティア部の活動ですか?」
なるほどボランティア部という部活動にしてしまえば、周りに説明しやすくなるのか。ボランティアなんて、暇なときになんとなくでやっていいものだとおれは思うけど、やたらと高尚なもののように言われて返しに困ることが多いのだ。便利な言葉を頭の中に書き留めつつ、おれは「や、違います」と苦笑いを返した。
「本当にただのボランティアです。つーか、個人的な恩返しみたいなもんですよ」
「恩返し? 犬たちに?」
「犬にっていうか、犬養さんにというか、その両方ですかね」
うんちがしたくなったのか、モクレンちゃんがくるくると道端で回り出す。その儀式のような動きを見るともなしに見守りながら、おれは曖昧な記憶をたどって、五年前の話を朝倉さんにぽつぽつと語って聞かせた。
「小学五年生の時、おれ、裏山で崖から落ちたんです。あ、崖って言ってもそこまで大きい崖じゃないっすよ」
入ってはいけないと言われていた裏山を、当時のおれと慧はひそかに放課後の遊び場にしていた。崖際の危ない位置を攻めつつ隠れ鬼をするのが、当時のおれたちの間のブームだったのだ。多分、遊んでいる最中に足を踏み外して落ちたのだろう。落ちた拍子に頭を打ったせいか、あの日の記憶はとても曖昧だ。
「あちこち怪我しちゃって、自力じゃ動けなかったことだけは覚えてます。頭からも肩からも血がどくどく流れてましたし、もしかしておれ、ここでひとりで死ぬのかなあって思って、とにかく怖かったですよ」
落ちた経緯も落ちる最中のこともろくに覚えていない。ただ、おれの肩には岩で抉られたひどい傷跡が残っているから、ひどい落ち方をしたことだけはたしかだろう。
「そんな! 大丈夫だったんですか……?」
ごくりと朝倉さんが唾を飲み込む。
おれは今ここに元気に立っているのだから大丈夫だったに決まっているのだが、なかなかノリのいい人だ。
朝倉さんに合わせて真面目ぶった顔を作ったおれは、内緒話をするように声を落とした。
「それがですね、なんと救いの女神がいたんですよ」
「女神?」
「もうだめだと思ったその時、『ワン!』って声が聞こえたんです!」
その時おれを見つけてくれた犬こそ、当時はまだ保護犬だったゴールデンレトリバーの花子である。意識が朦朧とする中、ワンワン鳴いて駆けつけてくれた花子は、おれの頬を優しく舐めてくれた。
「花子がワンワン鳴いて、そのあと大人の足音がして、誰かがおれを助けに下まで降りてきてくれたんです。隣で手を握って、『もう大丈夫』って、ずっと優しく声を掛け続けてくれました」
救急車に乗せられたおれが眠りに落ちるまでずっと、その人は手を握ってくれていた。痛くて怖くてたまらなかったけれど、その声と手の感触のおかげで、泣きたいくらいにほっとしたのだ。
思い出すだけで胸がほっこりとあたたかくなる。花子がおれの恩犬なら、あのときおれを助けてくれた彼は、まさしくおれの恩人だった。
物理的にという意味以上に、精神的な恩人だ。痛くて怖くて、真っ暗闇で震えることしかできなかった、おれの心を救ってくれた。
ははあ、と朝倉さんは息を吐いた。
「なるほどねえ。それが犬養さんだったってことですか」
「はい! 多分!」
おれが元気いっぱいに頷くと、朝倉さんは不思議そうに首を傾げた。
「『多分』? どういうことですか?」
「意識がもうろうとしてたんで、顔も声も、ほとんど覚えてないんですよ。花子と一緒にいたってことは、まず間違いなく犬養さんだとは思うんですけど……。胸元にこう、キラッとするものがあったのは間違いないので」
「ああ、犬養さんのツナギ、ファスナーの持ち手がやたら大きいですもんね。ライトが当たれば目立ちそうだ」
納得したとばかりに朝倉さんは頷いた。
当時のおれは、退院したあとで親と一緒に『いぬかいの小屋』に礼を言いに行った。助けてくれてありがとうと頭を下げるおれたちに、「いつも光太くんが花子と遊んでくれていたおかげですよ」と犬養さんはにこやかに笑うばかりで、自分の善行を詳しく語ろうとはしなかった。
そういうわけで真偽のほどはたしかではないのだが、状況的におれの恩人は犬養さんに違いないと確信している。
「そういうわけで、ここに通ってるのはおれの恩返し半分、趣味半分なんです」
「なるほど。素敵なご縁ですね」
モクレンちゃんのうんちを袋に入れつつ、朝倉さんはにこりと微笑んだ。力強く頷き返して、おれはぐっと拳を握り込む。
「犬たちの役にも立てるし、いい運動にもなるし、良いこと尽くめですよね! ついでおれの頑張りに犬養さんが惚れてくれたら完璧です!」
「うんうん、そうですね。惚れてくれたら――えっ? 惚れる?」
かぱりと朝倉さんが口を開ける。振り返った拍子に、ぽろりとモクレンちゃんのうんちが落ちた。丸メガネが今にも落ちてしまいそうで、見ていて少し心配になる。
「大丈夫っすか?」
「あ、ああああ、うん、大丈夫!」
大丈夫と口では言っているが、見た感じどうも大丈夫そうではない。動揺しすぎてふらついている朝倉さんに、そこうんち落ちてるので気をつけて、と声を掛けようとしたその時、背後からぬっと慧が顔を出した。
「朝倉さんをびっくりさせるなよ、光太」
「「うわあああ!」」
びっくりさせているのはそっちの方だ。
前に行ったはずなのになんで後ろから来るのかと思えば、なんと慧とモモは、おれたちが話している間に裏道を一周してきたらしい。視線を落とせば、 へっへっと息を荒くしたモモが、つぶらな瞳でおれを見上げていた。
「朝倉さん。そこ、うんち落ちてるので気をつけてくださいね」
「あっ、ありがとう」
おれが言おうと思っていたことと一言一句違わぬ言葉をを朝倉さんに投げかけつつ、慧はやれやれとでも言いたげに片眉を上げる。
「惚れたのなんだのって、何でもかんでも喋るのはやめた方がいいって前にも言ったじゃないか」
「好きで何が悪いんだよ」
「色々悪い。見込みもないのにずっと片思いしてるのもどうかと思う。相手にだって迷惑だ」
突き放すような言い方に、おれは思わずむっと唇を尖らせる。
「慧に何が分かるんだよ。恋なんてしたことないくせに」
物心つくより前からそばにいるけれど、慧が誰かを好きだと言うところなんて聞いたこともないし、誰かを目で追いかけているところだって見たことがない。
そう思ったのに、慧は真面目な顔で「あるよ」と言った。
「見込みのない恋なら、ずっとしてる」
大人びた苦みを滲ませながら吐き捨てて、慧は束の間、もの言いたげにおれの顔をじっと見つめた。言い方自体も気になったけれど、それ以上におれは、慧の言葉に衝撃を受けた。
「……なんだよそれ。聞いてないぞ。いつからだ。相手は?」
「光太には関係ない」
胸が異様にモヤついた。幼馴染だからといって、たしかにお互い全部を伝える必要はない。分かっているけれど、おれが知らぬ間に慧がどこかの誰かに恋をして、しかもそれをちらりとも匂わせなかったのだと思うと、なんだかとても気に入らない。
慧はおれの慧じゃないのか。
ズキリと頭が妙に痛む。
無言で見つめ合うおれたちの間に、困りきった顔で朝倉さんが入ってきた。
「ま、まあまあ。とりあえず、散歩を終わらせましょう。まだまだシェルターで待っている子たちもいるでしょうから」
「あ……、すみません」
すっかり周りが見えなくなっていた。慌てておれは、足元に座る犬たちへと視線を戻す。
待ちくたびれてしまったらしい犬たちは、思い思いの体勢で地面に座り込み、後ろ足で首をかいていた。
顔を見合わせたおれと慧は、ひとつ頷き前を向く。
歩き始めた拍子に、慧のポケットから覗くロボット型のキーホルダーが、きらりと夕焼けを映して輝いていた。
🐕 🐩 🐕
犬たちの散歩が終わるころになると、明るかった空もすっかり暮れていた。近くの田んぼからは、そろそろ聞き納めだろうカエルの合唱が賑やかに響いてくる。
「皆さん、今日はどうもありがとうございました。よかったらお茶とお菓子を持って帰っていってくださいね」
にこやかに微笑む犬養さんが、お茶と煎餅を手ずからボランティアに配って渡す。『いぬかいの小屋』では、ボランティアの時間が終わると、いつもこうしてささやかな差し入れをくれるのだ。
ただ、犬養さんの好みはおれからするとかなり渋い。煎餅やおかきならまだいい方で、栗しぐれやら水無月やら、じいちゃんばあちゃんの家で見るようなお菓子が出てくると、おれはしょっぱい気持ちになる。
「光太くんと慧くんにも。はい、どうぞ」
今日の差し入れはプチ最中だった。悪くない。
「今日も本当にありがとうねえ。みんなも散歩に行けて嬉しそうだったし、いつも本当に助かるよ」
「いえいえ、おれも犬たちに会えるのが嬉しいですし、何より大恩人の犬養さんのこと、おれ、大好きですから!」
「ありがとう。嬉しいよ」
てれてれと頭をかく犬養さんはかわいらしいが、告白したのに今日もさらりと流されてしまった。けれど、一度でダメなら二度言うまでだ。
「おれ、犬養さんが好きです! おれと付き合ってください!」
「気持ちは嬉しいけど、それはできないなあ」
苦笑する犬養さんに、ぐぬぬとおれは歯噛みする。
「あらまあ光太くん、またやってるの」
「昔っから変わらないねえ。『犬養さん、おれと結婚してください!』って言ってたものねえ」
くすくすと微笑ましそうに笑うスタッフさんたちに、目だけの抗議を無言で向ける。子どものときに出会うとこれだから厄介なのだ。何年経っても誰も彼もがいつまでもおれのことを子ども扱いしてくる。
おれはキッと犬養さんを見上げた。
「おれの何がダメなんですか?」
「ダメというかね、まず光太くんは、別に私と付き合いたいわけじゃないだろう?」
問われてちょっと考える。そう言われるとそうかもしれない。おれは犬養さんのようになりたいのであって、別に恋人になりたいわけではない。
「……そうですけど、でもおれ、犬養さんみたいなダンディな大人になりたいんです。この気持ちに嘘はありません! 好きです!」
「ありがとう。でもそれは尊敬の好きってやつだね。付き合いたい『好き』っていうのは、誰かに強烈に惹かれる気持ちのことだからね」
言葉は正しく使おうね。犬養さんはまるきり子どもを諭すように言ってくる。
「分類はともかく、おれ、犬養さんが大好きなのに」
食い下がるおれを見て、呆れたように慧が横から口を出してくる。
「いい加減にしろ、光太。何度同じことやれば気が済むんだよ。引き際ってものを――ん?」
不意に慧が言葉を止めた。遅れておれや周りもスタッフも、外から響く物音に気づく。
「こら! 待て!」
何やら外が騒がしい。困り果てた人間の声に、興奮したような犬の鳴き声。そしておそらくは鍵束だろうものがガチャガチャ鳴る音が聞こえてくる。……と来れば、おそらくはシェルターの施錠をしている最中に、脱走した犬が出たのだろう。
考えるより前に、おれと慧は同時に外へと飛び出していた。
門をくぐるや否や、小さな犬が弾丸のように目の前を駆け抜けていく。
ビーグルの梅吉だ。別名・脱走犬。
花子と同じく、保護された時には衰弱死する寸前で、看取りのためにシェルターへと引き取られてきた……はずなのだが、何年経とうと天に召される気配はない。むしろ年々元気になっている。
フレンドリーなやつではあるが、隙あらば首輪抜けする問題犬でもあった。
「梅吉だな」
「ああ」
おれと慧の間に、細かい言葉は必要ない。目を合わせれば、何を考えているのかなんてだいたい分かる。
パッと二手に分かれたおれたちは、裏道に繋がる小道に陣取って、両脇から細い裏道を攻めていく。
ダダダッとすごい勢いで走ってきた梅吉は、おれの顔を見るなり急ブレーキをかけ、鋭く方角を反転した。
どうやら梅吉はこれを完全に遊びだと思っているらしい。尻尾はぶんぶんと勢いよく振られているし、表情に至ってはあからさまなイタズラ犬だ。
「こら! ノーリードの散歩はダメだぞ、梅吉!」
おれはわざと大袈裟に声を上げて追いかける。
追えば逃げるし、逃げれば追いたくなるのが犬というものだ。思った通り、おれから逃げるように走り出した太郎は、まっすぐ裏道を進んでいく。
つまりは慧が待ち構える、出口の方へ。
「おいで、梅吉」
慧が両腕を広げて体勢を低くする。慧を見つけた梅吉はきょろきょろとおれと慧を交互に見て、観念したように慧の腕に向かって飛び込んだ。
「なんでおれじゃなくて慧の方に行くんだよ!」
「そりゃ、人徳じゃないか」
おれと慧の間に人徳の差があってたまるか。
唇を尖らせるおれを尻目に、慧はワシワシと梅吉の首元をモフっている。たくさん走って満足したのか、太郎はへっへっと荒い息をつきながらもご機嫌にしっぽを振っていた。
「あれ? もう捕まえたのかい!」
ひょいと犬養さんたちが曲がり角から顔を出す。犬養さん含め、シェルターに常駐しているスタッフの人たちの手には、犬の気を引くためのおやつにボール、そして身を守るための分厚い手袋が抱えられていた。遅れて、榊のおばちゃんが捕獲用の檻を持ってやってくる。
「あら、檻はいらなかったみたいね。さすが光太くんたちは早いねえ」
「息ぴったりでびっくりしたよ。これがニコイチってやつかい」
「やあ、若い、若い。さすが高校生は瞬発力があるなあ」
スタッフさんたちはおれたちを褒めてねぎらってくれたけれど、犬養さんだけは心配そうな顔を崩さなかった。
「捕まえてくれたのはありがたいけど、何の準備もなしに追いかけてはいけないよ。普段は温厚な犬でも、興奮すると噛んでくることがあるからね。君たちが怪我をしてしまったら悲しいし、人を噛んでしまえば犬も里親のもとに行けなくなってしまう。まどろっこしく思えるかもしれないけど、次から気をつけようね」
「……すみません。大通りに出ちゃったら危ないと思って、つい」
しゅんと頭を下げるおれとは真逆に、慧は堂々と「梅吉以外だったら追いかけてません」と言い返した。
「ちゃんと手袋もつけていきましたし、大丈夫です」
その言葉に慧の腕を見ると、いつの間にやらペットグローブが嵌まっていた。どうやら飛び出す直前に持ち出してきていたらしい。
さすがは慧。用意周到なやつである。
「遊ぶならドッグランの中だけにしろよ、梅吉」
慧が梅吉に話しかけると、くぅんと梅吉は甘え鳴きをした。言葉を分かっているわけではないだろうが、嬉しそうに慧にじゃれつく様子を見ていると、だんだん頬が引きつってくる。
「こいつ、全然反省してねえな……」
ぼそりとおれが呟くと、くすくすとスタッフたちの間に朗らかな笑いが広がった。
その後、梅吉をシェルターに送り届けたおれたちは、並んでふたりで帰路につく。
「あー! 梅吉のせいでまたうやむやにされちまった」
「犬養さんのことか? いい加減諦めたらいいのに」
「軽く言うなよな。おれにとっては初恋なんだから!」
「恋じゃないって言われたばっかりだろ」
「そうだけど、なんでもいいだろ! 好きには違いないんだから」
日の落ちた道を歩いていると、コオロギなんだか鈴虫なんだかも分からない夏虫たちの声がどこからともなく聞こえてくる。やや季節外れに田んぼの上を飛ぶ蛍を、おれはじっと目で追いかけた。
「犬養さんには怒られちゃったけど、やっぱりああいう大人なところがたまらないんだよな」
さすがは山で迷子になったおれを、救急隊を引き連れて迎えにきてくれるだけのことはある。
おれがひとりでうんうん頷いていると、慧はつまらなさそうに口をへの字に曲げた。
「……そんなに好きか」
「当然だろ! だって犬養さんは、おれの命の恩人だぞ」
反射的に言い返したところで、はたとおれは立ち止まる。
「そういえばさ、五年前の事故の時、慧も一緒にいたんだよな? 落ちた時のこと、覚えてるか?」
おれが問いかけると、慧は嫌そうに顔を顰めた。
「なんだよその顔」
「なんでもいいだろ」
吐き捨てるように言って、慧はぷいと顔を背けた。
どうやら慧は、よほどあの事故の話をしたくないらしい。普段スマートな慧にしては珍しく、あからさまな話題の変え方をしてきた。
「進路希望のプリント、ちゃんとおばさんに渡しておけよ」
「分かってるよ」
「……犬養さん犬養さんって、毎日聞かされる方の身にもなれよな。光太と一緒にいるのは俺なのに」
聞き間違いかと思うほど小さな声で、慧はぽつりと呟いた。
気づけばおれたちは、おれの家の前に着いていた。門の前にぽつんと立って、慧はいつも通りに手を上げる。
「じゃあな。おやすみ、光太」
「ああ、うん。おやすみ、慧。また明日」
なんだったんだ。
釈然としないまま帰宅したおれは、気が進まないながらも、仕方がないので慧に釘を差された通り、進路調査の紙を母さんに渡した。
「三者面談⁉」
母さんが悲痛な声を上げる。
「光太! 日程調整のいる紙はちゃんと出しなさいって言ってるでしょう! これ、明日提出しなきゃって書いてあるよ!?」
くしゃくしゃになった紙を確認するなり顔を引きつらせた母親は、恐るべき瞬発力で怒りを顔に浮かべてそう言った。
こうなるから出したくなかったのだ。
「おれだってわざと出さなかったわけじゃねえし。慧に言われるまで忘れてたの!」
「堂々と言うことじゃないでしょう! 慧くんにはいっつも光太のお世話させちゃって、ほんと頭が上がらないわあ……。同い年なのに、光太とはえらい違い」
「お世話なんてされてねえもん。……おれ、先に風呂入ってくるから!」
それ以上嫌味を言われる前に、おれは風呂場に退散する。
そもそも、スマホがあるのにわざわざ紙で日程希望なんて取る山本先生が悪いのだ。心の中で担任に八つ当たりをしつつ、おれは熱いシャワーを頭から被る。
風呂場の鏡に映った傷跡を見るともなしに眺めつつ、ふんとおれは鼻を鳴らした。
(みんなして慧をおれの保護者だのなんだのって……!)
ニコイチとやらのレトロな響きでセット扱いされるならともかく、おれが一方的に慧に世話されているかのような言われ方は納得がいかない。
たしかに慧は見た目も中身も基本的にはイケメンではあるものの、みんなが思うほどあいつは大人じゃない。現に、おれがちょっとばかし犬養さんの話をしていたというだけで、やきもちを焼いて拗ねていたくらいだ。
そこまで考えたところで、はたとおれはシャンプーをする手を止めた。
(……ん? やきもち?)
そうだ。やきもちだ。
すっきりとして、おれはぽんと手を打った。
保護犬を長期間預かっていると、うっかりよその犬に気を取られたとき、その預かっている犬がやきもちを焼いて怒り出すことがたまにある。おれたち家族を好きになってくれたからこそ、犬はおれたちの関心がよそに向くことが嫌なのだ。
慧が見せた反応は、まるきりそれと同じに見えた。
(なるほどなあ。あいつ、おれに構ってほしかったのか)
慧も何か話したいことがあったのかもしれないし、単純におれが犬養さんばかりを褒めるものだから面白くなかったのかもしれない。
「ガキだなー、あいつ……」
じわじわと勝手に口角が上がっていく。
慧がおれの保護者みたいだと周りは言うが、とんでもない。たしかにおれにも抜けているところがあるにはあるが、実際のところ面倒くさいのはあいつの方だ。
(慧の言ってた見込みのない恋っていうのも、聞き出さないとな)
おれに隠しごとをするなんて許さない。
キュッと蛇口を捻って止めて、おれはいそいそと風呂場を出た。
