ふたりでいれば何でもできる。
 おれにとって秋月(あきづき)(けい)は、そういう片割れみたいな存在だった。
「下級生いじめてんなよ、バーカ!」
 カラン、カランと音を立ててバケツが転がる。中身はない。たった今、おれが中身をいじめっ子集団に向けてぶちまけたばかりだ。
「……てめえ、春日井(かすがい)! 何しやがる!」
 小学五年生の夏のことだった。帰る前にトイレに寄ったら、いかにもヒョロっちい下級生が上級生に囲まれて、便器に顔を突っ込まれそうになっていた。これはいかぬと正義感に駆られたおれは、咄嗟に近くの掃除バケツをひっくり返したというわけだ。
 そういうわけで、おれの目の前には、震える下級生と、ずぶ濡れで殺気立ついじめっ子軍団がずらりと並ぶ。
 やべえこれどうしよう。
 冷や汗をかいたけれど、幸いなことに、おれには賢い相棒――慧がいた。
「バカ光太(こうた)。少しは考えて動けよな」
「しょうがないだろ! 体が勝手に動いちゃったんだから!」
「まあいいや。さっき先生来るの見かけたし、あとは任せよう」
 掃除ロッカーをパッと開けた慧は、廊下に掃除道具を荒々しく投げ散らす。
 ガシャンと派手な音が鳴る。
 優等生と名高い慧の凶行に、いじめっ子たちは目を丸くした。そんな彼らの横をすり抜けて、おれと慧は同時にトイレの窓へと走り出す。
 何の音だ、と廊下から聞こえてくる先生たちの声を聞き流しつつ、慧は振り返りざま、いじめっ子たちを鼻で笑った。
「せいぜい怒られるんだな。葛谷(くずや)たちはそこの下級生に水を掛けようとして、手を滑らせて水を被った。先生たちにはそう言ってくれ」
「はぁ⁉ 何勝手なこと言ってやがる!」
「先生に俺たちのことを言いつけたり、またこういうことをしているところを見かけたら、葛谷はまだおねしょしてるって桜井(さくらい)さんにばらすから」
 先におれを窓から校庭へと逃がした慧は、淡々と背後のいじめっ子たちに脅しをかける。
 桜井さんはクラス一明るい人気者だ。彼女に嫌われた日には、クラスでまともに生きていくことはできないだろう。
 おれが聞いても恐ろしい脅しは、いじめっ子の葛谷には効果てきめんだった。
「な、な……! 卑怯だぞ!」
 葛谷が慧に飛び掛かろうとするのが見えたから、おれは咄嗟に、窓の近くにあった鉢からヘチマをちぎって、葛谷に向かって投げつけた。
「ぐえっ!」
 無事に葛谷の手をかわした慧は、ひらりと窓から身を躍らせる。
 直後に、雷が落ちるような怒声が中で響いた。
「お前らっ、何をしているんだ!」
「ひええっ、先生、違うんです。誤解です!」
 うしろから聞こえてくる葛谷の情けない声を聞き流しつつ、おれたちは校庭を駆け抜ける。
「ありがとな、慧」
「こっちこそ。ヘチマ、助かった」
 走りがてら、互いの健闘を称え合う。いつも澄ました顔をしている慧が、ニヤリと悪ガキみたいな顔をする、その瞬間がおれは大好きだった。
 おれの方がちょっとだけ運動が得意で、慧の方がちょっとだけ頭がいい。いつもおれたちはそうだった。
 幼馴染。親友。ライバル。兄弟同然。
 いつでもふたりで遊んで競うおれたちを指して、周りは色んな呼び方をした。でもおれにとっては、呼び方なんてどうでもいい。
 ふたりでいれば何でもできる。毎日が楽しくて、慧さえいれば、何があっても何とかなる気がする。それがすべてだった。
「裏山まで競走な、慧!」
 校庭を抜けたところで、おれは後ろを走る慧を振り向き、挑発した。
「足なら俺の方が早いってまだ分からないのか、光太?」
 にっと歯を見せて答えた慧は、次の瞬間本気の顔で走り出す。
 傾きかけた日が、ふたり分の影を長く伸ばす。慧の胸元で、ロボットのペンダントがぴょんぴょん跳ねては、夕陽を映してきらきらと煌めいていた。
 ひぐらしがカナカナカナと静かな声を響かせる。夕暮れ空の下、おれたちは緑いっぱいの裏山へと飛び込んで、競い合うようにランドセルを下ろした。
 裏山はおれたちの秘密基地だった。親には危ないから裏山で遊ぶなと口酸っぱく言われていたけれど、言われるほどに、おれたちは裏山に行きたくなった。
 草木に満ちた森の中は、子どもにとって最高の遊び場だ。
 麓で遊んでいたのはいつのことだったか、最近はすっかり山にも慣れて、おれたちはどんどんと奥に入って遊ぶようになっていた。よせばいいのに、知らない場所を冒険するのが楽しくて仕方なかったのだ。
 桑の実で小腹を満たしたおれたちは、さっそく森で遊び出す。
「つかまえた」
 当時のおれたちのブームは、かくれんぼと鬼ごっこを組み合わせた隠れ鬼だった。息が切れるまで森を駆け回ったら、大木にもたれて座り、休憩するまでがワンセット。
「なあ、慧は好きなやつ、いる?」
 尋ねた理由は特にない。強いて言うなら、ここに来る前、桜井さんの名前を出した途端に慌てた葛谷の顔が面白かったから、慧にもそういう人がいるのかなあと気になった。
「……光太はどうなんだ? 人に聞くなら、先に自分から言えよ」
 小癪にも慧は質問に質問で返してきた。
「えー……」
 答えに困って、おれはごまかすように葉っぱをいじくりまわす。
 みんなの言うところの『好き』という気持ちが、おれには正直分からない。
 クラスメイトの誰が誰を好きらしいだの、あの二人は手紙を交換していただの、色んな話は聞くけれど、ふーんと思うだけだ。誰かのことをずっと考えてしまうというのも、手を繋げるだけで幸せな気持ちになるというのも、未知の気持ちである。
 だからおれは、嘘にならないように、わざと質問の意味をずらして答えた。
「……慧かな! 慧が大好きだよ。おれ、慧と一緒にいるのが一番楽しいもん」
「ふうん、そっか」
 慧は照れたように目を逸らす。返事こそ素っ気なく聞こえるけれど、耳は真っ赤に染まっているし、緩んだ口角だって隠せていない。
「おれは言ったぞ。慧の好きな人は?」
「俺のこと、つかまえられたら教えてやるよ」
 言い捨てるなり、すくりと慧は立ち上がる。
「そろそろ日も暮れるし、次で最後にしよう。ラストは光太が鬼な」
 勝手なやつだ。でも、景品があると思うと俄然やる気が湧いてきた。
「早く隠れろよな。いーち、にー、さーん……」
 目をつむったおれは、慧が草木をかき分けて走る音を聞きながら、ゆっくりと数を数えていく。
「――二十!」
 二十秒ぴったりで目を開ける。
 真っ赤な夕焼けは、空だけでは飽き足らず、地面も木も草も、まとめて橙色に染めていた。
 大木の後ろ。木の上。岩と草むらの間。色々な場所を覗き込みながら、おれは慧を探して回る。
 攻めた場所ばかりを探していると、うっかり頭からクモの巣に引っ掛かってしまう。焦りながらクモの巣をはらっていると、どこからか慧が吹き出す声が聞こえてきた。
 おれはそのわずかな音を聞き逃さなない。
「――そこだ! つかまえた、慧!」
「まだつかまえてないだろ!」
 笑いながら、慧は細道を伝って逃げていく。
 小さな崖と大きな岩に囲まれた、子どもならばぎりぎり通れる細さの獣道。どこまで攻められるかは、おれと慧の好きな遊びのひとつだった。
 逃げる慧を追いかけながら、おれも慎重に細道を進んでいく。崖っぷちぎりぎりまで慧を追い詰めたところで、今度こそおれは、正面から抱きつくようにして、慧の動きをしっかり封じた。
「つかまえた、慧! 今度こそ本当におれの勝ちだろ」
「そうだな。あーあ、笑わせるなんて卑怯だ」
「なんとでも言え。……で、慧の好きな人は?」
 ニヤリと笑って問いかける。
 照れくさそうに目を伏せて、慧はぽつりと呟いた。
「光太」
「へ?」
「だから、光太のことが好きって言った」
 はじめは、おれの真似をして話を逸らそうとしているのかと思った。けれど慧がそっと顔を寄せてきたことで、すぐにそうではないと悟る。
「大好きだよ、光太。ずっと前から好きだった。光太も俺が好きって言ってくれて、すごく嬉しい……! 光太といると、俺、本当に幸せなんだ」
 鼻先をかすかに触れ合わせて、慧は夢見るような声で囁いた。間近に見える慧の綺麗な目には、鈍いおれにだって分かるくらい、強烈な熱情が滲んでいる。
 恋も『好き』も知らないけれど、これだけは分かる。
 慧の気持ちとおれの気持ちは、似て非なるものだ。
 ――ヤバい。
 何がどうヤバいのかも分からないまま、おれは大いに混乱した。混乱することしかできなかった。
 慧のことは大好きだ。でも、そういう特別な意味で好きかどうかなんて、考えたこともなかった。全然嫌ではないし、悪い気もしないけれど、どうしたらいいのか分からない。
「……光太?」
「あ、いや……! その、違うんだ、おれ」
 なんて言えばいいのかも分からないまま、言葉にならない言葉を垂れ流す。
 けれどおれより聡い慧には、多分それだけで十分だった。
 慧の顔からみるみる表情が消えていく。赤みを帯びていた頬が、気の毒なくらいに青ざめていく。
「……ごめん!」
 か細い声が聞こえた。おれの腕を押しのけた慧は、一歩、二歩と後ずさりながら、何度も首を横に振る。
「ごめん。そうだよな。俺、勘違いして……! ごめん、本当に……! 忘れて、光太。俺のこと、嫌いにならないで。言わなきゃよかった……!」
 さっきまで喜んでいたのが嘘みたいに、慧の瞳には絶望しか浮かんでいなかった。
 言わなきゃよかったはおれのセリフだ。おれが適当な言葉でごまかそうとしたせいで、どうしようもない空気になっている。
「違うんだ。びっくりしただけで……慧のこと、嫌いになんてなるわけないだろ!」
 何かを言わなければと思って、おれは慧に腕を伸ばそうとした。けれどおれと目が合うなり、慧は怯えたように身を竦めて、また一歩崖際へと後ずさる。
 その時、がらりと嫌な音がした。崖際の岩が大きく崩れた音だった。
「――え?」
 ぐらりと慧の体が傾いていく。
 慧はまんまるに目を見開いていた。先に体が落ちて、ふわりと浮かんだ腕があとに残る。
「慧!」
 考えるより先に、おれは慧に向かって手を伸ばしていた。ギリギリのところで慧を抱き込み、守るように身をよじる。
 轟音。衝撃。ブラックアウト。
 何があったのかも分からない。
 起きた時には病院にいて、腕には点滴が繋がっていた。そして、おれのその日の記憶は、さっぱり頭から消えていた。
 ……それが、五年前の話だ。