『また、会いにくるよ――咲姫』

あの日の深町の言葉が耳から離れない。

台所で皿洗いをしながらもふいに思い出し、なんだか恥ずかしくなってしまう初心な自分に小さくため息をこぼす。

年の近い男性にあんな風に名前を呼ばれたことがなかったからか、すっかり舞い上がっているようだ。

社交辞令だと頭ではわかっていながらも、どうしても彼の言葉が気になって仕方がない。

それに、ユキが視えるという共通点を持つ者同士、もっと話をしてみたいと思っていた。

……本当に会いに来てくれるかしら?

瞬間、彼の綺麗な淡い茶色の瞳も思い出され、頬に熱が集まるのを感じる。

九条家の当主より、使用人の方にまた会いたいなんて美月が知ったら、きっと馬鹿にされるわね。

そんなことを考えながら、私は小さく肩を竦めたのだった。


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「もうっ、あれから九条様からはなんの音沙汰もないじゃない!」

苛立ったような美月の声が、茶の間に響き渡った。

「美月、少し落ち着きなさいな。九条様も色々とお忙しい方なのよ。もう少しすればきっとご連絡があるはずだわ。ちょっと咲姫!美月に昨日買ったお菓子を持ってきてちょうだい。本当に気が利かない子なんだから」

そんな美月を励ます菊子は、私に向かって厳しい口調を投げかけながら、そっと彼女の手に自分の手を重ねる。

「はい、お義母様。すぐに持ってまいります」

これ以上、二人の機嫌を損ねると倍以上の言葉になって返ってくることを知っている私は、すぐさま茶菓子の用意に取り掛かる。

九条家の訪問から一週間が経ち、北小路家では徐々に焦りが出始めていた。

代理人と言えど、訪問まではあんなに早く取り付けたにも関わらず、その後の沙汰は一向にない。

次は当主本人が訪問するはずだと考えていた美月にとってはショックが大きかったようだ。

「美月、お菓子とお茶を持ってきたわ。ここに置いておくわね」

綺麗に飾り付けられた茶菓子と入れたばかりのお茶を美月の前に持ってくると、彼女はギロリと私を睨みつける。

「お姉様のせいよ!どうせお姉様があの使用人に失礼な振る舞いをしたんでしょう?こんなことなら、最後まで私が相手をしとけばよかったわ。本当にどこまでもお荷物なんだから……!」

置かれた菓子を奪い取るように口に運ぶ美月。

「美月、私……っ!?」

一瞬、菓子を頬張る美月の背後に黒い靄のようなものが、視えた気がして私は息を呑んだ。
 
今のは、何?……見間違い?

慌ててもう一度目を凝らして美月を視ようとした時。

「咲姫!!早く部屋に戻りなさい。あなたの顔を見たくない妹の気持ちをもう少し察してあげられないの?」

菊子に阻止され、それ以上は確認することができなかった。

自室へ戻りながら、私は先ほど視えた黒い靄を思い出す。

なんだかとても嫌な感じがした。

まるで全ての憎悪を凝縮させたような気持ち悪さ……。

ゾクリと背後に悪寒をおぼえ、私はフルフルと首を横に振る。

ううん。一瞬だったし、きっと私の見間違いよね。

一抹の不安を感じながらも、私は頭の片隅にそのことを追いやった。

しかし、この黒い靄がのちに、私と美月の関係をさらに悪化させるきっかけとなっていたことに、私はまだ気づいていない。