どのくらい時間が経ったのだろう。

ふいに目が覚めた私は、自分が文机に突っ伏して寝むっていたことに気がついた。

キョロキョロと辺りを見回すと、私の横で気持ちよさそうに丸まっているユキの姿が目に入る。

窓の外を見ると、太陽がまだかなり高い位置にあることから、居眠りをしてからそこまで時間は経っていないように感じ、ホッと胸をなで下ろした。

そういえば、九条様と美月はどうなったのかしら?
お見合いがうまくいったならいいのだけれど……。

そんなことを考えていた矢先、ドタドタと母屋の方から近づいてくる荒々しい足音が聞こえてくる。

そして、次の瞬間。

「ちょっと、お姉様!」

いつものようにバンッと勢いよく障子が開かれ、顔を覗かせたのは美月だ。

眉間にしわを寄せ、機嫌が悪そうな様子を見ると、もしかして縁談がうまくいかなかったのかと不安に駆られる。

「美月どうしたの?何かあった……?」

「……ハァ。九条様は来られなかったわ。代わりに来たのは九条家の使用人ですって」

「九条家の使用人……?」

「そうよ。まぁ、使用人と言っても九条様のお気に入りの方みたいで、代理人といったほうが正しいのかもしれないけれど」

美月は吐き捨てるようにそう言い放った。

どうやら、今回、九条家当主本人は姿を見せず、代理人を派遣したらしい。

そっか、本人は来られなかったのね。
それは美月も怒るわけだわ……。

九条家当主に気に入られるために、張り切っていた美月からすれば、裏切られた気持ちなのだろう。

あら、でも使用人と言えど九条家からの訪問客を放って、何で私の部屋なんかに……?

美月らしくない行動を不思議に思い、私が小首を傾げていると。

「せっかく朝から綺麗にしたのが台無しよ。使用人に見せるためにお洒落をしたわけじゃないのに……。ハァ、そういうわけだから、お姉様、あとはあなたが相手してくださる?」

「え、私が……?」

あまりにも予想外の言葉に私は大きく目を見開いてしまった。

「そうよ。使用人まで私が相手する必要ないでしょう?ふふ。それに、お姉様も使用人みたいなものなのだからお話も弾むのではなくて?客間にいらっしゃるからあとはよろしくね」

私の返事も聞かず、美月は言いたいことだけ伝えると、くるりと踵を返し、サッサと部屋を出て行ってしまう。

そんな中、あとに残された私は途方に暮れ、小さく肩を落とした。

「……どうしよう。適当にだなんて、突然そんなことを言われても……」

そんな本心がつい口から出てしまう。

自分勝手な美月の態度に私は再度大きなため息をこぼした。

しかし、この出会いが後の私の人生を一変させる大きな出来事になることを、この時の私はまだ知らない。


**


「し、失礼いたします。お茶のおかわりをお持ちいたしました」

正座をして、客間の障子を開くと、父の頼朝、義母、菊子の姿はすでになく、ひとりポツンと残されている男性の姿が目に入った。

顔を隠すように口もとを白い布で覆っている姿に思わずドキリとしたが、何か事情があるのだろうとその話題には触れずに茶を交換する。

せっかく来て頂いたのに、お父様達も美月もあんまりじゃないかしら……。

客人へ申し訳なさを覚えつつ、私は口を開いた。

「九条家の代理の方とお聞きしました。私、北小路家長女の北小路咲姫と申します。この度は、当家へご足労頂きありがとうございます。両親と妹は、諸事情にて席を外しておりますので、私が代わりに参りました」

やや小さな声になってしまったが、言葉を詰まらせずに言えたのだから私にしては上出来だ。

「へぇ、あなたが……。はじめまして。私は九条家に仕えております、深町新吉と申します」

少し低めの綺麗な声に顔を上げると、半分以上布で隠れては表情はわからないが、キリッとした切れ長の瞳が私を見つめている。

その吸い込まれそうな淡い茶色の瞳が、スッと細められた瞬間、思わずドキッとしてしまった。

「深町様ですね、よろしくお願いいたします」

「本日は当主の光哉が来られず申し訳ありません。どうやら、美月様はガッカリされたようで」

「そ、そんなことは……」

ハッキリとした性格の美月のことだ。
きっと、当主が来ないと聞いて多少なりとも態度に出ていたに違いない。

顔面蒼白になりながら、慌ててとりなす私をからかうように深町は言葉を紡いだ。

「そんなに慌てなくても、当主には黙っておきますよ」

「ありがとうございます……。妹が失礼をしまして申し訳ありません」

「いえ、こちらも急な訪問でしたし。迎え入れてくださっただけでも感謝しております」

ふっと彼の目尻が下がったのがわかり、私もようやく胸をなで下ろす。

よかった。本当に怒ってはいないみたい。

その後しばらくは、深町と他愛もない話に花を咲かせた。

近くの和菓子屋の新作団子が美味しい、隣町に洋食屋ができて毎日行列ができている、最近、西洋文化を取り入れた服を着ている人が増えた……。

普段、家族以外の人と話す機会が少ない私にとってはとても新鮮で楽しい時間だった。

「おっと、それではそろそろお暇します。咲姫様は聞き上手だ。話をしていてとても楽しかったです」

深町が懐から懐中時計を取り出し、時間を確認する。

おそらくゆうに三十分は話していただろうか。

深町の話をもう少し聞きたかったと、残念な気持ちになりながらも、悟られないよう笑顔を向けた。

「私も深町様のお話とても楽しかったです。それでは玄関までお送りします。こちらへ……」

跪坐をし、私が立ち上がろうとした時だった。

『にゃー』

いつの間にやって来たのか、私の背後からスッと現れたのは白猫のユキだ。

トタトタと軽やかな足どりで深町に向かって歩みを進めたかと思えば彼の膝にぴょんと飛び乗る。

ユキちゃんが他の人の膝に乗るの初めて見た……。

呆気にとられて、つい深町を凝視してしまうも、ハッと我に返る。

ユキの姿は普通の人には見えないのだから、急にジッと見つめたら変に思われてしまう。

慌てて視線を他の場所へ移し、どうしたものかと困っていると、深町は立ち上がる際、ごく自然な様子で膝に乗ったユキをそっと床に下ろしたのだ。

「え……。深町様、この子が視えるんですか?」

その瞬間をバッチリ目撃した私はつい口に出してしまう。

すると、深町は驚いたように私へ視線を向け、ユキと私を交互に見つめた。

「咲姫、様……。この猫が視えているのか?」

「は、はい……。この家では私しか視えていないようなので私が作り出した幻だと常日頃思っていたのですが……。初めてこの子視える方にお会いしました」

真剣な彼の眼差しに私はコクリと小さく頷く。

心做しか口調が先ほどより、少し砕けたような気もするが、その時の私はそこまで気に留めていなかった。

「なるほど、そういう理由か……。あなたが北小路家の"狂い咲き姫"なんて呼ばれているのは」

ズキン。

『北小路家の狂い咲き姫』

深町の口からポツリと溢れた言葉に私はキュッと唇を噛み締める。

いったいこの不名誉な異名はいどこまで広がっているのだろう。

ユキが周りに視えていないと気づくまでに行った私の行動が「狂い咲き」と呼ばれる所以だ。

『あの子、誰もいないところで話しかけてるわ』

『きっと、あの白猫を取り上げられておかしくなってしまわれたのよ』

使用人たちの間から広がった噂が菊子や美月の耳に入るまでそう時間はかからなかった。

『お姉様……。使用人たちに聞きましたわ。とうとうおかしくなってしまったって。私、心配で……』

『あらあら美月は優しい子ねぇ。まぁ、たしかに狂ってるなんて言い方は可哀想だわ。あなたの名前をとって"狂い咲き"ってところかしら?』

クスクスと嘲笑い、私を罵る二人の表情は今でも私の記憶に鮮明に残っている――。


「咲姫様」

「…っ、はい。なんでしょう?」

昔の記憶を思い出し、ボーッとしていたせいで深町に声をかけられるも、一瞬反応が遅れてしまった。

「……大丈夫。あなたは狂ってなんかいない。少し周りとは違って特別なだけだ」

「……ッ」

「狂ってなんかいない」「少し特別なだけ」

そんな風に言われるのは初めてで、なんと返答していいのかわからなくなる。じわりと涙で視界が滲んだ。

「……っ。深町様、ありがとう、ございます……。そう言って頂けて嬉しいです」

感謝の言葉を伝え、深町の綺麗な瞳を見つめると、フッと目尻が下がったのがわかった。

「さて、と。そうと分かれば話は早い。今日はここで帰らせてもらうけど、また、会いにくるよ――咲姫」

「え……?」

ユキをひと撫でした深町は、意味深な言葉を残し客間をあとにする。

呆然とする私をよそに、足もとではユキが嬉しそうに『にゃん』と鳴いていた。