「美月、やめて……!」
振り降ろされた包丁を間一髪で交わした私は、懸命に美月に声をかける。
「やめて?随分虫がいいのね。あなたが私の幸せを全て奪ったくせに……。私のことを思うなら早く消えてくれる?」
どんどん黒い靄が大きくなっていく。
その瞬間、この黒い靄が美月の狂気で大きくなっていることがわかった。
このままじゃ……。でも、私にはどうすることもできない……。
黒い靄が視えたところで何もすることができない非力な自分が悔しくて、ぎゅっと手を強く握りしめる。
「キャッ……」
さらに、暗く、狭い室内を逃げ惑う中、私は敷いていた布団に足をとられ転んでしまった。
「ふふ。さようなら、お姉様」
美月が馬乗りになり、キラリと鋭利な刃が光る。
刺される!!
痛みを堪えようと、ギュッと瞳を閉じたその時、光哉からもらった指輪がパァッと光り輝いた。
「いや、何よそれ!?」
その光に驚いた美月は私から離れていく。
ホッと胸をなでおろし、月明かりに照らされた美月の姿を見て私は言葉を失った。
勝気な美人と評判だった美月が髪を振り乱し、必死の形相で包丁を振り上げているその姿。
まるで「鬼」だわ。
今まで見たことがない恐ろしい美月の姿に呆然としてしまう。
すると、突然、私と美月の間に白猫のユキが割ってはいってきて思わず叫んでいた。
「ユキちゃん!」
「なんなの?この汚い猫……。それにその光ってる指輪……。気持ち悪い、外しなさいよ!!」
なぜか美月にもユキの姿が視えているようで、忌々しそうに睨みつけている。
ユキは身を翻し、美月を翻弄するもすぐに捕まってしまい、小さなその身体は床にたたきつけられた。
「ユキちゃん!美月、やめて!!」
ユキを助けようと近づく私の頭の中に突如として、若い女の人の声が響く。
『咲姫、逃げなさい!』
その瞬間、はじかれたように私はその場に立ちすくんでしまった。
聞き覚えのない女性の声。
でも、なんだがとても懐かしい感じがして、胸がいっぱいになる。
「さ、この汚い猫もおとなしくなったことだし、ようやくお姉様の番……」
「咲姫!大丈夫か」
美月の言葉を遮り、部屋に飛び込んできた人物の姿を確認した私は我慢していた涙が頬をつたうのを感じた。
「九条……様?どうしてここに……」
私の肩を抱き、ケガがないことを確認した光哉は安堵の表情を見せる。
「この指輪のおかげだよ。紫水晶には、魔を祓う力がある。そして、この指輪が光った時、私に知らせる役割をもたせていた」
光哉の説明に私は改めてもらった指輪を改めて眺めた。どうやら、先ほどのまばゆい光は魔を祓う光だったようだ。
でも、そんな特別な指輪を持っているなんて……。九条様っていったい……。
「あら?九条様じゃない。昼間はどうも。もしかして、私のことを迎えに来てくださったの?」
口角をあげ、上品な笑みを浮かべる美月の姿をジッと凝視する光哉。
「鬼に魅入られたようだな。ここまで来たら、もう元には戻れないか……」
ひと言そう呟き、苦悶の表情を浮かべる彼に私は耳を疑った。
「まぁ、鬼だなんて……。若い娘にひどい物言いねぇ。失礼しちゃうわ」
「この部屋に来るまでにいくつかの亡骸があったが、君の仕業だね」
「さぁ?死んだかどうかまでは確認しなかったもの。ただ、邪魔をする人を刺したのは事実ね」
「美月……。あなた、なんてことを……」
思わずサーッと血の気が引いていく。父だけではなく、美月はすでに複数人に手をかけていたようだ。
恍惚とした美月は血で染まった包丁をうっとりと眺めている。
「咲姫、君の妹だが、この状況を見過ごすわけにはいかない……。黒い靄、君にも視えてるんだろう?」
「はい。あの靄はいったい……」
「あれは人の嫉妬や恨みなどを媒介に大きくなる……。鬼や妖の類だ。九条家ではそういう邪悪なものを祓う力を受け継いでいてね……。だから、私にも君の白猫が視えた。まぁ、あの猫は守護霊や精霊の類だけど」
「わかりました九条様、美月を救うにはあの靄を祓う必要があるんですね。私にできることがあればお手伝いさせてください……。美月は嫌がると思いますが、私はあの子のことを今でも大切な妹だと思っていますから」
真剣な表情で光哉を見つめると、彼は力強く頷いた。
「あぁ……。咲姫、これを君に渡しておく。この札を彼女の体のどこでもいい。貼ることができれば靄ははれるはずだ」
光哉から受け取った札を私は大事に握りしめ、美月に向き直る。
「あら、お話はおしまい?お姉様だけ始末しようと思っていたけれど、九条様も邪魔をするなら容赦しないわ」
キッと目じりを吊り上げ、睨む美月の姿に私は先ほどまで感じていた恐怖はもう感じなかった。
「美月……。私、どんなに嫌なことをされてもあなたのことだけは嫌いになれなかった。だって大切な妹だと思ってるから」
「ふんっ……。綺麗事言わないで!あんたみたいに卑しい血が流れている人間と私は違うのよ!」
美月の絶叫に近い声が部屋にこだまする。
その時だった。
「美月様……。それは違います」
廊下の方からか細い声が聞こえ、皆の視線がそちらに移る。
そこにいたのは、肩から血を流したマサエだ。
美月に刺されたようだが、致命傷はさけられたらしい彼女は、荒い呼吸で言葉を続ける。
「美月様の言う通り、雪子様と菊子様は腹違いの姉妹。ですが、愛人の子は……雪子様ではなく、菊子様の方なのです」
「う、嘘言わないで!!」
顔を真っ赤にして怒鳴りつける美月に、マサエは小さく首を横に振った。
「この事実は祖母の雅子様も、娘の菊子様も知らないことです。知っているのは、当時、菊子様と雪子様を取り上げた私と、北小路家元当主の頼秀様だけ。本当はマサエも墓場まで持っていくつもりでしたが……」
私と美月を交互に見つめ、マサエは語りだす。
「当時、生まれてきた二人のうち、本妻の雅子様から生まれた雪子様はお身体が大層弱く、医者からも長くは生きられないだろうと言われておりました。そのため、頼秀様の判断で愛人の子であった菊子様を本妻の子として取り替えたのでございます。これも北小路家の繁栄のためだと私も口を閉ざすことにしたのです……」
マサエの話に美月の表情がどんどん青ざめていく。
「しかし、医者の判断は間違いだったようで幼い頃は病弱であった雪子様も成長するうえでお身体も強くなっていきました。されど、愛人の子として扱われた雪子様は、今の咲姫様のように周りからは冷ややかな目を向けられておりましたから、今さら、雪子様が本妻の子であるとも言えず……。だから私は決めたのです。事実を知る私だけは雪子様に誠心誠意お仕えしようと」
「う、嘘よ……。私は本家の血筋なの。私が卑しい娼婦の血を引くだなんて……そんな」
その場にへたり込み、顔面蒼白になる美月の黒い靄は先ほどよりも幾分小さくなっているように見えた。
動揺が隠せない彼女は「嘘よ、そんなことあるわけないわ…」とブツブツと独り言を呟いている。
マサエが憐みの視線を美月に送る中、
「そうか……。今の話を知ってるのあなたたちだけでしょう?そういうことなら、事実を知るものがいなくなれば同じじゃない」
ぶわっと、黒い靄が彼女の体を全て覆った。今までとは比にならないくらいの嫌な気配。
しかし、それよりも一瞬早く、私は持っていた札を美月に貼り付けていた。
「きゃぁぁぁぁ!」
断末魔のような叫び声が響き、バタッとその場に倒れこんだ美月は、白目を剥いて気絶する。
その数十分後――。
「こ、これはいったい……」
通報を受けてやってきた二人の警察官がやって来た頃には、すでに東の空が白み始めていた。



