寝巻きを着た少女がふたり、ベッドの上で顔を寄せ合い、一冊の本を読んでいた。

 ふたりの少女は顔が全く区別がつかないほど似通っており、双子であることがわかる。
 
 双子が読んでいるのは、日本語に翻訳され、大正時代に広まったアンデルセンの童話、『人魚姫』だ。

「懐かしいね」

 双子の姉、蘭子(らんこ)が微笑を浮かべながらささやく。

 隣で妹の桜子(さくらこ)がうなずく。

 双子には、前世の記憶があった。

 童話『人魚姫』に登場する『人魚姫』と『魔女』──双子は、その生まれ変わりだった。

 人魚姫と魔女が双子として生まれ変わるとは、神の気まぐれか運命のいたずらか知れないが、ふたりのあいだに遺恨は残されずに辛い境遇に置かれながらもともに生きてきた。

「またその本読んでるの?」

 不意に声をかけられ、双子は顔を上げた。

 病室の入り口に、絹のような純白の肌に美しい顔立ちの線の細い少年がふたりに柔らかく笑いかけながら立っていた。

 蘭子の表情が、花が咲いたようにぱあっと明るくなる。

 恋をする乙女の顔になる。

真珠(しんじゅ)さま!」

 真珠と呼ばれた少年は、双子よりやや年上のようだ。

 入院患者らしく、顔色は優れず、長い手足も棒のように細い。

 真珠は、進行性の難病に罹っていた。

 徐々に筋力が衰え、動けなくなるだろうと医師に言われているらしい。

 3人は、同じ病院に入院し同年代ということもあり、意気投合し、こうして真珠が双子の病室を訪れ、お喋りに花を咲かせることを楽しみとしていた。

「わたくし、人魚姫の生まれ変わりなの。
 真珠さまは、王子様の生まれ変わりなのよ、わたくしにはわかるわ」

「うん、わかってるよ、それで、桜子さんが魔女の生まれ変わりなんだろう?」

 真珠はやや苦笑しながら蘭子の言葉を、いつも通り受け流す。

「本当なのよ、本当に、わたくしは……。
 真珠さま、思い出してくださらないなんて、薄情だわ」

「ああ、すまない、僕は君たちのように前世の記憶がなくてね。
 いつか思い出せるといいんだけど。
 桜子さん、脚の調子はどうかな?」

 蘭子が言い募ろうとするが、自然な形で真珠が話の矛先を桜子に向ける。

 蘭子はぷくう、と頬を膨らませて不満を露わにする。

 その様子を受けて、桜子は焦ったように手を振った。

「わたしのことはいいのです、蘭子の話を聞いてあげてください」

「でも、いつも話をするのは蘭子さんと僕じゃないか。
 たまには桜子さんの話も聞きたいよ」

「とんでもない、わたしの話など聞いてもつまらないし、なにより、なにかを話すほどの経験もありませんから……」

「経験がないのは僕も同じだよ。
 僕もずっと病院暮らしだ。
 愚痴でもかまわないんだよ、桜子さんはあまり自己主張しないから、我慢しているんじゃないかと心配になるよ」

 真珠の思いもしない言葉に桜子は顔色を朱に染め、うつむき、蘭子は妹を睨んだ。

「明後日、退院することになりました」

 桜子が呟くように言う。

「えっ、そうなのか、おめでとう」

 真珠は突然の報せに驚きながらも、桜子を祝福した。

「治癒したから退院するわけじゃありませんわ。
 完治の望みがないから、両親が退院させることにしたんですの。
 お金の無駄だって」

 蘭子の補足に、真珠があからさまに顔を歪める。

「蘭子さん、それはあんまりな言い方じゃないか」

「だって本当ですもの。
 我が家は真珠さまのお宅ほど裕福ではありませんし。
 わたくしはもう長く生きられないというのに、桜子は脚が動かないというだけで、自分が1番可哀想だという顔をする……ねえ、真珠さまもそうは思いませんか?」 

 蘭子は心臓が悪く長く生きられないだろうと宣告され、桜子は原因不明の病で生まれつき両脚が動かず立つことも歩くこともできなかった。

 蘭子の言う通り、桜子は脚が動かないことを除けば、健康体である。

 蘭子より長く生きられるという負い目から、桜子は姉に強く出られない。

 桜子は真珠が好きだ、恋をしている。

 しかし、蘭子が真珠を大切に想っていることを知っているから、罪悪感を拭うために、蘭子と真珠が結ばれてほしいと願っていた。

 自分の想いなど、叶わなくてもかまわない、隠し通せる。

 気まずい雰囲気は漂ったものの、真珠の物腰の柔らかさが発揮され、会話は継続された。

 しばらくすると、喋り疲れたらしい真珠が、病室に戻ると言って椅子から立ち上がった。

「じゃあ、達者で、蘭子さん、桜子さん」 

 背を向けた真珠の雰囲気が、いつもと違うことに桜子は首を傾げた。

 達観した空気は変わらないが、どこか違う。

 疲れたような、それでいて今まで見せたことのない、妙に吹っ切れたような、清々しさを真珠から感じたのだった。

 廊下を去っていく真珠の後ろ姿に、いつもだったら滲んでいる憂いが、今日は感じ取れない。

 


 夜も十分に更けたころ、真珠は枕元に置いたナイフを手に取った。

 暗闇でナイフが月光を受けて妖しく輝く。

──せめて、身体が自由に動くうちに死にたかった。

 だから、真珠は今宵、自ら命を絶つことを決めていた。

 震える両手で掴んだナイフを首筋にあてがい、血管を切り裂こうとした、まさにそのとき──。

 がたん、と音がして、病室の扉が開かれた。

「いけません!」

 少女の甲高い声が鋭く響き、ぎし、となにかが軋む音が近づいてきたかと思うと、人影が真珠からナイフを奪い取ろうとする。

「な、なにをする!離せ!」

 真珠はナイフを取り返そうと手を無茶苦茶に振り回す。

 ふたりは揉み合いながら互いにナイフを掴み合う。

「痛っ」

 人影が鋭く叫んだ。

 見れば、揉み合っている間に、人影の右手の甲に、十字の形に傷がつき、暗闇の中でも鮮やかに溢れる血が月光を浴び輝いた。

 ぽたり、と鮮血が床に零れる様に、真珠ははっと我に返った。

 人影は、ぎし、と乗ってきた車椅子を回転させると、自身の血液で濡れたナイフを真珠の手から奪い、言葉を1言も発さないまま病室を出て行った。

 あとには闇と、荒い呼吸を繰り返す、自殺に失敗した真珠が残されるばかりであった。

☆ 


 大正の時代が終わり、西洋の文化が当たり前に国民に浸透した現在、着物姿の婦人に混じり『ハイカラ』な洋装の若い女性が街で見受けられはじめた。

 真新しい花柄のワンピースに身を包んだ蘭子に対し、桜子は年頃の娘にしては地味な着物姿で会食の様子を少し離れた位置から眺めていた。

 和装の両親は、蘭子の隣に座る来客に緊張を隠せないでいる。

塔田(とうだ)さま、拙宅(せったく)に脚をお運びいただき、恐縮です」

 父親の佐野俊彰(さのとしあき)(いかめ)しい顔で頭を下げ、母親の梅子(うめこ)(なら)った。

 ふたりに頭を下げられた塔田真珠は、焦ったように「顔を上げてください」と言い、同じように頭を下げた。

 蘭子と桜子、双子が暮らす佐野家も、決して貧乏というわけではなく、どちらかというと裕福な家庭なのだが、華族である『塔田』の家とは比べものにならなかった。

 塔田真珠は都心に豪邸をかまえる塔田家の正真正銘の御曹司だ。

 本来なら、蘭子や桜子とは住む世界が違う、出会えるような存在ではなかった。 

 幼いころ病院で知り合い、長年ともに闘病した蘭子と真珠が正式に付き合いはじめて半年が経っていた。

 この日、先に退院して、実家に帰ってきていた蘭子の両親に挨拶をするため真珠は佐野家を訪れていた。

「塔田さま、ご退院おめでとうございます」

 俊彰がそう述べると、真珠は破顔した。

「ありがとうございます。
 病気が全快したのも、蘭子さんのお陰です。
 僕の命は、蘭子さんに救われました。
 感謝してもしきれません。
 蘭子さんは命の恩人です」

「もったいないお言葉でございます。
 娘が役立ったのなら、これ以上光栄なことはありません」

 
 俊彰は(うやうや)しく頭を下げ、どこか誇らしげに蘭子と真珠を優しく見つめた。

 治癒は難しいとされていた真珠の病はめでたく完治していた。

 真珠が絶望に自ら命を絶とうとした翌日、真珠の父親が大金を払って外国から薬を手に入れることに成功したのだ。

 薬のお陰で、みるみるうちに真珠の病状は快復していき、数日前、見事退院の運びとなった。

 あのまま自殺していれば、死んでも死に切れなかった、真珠はそう回想する。

 自殺を決行した夜、傷を負いながら真珠からナイフを奪い取った人影。

 双子の病室を訪ね、昨夜自分の部屋にやってきたのはどちらなのかと訊いた真珠に、蘭子は自分だと名乗り出た。
 
 桜子はなにも言わなかった。

 それを機に蘭子と真珠の仲は急速に深まっていった。

 ふたりが恋人になるまで、そう時間はかからなかった。

 蘭子が退院したのは病気が治癒したからではない。

 余命いくばくもない残りの人生を、せめて最期は実家で迎えたい、蘭子のその想いを尊重した両親が退院させたのだった。

「わたくしは人魚姫の生まれ変わりなの。
 真珠さまとは運命の赤い糸で結ばれているのよ」 

 蘭子がそう言うと、がはは、と俊彰が豪快に笑った。

「昔からこの子はそう言ってきかんのです。
 王子様が塔田さまだなどと言って憚らないのですから、困った娘で……」

 俊彰が心底困ったように頭を掻きつつ苦笑する。

「桜子、食事の用意をなさい。
 いつまでぼけっとしているの」

 梅子が客間の入り口で車椅子に座っている桜子に鋭く指示を飛ばした。

「……はい」

 ぎし、と車椅子を軋ませると、桜子は台所へと車輪を進ませる。

「すみませんねえ、気が利かない子で。
 全く愚図でのろまなんだから、桜子は」

 真珠の視線が桜子の小さな背中を追う。

 真珠の視線を蘭子が追った。

「それで……塔田さま。
 本当に、蘭子と婚姻を結んでくださるのですか?
 蘭子は……もうあまり長くは生きられないと、お医者様にも言われているのですが……。
 16まで生きたのが奇跡だとも」

 今日、真珠が佐野家を訪れたのは、蘭子との結婚を報告するためだ。  

 俊彰の言葉に、真珠が曖昧に微笑んだ。

 煮えきらない真珠の態度に、蘭子が横から口を出す。

「真珠さまは、わたくしが最期を迎えるまで添い遂げてくださると仰ってくださったわ」

 ええ、それは、そうですね、と真珠がもごもごと言葉を口内で転がす。

 ふと居心地が悪くなったのか真珠が客間の入り口に目を向ける。

「桜子さん、遅いですね、様子を見てきましょう」

 言うが早いか、立ち上がった真珠はすたすたと客間を出て行こうとする。

「お待ちください、塔田さま」

 梅子の制止を振り切り、真珠は台所へと向かった。

 そこでは、車椅子の桜子が盆に皿を載せることに苦心していた。

「手伝いましょうか、桜子さん」

 背後からかけられた真珠の声に、びくりと桜子の背が跳ねる。

「真珠さま……」

「桜子さん、貴女はいつもこんな、使用人のようなことをさせられているのですか?」

 桜子は、うつむいて消え入りそうな声で呟く。

「わたしには、他に取り柄がありませんから……。
 誰の役にも立たず、働きもせず……当然の扱いですわ」

「だからって、貴女も脚の具合が良くないというのに……」

 縮こまってしまった桜子を見下ろして、真珠が口を開く。

「……これは、墓場まで持っていくつもりでいた話ですが……」

 そう前置きすると、真珠は声を潜めて桜子に告げた。

「あの日、僕が自殺を決行した夜。
 僕からナイフを奪ったのは貴女ですね、桜子さん?」

 桜子は雷に打たれたようにはっと顔を上げて背筋を伸ばす。

 真珠は桜子にゆっくり近づくと、白魚のようなその右手を取った。

 そして、手の甲に刻まれた痛々しい傷痕に目を細める。

 ──十字の傷痕に。

 すかさず右手を隠そうとする桜子の手を真珠は力強く握り離さない。

「僕を救ってくれた本当の命の恩人は貴女だ」

 一瞬息を呑むと、桜子は壊れたからくり人形のごとく首を激しく振った。

「違います、わたしではありません。
 真珠さまを救ったのは、蘭子です」

 桜子は頑なに否定し決して認めようとしない。

「どうか、蘭子のところにお戻りください。
 ここは、わたしひとりでできますから」

「貴女がお姉様のことを大切に想っていることはわかります。
 だが、それとこれとは話が別だ。
 どうして嘘を許すのですか?」

「嘘?」

「そうです。
 『人魚姫』の本当の生まれ変わりは、桜子さん、貴女ですよね?」

 桜子が目を見開く。

 呼吸が浅くなる。

「真珠さま……」

「思い出したのです、僕の前世のことを。
 僕は『人魚姫』に出てくる王子なのだと。
 僕が本来結ばれるのは、貴女となのだと。
 そして、魔女の生まれ変わりが蘭子さん、そうですよね?」

 桜子は茫然自失とした様子で真珠を見上げたまま言葉を失った。

「前世では、王子は本当に命を救ってくれた恩人を間違えました。
 2度と同じ過ちはしたくない。
 桜子さん、僕は貴女が好きです。
 貴女が人魚姫だからではありません。
 僕はずっと、貴女のことだけを見ていました」

「いけません。
 貴方の恩人は蘭子です」

「……貴女が頑なに認めないだろうことはわかっています。
 お優しい貴女がお姉様を想う気持ちを尊重して、このことは黙っておくつもりでした。
 そんないじらしい貴女の性格も好ましく想う一面でもありましたから。
 しかし、僕はもう自分の気持ちに嘘はつけない。
 このまま蘭子さんと結婚しても、蘭子さんを幸せにする自信が僕にはないのです」

「だからと言って……」

 そのとき、床を踏みしめる音がして、蘭子が顔を覗かせた。

「真珠さま、どうかしまして?
 桜子がなにか失礼なことを?」

「いえ、蘭子さん。
 桜子さんと話が弾んでしまっただけです。
 こうして会うのは久々ですから」  

 にっこりと蘭子が笑顔の花を咲かせ、真珠の腕を取った。

「ね、ここは桜子に任せて行きましょ」

「でも……」

 桜子に見せつけるように腕を絡ませると、蘭子が真珠を引っ張るようにして歩き出す。

「真珠さま、あの日貴方を救ったのはわたくし。
 ……そうですね?」

 蘭子がびっくりするくらい低い声でささやいたので、真珠は気圧されて、はい、とうなずいた。

 蘭子が満足したように笑みを戻す。

「結婚式、楽しみだわ、ねえ、真珠さま」

 真珠ななにか言いたげに振り返るが、結局なにも言わぬまま客間に戻っていった。



 真珠の異変を察知した桜子が病室を出ていく物音を聞いて、蘭子は自分の車椅子に乗り移ってあとを追った。

 心臓に負担がかかるため、蘭子も基本移動には車椅子を使う。

 桜子が真珠の病室に入っていく様子を見て逢い引きしているのではと疑った蘭子は目を三角にして部屋に飛び込もうとした。

 が、その前にがたがたと揉み合う音が聴こえてきて、病室をそうっと覗いた蘭子は、桜子が身を挺して真珠からナイフを取り上げる様を目にして思いとどまった。

 真珠は、自殺しようとしていた。

 そのことに、蘭子は全く気づけなかった。

 ──桜子は気づいたというのに。

 屈辱だった。

 蘭子は真珠たちに気づかれないうちにその場を去った。

 そして決めた。

 真珠を救ったのは自分だと言い張ろうと。

 あの暗闇だ、桜子が名乗り出なければ、あの場に現れ真珠を救ったのが、桜子なのか蘭子なのかわからないだろう。

 なにしろ、双子は実の親ですら見間違うほどに似ている。

 顔も髪型も寝巻きも車椅子も一緒。

 桜子は蘭子に負い目があるため、蘭子が言い張れば引き下がるに違いない。

 決定打がなければ桜子か蘭子か真珠に判断はできないはずだ。

 多少強引でも丸め込めるだろう。

 桜子が病室に戻ってくる音を聴きながら、蘭子は寝ているふりをしつつ、ほくそ笑んだ。

 ──真珠さまは渡さない。





 佐野桜子は『人魚姫』の生まれ変わりだった。

 その名残りで、桜子の脚は動かない。

 医師も匙を投げる原因不明の病だが、前世の記憶を持つ桜子にとってはなんら不思議ではないことだった。

 双子の姉、蘭子は人魚姫に自由に動く脚を与えた魔女の生まれ変わりである。

 桜子の脚と同じように前世の名残りがあり、蘭子は魔法が使える。

 ただ、魔法を使いたいなんて望んでいないのに、また自分のために魔法は使えないのに、その代償として、命が削られ、短命という無慈悲な運命を定められたのだった。
 
 どうして自分だけが、と蘭子が桜子を恨むのも、仕方のないことではあった。

 母親の梅子は、蘭子を溺愛し桜子を虐げた。

 歩けない桜子の手が届かないところに食事を置いたり、介助が必要な桜子を放置したりと、幼いころから、蘭子と梅子は桜子に虐待寸前のことをしていた。

『その寿命を蘭子に差し出しなさいよ』が梅子の口癖だった。

 長く生きられない運命の蘭子に母親が肩入れするのもまた仕方のないことでもあった。

 蘭子は、他人の心を自分に有利に操る手腕に長けていた。

 自身の理不尽な短い人生を嘆き、桜子だけが幸せになることを決して許せないでいた。



「いやーっ!」

 朝の佐野家に娘の悲鳴が響き渡った。

 自分の顔を鏡で見た桜子の喉から絞り出された甲高い叫び声だった。

 なにごとかと駆けつけた梅子は桜子の顔を見て息を呑んだ。

 桜子の可憐な顔は、般若の面のような目を背けたくなる醜いものに変わっていた。

 あ、あ、と自分の顔を触りながら桜子が声にならない声を零す。

 信じ難い光景だった。

「分もわきまえずに真珠さまに色目を使うからよ」

 やってきた蘭子が冷笑しながら満足げに桜子を眺めた。

「ら、蘭子がやったの?」

 瞳から涙を流して震える桜子に、蘭子は「そうよ」と平然と告げた。

「そ、そんな、ひどい……」

 桜子は震えながらも抗議の呟きを漏らす。

「塔田さまに色目を……?」

「そうよ、お母様」

 次に梅子が放った言葉に、桜子は衝撃のあまり固まった。
 
「そう、それでは仕方ないわね。
 とんだ恥知らずな娘だこと」

 梅子は蘭子が魔法を使ったことを少しも不思議がっていない様子だった。

 自分の子どもには不思議な力があるようだ、程度に軽くしか考えていない。

「その姿では、もう真珠さまに会えないわね」

 桜子は泣きながらはっとする。

 真珠に、とてもではないがこんな顔を見せられない。

 それどころか、外に出ることすら叶わないだろう。

 桜子は、深い絶望に打ちひしがれた。

 
 結婚に向けて打ち合わせするべく真珠が何度か佐野家を訪れても桜子は姿を見せなかった。

 真珠が蘭子たちに、桜子はどうしたのかと訊いても誰も答えようとしない。

 真珠はお手洗いに立つふりをして桜子の部屋の前にやってきて声をかけたが、桜子は頑として顔を見せようとはしなかった。

「今は顔を合わせることはできません、どうかご容赦ください」

 そう言う桜子の声は、いつも涙混じりだった。

 なにかが起こっていることはわかっているのに、どうにもしてやれない、桜子の苦しみの原因すらわからない。

 そんな自分に、真珠は苛立っていた。




 真珠と蘭子の縁談がまとまり、あとは結婚式に向けての調整をつつがなく行うばかりとなったある夜。

 蘭子が珍しく桜子の部屋を訪ねてきた。

 桜子は家族にも顔を見られたくないと、このところ部屋に閉じこもっていた。

 食事を運ぶのが面倒だと梅子はぶつくさと不満を募らせているが、皿に盛られた食事に桜子が手を付けることは稀だった。

 部屋に入ってきた蘭子は、不自然なほど機嫌がよかった。

 掛け布団をすっぽりと頭から被った桜子が、「なんの用?」と蘭子に訊いた。

「もうすぐ真珠さまと結婚式を挙げるわ。
 でも、その前に桜子に贈り物をあげる」

「……贈り物?」

 ちら、と布団の隙間から桜子が蘭子を伺う。

「明日、塔田邸で舞踏会があるの。
 そこに行かせてあげるわ」

「舞踏会?
 なにを言っているの、こんな姿で人前に出られるわけないじゃない」

「わたくしだって鬼じゃないわ。
 忘れたの?
 わたくしは魔女の生まれ変わりよ。
 魔法が使えるのよ。
 貴女を一晩絶世の美女に変えるなんて造作もないことだわ」

「魔法を使ったら心臓が摩耗する。
 そこまでしてわたしを舞踏会に行かせたいのはなぜ?」

「簡単よ。
 貴女により失望感と絶望感を与えるため。
 わたくしと真珠さまが結婚したら、貴女はもう真珠さまと会えない。
 可哀想だと思って情けをかけてあげてるのよ。
 真珠さまと、会いたくはない?」

 桜子は押し黙る。

 真珠への気持ちは全く萎えていない。

 また真珠に会えたら、どんなに幸せだろうと毎晩考えては叶わぬ現実を突きつけられて枕を濡らした。

 蘭子の提案は残酷で、それでいて心惹かれるものだった。

 どんな形でもいいから、最愛の人に会えるなら──。

「ただし、一晩よ。
 午前零時になったら魔法は解ける。
 もとの醜い姿に戻るわ。
 顔を変えて、桜子だとわからないようにするから、欲をかいて名乗り出たりしたらすぐその場で魔法は無効化する。
 真珠さまにその醜い顔を見られることになる」

「……それって、グリム童話の……」

「そうよ、『灰かぶり姫』。
 それをお手本に思いついたの」

 蘭子は嗜虐的な笑みを浮かべている。

「でも、物語のようにはさせない。
 貴女を真珠さまに会わせるのは、あくまで思い出を作ってあげるため、現実を痛感させるため。
 真珠さまと最後に会わせてあげるという姉としての優しさよ」

──そんな残酷な優しさがこの世に存在するのか。

 桜子はやせ細った手で拳を握った。

「別に桜子の気持ちがどうだろうと、わたくしは構わないのよ?
 貴女が失恋して、未練がましく真珠さまのことを引きずっていても、わたくしにはなんの関係もないことだわ。
 会っても会わなくても桜子の好きにすればいい。
 お節介だったかしら?
 それならもう行くわ」
 

 蘭子が立ち上がって、襖を開けようとする。

「ま、待って……!」

 蘭子が振り返る。

「行くわ、真珠さまのところへ」

 布団から覗く桜子の瞳を真っ直ぐに見据えて、蘭子が意地悪く笑った。

「そう。
 それでは、くれぐれも変な気は起こさないことね。
 着ていくドレスは、わたくしのを貸してあげる」

 妹を一瞥すると、蘭子は満足げに部屋を出ていった。



 それは奇跡のような光景だった。

 姿見の前で華やかなドレスに身を包み、桜子は『立って』いた。

 鏡に映るのは、絶世の美少女。

 まるで面影を残していない自分の姿を見て、桜子はまじまじと鏡に魅入っていた。

 この姿では、真珠に気づかれる可能性はほぼないだろう。

 自分の脚で歩ける。

 たった一夜限りの夢であっても、桜子は興奮を隠せない。

 蘭子は桜子に化粧を施し髪を整え、甲斐甲斐しく身支度を手伝った。

 蘭子が出現させた馬車に乗り込むと、桜子は一路塔田邸に向けて出発した。



 塔田邸は、それはそれは見事な豪邸であった。

 舞踏会に参加する上流階級の貴族や華族たちが着飾って談笑している。

 西洋の家具を取り入れた屋敷内は広く、桜子は来客としてシャンデリアが煌めく舞踏会会場へと通された。

 音楽が鳴り響き、優雅に社交ダンスを愉しむ紳士淑女を前に、気後れして壁のそばに立ち尽くしていた桜子に声をかける者があった。

「踊りませんか?」

 桜子は息を呑む。

 声をかけてきたのは真珠だった。

 真珠に誘われ、会場の中心に躍り出て、蘭子から教わったワルツを音楽に合わせ優美に踊る。

 そんなふたりの様子を、集まった貴族華族たちがうっとりと羨望の眼差しで眺めている。

 あの塔田さまと踊るなんて、と言外に婦人の視線が粘着質に桜子に突き刺さる。

 今はその鋭い視線すらも、桜子に快感を与える材料に過ぎなかった。

 くるくると回転しながら踊っていると、世界がスローモーションのようになり眩い光りが視界の端で光りの帯となりゆっくりと流れていく。

 音楽が、自由に動く脚が、目の前にいる輝くばかりの美しさの真珠が笑顔になっているだろう自分の表情が、全てが夢幻のごとく儚く、悪夢のごとく桜子に幸福を感じさせる。

 与えられた環境が美しければ美しいほど、幸せを感じれば感じるほど、それを失うことが恐ろしくなる。

 夢は醒めること、残酷な現実にいることを思い知らされる。

 いつしか曲は終わっていて、ぱらぱらと踊り終わった桜子たちに、拍手が送られる。

 それを見るや、頬を恥じらいに染めた娘たちが、「真珠さま、今度はわたくしと」と殺到するが、真珠は曖昧な笑みを取り繕うと、やんわりと乙女の誘いを断っている。

 桜子が真珠から離れようとすると、その腕を真珠が掴んだ。

「よろしければ、もう一曲踊りませんか?」

「あ、いえ、でも……」

「どうかお願いします。
 踊りではなくても構いません、お喋りでもいいのです、僕は、貴女を離したくない」

 桜子の心臓が跳ねる。

 澄み切った真珠の瞳に全てを見透かされている気がして、桜子は落ち着かない。

「他の方もいらっしゃいますから……」

「僕は貴女がいいのです、是非お名前をお伺いしたいのですが」

「いけません、わたしのことは忘れてくださいませ。
 それでは貴方のことが忘れられなくなってしまいます」

「忘れる必要はありません。
 どうかお側に」

 誘惑に勝てず、桜子は真珠を独占し踊り続けた。

 世界に、自分と真珠、ふたりしかいないような錯覚に陥る。

 幸せだった。

 しかし、桜子ははっと我に返り、時刻を確かめる。

 間もなく零時になるところだった。

 桜子は真珠から離れようと手を離す。

「ごめんなさい、わたし、もう行かなくては……」

 そう言うと、真珠は名残り惜しそうに桜子の右手を取り、手の甲に口づけをした。

 柔らかな感触が、桜子の脳を痺れさせ、言いようのない快感をもたらす。

 でも、と桜子は手放しそうになる理性を手繰り寄せる。

──真珠さまが心惹かれているのは、蘭子の魔法によって絶世の美少女に変えられているから。

 桜子を求めているのでは決してないのだと。

 そう考えると、身が引き裂かれそうになりそのあまりの痛みに涙が溢れそうになる。

「名もなき御方、今宵は大変楽しかったです、貴女のお陰で」

「そう言っていただけるだけで光栄にございます。
 どうか、お元気で」

 なんとかそれだけ言うと、桜子はドレスを翻し、屋敷を出るために生まれて初めて走った。

 塔田邸から一歩脚を踏み出した瞬間、どこからか午前零時を告げる鐘の音が響いてきた。

 振り返り、煌々と灯りが灯る塔田邸を見上げると涙でその姿が霞んだ。



 自宅に帰りつくと、家の中は真っ暗だった。

 両親は桜子が密かに出かけていたことに気づいていないようだ。

 蘭子がうまく誤魔化したのだろう。

 家に入ったとたん、脚が動かなくなった。

 玄関先に置いたままだった車椅子に崩れ落ちるように座る。

 自分の部屋に戻り手鏡を恐る恐る見ると、桜子の顔はすっかりもとの般若の顔に戻っていた。

──夢が終わった、これが現実だ。

 ドレスを脱ぎ、いつもの地味な着物に着替えていると、そっと襖が開けられ、蘭子が顔を覗かせた。

「どうだった?
 真珠さまを諦める気になったかしら?」

 蘭子はドレスを受け取ると、にやにやと底意地の悪い笑いを桜子そっくりの顔に貼り付けた。

「幸せな夜を過ごさせてもらったわ、ありがとう、蘭子」

「そう、真珠さまに気に入ってもらえたの、魔法で変身した姿は?」

「ええ、楽しかったわ。
 蘭子のお陰よ」

「桜子の姿で気に入られたわけでもないのに、おめでたい頭ね。
 これで貴女と真珠さまはもう終わり、2度と会わないで頂戴、いいわね?」

 桜子は般若の顔で、言葉もなくうなずいた。

──今生の別れ。

 蘭子が去った漆黒の部屋で、朝がくるまで桜子はさめざめと泣いた。 




 桜子は、佐野家を訪問するたびに襖の向こうから声をかけ続けてくる真珠に一切反応をしなくなった。

 いずれ時が経てば、真珠の想いも薄れるだろう。

 桜子のことはきっぱり忘れて蘭子と幸せな家庭を築く──そこまでしてもらわなければ、桜子の気持ちも整理がつかない。

 蘭子が魔法をかけてまで絶たせようとした真珠への想いをいつまでも引きずってしまう。

 蘭子との結婚式が近づいてきたある日、張り詰めた真珠の声が襖の向こうから届いた。

「桜子さん、僕は決意しました。
 どうか顔を見せてください」

 深刻ななにかを(はら)んだ真珠の声に、桜子はつい反応してしまった。

「……決意……?
 真珠さま、変な気を起こすことはおやめくださいませ。
 今のわたしは、貴方さまにお見せできる姿ではございません。
 どうかわたしのことは忘れて、蘭子と幸せな家庭を築いてください」

「本心を偽ってまやかしの結婚生活を送れと仰るのですか。
 それこそ蘭子さんに失礼というものです」

「ですからって……」

「桜子さん、僕は貴女ならどんな姿になろうと受け入れる覚悟でいます。
 だから、どうかそのお顔を見せてください」

 真珠の声は震え、懇願するような口調になっていく。

「できません。
 こんな化け物みたいな醜いわたしをお見せすることは、絶対にできません。
 あまりの醜さに、目を背けるに決まっています。
 わたしも、これ以上傷つきたくありません」

 ふたりが押し問答を数分続けていると、「なにをしているのです?」と蘭子の涼やかな声が聴こえてきた。

 穏やかながらも冷え切った声音だった。

 蘭子を振り向いた真珠が表情を歪める。

「……蘭子さん、桜子さんに一体なにをしたのです?」

「あら、わたくしはなにも。
 桜子が勝手に引きこもっているだけですわ」

「そんなはずはない。
 舞踏会の日、僕と踊ったのは桜子さんですよね?」

「まさか。
 桜子はずっと部屋に引っ込んだきりですわ」

「確かに、見た目は桜子さんではなかった。
 でも、僕にはわかります。
 あれは桜子さんだと。
 証拠もあります」

「へえ、証拠?」

 蘭子の眼差しが獲物を見つけた蛇のごとく鋭くなる。

「右手の甲の十字の傷痕。
 それがあの日踊った彼女にはありました。
 僕の命を救ったただひとりの女性にしかない傷痕です。
 蘭子さん、貴女は魔女の生まれ変わりだ。
 桜子さんの姿を醜く変えたり見目麗しい姿に変えることはいくらでも可能でしょう、違いますか?」

 蘭子が目を丸くする。

「まあ、前世の記憶が戻ったんですの?」

「そうです。
 蘭子さん、申し訳ありませんが、貴女と結婚はできません。
 僕は桜子さんが好きだ」 

 真珠をぎろりと睨みつけると、蘭子は吐き捨てるように言った。

「あんな醜悪な見た目でもよろしいの?」

「かまいません、どんな見た目になろうと、内面が桜子さんであれば僕は受け止めます」

「へえ、ですってよ、桜子」

 蘭子の声が熱を失い悪魔のごとく尖っていく。

 そのとき、襖がそうっと細く開いた。

 その静かな音に気づいて真珠と蘭子の視線が釘付けになる。

「どうか、わたしの姿を見て、わたしを嫌いになってくださいませ」

 毅然とした声とともに現れた桜子の姿を見て、真珠は目を見開き、息を呑んだ。

 悪鬼羅刹のごとき形相の化け物が桜子の声を出し桜子の車椅子に座り桜子の着物を着ている。

 衝撃を受けた様子の真珠はしばらく経っても一声も発せずにいる。

 あまりの醜悪さに、無意識に真珠の眉がひそめられる。

 桜子は失望を隠せずうつむいた。

 蘭子が勝ち誇ったように頬を緩ませる。

「とても受け入れられないでしょう、真珠さま。
 無理はないわ、こんな化け物相手では」

 蘭子が真珠の腕を取る。

 真珠は蘭子に引かれるがままに桜子から遠ざかる。

「どうか、蘭子と幸せになってくださいませ」

 桜子が小さく頭を下げ、部屋に引き返そうと背中を向ける。

 しかし、「待ってください!」と叫ぶと、蘭子を振り払って真珠が桜子の手を掴み、強引に抱き寄せた。

「どんなに醜くても、貴女は桜子さんだ。
 僕は桜子さんが愛おしい。
 確信しました、僕は貴女から逃れられないらしい」

 真珠は腕の中の化け物となった桜子を真摯な視線で見下ろすと、決して目を逸らさずに瞳と瞳を合わせる。

「真珠さま……」

 桜子の肩に顔を埋め、真珠は声を震わせた。

「愛しています、桜子さん。
 僕と、結婚してください」 

 桜子の目から一筋の涙が溢れ落ちる。

「貴方は、こんなわたしを受け入れてくださると仰るのですか?」

「そうです、桜子さん」

 やっと上げた真珠の顔は、涙で濡れていた。

 それでも、泣き笑いのような笑みを見せる。

「どうか、永遠に僕の側に」

 桜子が声を上げて泣き出す。

 そのとき、背後で蘭子がどさりと音を立てて倒れた。

「蘭子?」

 泣いていた桜子が慌てて車椅子を進めると、うつ伏せに倒れている蘭子の顔を覗き込む。

「蘭子、蘭子、大丈夫?」

「……これが大丈夫そうに見える?」

 浅い呼吸を繰り返しながら、か細い声で蘭子が伸ばされた桜子の手を乱暴に振り払った。

「なにごと?」

 どたどたと廊下を梅子と俊彰が走ってやってきて、倒れている蘭子に驚いて駆け寄る。

「桜子に魔法をかけ続けたから心臓に負担がかかっているみたいだわ。
 あーあ、どうして憎い妹のためにわたくしが寿命を削らないといけないのかしら。
 自分になびきもしない男のためにここまでしなくてはいけないのかしら。
 気に入らないわ、破談よ破談。
 この家を出て行きなさい、ふたりとも。
 貴方たちの顔なんか、2度と見たくもないわ」

 蘭子の言葉に両親がさっと顔色を青くする。

「塔田さまと破談?
 なにがあったんだ、蘭子?」

 俊彰が取り乱した様子で蘭子を抱き起こしながら困惑を隠せないでいる。

「塔田さまは桜子がお好みなんですって。
 わたくし、捨てられたの」

「蘭子を、捨てた?
 聞き捨てなりませんわ。
 塔田さま、蘭子が言っていることは本当なのでしょうか?」

 梅子が疑惑の眼差しで真珠を見上げる。

「ええ……僕は蘭子さんを裏切りました」

 梅子は見るからに屈辱を受けたような視線になると、桜子をきっと睨んだ。

「姉から婚約者を奪うなんて、とんだ恥知らずの娘ね、桜子は!
 出て行きなさい、今すぐ!
 塔田さま、貴方もお引き取りを。
 大事な我が娘、蘭子を弄んだ罪は重いですわ。
 2度と我が家の敷居をまたがないでください!」

 蘭子を支えながら梅子が素っ頓狂な声で叫んだ。

「行きましょう、桜子さん」

 差し出された真珠の手を桜子は何度も躊躇いながら、ようやく決意を固めたように掴んだ。

 すると、桜子を見た真珠が、驚愕の表情に染まる。

 なんだろうと桜子が不思議そうにしていると、「桜子さん、顔が……」と真珠が驚きを隠せない様子で小さく息を呑んだ。

 桜子はぺたぺたと自分の顔を触る。

 そして、はっとしたように大きな瞳を見開き、次の瞬間涙を流しはじめた。

 真珠の瞳に、元通りの桜子の顔が映し出されている。

 蘭子の衰弱を受けて、魔法が解けたのだとわかる。

 真珠の瞳が揺れ、桜子の姿もゆらゆらと揺れる。

 真珠が泣いているのだと気づき、桜子もまた釣られるように涙を零した。

「桜子さん、押しますよ」

 涙を乱暴に拭った真珠はさっと桜子の背後に回ると、車椅子を押しはじめた。

 玄関に向かってゆっくり進む。

 家を出ると、桜子は我が家を見上げた。

 病院暮らしが長かったから、特に実家に思い入れはない。

 寂しいとか、家族と仲違いしてしまって悲しいとか、そんな感情は生まれてこなかった。

 あの家に、良い思い出はない。

 自分は、塔田の人間になるんだ。

 そう思って、ふと桜子は大事なことを言い忘れていたことに気づき、真珠を真っ直ぐに見た。

「真珠さま」

「なんです、桜子さん」

 真珠が桜子の目線に合わせるため中腰になり、優しい声音で応えた。

「こんなわたしと、結婚してくださるの?」

「なにを仰います、桜子さんの顔は元通り、美しいですよ」

「……そうではなくて……。
 わたしには誇れるものも突出したなにかもありません。
 なんの特技もない、つまらない女です。
 それでも、よろしいのですか?」

「貴女が貴女であるだけで、僕は充分なのです。
 理屈ではありません、僕の心が、貴女を求めている。
 それだけなのです」

「そう、ですか。
 では、真珠さま」

 桜子は決意も新たに真珠を見据える。

「わたしと、結婚してくださいますか?」

 桜子の求婚に、やや面食らいながらも、真珠は破顔して答える。

「ええ、こんな僕でよろしければ」

 真珠は桜子の右手を取り、その甲に口づけを落とす──舞踏会の、あの夜と同じように。

「貴女の美しい手を傷つけてしまった罪を一生償い続けます。
 この十字の傷痕は僕への戒め、貴女が救ってくださった僕の命の象徴。
 僕の、貴女への想いの印なのです。
 桜子さん、貴女はなにも持っていないわけではありません。
 僕を救うためにナイフをものともせず取り上げた──勇敢な女性です。
 ですから、僕は貴女にもっと惹かれた……」

 くすぐったそうに桜子が見をよじる。

「ともに生きてゆきましょう、桜子さん」

「はい、真珠さま」

 桜子は憂いのない笑みを生まれてはじめて浮かべた。

 得たもの失ったもの。

 その天秤はどちらに傾くのかわからない。

 自分自身が下した決断を悔やむこともあるのかもしれない。

 真珠が桜子の手のひらを包みこんで自身の頬へと愛おしそうに寄せた。

 ──でも、この温もりがあればきっとなにが起きても幸せに生きていける。

 桜子はそう確信していた。

 微笑み合うふたりに、温かな夕陽が降り注いでいた。

 祝福するように。