誰かがオレの名前を呼んでいる。
遠くから聞こえてくる声に、少しずつ意識が戻ってきた。瞼が重くて、なかなか開かない。身体全体がだるくて、まるで水の中にいるような感覚だった。
「湊! 湊、大丈夫か?」
その声に、ハッとする。悠馬の声だ。
ゆっくりと目を開けると、心配そうな悠馬の顔があった。いつもの無表情な彼が、こんなに慌てた顔をしているのを見るのは初めてかもしれない。眉間に深いしわが刻まれていて、唇もきつく結ばれている。
「ゆう……ま?」
かすれた声で名前を呟くと、悠馬の表情が少し和らいだ。
「気がついたか。どこか具合悪いところはないか?」
オレは身体を起こそうとしたけれど、頭がくらくらして上手くいかない。息もまだ浅くて、なんだか空気が薄いような感じがする。
「だい……じょうぶ」
そう答えようとしたけれど、声がかすれてしまった。悠馬はそんなオレを見て、さらに心配そうな顔になる。
「全然大丈夫じゃないだろ。立てるか?」
悠馬に手を貸してもらって立ち上がろうとしたけれど、足がふらついてうまく立てない。膝から力が抜けて、危うく再び倒れそうになる。
「保健室に連れて行くぞ」
そう言って、悠馬はオレの前にしゃがみ込んだ。
「背中に掴まれ」
「え? でも、自分で歩けるから……」
言いかけたけれど、実際には足がふらつくばかりで一歩も前に進めない。悠馬は有無を言わさず、オレを背中に背負った。
突然のことで驚いたけれど、悠馬の背中は温かくて安心できた。サッカー部で鍛えた逞しい背中に、オレの細い腕がしがみつく。彼の体温と心臓の鼓動が、オレの胸に伝わってくる。
こんなふうに悠馬に甘えるなんて、小学生以来かもしれない。でも今は、彼に頼ることを拒む気力もなかった。
保健室までの道のりで、悠馬は一言も文句を言わなかった。オレを背負ったまま、しっかりとした足取りで歩いてくれる。廊下を歩く他の生徒たちの視線を感じたけれど、悠馬は気にする様子もない。
保健室に着くと、養護教諭の先生はいなかった。悠馬はオレをベッドに寝かせてくれる。
「先生を呼んでくる」
そう言って立ち上がろうとする悠馬を、オレは咄嗟に袖を掴んで引き留めた。
「待って……もう少し、そばにいて」
悠馬は少し驚いたような顔をしたけれど、すぐに頷いてベッドの横の椅子に座り直した。
保健室の窓は大きく開かれていて、夏の風がそよそよと頬を撫けていく。カーテンが風に揺れて、陽射しが室内にやわらかく差し込んでいた。遠くのグラウンドからは、運動部の掛け声が響いてくる。セミの鳴き声も混じって、いかにも夏らしい音の重なりだった。
「体調は大丈夫そうか?」
悠馬が静かに尋ねてくる。
「うん、だいぶ楽になった」
そう答えてから、オレは疑問に思ったことを口にした。
「でも、どうして悠馬があの渡り廊下にいたんだ? サッカー部の練習中だったんじゃないの?」
悠馬は少し困ったような顔をしてから答えた。
「お前が渡り廊下でしゃがみ込んでいることに、他のサッカー部の部員が気がついて……周囲が騒がしくなったことで俺も気がついた」
そして、真剣な表情でオレを見つめる。
「どうしてあんなところで倒れていたんだ?」
その問いかけに、オレは咄嗟にいつもの笑顔を作った。
「昨日ゲームして寝不足だったからかな……」
でも、その瞬間、悠馬の顔つきが険しくなった。
「湊」
低い声で名前を呼ばれて、オレは身体を硬くする。
「お前、聞かれたくないことがあるとそうやって取り繕う癖があるよな」
その指摘に、オレは言葉を失った。無意識に演技していた自分のことを、悠馬に見抜かれてしまったのだ。
「せめて、俺の前では嘘をついたりするな」
その言葉に、オレの胸がキュッと締め付けられた。今まで何度も、悠馬にそう言われてきた。でも今日ほど、その言葉が心に響いたことはなかった。
深呼吸をして、オレはゆっくりと話し始めた。
「……いま、演劇部に中学時代にお世話になってた田村先輩が来てて」
その名前を口にした瞬間、悠馬が少し顔をしかめるのが分かった。
悠馬は少しの間、何かを考えるような顔をしてから、慎重に口を開いた。
「聞いていいか?」
オレは小さく頷く。
「お前は……そいつのことが好きだったのか?」
その問いかけに、オレは静かに頷いた。
しばらくの間、二人とも何も言わなかった。窓の外からは相変わらず運動部の声が聞こえてくるけれど、保健室の中は時間が止まったような静寂に包まれている。
オレは静かに続けた。
「あの時の自分は、まだ自分の性的指向とかそういうのがよく分かってなくて……最初はただ、カッコいい年上の先輩に憧れる気持ちが強かった」
悠馬は口を挟まず、隣で静かに聞いている。
「演劇部で演技指導してくれたんだけど、オレの演技のことすごく褒めてくれるし、なんとなく他の人より優しくしてくれている気がして……気がついたら先輩のことにのめり込んでいた。それがたぶん恋愛的な意味での好意であることに気づいたのは、先輩に会ってから半年ぐらい経った後だった」
そこまで話して、オレは自嘲的に笑った。
「それで、オレは先輩に告白した。笑っちゃうだろ、中学生のガキが、大学生に告白するなんて。本当だったら軽くあしらわれて終わるはずだったんだろうけど……どういう訳か、先輩はオレの告白にOKを返してくれた」
悠馬の表情が変わった。明らかに衝撃を受けているような顔で、小さく呟く。
「……そうなのか」
オレは自嘲的な表情を浮かべて続けた。
「オレは先輩から返事をもらえたことにすごく喜んだ。単純だった……先輩がどうして年下のガキの告白を受けてくれたかなんて、深く考えなかった」
その様子を見て、悠馬は心配そうな顔つきになった。
「……何かあったのか?」
オレは首を振った。詳細を語る気にはなれない。
「フラれただけだよ。はなからオレは先輩に相手にされてなかったんだ」
悠馬は詳細を聞きたそうな顔をしていたけれど、それ以上は聞いてこなかった。その優しさが、オレには痛いほど伝わってきた。
一方で、オレは自分の弱さに幻滅していた。悠馬に好きだと告白しながら、田村先輩との間にあった出来事を彼にきちんと説明できずにいる。
その時、保健室のドアが開いた。
「あら、どうしたの?」
明るい声と共に、養護教諭の先生が入ってきた。40代くらいの優しそうな先生で、生徒たちからも慕われている。
「貴方が彼をここまで運んでくれたのね」
先生は悠馬に向かってお礼を言うと、オレの方に向き直った。
「どんな症状だったの? めまい? それとも気持ち悪くなったのかしら」
先生の質問に、オレは正直に答えた。息が苦しくなって、立っていられなくなったこと。意識が朦朧としたこと。
「そうね……おそらく過呼吸を起こしたのでしょうね。ストレスが原因のことが多いのよ」
先生はオレの脈を取ったり、体温を測ったりして症状を確認してくれた。
「しばらくここで休んで、体調がよくなったら帰っても大丈夫よ。心配なら保護者の方を呼びましょうか?」
その問いかけに、悠馬が答えた。
「自分が彼の家の近所なので、彼を送っていきます」
「それなら大丈夫そうね」
先生はそう言って、保健室から出ていった。
残された二人。しばらく無言の時間が続いた。風がカーテンを揺らして、セミの声が遠くから聞こえてくる。
悠馬がぽそりと口を開いた。
「合宿に行くつもりなのか?」
その問いかけに、オレは少し迷いながら答えた。
「田村先輩には会いたくないけど……でも引っ越し前の最後の演劇部の活動になりそうだし、後輩にも絶対来てって言われているから……行くつもり」
すると、悠馬は意外なことを言った。
「それは、俺も参加できるのか?」
オレは驚いて悠馬を見つめた。
「でも、サッカー部の練習があるんじゃないの?」
「夏休みのその時期は熱中症対策で練習がほとんどない」
悠馬の説明に、オレは少し考えてから答えた。
「演劇部の合宿は、田村先輩のように外部からの応援という形で部員以外が参加するのも珍しくないから……たぶん大丈夫だと思う。先輩にちょっと尋ねておく」
「わかった」
悠馬はそう答えた。
またしばらく無言の時間が流れた。悠馬が聞きづらそうに口を開く。
「お前は、まだその先輩のことが──」
でも、その続きは途切れてしまった。
その時、学校のチャイムが鳴った。下校の時間を告げる放送が校内に流れる。
「そろそろ帰るぞ。歩けそうか?」
悠馬の問いかけに、オレは頷いた。
「大丈夫」
保健室を出ると、廊下にはもう夕日が差し込んでいた。オレンジ色の光が廊下の向こうまで続いていて、まるで光の道みたいに見える。窓の外では、校庭の木々が夕風に揺れていた。
遠くから聞こえてくる声に、少しずつ意識が戻ってきた。瞼が重くて、なかなか開かない。身体全体がだるくて、まるで水の中にいるような感覚だった。
「湊! 湊、大丈夫か?」
その声に、ハッとする。悠馬の声だ。
ゆっくりと目を開けると、心配そうな悠馬の顔があった。いつもの無表情な彼が、こんなに慌てた顔をしているのを見るのは初めてかもしれない。眉間に深いしわが刻まれていて、唇もきつく結ばれている。
「ゆう……ま?」
かすれた声で名前を呟くと、悠馬の表情が少し和らいだ。
「気がついたか。どこか具合悪いところはないか?」
オレは身体を起こそうとしたけれど、頭がくらくらして上手くいかない。息もまだ浅くて、なんだか空気が薄いような感じがする。
「だい……じょうぶ」
そう答えようとしたけれど、声がかすれてしまった。悠馬はそんなオレを見て、さらに心配そうな顔になる。
「全然大丈夫じゃないだろ。立てるか?」
悠馬に手を貸してもらって立ち上がろうとしたけれど、足がふらついてうまく立てない。膝から力が抜けて、危うく再び倒れそうになる。
「保健室に連れて行くぞ」
そう言って、悠馬はオレの前にしゃがみ込んだ。
「背中に掴まれ」
「え? でも、自分で歩けるから……」
言いかけたけれど、実際には足がふらつくばかりで一歩も前に進めない。悠馬は有無を言わさず、オレを背中に背負った。
突然のことで驚いたけれど、悠馬の背中は温かくて安心できた。サッカー部で鍛えた逞しい背中に、オレの細い腕がしがみつく。彼の体温と心臓の鼓動が、オレの胸に伝わってくる。
こんなふうに悠馬に甘えるなんて、小学生以来かもしれない。でも今は、彼に頼ることを拒む気力もなかった。
保健室までの道のりで、悠馬は一言も文句を言わなかった。オレを背負ったまま、しっかりとした足取りで歩いてくれる。廊下を歩く他の生徒たちの視線を感じたけれど、悠馬は気にする様子もない。
保健室に着くと、養護教諭の先生はいなかった。悠馬はオレをベッドに寝かせてくれる。
「先生を呼んでくる」
そう言って立ち上がろうとする悠馬を、オレは咄嗟に袖を掴んで引き留めた。
「待って……もう少し、そばにいて」
悠馬は少し驚いたような顔をしたけれど、すぐに頷いてベッドの横の椅子に座り直した。
保健室の窓は大きく開かれていて、夏の風がそよそよと頬を撫けていく。カーテンが風に揺れて、陽射しが室内にやわらかく差し込んでいた。遠くのグラウンドからは、運動部の掛け声が響いてくる。セミの鳴き声も混じって、いかにも夏らしい音の重なりだった。
「体調は大丈夫そうか?」
悠馬が静かに尋ねてくる。
「うん、だいぶ楽になった」
そう答えてから、オレは疑問に思ったことを口にした。
「でも、どうして悠馬があの渡り廊下にいたんだ? サッカー部の練習中だったんじゃないの?」
悠馬は少し困ったような顔をしてから答えた。
「お前が渡り廊下でしゃがみ込んでいることに、他のサッカー部の部員が気がついて……周囲が騒がしくなったことで俺も気がついた」
そして、真剣な表情でオレを見つめる。
「どうしてあんなところで倒れていたんだ?」
その問いかけに、オレは咄嗟にいつもの笑顔を作った。
「昨日ゲームして寝不足だったからかな……」
でも、その瞬間、悠馬の顔つきが険しくなった。
「湊」
低い声で名前を呼ばれて、オレは身体を硬くする。
「お前、聞かれたくないことがあるとそうやって取り繕う癖があるよな」
その指摘に、オレは言葉を失った。無意識に演技していた自分のことを、悠馬に見抜かれてしまったのだ。
「せめて、俺の前では嘘をついたりするな」
その言葉に、オレの胸がキュッと締め付けられた。今まで何度も、悠馬にそう言われてきた。でも今日ほど、その言葉が心に響いたことはなかった。
深呼吸をして、オレはゆっくりと話し始めた。
「……いま、演劇部に中学時代にお世話になってた田村先輩が来てて」
その名前を口にした瞬間、悠馬が少し顔をしかめるのが分かった。
悠馬は少しの間、何かを考えるような顔をしてから、慎重に口を開いた。
「聞いていいか?」
オレは小さく頷く。
「お前は……そいつのことが好きだったのか?」
その問いかけに、オレは静かに頷いた。
しばらくの間、二人とも何も言わなかった。窓の外からは相変わらず運動部の声が聞こえてくるけれど、保健室の中は時間が止まったような静寂に包まれている。
オレは静かに続けた。
「あの時の自分は、まだ自分の性的指向とかそういうのがよく分かってなくて……最初はただ、カッコいい年上の先輩に憧れる気持ちが強かった」
悠馬は口を挟まず、隣で静かに聞いている。
「演劇部で演技指導してくれたんだけど、オレの演技のことすごく褒めてくれるし、なんとなく他の人より優しくしてくれている気がして……気がついたら先輩のことにのめり込んでいた。それがたぶん恋愛的な意味での好意であることに気づいたのは、先輩に会ってから半年ぐらい経った後だった」
そこまで話して、オレは自嘲的に笑った。
「それで、オレは先輩に告白した。笑っちゃうだろ、中学生のガキが、大学生に告白するなんて。本当だったら軽くあしらわれて終わるはずだったんだろうけど……どういう訳か、先輩はオレの告白にOKを返してくれた」
悠馬の表情が変わった。明らかに衝撃を受けているような顔で、小さく呟く。
「……そうなのか」
オレは自嘲的な表情を浮かべて続けた。
「オレは先輩から返事をもらえたことにすごく喜んだ。単純だった……先輩がどうして年下のガキの告白を受けてくれたかなんて、深く考えなかった」
その様子を見て、悠馬は心配そうな顔つきになった。
「……何かあったのか?」
オレは首を振った。詳細を語る気にはなれない。
「フラれただけだよ。はなからオレは先輩に相手にされてなかったんだ」
悠馬は詳細を聞きたそうな顔をしていたけれど、それ以上は聞いてこなかった。その優しさが、オレには痛いほど伝わってきた。
一方で、オレは自分の弱さに幻滅していた。悠馬に好きだと告白しながら、田村先輩との間にあった出来事を彼にきちんと説明できずにいる。
その時、保健室のドアが開いた。
「あら、どうしたの?」
明るい声と共に、養護教諭の先生が入ってきた。40代くらいの優しそうな先生で、生徒たちからも慕われている。
「貴方が彼をここまで運んでくれたのね」
先生は悠馬に向かってお礼を言うと、オレの方に向き直った。
「どんな症状だったの? めまい? それとも気持ち悪くなったのかしら」
先生の質問に、オレは正直に答えた。息が苦しくなって、立っていられなくなったこと。意識が朦朧としたこと。
「そうね……おそらく過呼吸を起こしたのでしょうね。ストレスが原因のことが多いのよ」
先生はオレの脈を取ったり、体温を測ったりして症状を確認してくれた。
「しばらくここで休んで、体調がよくなったら帰っても大丈夫よ。心配なら保護者の方を呼びましょうか?」
その問いかけに、悠馬が答えた。
「自分が彼の家の近所なので、彼を送っていきます」
「それなら大丈夫そうね」
先生はそう言って、保健室から出ていった。
残された二人。しばらく無言の時間が続いた。風がカーテンを揺らして、セミの声が遠くから聞こえてくる。
悠馬がぽそりと口を開いた。
「合宿に行くつもりなのか?」
その問いかけに、オレは少し迷いながら答えた。
「田村先輩には会いたくないけど……でも引っ越し前の最後の演劇部の活動になりそうだし、後輩にも絶対来てって言われているから……行くつもり」
すると、悠馬は意外なことを言った。
「それは、俺も参加できるのか?」
オレは驚いて悠馬を見つめた。
「でも、サッカー部の練習があるんじゃないの?」
「夏休みのその時期は熱中症対策で練習がほとんどない」
悠馬の説明に、オレは少し考えてから答えた。
「演劇部の合宿は、田村先輩のように外部からの応援という形で部員以外が参加するのも珍しくないから……たぶん大丈夫だと思う。先輩にちょっと尋ねておく」
「わかった」
悠馬はそう答えた。
またしばらく無言の時間が流れた。悠馬が聞きづらそうに口を開く。
「お前は、まだその先輩のことが──」
でも、その続きは途切れてしまった。
その時、学校のチャイムが鳴った。下校の時間を告げる放送が校内に流れる。
「そろそろ帰るぞ。歩けそうか?」
悠馬の問いかけに、オレは頷いた。
「大丈夫」
保健室を出ると、廊下にはもう夕日が差し込んでいた。オレンジ色の光が廊下の向こうまで続いていて、まるで光の道みたいに見える。窓の外では、校庭の木々が夕風に揺れていた。
