ダメ元で親友に告白したその後の話

 夏休み直前のの演劇部の部室は、いつにも増して慌ただしかった。

 大会まで残り少ない時間を意識してか、部員たちは普段よりも集中して練習に取り組んでいる。三年生の佐藤先輩を中心に、主要キャストが台本を手に真剣な表情で台詞の読み合わせをしている。先輩はいつものように穏やかな口調で、でも的確に他の部員にアドバイスを送っていた。

「そのシーンはもう少し感情を込めて。でも焦らなくていいからね、自分のペースで頑張っていこう」

 佐藤先輩の優しい指導を聞いていると、安心できる。この人についていけば大丈夫だという信頼感があった。

 その横では、舞台美術担当の二年生が大道具の最終チェックをしていた。照明係の一年生は、ライトの角度を細かく調整している。

 オレは部室の隅で、そんなみんなの様子をぼんやりと眺めていた。

 昨日、引っ越しのことを部員たちに話してからというもの、なんとなく自分だけがその輪から外れているような感覚があった。別に誰かがオレを仲間外れにしているわけじゃない。むしろ、みんなオレを気遣ってくれている。でも……どうしても、浮いている自分を意識せざるを得なかった。

「湊先輩、せっかくなので夏休みの強化合宿に来てください!」

 山田がキラキラした目でオレに頼み込んできたのは、昨日のことだった。

「最後の夏なんですから、絶対に参加してほしいです!」

 その言葉に、オレは苦笑いしながら頷いた。確かに、最後の夏だ。みんなと過ごせる時間も、もうそれほど残っていない。

「分かった、参加するよ」

 そう答えると、山田は嬉しそうに手を叩いてくれた。

 でも今、みんなの練習風景を見ていると、オレはなんだか手持無沙汰になってしまう。もう劇の役は降りることになったから、練習に参加することもない。かといって、ただ見ているだけというのも、なんとなく居心地が悪い。

「佐藤先輩、そのシーンはもう少し感情を抑えて台詞を言ったほうがいいと思います」

 練習を見ながら、オレは気がついたことをコメントしてみる。みんな、一応オレの意見を聞いてくれるけれど……なんだか申し訳ない気持ちになった。オレはもう、この舞台には関係ない人間なのに。

 引っ越すって、こういうことなんだな。

 今まで演劇部で頑張ってきたけれど、転校したら今まで自分が築き上げてきたものは全部消えてしまう。陸上部とか水泳部みたいな個人競技の部活だったら、記録は残るかもしれない。でも演劇部は部員全員で一つの作品を作り上げる。オレがいなくなっても、舞台は完成する。きっと、オレがいた痕跡なんて、誰の記憶にも残らないだろう。

 部員たちとの交流も、たぶん、転校して距離が離れれば自然と消えてしまうんだろうな。

 学校生活の付き合いなんて、所詮そういうものだ。みんな忙しいし、新しい環境で新しい友達ができれば、わざわざ遠くにいる昔の友達と連絡を取り続けることもないだろう。

 少し冷めた気持ちで、オレはそんなことを考えていた。

 その時だった。

「久しぶりだね、元気だった?」

 後ろから声をかけられて、オレは何気なく振り返った。

 そして、その瞬間、全身の血が逆流したような感覚に襲われた。

 そこに立っていたのは……田村慎也先輩だった。

「あ……」

 声にならない声が喉から漏れた。心臓が激しく鼓動を始める。手のひらに、一気に汗がにじんできた。

 田村先輩は、相変わらず爽やかな笑顔を浮かべていた。大学三年生になった今でも、変わらずに格好良い。茶色がかった黒髪は軽くパーマがかかっていて、知的で洗練された印象を与えている。白いシャツにベージュのチノパンという、シンプルだけどセンスの良い服装をしていた。

 中学生だった頃のオレが憧れた、大人の男性の魅力がそのままそこにあった。でも同時に、胸の奥に重い何かが沈んでいくのを感じた。

 時間が止まったような感覚の中で、オレは彼を見つめていた。やっぱり格好良いな、と思ってしまう自分がいた。昔と変わらない、優しそうな笑顔。整った顔立ち。大学生らしい落ち着いた雰囲気。

 でも……同時に、胸の奥が苦しくなった。この人は、オレにとって特別な存在だった。憧れの先輩で、初恋の人で、そして……オレを深く傷つけた人でもある。

「田村さん」

 その時、佐藤先輩がやってきた。

「顧問の先生に頼んで連絡を取らせてもらったんです。大会までの間、演技指導をお願いできるということで……」
「ああ、もちろん。後輩たちの役に立てるなら、喜んで協力させてもらうよ」

 田村先輩は佐藤先輩に向かって、穏やかに答えた。その声は、昔と変わらずに優しくて、丁寧だった。でもオレには、その優しさが本物なのか偽物なのか、もう分からなかった。

 オレは動揺で、うまく声が出なかった。なんで、よりによって今なんだ……。

「湊くん」

 田村先輩がオレの方を向いた。

「聞いたよ、引っ越しするんだって?」

 その問いかけに、オレはなんとか返事をしようと努めた。

「は、はい……」

 かすれた声でやっと答える。田村先輩は、そんなオレの様子を特に気にする様子もなく、話を続けた。

「そうか、それは残念だね。でも最後の夏休みだし、思い出をたくさん作らなきゃね」

 そう言って、彼は人懐っこい笑顔を向けてくる。

 昔と変わらない、あの優しい笑顔。でもオレにはもう、その笑顔の裏にある本心が分からない。本当に優しいのか、それとも何か別の思惑があるのか。

「僕も夏休みの強化合宿に参加することになったんだ。君も来るよね?」

 その質問に、オレは返事に困った。山田に参加すると言ったばかりだけど……田村先輩も来るなんて聞いてない。

「湊先輩も来てくれますよね!」

 その時、山田が駆け寄ってきた。

「最後の夏なんですから、絶対参加してください! あ、田村先輩もいらっしゃるなら、もっと楽しくなりますね!」

 キラキラした目で頼み込まれて、もう断ることはできなくなった。

「……はい、参加します」

 小さな声で答えると、田村先輩は嬉しそうに笑った。

「それなら良かった。久しぶりに君とも話せるし、楽しみだな」

 その笑顔に、オレの胸はますます苦しくなった。

「そういえば」

 田村先輩は、ふと何かを思い出したような表情を浮かべた。

「湊くん、ちょっとこっちで話したいことがあるんだ」

 その言葉に、オレの心臓は止まりそうになった。

「え……」
「すぐに済むから。ちょっとだけ、いいかな?」

 逃れることはできなかった。オレは緊張しながら、田村先輩についていく。

 部室を出ると、田村先輩は中庭の方へ向かった。校舎の裏手にある小さな中庭は、普段はあまり人が来ない静かな場所だ。夏の陽射しが青々とした芝生を照らしていて、セミの声が響いている。木陰にはベンチが一つあって、その向こうには小さな花壇が作られていた。ひまわりの花が元気よく咲いていて、夏の訪れを感じさせる。

 誰もいない。完全に二人きりだ。

 田村先輩は、ベンチの前で立ち止まった。

「湊くん」

 振り返った彼の表情は、真剣だった。

「どうして二年前、急に僕のラインに返事をしてくれなくなったの?」

 その質問に、オレは何も答えることができなかった。ただ、下を向くことしかできない。

「君には好かれているような気がしていたし、僕も君のことが気に入っていた」

 田村先輩の声は、とても優しかった。

「なのに一方的に連絡が途絶えちゃったから、少し心配していたんだよ?」

 その言葉と表情は、本当にやさし気で……オレは困惑した。

 心配していた? 気に入っていた? それって……本当なの?

 でも、その時だった。

『──マジで面倒だよ。ガキに本気で好かれちゃってさ』

 かつて聞いてしまった、田村先輩の本心がフラッシュバックした。

 あの時の、冷たい声。今の優しい表情とは正反対の、冷酷な本音。

 頭がガンガンと痛くなってきた。でも、オレは必死に笑顔を取り繕う。

 嘘つき、嘘つき、嘘つき。

 心の中で、何度もその言葉を繰り返しながら、オレは演技をした。

「すみません、当時はプライベートで色々とあって……先輩に返事をするのを、うっかり忘れちゃって」

 必死に当たり障りのない言葉を探す。

「後からそのことに気づいたんですけど、返事を出すにはタイミングを逃しちゃって……既読無視みたいになっちゃって、すみません」

 田村先輩は、それを聞いて笑った。

「それなら良かった。せっかくだし、また仲良くしよう」

 そう言って、彼はオレの肩に手を置いた。

「僕は今も君と仲良くしたいと思っているから」

 その瞬間、オレは息ができなくなった。胸が締め付けられるような感覚に襲われる。

「あ、そ、そういえば母からおつかい頼まれてたから、もう帰らなきゃ!」

 オレは慌てて部室に戻ると、荷物を掴んで飛び出した。

「あ、湊くん!」

 田村先輩の声が後ろから聞こえたけれど、振り返ることはできなかった。

 廊下を走る。息が荒くなってくる。心臓がバクバクと音を立てて、胸が痛い。

 どんどんと息ができなくなってきた。空気を吸っても吸っても、肺に入ってこないような感覚に陥ってしまう。

 渡り廊下に差し掛かったところで、とうとうオレはその場にへたり込んでしまった。

 なんで……なんで、こんなことになっちゃうんだ。

 弱い自分を誰にも悟られたくない。それなのに、ただ先輩に会っただけで動けなくなってしまった自分に、オレは幻滅した。

 オレって、こんなに弱い人間だったのか。

 目の前がぼやけてきて、世界がゆらゆらと揺れている。

 そのうち、だんだんと視界が暗くなってきた。

 あ。これは本格的にマズイ。そう思った時には、オレの意識はふっと途絶えていた。