ダメ元で親友に告白したその後の話

 使わなくなった美術室を改装した演劇部の部室は、いつも独特の空気が漂っている。

 古い机の上には色とりどりの衣装が入った段ボール箱が積み重ねられ、壁際には舞台で使った大道具や小道具がところ狭しと並んでいた。ペンキの匂いと埃っぽい空気、そして衣装の布の匂いが混じり合って、なんだか秘密基地みたいな雰囲気だ。

「お疲れ様です!」

 一年生の山田が元気よく部室に飛び込んできた。短めに刈った髪型は最近流行りのスタイルで、制服のポケットからのぞくスマホケースは、今SNSで流行っているキャラのマスコットがついている。彼はいつも流行に敏感で、休み時間にはスマホで動画を見ていることが多い。

「昨日の配信動画、見ました? あの俳優さん、感情こもっててマジかっこよかったっすよね!」

 山田が目を輝かせながらオレに話しかけてくる。彼が演劇部に入ったきっかけも、動画配信で見た舞台の映像に感動したからだった。最初は「なんとなくカッコよさそう」というミーハーな気持ちで入部したのだが、いざ練習が始まると人一倍真剣に取り組むようになった。

「山田、今日も熱心だね」

 オレは段ボール箱から小道具を取り出しながら、微笑ましく答えた。山田のような後輩がいると、部活も活気づく。

「だって、せっかく入ったんですもん! 先輩たちみたいに上手くなりたいです」

 そんな山田の様子を見て、三年生の佐藤先輩が穏やかな笑顔を浮かべながら近づいてきた。

「山田、その調子で頑張れば必ず上達するよ」

 佐藤先輩は演劇部の部長で、いつも部員たちのことをよく見ている。長身で落ち着いた雰囲気があるけれど、怒ったり厳しくしたりすることはほとんどない。むしろ、部員一人一人の個性を大切にして、それぞれのペースで成長できるよう配慮してくれる人だった。

「佐藤先輩の演技、本当にすごいっスよね! あの主役の長~いセリフ、全部暗記してるんですもん」

 山田が尊敬の眼差しで先輩を見上げる。

「まあ、三年間やってればね」

 佐藤先輩は謙遜しながら答えると、オレの方を見た。

「日下部も演技に磨きがかかってきたよ。今度の大会でも活躍してくれそうだ」

 そんな何気ない会話をしているとき、オレは急に胸の奥に重いものを感じた。今度の大会について。オレはもう、それに参加することができない。

 引っ越しのことを、みんなにまだ話していなかった。

 どう切り出せばいいのか、ずっと迷っていた。でも、もうこれ以上先延ばしにするわけにはいかない。練習計画にも関わってくることだし、みんなに迷惑をかけてしまう。

 オレは段ボール箱を置いて、ゆっくりと振り返った。部室には山田と佐藤先輩、それに他の部員が数人いる。みんな、それぞれの作業に集中している。いつもの、平和な放課後の風景だった。

「あの……」

 オレが口を開くと、山田が顔を上げた。

「どうしたんですか、先輩?」

 山田の無邪気な笑顔を見ていると、余計に言いづらくなる。でも、言わなければならない。

「実は……みんなに話しておかなきゃいけないことがあるんだ」

 その言葉に、部室の空気が少し変わった。他の部員たちも手を止めて、オレの方を向く。佐藤先輩も、いつもの穏やかな表情のまま、じっとオレを見つめている。

 オレは深呼吸をして、続けた。

「オレ……夏休み明けぐらいに、引っ越すことになって」

 その瞬間、部室が静まり返った。

 山田の表情が、みるみる驚きに変わっていく。目を丸くして、口をぽかんと開けたまま、しばらく何も言えずにいる。

「え……引っ越すって……転校するんですか? いつ?」
「夏休み明けぐらいになりそうなんだ。母さんが再婚することになって、相手の人の仕事の関係で引っ越すことになって」

 オレの説明を聞いて、山田は明らかにショックを受けている様子だった。肩を落として、下を向いてしまう。そんな山田を見ていると、オレの胸も痛くなってくる。

「そんな……寂しいです。すごく寂しいです」

 山田がか細い声で呟いた。そして、顔を上げてオレを見つめる。

「じゃあ、今やってる演劇大会には先輩、出られなくなるんですか?」

 その質問が、オレの胸に一番突き刺さった。全国高等学校演劇大会。演劇部のみんなで春から必死に練習を続けてきた舞台だ。劇の主役は三年生に割り振られているから、オレは端役と大道具係を兼任している。オレが抜けることで大きな混乱はないだろうけど……でも、みんなと一緒に作り上げてきた舞台を最後まで見届けられないのは、やっぱり寂しい。

「そうなるね……。ごめん」

 オレが小さく謝ると、山田は慌てたように首を振った。

「先輩が謝ることじゃないですよ! でも……でも、寂しいです。先輩がいなくなっちゃうなんて」

 そんな山田の言葉に、オレも同じ気持ちだった。中途半端に抜けることになって、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 その時、佐藤先輩がゆっくりとオレたちの方にやってきた。

「日下部、転校するって本当か?」

 先輩の声は、いつものように穏やかだったけれど、どこか寂しそうな響きがあった。

「はい……すみません」

 オレが申し訳なさそうに答えると、佐藤先輩は少し困ったような顔をした。でも、すぐにいつもの優しい表情に戻る。

「謝ることはないよ。家庭の事情なら仕方がない」

 そして、温かい目でオレを見つめながら続けた。

「日下部は練習熱心だったし、演技力もあったから残念だな。でも、新しい学校でもきっと活躍できるよ」

 その言葉に、オレの胸が温かくなった。先輩にそんなふうに言ってもらえるなんて思ってもみなかった。演技力がある、なんて言われると、やっぱり嬉しい。

「ありがとうございます」

 オレが礼を言うと、佐藤先輩は山田の肩にそっと手を置いた。

「山田も、そんなに落ち込むな。日下部が困っているだろう」

 先輩の優しい言葉に、山田はしぶしぶながら頷いた。

 そして、改めて普段の練習が始まる。演劇大会が近いこともあり、部員たちのやる気は高まっている。ただ、練習はいまいちうまくいっていなかった。演技指導ができる上級生が少なく、全体の演出や細かい演技の詰めが甘いままになっているのだ。これまでは佐藤先輩が見てくれていたけれど、最近は進路準備であまり練習に顔を出せないことも多くなっていた。

「……そういえば、日下部って中学の時も演劇部だったよな?」

  佐藤先輩の問いかけに、オレは頷いた。オレの通っている高校と中学は隣同士にあって、生徒の半分くらいはそのまま進学してくる。だから佐藤先輩も、オレが中学時代に演劇部だったことを知っているのだろう。

「はい。……途中で、しばらく行かなくなってた時期もありましたけど」

 そう答えると、佐藤先輩は「ああ」と頷いた。オレが部活を休んでいたことを覚えていたのか。それはちょっと意外だった。

 少し間を置いて、先輩がふと思い出したように言った。

「中学の演劇部に、たまに演技指導に来てた大学生のOBがいたよな。……確か、田村って名前だったか」

 その名前を聞いた瞬間、オレの全身に電気が走ったような感覚があった。田村……田村慎也先輩。まさか、ここでその名前を聞くことになるなんて。

 緊張で口が乾くのを感じる。手のひらに汗がにじんできた。

「田村先輩ってどんな人だったんですか?」

 山田が興味深そうに尋ねてくる。

「優しくて演技もうまい先輩だったよ。確か今ではどこかの劇団に入って活動してたんじゃないかな」

 佐藤先輩は懐かしそうに話している。

「そういえば顧問の先生が連絡先を知ってるらしいから、こんどまた演技指導してもらえないか頼んでみようか」
「それいいですね! 絶対お願いしてください!」

 山田が目を輝かせて答える。二人の会話が盛り上がっているのを聞きながら、オレの中では全然違う感情が渦巻いていた。

 田村先輩……。

 あの人の顔が脳裏によみがえってくる。爽やかで優しい笑顔。でも、その笑顔の裏に隠されていた本心。オレを利用しようとしていただけの下心。

 急に気持ち悪くなってきた。胸がむかむかして、呼吸が浅くなる。手が微かに震えているのが分かる。なんで今、あの人の名前を聞かなくちゃいけないんだ。

「湊先輩、大丈夫ですか?」

 山田が心配そうにオレを見つめている。きっと顔色が悪くなってるんだろう。山田の心配そうな表情を見ると、余計に申し訳ない気持ちになった。

 オレは必死に笑顔を作った。いつもの、みんなを安心させるための笑顔だ。

「大丈夫だよ。でも今日はちょっと先に帰るわ」
「え、でも……」

 山田が何か言いかけたけれど、オレはもうその場にいられなかった。

「お疲れ様でした」

 そう言って、部室を出る。廊下に出ると、速足で歩き始めた。早く、早くここから離れたい。田村先輩という名前から、あの記憶から逃げたい。

 廊下の窓にふと自分の顔が映った。いつの間にか張り付いた笑顔が、まだそこにある。気持ち悪い。なんで、オレはいつもこうやって笑ってるんだろう。

 ……そういえばオレ、いつからかこうやって自分の気持ちを偽ることが増えたな。

 自分の感情を偽る演技なら得意だ。みんながオレに笑っていてほしいなら、オレはいくらでも笑える。自分が笑っていればうまくいくんだったら、オレはいくらでも演技する。それで丸く収まるなら、それでいい。

 でも、今は辛い。

 窓の外を眺めると、グラウンドでサッカー部が練習をしているのが見えた。ユニフォーム姿の選手たちが駆け回っている。その中に、見慣れた背番号がある。

 悠馬だ。

 無性に彼に会いたい気持ちが込み上げてきた。今すぐにでも、悠馬の隣にいたい。彼の前でなら、こんな作り笑いなんてしなくてもいいのに。

 じっと悠馬の姿を見つめていると、ふと彼がこちらを見たような気がした。でも、すぐに練習を続けている。きっと気のせいだろう。

 オレは下駄箱に向かって歩き始めた。とりあえず家に帰ろう。今日はもう、誰とも話したくない気分だった。

 校門に向かって歩いていると、後ろから声をかけられた。

「湊」

 振り返ると、悠馬がそこにいた。ユニフォームを着たままで、額に汗をかいている。部活の途中だということは見てすぐに分かった。

「どうしてここに? 部活の練習中だったんじゃないのか」
「お前が廊下で俺のことを見てるのに気がついたから」

 えっ、と思った。やっぱり気のせいじゃなかったんだ。

「お前がなんか辛そうな顔をしてた気がして、見に来た」

 その言葉に、オレは驚いた。悠馬が、オレが辛そうだということに気がついてくれていたなんて。練習中なのに、わざわざ見に来てくれたなんて。

 胸の奥が、じんわりと温かくなった。でも、それを表情に出すわけにはいかない。

「大丈夫だよ。お前は練習に戻れ」

 悠馬はまだ心配そうな顔でオレを見つめている。

「大丈夫か?」
「大丈夫」

 しばらくの沈黙の後、悠馬が口を開いた。

「6時に、いつもの場所で待ってろ」
「……わかった」

 悠馬は走ってサッカー部の練習に戻っていく。その背中を見送りながら、オレは胸の奥につっかえていた何かが、いつの間にかなくなっていることに気が付いた。