雨が降っている。

 窓の外は重たげな雲に覆われ、アスファルトには細かい波紋がいくつも広がっている。梅雨特有の湿気が教室の中に立ちこめていて、どことなく息苦しい。教室内はいつもより薄暗く、天井の蛍光灯が無機質に白く輝いていた。

 期末テストの数学の問題用紙を見つめながら、オレは額に浮かんだ汗を拭った。湿度が高いせいで肌がちょっとべたつく感じがして、集中力が削がれてしまう。

 問題用紙の最後の問題に取り掛かろうとした時、チャイムが鳴った。

「はい、そこまで」

 先生の声が教室に響き、空気が一気にほどける。誰かが大きく息を吐いたのを皮切りに、教室全体がどっと緩んだ雰囲気に包まれる。オレもペンを置き、椅子にもたれかかる。緊張の糸がぷつりと切れたようだった。

「お疲れ様ー!」

 間瀬(ませ)の声が教室に響く。いつものように人懐っこい笑顔で、オレの席にやってきた。

 間瀬は中学からの友達で、とにかく明るくてノリの良い奴だ。人との距離感を縮めるのがうまくて、誰とでもすぐに仲良くなれる。高校に入ってからも、クラスのムードメーカー的な存在としてうまく立ち回っていた。

「湊、期末終わったしさ、カラオケでも行こうぜ!」

 間瀬は机に片手をついて、いつものテンションで話しかけてくる。

「女の子も誘って、パーッと盛り上がろうよ! 俺、もう候補の子たちに声かけてるんだよね」

 いつもの自分だったら、即答で「いいね!」と言っていただろう。でも今日は、なぜか言葉が出てこなかった。視線がちらりと悠馬の方に向いてしまう。

 悠馬は自分の席で、いつものように淡々と筆記用具を片付けていた。でも間瀬の話を聞いていたようで、こちらに顔を向ける。

「久我も一緒に行こうぜ!」

 間瀬は悠馬にも声をかけた。間瀬は悠馬ともそれなりに仲がいい。というより、間瀬は基本的に誰とでも仲良くできるタイプだから、こういう時はいつも一緒に誘ってくれる。

「悠馬は女の子たちにモテるから、カラオケボックスに悠馬がいると場が華やぐんだよな。なー頼むよ、来てくれって!」

 そんなこと言われて照れない男子はいないだろうに、悠馬は相変わらず無表情のままだった。ただ、オレに向かって「どうする?」と問いかけるような視線を送ってくる。

 その目と目が合った瞬間、胸がドクンと鳴った。

 ──先日、オレたちはキスをした。

 自然と、あの日のことがよみがえる。キスのあと、いつものようにゲームをしたり、漫画を読んだりして過ごした。でも、悠馬の視線を感じるたび、頭の中が真っ白になって、コントローラーを持つ手が震えそうになった。隣に座られるたび、心臓がドキドキした。

 そして今、また同じ──いや、それ以上に強く、何かを求めるような視線を感じている。無言のまま、オレに選択を委ねてくる、そんな目だ。

「ごめん、今日は悠馬と約束があるから」

 気がつくと、そんな言葉が口から出ていた。

「えー、そうなの?」

 間瀬は少し残念そうな顔をしたけれど、すぐに笑顔に戻った。

「まあ、しょうがないか。じゃあ今度は絶対行こうな。カラオケで俺の十八番、聞かせてやるから!」

 楽しそうに笑いながら、軽く手を振る。だけど、その後につけ加えられた間瀬の一言が、胸に引っかかった。

「でもさ、いくら仲いいからって、二人でばっかりつるんでたら彼女できねーぞ? 特に湊、お前なんか顔悪くないんだから、もっと積極的にならないと損だって!」

 彼女……か。

 うまく言い返す言葉が見つからなくて黙っていると、椅子が動く音がして、悠馬が立ち上がった。

「帰るぞ」

 そう言って、悠馬はオレの腕を掴んで教室から引っ張り出す。

「え、ちょっと待てよ!」

 間瀬が慌てて声をかけてくる。

「今度の土曜日はどう? 土曜なら部活もないし、一日中遊べるだろ?」
「考えとく!」

 オレは振り返りながら答えて、悠馬に引っ張られるまま教室を出た。

 教室を出ると、廊下はひんやりとしていた。靴箱で靴を履き替えて、昇降口に向かう。外の雨音が次第に大きくなってくる。

 傘立てから傘を取り出して、外に出た。雨が降っているから、悠馬はオレの前を歩いている。

 降りしきる雨の下、悠馬は何も言わずにオレの前を歩いていく。いつもの帰り道が、雨のせいで全然違って見える。車道を走る車のタイヤが水を跳ね上げる音、雨樋から流れ落ちる雨水の音、傘に当たる雨粒の音……普段は気にも留めない音たちが、今日はやけに耳に残る。庭先の花壇では、紫陽花が雨を受けてより一層鮮やかに咲いていた。

「間瀬の誘いを断っちゃってよかったのか?」

 オレは悠馬の背中に向かって尋ねた。

「俺はお前と過ごす方がいい」

 悠馬は傘をさしているから前を向いたまま答えた。

「二人きりで過ごしたい」

 その言葉に、オレは驚いた。悠馬がそんなことを言うなんて。

「お前はどうだ?」

 今度は悠馬の方から尋ねられた。

「そりゃ、オレもお前と二人で過ごしたいよ。だって……オレ、お前のことが好きだったわけだし」
「そうか」

 悠馬はそれだけ言って、特に返事はしなかった。

 それからしばらく、二人とも無言で歩いた。悠馬は昔からあまり口数の多い方じゃないから仕方ないんだけど、もう少し何か話してほしいと思う。こういう時、ムードメーカーの間瀬がいれば、いろいろと話題を盛り上げてくれるんだけどなぁ……。

 雨に濡れた道路が光を反射して、街灯がぼんやりと滲んで見える。しっとりとした空気感が、なんだか特別な時間を過ごしているような気分にさせてくれる気がした。

「今日は俺の家に来るか? 親が出かけてて夜まで帰ってこないから」

 悠馬が唐突に振り返って尋ねた。

 悠馬の家に行くのは今まで何度もあったけれど、告白してからは初めてだ。それを思うと、急に緊張してきた。親がいないって聞くと、なおさら意識してしまう。二人きりで過ごすことに。

「……うん」

 オレは小さく悠馬に返事をした。