家までの道のりの間、オレは何度も背後を振り返って後ろを確認した。悠馬はオレの後ろを、黙々と自転車を押しながらついてきている。

 いつもならそう遠くない帰り道なのに、今日は妙に長く感じられた。

 オレの家は、駅から少し離れた住宅街にある2階建ての賃貸アパートだ。母さんと二人暮らしには十分だけど、決して広い家とは言えない。

 悠馬の家はオレの家から徒歩5分もかからない場所にあって、お互いしょっちゅう行き来していた。特に平日の昼間は母さんが仕事で家にいないから、悠馬がオレの家に来ることが多い。

 アパートの自転車置き場に、悠馬が当然のように自転車を停める。その光景はいつもと何も変わらない。でも、告白した後のことをあまり考えてなかったオレは、どうすればいいのか分からなくて困惑していた。

 悠馬は「恋人」になることを承諾してくれたけど、それってつまり……何? 自分で告白しておいて何だが、今までと何が変わるのだろうか。

「……とりあえず、オレの部屋に行っててくれ」

 玄関で靴を脱ぎながら、そう告げた。悠馬はわかったと告げると、勝手知ったる他人の家とばかりにさっさと奥にあるオレの部屋に向かってしまう。その後ろ姿を見送りながら、オレは逃げるようにキッチンへ向かった。

 作り置きの麦茶を取り出して、コップに注ぐ。こんなことただの時間稼ぎだって自分でも分かってる。それでも、この麦茶を入れるほんの少しの時間で、なんとか冷静になろうと努めた。

 でも頭の中はぐるぐると同じことを考え続けている。どうして悠馬はオレの告白を受け入れてくれたんだろう? 彼がオレのことをついさっきまで友達だと思ってたのは間違いない。そんな奴から告白されたら、普通すぐに付き合うなんて言うだろうか?

 悠馬がほぼ即答で「わかった」と答えたことを思い出す。なんとなく、彼はオレの告白についてその意味をまだよく分かっていないのかもしれない。

 麦茶に製氷皿から取った氷を入れながら、オレはさらに考え込んだ。

 でも……彼はさっき「キスしてみるか」なんて言ってオレと一緒にここまで来た。ということは、オレの告白が友情以上の意味合いだってわかってるってことだよな?

「……湊、どうした?」

 奥の部屋から悠馬の声が聞こえてきて、ハッとする。しまった。うっかり長い間、考え込んでしまっていたようだ。

「今行く!」

 慌てて返事をして、意を決して麦茶を運ぶ。

 オレの部屋は、テレビと机とベッドでほぼ埋まっているような狭い部屋だ。悠馬はいつものようにテレビの前に置いてある座椅子に座っている。オレは悠馬がいるときは決まってベッドの上に座るのが定位置になっていた。いつもなら何も考えずにそうしていたのに、今日は妙に意識してしまう。

 机の上に麦茶を置いて、いつものようにベッドの上に座る。悠馬はありがとうと言いながら麦茶を受け取り、飲み始めた。

「……さっきのことだけど」

  声が震えそうになるのを、必死で抑えながら言葉を切り出す。

「お前、さっきの告白にすんなり『わかった』って答えてたけど……どういうつもりなんだ?」

 悠馬が麦茶の入ったグラスを持ったまま、動きを止めた。氷がカランと鳴る音が、静かな部屋に響く。

「……自分で言うのも変だけど、いきなり友達に告白されたら、普通はもっと戸惑うもんじゃないか? それとも、まだ冗談だと思ってる?」

 しばらくの沈黙のあと、悠馬が静かに口を開いた。

「湊がそういう冗談を言う奴じゃないってことくらい、わかってる」

 その言葉に、思わず肩の力が抜ける。少しだけ、胸の奥の張りつめたものが和らいだ。

 でも、続く悠馬の言葉にオレは息が止まった。

「それに……なんとなくだけど、お前の恋愛対象は男も入るんじゃないかって、前から思ってた」
「……は?」

 思わず間抜けな声が漏れる。いつの話だ? どうしてそんなことを——。

「中学のころさ。演劇部に来てたOBの先輩と、妙に仲良かったろ。あのとき、なんとなくそう思った」

 言葉を失う。

 オレは言葉を失った。確かに中学の時、演劇部に指導に来ていた大学生の先輩に憧れに似た恋心を抱いていたことがある。それは失恋という形で終わって、オレの心に小さな傷を残している。でも、そのことを友達だった悠馬に伝えたことは一切ない。

「……気づいてたのかよ」

 ようやく絞り出すように言った声が、自分でも情けなく聞こえた。けれど、悠馬は茶化すこともなく、真剣なまなざしで言葉を重ねた。

「あの時、お前はなんとなく辛そうだった。何があったかまでは知らないが……お前がずっと悲しそうにしているのは見ていて辛かった。あの時、俺ならお前を悲しませないのにって思った」

 その言葉が胸に届いた瞬間——知られたくなかった過去に、誰かがそっと触れたような、そんな不思議な感覚がオレの中に広がった。

「だから、お前の告白を受けた」

 悠馬の言葉が、まっすぐに降りてくる。

「誰かと付き合うとか、しかも幼馴染のお前となんて、正直これまで考えたことなかった。だから、どうすればいいかもまだ全然わかってない。でも……冗談で受けたわけじゃない。ふざけてるつもりも、一切ない。だから安心しろ」

 悠馬にそんなことを言われながら見つめられて、オレはどんどん緊張していく。麦茶を手に持ったまま、二の句が告げなくなってしまった。

 突然、悠馬がオレの座っているベッドの隣にやってきた。いきなりで少し逃げ腰になるオレを捕まえて、じっと見つめる。

「……少しずつ、恋人らしいことをしていきたいんだけど。……いいか?」
「え……」
「さっき途中になった、キスの続きをしたい」

 言葉の意味が頭に届いた瞬間、顔に一気に熱がのぼった。

「でも……いきなりキスとかやっぱり早くないか?」

 オレの言葉に、悠馬は少し考え込むような顔をした。

「俺たち、付き合い長いだろ? 一緒に出かけたり、遊んだりするだけじゃ、たぶん今までと変わらない。だったら……キスすれば、ちゃんと恋人になった実感が湧くんじゃないかって思って」

 その言葉には、どこか彼なりの真剣さと不器用な優しさがあった。確かに、今までと同じ時間を過ごしていても、きっと気持ちは追いつかない。それに──キスが怖いわけじゃない。むしろ、興味がないと言えば嘘になる。

「……ダメじゃないけど」

 そう答えると、悠馬はどこか安心したような顔をした。そして、オレの方へ身体を向けて、そっと手を頬に添えてくる。その手が、少しだけ震えている気がした。

「やっぱ、少し緊張するな……」

 お互いに笑いながら、悠馬がそっと顔を近づけてくる。瞳を閉じて、ゆっくりと唇が触れ合った。

 はじめてのキスは、お互いちょっとおっかなびっくりだった。 触れるだけのようなキスだったけど、それでも温かくて、柔らかくて——思っていた以上に、優しい感触だった。

「……どうだった?」

 悠馬がキスの感想を尋ねる。

「もう心臓がやばい……」

 オレは緊張しすぎて笑いながら答えた。悠馬が手をオレの胸に当てる。

「本当だ」
「そういうお前は余裕そうね」

 試しにオレも悠馬の胸に手を当ててみると、驚いた。彼も相当心臓が高鳴っている。

「……お前も全然余裕じゃないじゃん」

 二人でその事実に笑った。そして不意に笑いが途切れ、急に部屋の中が静まり返った。時計の秒針の音と、遠くから聞こえる車の音だけが、どこか遠くのほうで響いている。

「……もう一回やってみるか?」

 悠馬が小さな声で尋ねる。少し余裕が出てきたオレは、それに頷いた。

 今度は目を閉じて、もう一度オレたちはキスをした。最初よりも少し慣れて、でもまだぎこちなさが残る。それでも、確実に二人の距離は縮まった気がした。

 唇が離れたあと、互いに何も言わずにしばらく見つめ合う。

 さっきまで当たり前だった悠馬との距離が、もう、当たり前じゃなくなった気がした。