朝の活動室は、昨日とは全く違う雰囲気に包まれていた。
大きな窓から差し込む朝日が、床に敷かれた青いマットを明るく照らしている。外の緑豊かな公園からは、小鳥たちのさえずりが聞こえてきて、セミの声と混じり合って夏らしい音色を奏でていた。朝の空気は昨夜の湿気が抜けて爽やかで、窓から入ってくる風が心地よい。
「おはようございます!」
部員たちの元気な声が活動室に響く。みんな昨夜の肝試しで盛り上がったせいか、普段よりもテンションが高い。山田なんて目をキラキラさせながら、昨夜の謎解きの感想を他の部員に話している。
「はい、皆さん、発声練習を始めますよー!」
佐藤先輩の声で、部員たちが一斉に円になって並んだ。オレも自然とその輪に加わる。昨日の夜、悠馬に本心をさらけ出したせいか、心がとても軽やかだった。
「あーえーいーおーうー」
みんなで声を合わせて発声練習を始める。朝一番の発声は気持ちがいい。お腹から声を出して、身体全体で音を響かせる感覚が心地よかった。
悠馬はオレたちから少し離れた場所で、昨日と同じようにカメラを構えている。でも今朝は、一年生の山田が悠馬の隣にいて、何やらカメラの使い方を説明している様子だった。
「久我先輩、このボタンを押すとズームできるんですよ」
「ああ……そうか」
悠馬の困ったような返事が聞こえてきて、オレは思わずくすっと笑ってしまった。サッカー部ではレギュラーで頼られる存在の悠馬が、機械の操作で一年生に教わっている姿がなんだか微笑ましい。
「湊先輩、何笑ってるんですか?」
隣にいた後輩に突っ込まれて、オレは慌てて発声練習に集中した。
でも時々、悠馬の方をちらりと見てしまう。昨夜、彼に抱きしめられた時の温もりを思い出すと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
発声練習が終わると、いよいよ通し稽古の時間だ。オレは田村先輩と一緒に、演技指導役として部員たちの練習を見ることになっている。
昨日は田村先輩の隣にいるだけで緊張していたけれど、今朝は不思議と冷静でいられた。悠馬に本心を打ち明けて、彼に受け止めてもらえたことで、心の奥にあった重いものが軽くなった気がする。
「おはようございます、田村先輩」
いつものように明るく挨拶すると、田村先輩も穏やかに微笑んだ。
「おはよう、湊くん。今日もよろしくね」
昨日と同じやり取りなのに、オレの中では全然違って感じられた。田村先輩に対する恐怖心は完全には消えていないけれど、それでも昨日ほど動揺することはない。
それも全部、悠馬がいてくれるからだ。
チラリと悠馬の方を見ると、彼は相変わらず真剣な顔でカメラを構えていた。でも山田に操作方法を教わっている姿は、どこか頼りなくて可愛い。普段のクールな悠馬とは違う一面を見られて、なんだか得した気分になる。
「それでは、昨日の続きから練習を始めましょう」
佐藤先輩の声で、通し稽古が始まった。オレは田村先輩と並んで、部員たちの演技を見守る。
今日の練習は昨日よりもスムーズに進んでいる。みんな台詞も覚えてきているし、動きも自然になってきた。特に山田の演技は昨日から格段に上達していて、見ていてこっちまで嬉しくなってくる。
「その表情、とてもいいですね」
田村先輩が山田にアドバイスを送る。その指導内容はやっぱり的確で、オレは改めて感心した。
練習が一段落したところで、昼休憩になった。
「はい、皆さんお疲れ様でした!」
西村先生の声で、部員たちがほっと息をついた。みんな汗をかいているけれど、充実した表情をしている。
オレは悠馬に声をかけようと思って振り返ったけれど、彼の姿が見当たらない。
「あれ? 悠馬はどこに行ったんだろう」
近くにいた山田に尋ねると、彼は手をひらひらと振りながら答えてくれた。
「ああ、久我先輩なら今日の弁当を運ぶのを手伝いに行ってくれましたよ! 力持ちだから助かるって先生が言ってました」
なるほど、確かに適材適所だな。悠馬の体力と筋力があれば、重い弁当の箱も楽々運べるだろう。オレなんかじゃとても無理だ。
そんなことを考えていると、後ろから声をかけられた。
「湊くん」
振り返ると、田村先輩が立っていた。いつもの穏やかな笑顔を浮かべているけれど、どこか真剣な雰囲気もある。
「少し話したいことがあるんだけど、ちょっといいかな?」
その言葉に、オレの心臓がドキッと跳ね上がった。一体何を話したいんだろう。不安が胸の奥を駆け上がってくる。
でも、昨夜の悠馬の言葉を思い出した。
『俺の前では演技をするな。俺はお前の本心が知りたい』
そうだ、オレはもう演技で自分を偽る必要はない。悠馬がオレの本心を受け止めてくれるって言ってくれたんだから。
深呼吸をして、オレは頷いた。
「……はい、大丈夫です」
「ありがとう。それじゃあ、こっちに来てもらえるかな」
田村先輩についていくと、彼は宿泊施設の廊下を歩いて行った。オレたちが寝泊まりしている大部屋とは違う方向に向かっている。
「僕は先生と一緒の部屋に泊まらせてもらっているんだ」
田村先輩が説明しながら、ある部屋の前で足を止めた。
「今は先生は外出中だから、二人で話ができるよ」
そう言って、田村先輩は部屋の襖を開けた。
「どうぞ、入って」
部屋に入ると、畳敷きの六畳ほどの空間が広がっていた。大部屋と同じく畳敷きだけれど、こちらはずっと小さくて落ち着いた雰囲気がある。部屋の真ん中には低いテーブルが置かれていて、少し古い旅館のような趣きだった。窓からは青少年センターの中庭が見えて、緑の木々が風に揺れているのが見える。
田村先輩は小さな冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出すと、紙コップに注いでオレに差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
オレは紙コップを受け取って、テーブルの前に座った。田村先輩はオレの向かい側に座る。
しばらく、お互いに黙ったままお茶を飲んでいた。窓の外から聞こえてくるセミの声だけが、静かな部屋の中に響いている。
田村先輩が口を開いたのは、それから少ししてからだった。
「改めて尋ねたいんだけど」
真剣な表情でオレを見つめながら、田村先輩は続けた。
「どうして二年前、僕との連絡に返事をしなくなったのかな? 確か僕たちはお付き合いをしていたはずだと思っていたけれど……僕の勘違いだったのかな?」
その言葉には心配するような響きと、どこか残念がるような雰囲気があった。オレの胸の奥に、小さな罪悪感が湧き上がってくる。
それが田村先輩の演技だったとしても、連絡を一方的に絶ったのは確かにオレの方だ。
「すみません」
オレは素直に謝った。
「自分が未熟だったんです。自分が先輩とお付き合いするなんて、分不相応だって気づいたんです」
「どうして?」
田村先輩は首をかしげる。
「僕は君のことが好きだったよ」
その言葉に、オレは白々しさを感じてしまった。つい、本音が口から出てしまう。
「先輩がオレのこと、うっとおしいって思ってるの……偶然聞いてしまったんです」
田村先輩の表情が、一瞬だけ変わった。
しばらくの沈黙の後、田村先輩は反省したような顔を見せた。
「……ああ、やっぱりそうだったんだね」
深いため息をついて、彼は続けた。
「君の態度が急に変わったから、もしかしてそうなんじゃないかと思ったんだ。ごめんね、当時のことは本当に僕が悪かった」
田村先輩の声は、確かに申し訳なさそうだった。
「実は……」
田村先輩は言いづらそうに話し始めた。
「僕は演劇を志していて、俳優になりたいって本気で思ってた。でもどんなに頑張ってもオーディションに受からなくて……それなのに、大して努力もしていないような奴らがチャンスを掴んでいくのを見て、嫉妬していたんだ」
表情が苦いものに変わる。
「実力よりコネがものを言う世間に嫌気を感じていたけど、同時に、自分にもそんなコネがあればいいのにとも思っていた。そんな時に君に出会って……芸能人の親を持つ君が、しかも中学生なのに演技が上手いのを見て、正直、嫉妬したんだ」
オレは息を飲んだ。
「君から告白を受けた時、その嫉妬心から……君の持つ芸能界のコネを利用させてもらおうと思って、付き合うことを承諾した。本当にひどいことをしたと思ってる」
そこで田村先輩は、深く頭を下げた。後悔の色を浮かべて、申し訳なさそうな表情を見せる。
でも……。
オレは悠馬と過ごした時間、そして昨夜彼と交わした会話を思い出していた。本心を偽らずに生きることの大切さ。そして、人の嘘を見抜く力も、これまでの経験で身についていた。
田村先輩の表情は確かに反省しているように見える。でも何かが違う。オレは直感的に感じ取った。
この後悔も、演技なんじゃないか。
「先輩」
オレは静かに口を開いた。
「今でも、オレが持つ芸能界のコネを諦めきれずにいるんじゃないですか?」
田村先輩の顔が、わずかに強ばった。
「そんなことは……」
「今でも劇団に所属して俳優を続けているなら、芸能界のコネは欲しいでしょうね。だから今回も、オレがいるって聞いて合宿に参加することにしたんじゃないですか?」
オレの言葉に、田村先輩は黙り込む。その表情は、少し演技が崩れてきていた。
「君のことが好きだって思っていたのは本当だよ」
田村先輩が身を乗り出すようにして、オレの手に自分の手を重ねようとする。
「もし良かったら、また僕たち、やり直せないかな」
その瞬間、オレの全身に恐怖が走った。
「今回のこの合宿、君がいるって聞いて参加を決めたのは確かだ。……君にもう一度会いたかったから」
オレは反射的に手を振り払ってしまった。
「お願いだから避けないで」
田村先輩は振り払われた手を、もう一度掴み直そうとする。
恐怖でオレの身体がすくんだその時──
「これ以上、湊に近づくな!」
怒鳴り声と共に、田村先輩の手がオレの手から引き剥がされた。
気がつくと、悠馬が部屋に入ってきていて、田村先輩の手を引き剥がしてオレを自分の身体に引き寄せていた。
普段は決して見せない悠馬の恫喝に、オレは驚いて声を失った。それは田村先輩も同じらしく、急に現れた悠馬に警戒の色を見せている。
「お前の本心を聞いてしまった湊が、どれだけ落ち込んでいたか、お前は知らないだろう」
悠馬の声は、怒りで震えていた。
「お前に裏切られて、本心を演技で隠してしまうようになったことを、お前は知らないだろう。お前は湊を深く傷つけた。お前は……湊にふさわしくない」
突然現れた悠馬に、田村先輩は驚いたように叫んだ。
「お前は何なんだ!」
悠馬ははっきりと答えた。
「俺は湊の恋人だ」
その言葉を聞いて、田村先輩はぽかんとした。オレもぽかんとした。
しばらくして、田村先輩は力なく笑った。
「そうか……湊くん、君にはもう恋人がいるのか。しかも、こんなに情の深そうな子が」
田村先輩は立ち上がった。
「そりゃあ僕なんかかなわないわけだ。確か彼は演劇部じゃないのにこの合宿についてきたんだろう? なら、よほど君のことが心配だったんだろうね」
田村先輩は静かにその場を後にしようとする。
「湊くん」
最後に振り返って、田村先輩は言った。
「改めてごめんね。僕が君を利用しようとしたのは事実だ。でも、君の演技力に感心していたのも本当だった。君なら、きっといい俳優になれるよ」
そう言って、田村先輩は部屋から立ち去った。
部屋に残されたのは、オレと悠馬だけだった。
まだぼーっとしているオレに、悠馬は心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫か?」
オレは悠馬を見上げて尋ねた。
「お前……オレのこと恋人って言った?」
「ああ、言った」
悠馬は迷いなく答える。
「お前、オレのこと好き?」
「ああ、好きだ」
その答えに、オレの膝から力が抜けた。
「なんだよそれ……そんなん両思いじゃん……」
その場にへたり込んでしまう。
「嫌か?」
悠馬が心配そうに尋ねてくる。
「嫌なわけないじゃん……幸せ過ぎて実感湧かないんだよ……」
オレの呟きに、悠馬が笑った。いつもの無表情な彼が見せる、本当に嬉しそうな笑顔だった。
その笑顔がまぶしくて、オレは改めて思った。
悠馬のことを好きになって、本当によかった、と。
大きな窓から差し込む朝日が、床に敷かれた青いマットを明るく照らしている。外の緑豊かな公園からは、小鳥たちのさえずりが聞こえてきて、セミの声と混じり合って夏らしい音色を奏でていた。朝の空気は昨夜の湿気が抜けて爽やかで、窓から入ってくる風が心地よい。
「おはようございます!」
部員たちの元気な声が活動室に響く。みんな昨夜の肝試しで盛り上がったせいか、普段よりもテンションが高い。山田なんて目をキラキラさせながら、昨夜の謎解きの感想を他の部員に話している。
「はい、皆さん、発声練習を始めますよー!」
佐藤先輩の声で、部員たちが一斉に円になって並んだ。オレも自然とその輪に加わる。昨日の夜、悠馬に本心をさらけ出したせいか、心がとても軽やかだった。
「あーえーいーおーうー」
みんなで声を合わせて発声練習を始める。朝一番の発声は気持ちがいい。お腹から声を出して、身体全体で音を響かせる感覚が心地よかった。
悠馬はオレたちから少し離れた場所で、昨日と同じようにカメラを構えている。でも今朝は、一年生の山田が悠馬の隣にいて、何やらカメラの使い方を説明している様子だった。
「久我先輩、このボタンを押すとズームできるんですよ」
「ああ……そうか」
悠馬の困ったような返事が聞こえてきて、オレは思わずくすっと笑ってしまった。サッカー部ではレギュラーで頼られる存在の悠馬が、機械の操作で一年生に教わっている姿がなんだか微笑ましい。
「湊先輩、何笑ってるんですか?」
隣にいた後輩に突っ込まれて、オレは慌てて発声練習に集中した。
でも時々、悠馬の方をちらりと見てしまう。昨夜、彼に抱きしめられた時の温もりを思い出すと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
発声練習が終わると、いよいよ通し稽古の時間だ。オレは田村先輩と一緒に、演技指導役として部員たちの練習を見ることになっている。
昨日は田村先輩の隣にいるだけで緊張していたけれど、今朝は不思議と冷静でいられた。悠馬に本心を打ち明けて、彼に受け止めてもらえたことで、心の奥にあった重いものが軽くなった気がする。
「おはようございます、田村先輩」
いつものように明るく挨拶すると、田村先輩も穏やかに微笑んだ。
「おはよう、湊くん。今日もよろしくね」
昨日と同じやり取りなのに、オレの中では全然違って感じられた。田村先輩に対する恐怖心は完全には消えていないけれど、それでも昨日ほど動揺することはない。
それも全部、悠馬がいてくれるからだ。
チラリと悠馬の方を見ると、彼は相変わらず真剣な顔でカメラを構えていた。でも山田に操作方法を教わっている姿は、どこか頼りなくて可愛い。普段のクールな悠馬とは違う一面を見られて、なんだか得した気分になる。
「それでは、昨日の続きから練習を始めましょう」
佐藤先輩の声で、通し稽古が始まった。オレは田村先輩と並んで、部員たちの演技を見守る。
今日の練習は昨日よりもスムーズに進んでいる。みんな台詞も覚えてきているし、動きも自然になってきた。特に山田の演技は昨日から格段に上達していて、見ていてこっちまで嬉しくなってくる。
「その表情、とてもいいですね」
田村先輩が山田にアドバイスを送る。その指導内容はやっぱり的確で、オレは改めて感心した。
練習が一段落したところで、昼休憩になった。
「はい、皆さんお疲れ様でした!」
西村先生の声で、部員たちがほっと息をついた。みんな汗をかいているけれど、充実した表情をしている。
オレは悠馬に声をかけようと思って振り返ったけれど、彼の姿が見当たらない。
「あれ? 悠馬はどこに行ったんだろう」
近くにいた山田に尋ねると、彼は手をひらひらと振りながら答えてくれた。
「ああ、久我先輩なら今日の弁当を運ぶのを手伝いに行ってくれましたよ! 力持ちだから助かるって先生が言ってました」
なるほど、確かに適材適所だな。悠馬の体力と筋力があれば、重い弁当の箱も楽々運べるだろう。オレなんかじゃとても無理だ。
そんなことを考えていると、後ろから声をかけられた。
「湊くん」
振り返ると、田村先輩が立っていた。いつもの穏やかな笑顔を浮かべているけれど、どこか真剣な雰囲気もある。
「少し話したいことがあるんだけど、ちょっといいかな?」
その言葉に、オレの心臓がドキッと跳ね上がった。一体何を話したいんだろう。不安が胸の奥を駆け上がってくる。
でも、昨夜の悠馬の言葉を思い出した。
『俺の前では演技をするな。俺はお前の本心が知りたい』
そうだ、オレはもう演技で自分を偽る必要はない。悠馬がオレの本心を受け止めてくれるって言ってくれたんだから。
深呼吸をして、オレは頷いた。
「……はい、大丈夫です」
「ありがとう。それじゃあ、こっちに来てもらえるかな」
田村先輩についていくと、彼は宿泊施設の廊下を歩いて行った。オレたちが寝泊まりしている大部屋とは違う方向に向かっている。
「僕は先生と一緒の部屋に泊まらせてもらっているんだ」
田村先輩が説明しながら、ある部屋の前で足を止めた。
「今は先生は外出中だから、二人で話ができるよ」
そう言って、田村先輩は部屋の襖を開けた。
「どうぞ、入って」
部屋に入ると、畳敷きの六畳ほどの空間が広がっていた。大部屋と同じく畳敷きだけれど、こちらはずっと小さくて落ち着いた雰囲気がある。部屋の真ん中には低いテーブルが置かれていて、少し古い旅館のような趣きだった。窓からは青少年センターの中庭が見えて、緑の木々が風に揺れているのが見える。
田村先輩は小さな冷蔵庫からペットボトルのお茶を取り出すと、紙コップに注いでオレに差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
オレは紙コップを受け取って、テーブルの前に座った。田村先輩はオレの向かい側に座る。
しばらく、お互いに黙ったままお茶を飲んでいた。窓の外から聞こえてくるセミの声だけが、静かな部屋の中に響いている。
田村先輩が口を開いたのは、それから少ししてからだった。
「改めて尋ねたいんだけど」
真剣な表情でオレを見つめながら、田村先輩は続けた。
「どうして二年前、僕との連絡に返事をしなくなったのかな? 確か僕たちはお付き合いをしていたはずだと思っていたけれど……僕の勘違いだったのかな?」
その言葉には心配するような響きと、どこか残念がるような雰囲気があった。オレの胸の奥に、小さな罪悪感が湧き上がってくる。
それが田村先輩の演技だったとしても、連絡を一方的に絶ったのは確かにオレの方だ。
「すみません」
オレは素直に謝った。
「自分が未熟だったんです。自分が先輩とお付き合いするなんて、分不相応だって気づいたんです」
「どうして?」
田村先輩は首をかしげる。
「僕は君のことが好きだったよ」
その言葉に、オレは白々しさを感じてしまった。つい、本音が口から出てしまう。
「先輩がオレのこと、うっとおしいって思ってるの……偶然聞いてしまったんです」
田村先輩の表情が、一瞬だけ変わった。
しばらくの沈黙の後、田村先輩は反省したような顔を見せた。
「……ああ、やっぱりそうだったんだね」
深いため息をついて、彼は続けた。
「君の態度が急に変わったから、もしかしてそうなんじゃないかと思ったんだ。ごめんね、当時のことは本当に僕が悪かった」
田村先輩の声は、確かに申し訳なさそうだった。
「実は……」
田村先輩は言いづらそうに話し始めた。
「僕は演劇を志していて、俳優になりたいって本気で思ってた。でもどんなに頑張ってもオーディションに受からなくて……それなのに、大して努力もしていないような奴らがチャンスを掴んでいくのを見て、嫉妬していたんだ」
表情が苦いものに変わる。
「実力よりコネがものを言う世間に嫌気を感じていたけど、同時に、自分にもそんなコネがあればいいのにとも思っていた。そんな時に君に出会って……芸能人の親を持つ君が、しかも中学生なのに演技が上手いのを見て、正直、嫉妬したんだ」
オレは息を飲んだ。
「君から告白を受けた時、その嫉妬心から……君の持つ芸能界のコネを利用させてもらおうと思って、付き合うことを承諾した。本当にひどいことをしたと思ってる」
そこで田村先輩は、深く頭を下げた。後悔の色を浮かべて、申し訳なさそうな表情を見せる。
でも……。
オレは悠馬と過ごした時間、そして昨夜彼と交わした会話を思い出していた。本心を偽らずに生きることの大切さ。そして、人の嘘を見抜く力も、これまでの経験で身についていた。
田村先輩の表情は確かに反省しているように見える。でも何かが違う。オレは直感的に感じ取った。
この後悔も、演技なんじゃないか。
「先輩」
オレは静かに口を開いた。
「今でも、オレが持つ芸能界のコネを諦めきれずにいるんじゃないですか?」
田村先輩の顔が、わずかに強ばった。
「そんなことは……」
「今でも劇団に所属して俳優を続けているなら、芸能界のコネは欲しいでしょうね。だから今回も、オレがいるって聞いて合宿に参加することにしたんじゃないですか?」
オレの言葉に、田村先輩は黙り込む。その表情は、少し演技が崩れてきていた。
「君のことが好きだって思っていたのは本当だよ」
田村先輩が身を乗り出すようにして、オレの手に自分の手を重ねようとする。
「もし良かったら、また僕たち、やり直せないかな」
その瞬間、オレの全身に恐怖が走った。
「今回のこの合宿、君がいるって聞いて参加を決めたのは確かだ。……君にもう一度会いたかったから」
オレは反射的に手を振り払ってしまった。
「お願いだから避けないで」
田村先輩は振り払われた手を、もう一度掴み直そうとする。
恐怖でオレの身体がすくんだその時──
「これ以上、湊に近づくな!」
怒鳴り声と共に、田村先輩の手がオレの手から引き剥がされた。
気がつくと、悠馬が部屋に入ってきていて、田村先輩の手を引き剥がしてオレを自分の身体に引き寄せていた。
普段は決して見せない悠馬の恫喝に、オレは驚いて声を失った。それは田村先輩も同じらしく、急に現れた悠馬に警戒の色を見せている。
「お前の本心を聞いてしまった湊が、どれだけ落ち込んでいたか、お前は知らないだろう」
悠馬の声は、怒りで震えていた。
「お前に裏切られて、本心を演技で隠してしまうようになったことを、お前は知らないだろう。お前は湊を深く傷つけた。お前は……湊にふさわしくない」
突然現れた悠馬に、田村先輩は驚いたように叫んだ。
「お前は何なんだ!」
悠馬ははっきりと答えた。
「俺は湊の恋人だ」
その言葉を聞いて、田村先輩はぽかんとした。オレもぽかんとした。
しばらくして、田村先輩は力なく笑った。
「そうか……湊くん、君にはもう恋人がいるのか。しかも、こんなに情の深そうな子が」
田村先輩は立ち上がった。
「そりゃあ僕なんかかなわないわけだ。確か彼は演劇部じゃないのにこの合宿についてきたんだろう? なら、よほど君のことが心配だったんだろうね」
田村先輩は静かにその場を後にしようとする。
「湊くん」
最後に振り返って、田村先輩は言った。
「改めてごめんね。僕が君を利用しようとしたのは事実だ。でも、君の演技力に感心していたのも本当だった。君なら、きっといい俳優になれるよ」
そう言って、田村先輩は部屋から立ち去った。
部屋に残されたのは、オレと悠馬だけだった。
まだぼーっとしているオレに、悠馬は心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫か?」
オレは悠馬を見上げて尋ねた。
「お前……オレのこと恋人って言った?」
「ああ、言った」
悠馬は迷いなく答える。
「お前、オレのこと好き?」
「ああ、好きだ」
その答えに、オレの膝から力が抜けた。
「なんだよそれ……そんなん両思いじゃん……」
その場にへたり込んでしまう。
「嫌か?」
悠馬が心配そうに尋ねてくる。
「嫌なわけないじゃん……幸せ過ぎて実感湧かないんだよ……」
オレの呟きに、悠馬が笑った。いつもの無表情な彼が見せる、本当に嬉しそうな笑顔だった。
その笑顔がまぶしくて、オレは改めて思った。
悠馬のことを好きになって、本当によかった、と。
