夜の帳が降りた我が家のリビングは、扇風機の生暖かい風がゆっくりと回っていた。クーラーを入れるほどではないけれど、湿気を含んだ夏の夜気が肌にまとわりつく。
オレは自分の部屋で、明日からの合宿に必要な荷物をスポーツバッグに詰め込んでいた。着替えを二日分、タオル、洗面用具、それから演劇の台本……忘れ物があると取りに帰ることができないから、準備はしっかりしておかなくてはならない。
「湊、荷造りは順調?」
振り返ると、母さんがドアの枠に身体を預けて、オレの様子を眺めていた。エアコンをつけてない部屋は少し暑くて、薄手のワンピースを着た母さんが手にした扇子で自分を仰いでいる。
「うん、だいたい終わったよ」
オレは明るい調子で答えながら、バッグのファスナーを閉めた。
「演劇部の合宿って、どこで何泊するの?」
母さんの質問に、オレは振り返って答えた。
「市内の青少年センターで一泊二日だよ。演劇大会に向けての最後の練習合宿なんだ」
「そう……」
母さんの表情が少し曇った。扇子を閉じて、申し訳なさそうな顔になる。
「ごめんね、湊。急に引っ越すことになって、部活も続けられなくなっちゃって……」
その言葉に、オレは咄嗟にいつもの笑顔を作った。
「大丈夫だよ! 新しい学校でも演劇部があったら入ろうと思ってるし」
でも心の中では、たぶんそれは難しいだろうなと思っていた。演劇なんてチームで行う競技みたいなものだから、学期の途中で入ってきた人間なんてすぐになじめないだろう。それに高校二年生の二学期って、もうすぐ大学受験や就職の進路指導が始まる時期だ。部活動なんてやってる暇はないかもしれない。
でも、そんな内心は母さんには見せられない。
「そう、それならお母さん湊のこと応援するから!」
母さんは安心したような顔で笑った。
母さんを見ていると、いつも思うことがある。高校生の息子がいるような年齢には全然見えないということだ。今だって、薄手のワンピースから覗く白い腕や、扇子を持つ華奢な手は、まるでオレと同世代の女の子みたいに若々しい。
母さんは元々、「MIRAI」っていうアイドルグループのメンバーだった。当時はそれなりに有名で、テレビ番組にもよく出ていたらしい。オレが物心ついた頃にはもうアイドルは辞めていたけれど、家には母さんがアイドル時代に撮った写真とかが残っている。
父さんは母さんの元マネージャーだった。母さんがアイドルを辞めたのは、父さんと結婚するためだったと聞いている。でも父さんは、オレが小学生の時に交通事故で亡くなってしまった。突然の出来事で、母さんもオレも、しばらくは現実を受け入れることができなかった。
それからは母さんが女手一つでオレを育ててくれた。でも、元アイドルという特殊な経歴のせいか、母さんはなかなか普通の仕事を続けることができなかった。オレが小学校の頃は、生活していくこと自体が大変な時期もあった。電気代や水道代を節約するために、夏でもクーラーを我慢したり、外食なんてほとんどできなかったり……今でもクーラーよりも扇風機を使う癖があるのは、その時の名残りかもしれない。
そんな状況を見かねて、母さんに声をかけてくれたのが岡田さんだった。岡田さんは母さんが昔所属していたタレント事務所のプロデューサーで、母さんを元アイドルのタレントとして芸能界に復帰させてくれた。それからは生活も安定して、オレも普通の高校生活を送ることができるようになった。
そして、その岡田さんが母さんにプロポーズしたのが、今回の再婚話だ。
オレから見ても、岡田さんは本当にいい人だと思う。母さんのことを心から大切にしてくれているし、オレのことも実の息子のように接してくれる。岡田さんの仕事の関係で事務所のある都内に引っ越すのも、致し方ないことだ。
「そういえば」
母さんが何かを思い出したような顔をした。
「あなたと仲がいい久我さんの家の子と、一緒に合宿に行くみたいね」
オレは少し驚いた。
「どうしてそれを知ってるの?」
「久我さんと話したからよ」
ああ、なるほど。母さんと悠馬の母さんは、オレたちと同じくらい仲がいい。近所付き合いもあるし、時々お茶を飲みながら世間話をしている。悠馬が合宿に参加することを、悠馬の母さんから聞いたんだろう。
「それで久我さんと話したんだけど、もし貴方がよかったら──」
その時、オレの携帯電話が鳴った。
「ごめん、ちょっと電話」
母さんの話を遮って、オレは急いで電話に出た。
「もしもし?」
『すまない、今いいか? 』
電話の向こうから聞こえてきたのは、悠馬の声だった。
「うん、大丈夫」
オレは母さんに手で「ちょっと待って」という合図を送ってから、電話に集中した。
『明日の合宿の件で確認したいことがあるんだ』
「何?」
『持ち物の再確認なんだが……』
悠馬は几帳面にリストを読み上げてくれた。着替え、洗面用具、寝間着、タオル……オレもメモを取りながら、自分の荷物と照らし合わせる。
「うん、全部準備できてる。それで問題ないと思うよ」
『それなら良かった』
少し間があいてから、オレは気になっていたことを尋ねた。
「改めて聞くけど、悠馬は本当に合宿に参加するのでいいの? 合宿は荷物の運搬も多いから人手があることに越したことはないからありがたいんだけど……退屈じゃない?」
『平気だ。お前のことが心配だし、それに……』
悠馬の声が少し低くなった。
『田村さんとやらを、お前の傍に近づけたくない』
その言葉に、オレは胸がドキッとした。いつもの淡々とした悠馬の口調に、今まで聞いたことのない感情がこもっているのを感じた。
「なんだよ、嫉妬か?」
軽い調子で尋ねたつもりだったけれど、悠馬の答えは予想外だった。
『たぶんそう。たぶん俺は、その先輩とやらに嫉妬している』
電話の向こうから聞こえてきた、悠馬の率直すぎる答えに、オレは変な汗が出てきた。
悠馬が、嫉妬している……?
その事実が、オレの胸の奥に複雑な感情を呼び起こした。嬉しいような、困惑するような、申し訳ないような……。
扇風機の羽根がゆっくりと回って、生暖かい風がオレの頬を撫でていく。オレは悠馬に自分の動揺を悟られないよう早々に電話を切り、スマホをベッドの上に放り投げた。
そして改めて、無言で明日の合宿の準備を再開し始めた。
オレは自分の部屋で、明日からの合宿に必要な荷物をスポーツバッグに詰め込んでいた。着替えを二日分、タオル、洗面用具、それから演劇の台本……忘れ物があると取りに帰ることができないから、準備はしっかりしておかなくてはならない。
「湊、荷造りは順調?」
振り返ると、母さんがドアの枠に身体を預けて、オレの様子を眺めていた。エアコンをつけてない部屋は少し暑くて、薄手のワンピースを着た母さんが手にした扇子で自分を仰いでいる。
「うん、だいたい終わったよ」
オレは明るい調子で答えながら、バッグのファスナーを閉めた。
「演劇部の合宿って、どこで何泊するの?」
母さんの質問に、オレは振り返って答えた。
「市内の青少年センターで一泊二日だよ。演劇大会に向けての最後の練習合宿なんだ」
「そう……」
母さんの表情が少し曇った。扇子を閉じて、申し訳なさそうな顔になる。
「ごめんね、湊。急に引っ越すことになって、部活も続けられなくなっちゃって……」
その言葉に、オレは咄嗟にいつもの笑顔を作った。
「大丈夫だよ! 新しい学校でも演劇部があったら入ろうと思ってるし」
でも心の中では、たぶんそれは難しいだろうなと思っていた。演劇なんてチームで行う競技みたいなものだから、学期の途中で入ってきた人間なんてすぐになじめないだろう。それに高校二年生の二学期って、もうすぐ大学受験や就職の進路指導が始まる時期だ。部活動なんてやってる暇はないかもしれない。
でも、そんな内心は母さんには見せられない。
「そう、それならお母さん湊のこと応援するから!」
母さんは安心したような顔で笑った。
母さんを見ていると、いつも思うことがある。高校生の息子がいるような年齢には全然見えないということだ。今だって、薄手のワンピースから覗く白い腕や、扇子を持つ華奢な手は、まるでオレと同世代の女の子みたいに若々しい。
母さんは元々、「MIRAI」っていうアイドルグループのメンバーだった。当時はそれなりに有名で、テレビ番組にもよく出ていたらしい。オレが物心ついた頃にはもうアイドルは辞めていたけれど、家には母さんがアイドル時代に撮った写真とかが残っている。
父さんは母さんの元マネージャーだった。母さんがアイドルを辞めたのは、父さんと結婚するためだったと聞いている。でも父さんは、オレが小学生の時に交通事故で亡くなってしまった。突然の出来事で、母さんもオレも、しばらくは現実を受け入れることができなかった。
それからは母さんが女手一つでオレを育ててくれた。でも、元アイドルという特殊な経歴のせいか、母さんはなかなか普通の仕事を続けることができなかった。オレが小学校の頃は、生活していくこと自体が大変な時期もあった。電気代や水道代を節約するために、夏でもクーラーを我慢したり、外食なんてほとんどできなかったり……今でもクーラーよりも扇風機を使う癖があるのは、その時の名残りかもしれない。
そんな状況を見かねて、母さんに声をかけてくれたのが岡田さんだった。岡田さんは母さんが昔所属していたタレント事務所のプロデューサーで、母さんを元アイドルのタレントとして芸能界に復帰させてくれた。それからは生活も安定して、オレも普通の高校生活を送ることができるようになった。
そして、その岡田さんが母さんにプロポーズしたのが、今回の再婚話だ。
オレから見ても、岡田さんは本当にいい人だと思う。母さんのことを心から大切にしてくれているし、オレのことも実の息子のように接してくれる。岡田さんの仕事の関係で事務所のある都内に引っ越すのも、致し方ないことだ。
「そういえば」
母さんが何かを思い出したような顔をした。
「あなたと仲がいい久我さんの家の子と、一緒に合宿に行くみたいね」
オレは少し驚いた。
「どうしてそれを知ってるの?」
「久我さんと話したからよ」
ああ、なるほど。母さんと悠馬の母さんは、オレたちと同じくらい仲がいい。近所付き合いもあるし、時々お茶を飲みながら世間話をしている。悠馬が合宿に参加することを、悠馬の母さんから聞いたんだろう。
「それで久我さんと話したんだけど、もし貴方がよかったら──」
その時、オレの携帯電話が鳴った。
「ごめん、ちょっと電話」
母さんの話を遮って、オレは急いで電話に出た。
「もしもし?」
『すまない、今いいか? 』
電話の向こうから聞こえてきたのは、悠馬の声だった。
「うん、大丈夫」
オレは母さんに手で「ちょっと待って」という合図を送ってから、電話に集中した。
『明日の合宿の件で確認したいことがあるんだ』
「何?」
『持ち物の再確認なんだが……』
悠馬は几帳面にリストを読み上げてくれた。着替え、洗面用具、寝間着、タオル……オレもメモを取りながら、自分の荷物と照らし合わせる。
「うん、全部準備できてる。それで問題ないと思うよ」
『それなら良かった』
少し間があいてから、オレは気になっていたことを尋ねた。
「改めて聞くけど、悠馬は本当に合宿に参加するのでいいの? 合宿は荷物の運搬も多いから人手があることに越したことはないからありがたいんだけど……退屈じゃない?」
『平気だ。お前のことが心配だし、それに……』
悠馬の声が少し低くなった。
『田村さんとやらを、お前の傍に近づけたくない』
その言葉に、オレは胸がドキッとした。いつもの淡々とした悠馬の口調に、今まで聞いたことのない感情がこもっているのを感じた。
「なんだよ、嫉妬か?」
軽い調子で尋ねたつもりだったけれど、悠馬の答えは予想外だった。
『たぶんそう。たぶん俺は、その先輩とやらに嫉妬している』
電話の向こうから聞こえてきた、悠馬の率直すぎる答えに、オレは変な汗が出てきた。
悠馬が、嫉妬している……?
その事実が、オレの胸の奥に複雑な感情を呼び起こした。嬉しいような、困惑するような、申し訳ないような……。
扇風機の羽根がゆっくりと回って、生暖かい風がオレの頬を撫でていく。オレは悠馬に自分の動揺を悟られないよう早々に電話を切り、スマホをベッドの上に放り投げた。
そして改めて、無言で明日の合宿の準備を再開し始めた。
