テレビからバラエティ番組の笑い声が響いている。
オレ──日下部湊はソファにだらしなく身体を預けて、ぼんやりと画面を眺めていた。夏休みまであと少し。こんな平和な午後がずっと続けばいいのに、なんて思っていた時のことだ。
キッチンで洗い物をしていた母さんが、急に手を止める。水道の音が途切れて、妙に静かになった。振り返ると、母さんがエプロンで手を拭きながらこちらを見ている。その表情がなんだかいつもと違っていた。
「湊、ちょっと話があるの」
母さんの声がいつもより少し低くて、どこか改まった感じがする。
オレは直感的に察した。きっと大事な話だ。こういう時は何か手を動かしていた方がいい。オレはさりげなく立ち上がって冷蔵庫へ向かい、中からアイスを取り出した。
「うん、何?」
できるだけ普通の調子で返事をしながら、アイスの包装を見つめる。
「……実は、母さん再婚することになったの」
手が、ほんの少し震えた。でも顔は平静を装う。これはオレの得意技だ。
「あー、やっぱり岡田さんと?」
母さんはほっとしたような顔で頷いた。岡田さんは母さんが所属している芸能事務所のプロデューサーで、何度か家にも来たことがある。落ち着いていて優しい人だった。父さんが交通事故で亡くなってから、母さんがひとりで頑張ってきたのをオレは知っている。元アイドルという経歴を持つ母さんが、この歳で新しい幸せを見つけられたのは本当によかった。
「おめでとう、母さん」
心からそう思って祝福の言葉を告げると、母さんの表情が少し和らいだ。でもまだ何か言いたそうな顔をしている。
「ありがとう。……でも、もうひとつ話があるの」
今度はオレの方が身構えた。アイスの包装を開く手を止めて、母さんを見つめる。
「再婚したら、岡田さんの仕事の関係で引っ越すことになると思う。時期は……夏休み明けになると思う」
包装を持つ指先が、かすかに震えた。引っ越し。完全に予想外の言葉だった。
「もちろん、湊の気持ちが一番大事だから。高校卒業まではここに残りたいなら、アパートを借りるとか……」
母さんの心配そうな顔を見て、オレは素早く考えた。俺がここで一人暮らしするとなれば、アパート代や生活費などかなりの出費になってしまう。女手ひとつでオレを育ててくれた母さんに、これ以上負担をかけるわけにはいかない。
「大丈夫、オレも一緒に行くよ。新しい環境も悪くないし」
嘘じゃない。本当にそう思っている。でも心の奥底で、何かがざわざわと騒いでいた。
アイスを持って自分の部屋に向かう。ベッドに腰を下ろして、ぼんやりと窓の外を眺めた。小学生の頃から変わらない、慣れ親しんだ風景。この部屋ともお別れになるのか。
この土地を離れるということに、オレは実感が持てなかった。
頭に浮かんでくるのは、小学校からずっと通い慣れた道のこと。よく遊びに行った公園。学校。演劇部のみんな。
そして……悠馬のこと。
オレの一番の親友で、家もすぐ近所にある久我悠馬。小学生の頃は小さくて大人しい子だったのに、今じゃオレよりも15センチも背が高くなって、すっかり女子たちの間でカッコいいと話題の人物だ。でも、昔の大人しい久我を知っているオレには、今でも少し不思議な感じがする。
アイスを口に運ぼうとして、ハッとする。いつの間にかアイスはほとんど溶けて、手がべたべたになっていた。
「あーあ……」
ティッシュで手を拭きながら、悠馬に対する気持ちを改めて考える。オレの胸に込み上げてくるのは、ただの友情とは違う感情だった。
高校に入ってから、なんとなく気づき始めていた。悠馬と一緒にいる時間がいちばん楽しくて、悠馬が他の女子と話していると胸がざわつく。
多分、この感情は恋だ。そう理解するまでに、少し時間がかかった。
でも、気づいてしまってからは余計に苦しくなった。小学生の頃からずっと「友達」として過ごしてきた悠馬に、今さら気持ちを伝えるなんてできない。今の関係が壊れてしまうのが怖くて、ずっと心の奥に気持ちを押し込めていた。
久我に引っ越しのことを話したら、どんな反応をするだろう。いつもの淡々とした調子で「そうか」と言うのか、それとも──少しくらいは、驚いてくれるんだろうか。
ポタポタと床に落ちるアイスを、ただぼんやりと見つめていた。
──どうせ引っ越すんだ。どのみち、オレたちはもう今まで通りじゃいられない。
このまま何も言わずに離れたら、オレたちはただの「過去の友達」になって、疎遠になるだけだ。たまに思い出すくらいの存在になって、やがて名前さえ薄れていくかもしれない。
そんなの、嫌だ。
でも、伝えてどうなる? 告白が成功する保証なんてないし、うまくいくはずない。
そもそも、悠馬はオレのことなんて、そんな目で見てない。それが分かってるからずっと黙ってきた。気づかれないように隠して、普通のフリをして、一緒に笑ってきた。
だけど──もう限界だった。
この気持ちを閉じ込め続けることが、だんだん苦しくなっていた。だったらもう、どうなってもいい。フラれても、気まずくなっても、全部失ってもいい。何も言えずに後悔するくらいなら、その方がずっとマシだ。
──もういいや。言ってやる。
そう決めた瞬間、アイスが最後の一滴を床に落とした。完全に溶けきったそれを見て、オレは思わず小さく笑った。
告白したら、もう戻れない。溶けきってしまった、このアイスのように。
オレ──日下部湊はソファにだらしなく身体を預けて、ぼんやりと画面を眺めていた。夏休みまであと少し。こんな平和な午後がずっと続けばいいのに、なんて思っていた時のことだ。
キッチンで洗い物をしていた母さんが、急に手を止める。水道の音が途切れて、妙に静かになった。振り返ると、母さんがエプロンで手を拭きながらこちらを見ている。その表情がなんだかいつもと違っていた。
「湊、ちょっと話があるの」
母さんの声がいつもより少し低くて、どこか改まった感じがする。
オレは直感的に察した。きっと大事な話だ。こういう時は何か手を動かしていた方がいい。オレはさりげなく立ち上がって冷蔵庫へ向かい、中からアイスを取り出した。
「うん、何?」
できるだけ普通の調子で返事をしながら、アイスの包装を見つめる。
「……実は、母さん再婚することになったの」
手が、ほんの少し震えた。でも顔は平静を装う。これはオレの得意技だ。
「あー、やっぱり岡田さんと?」
母さんはほっとしたような顔で頷いた。岡田さんは母さんが所属している芸能事務所のプロデューサーで、何度か家にも来たことがある。落ち着いていて優しい人だった。父さんが交通事故で亡くなってから、母さんがひとりで頑張ってきたのをオレは知っている。元アイドルという経歴を持つ母さんが、この歳で新しい幸せを見つけられたのは本当によかった。
「おめでとう、母さん」
心からそう思って祝福の言葉を告げると、母さんの表情が少し和らいだ。でもまだ何か言いたそうな顔をしている。
「ありがとう。……でも、もうひとつ話があるの」
今度はオレの方が身構えた。アイスの包装を開く手を止めて、母さんを見つめる。
「再婚したら、岡田さんの仕事の関係で引っ越すことになると思う。時期は……夏休み明けになると思う」
包装を持つ指先が、かすかに震えた。引っ越し。完全に予想外の言葉だった。
「もちろん、湊の気持ちが一番大事だから。高校卒業まではここに残りたいなら、アパートを借りるとか……」
母さんの心配そうな顔を見て、オレは素早く考えた。俺がここで一人暮らしするとなれば、アパート代や生活費などかなりの出費になってしまう。女手ひとつでオレを育ててくれた母さんに、これ以上負担をかけるわけにはいかない。
「大丈夫、オレも一緒に行くよ。新しい環境も悪くないし」
嘘じゃない。本当にそう思っている。でも心の奥底で、何かがざわざわと騒いでいた。
アイスを持って自分の部屋に向かう。ベッドに腰を下ろして、ぼんやりと窓の外を眺めた。小学生の頃から変わらない、慣れ親しんだ風景。この部屋ともお別れになるのか。
この土地を離れるということに、オレは実感が持てなかった。
頭に浮かんでくるのは、小学校からずっと通い慣れた道のこと。よく遊びに行った公園。学校。演劇部のみんな。
そして……悠馬のこと。
オレの一番の親友で、家もすぐ近所にある久我悠馬。小学生の頃は小さくて大人しい子だったのに、今じゃオレよりも15センチも背が高くなって、すっかり女子たちの間でカッコいいと話題の人物だ。でも、昔の大人しい久我を知っているオレには、今でも少し不思議な感じがする。
アイスを口に運ぼうとして、ハッとする。いつの間にかアイスはほとんど溶けて、手がべたべたになっていた。
「あーあ……」
ティッシュで手を拭きながら、悠馬に対する気持ちを改めて考える。オレの胸に込み上げてくるのは、ただの友情とは違う感情だった。
高校に入ってから、なんとなく気づき始めていた。悠馬と一緒にいる時間がいちばん楽しくて、悠馬が他の女子と話していると胸がざわつく。
多分、この感情は恋だ。そう理解するまでに、少し時間がかかった。
でも、気づいてしまってからは余計に苦しくなった。小学生の頃からずっと「友達」として過ごしてきた悠馬に、今さら気持ちを伝えるなんてできない。今の関係が壊れてしまうのが怖くて、ずっと心の奥に気持ちを押し込めていた。
久我に引っ越しのことを話したら、どんな反応をするだろう。いつもの淡々とした調子で「そうか」と言うのか、それとも──少しくらいは、驚いてくれるんだろうか。
ポタポタと床に落ちるアイスを、ただぼんやりと見つめていた。
──どうせ引っ越すんだ。どのみち、オレたちはもう今まで通りじゃいられない。
このまま何も言わずに離れたら、オレたちはただの「過去の友達」になって、疎遠になるだけだ。たまに思い出すくらいの存在になって、やがて名前さえ薄れていくかもしれない。
そんなの、嫌だ。
でも、伝えてどうなる? 告白が成功する保証なんてないし、うまくいくはずない。
そもそも、悠馬はオレのことなんて、そんな目で見てない。それが分かってるからずっと黙ってきた。気づかれないように隠して、普通のフリをして、一緒に笑ってきた。
だけど──もう限界だった。
この気持ちを閉じ込め続けることが、だんだん苦しくなっていた。だったらもう、どうなってもいい。フラれても、気まずくなっても、全部失ってもいい。何も言えずに後悔するくらいなら、その方がずっとマシだ。
──もういいや。言ってやる。
そう決めた瞬間、アイスが最後の一滴を床に落とした。完全に溶けきったそれを見て、オレは思わず小さく笑った。
告白したら、もう戻れない。溶けきってしまった、このアイスのように。
