『主様、また出た』
『小鴉、花嫁様を狙ってる』

 小鬼達は棍棒で空を指差し、藤郷に報告した。
 彼は不機嫌そうに顔を顰めると、右手に火の玉を発現させて飛ばす。

「ギャァァァ!」

 小鴉達は恐ろしい悲鳴を上げて、バッタバッタと地上へ倒れ伏した。

『焼き鳥だ』
『あんまり、おいしくないお肉』
『ボコボコにしよう』
『花嫁様の居場所、知られないように』

 小鬼達は棍棒を振り回し、暴れる鳥を黙らせた。

  (何度目にしても、凄惨な光景ね……)

 西鳥の娘として異能を発現した羽音は、生まれてすぐに小鴉達の祝福を受けた。
 彼らは大鴉の配下にあるが、ただ自分と触れ合いたい一心で会いに来ている可能性も高い。

  (小鬼と小鴉……。二つに一つなら、前者を選ぶべきだとわかっているけれど……)

 なんとも言葉にしづらいモヤモヤとした思いを抱く羽音は、白昼堂々と繰り広げられる戦いに心を痛めた。

「すまない。君の前で、彼らを討伐するべきではなかったな」

 浮かない顔でその様子を見ているこちらの姿に気づいたのだろう。
 藤郷は羽音にそう語りかけると、優しく抱きしめた。
 炎の異能を得意とする彼は肌を触れ合わせるといつだって、氷のように冷え切った身体を暖かな熱で包みこんでくれる。
 それが嬉しくて堪らなくて、うっとりと瞳を潤ませて、彼の名を呼んだ。

「藤郷、様……」
「羽音は昔から、優しい心の持ち主だった。あんな奴らになんて、情けをかける必要はないと言うのに……」

 鬼神は地面に倒れ伏す小鴉の姿を見捉え、大鴉を思い出したのだろう。
 瞳の奥底にゾッとするような憎悪を滾らせると、全身に炎を迸らせる。
 彼の怒りに反応して、背中に火の玉が音を立てて浮かび上がった。
 そんな幻想的な光景を目にした羽音は、思わず呟いた。

「綺麗……」

 オレンジ色に染まる夕暮れの空と真っ赤な炎のコントラストに感動すれば、藤郷は口元を緩めて髪を手櫛で梳いてくれる。
 その気持ちよさに目を細め、彼のぬくもりを堪能しながら幸せでいっぱいに包まれた。

  (こんな穏やかな日が、いつまでも続けばいいものに……)

 背筋が凍るような重苦しい気配を感じ取った羽音は、鬼神とほぼ同時に上空を見上げる。すると、そこには――漆黒の六芒星が描かれていた。

『大変』
『主様が大嫌いな人、来た』
『花嫁様を奪おうとしてる』
『こんな奴らと遊んでる場合じゃないよ』
『退けなきゃ』

 小鴉達を痛めつけていた小鬼達が、二人を守るように周りを囲んだ瞬間――背中に漆黒の翼を生やした大鴉が、口元を綻ばせて軽快な挨拶をした。

「やぁ、鬼神。400年ぶりだね」
「何をしに来た……!」
「そんなの、決まっているじゃないか。僕の花嫁を、見せびらかしに来たんだよ」
「な……」
「いやぁあああ!」

 一体誰のことを言っているのか。
 そんな疑問を解消するために藤郷が口にした言葉は、最後まで声にならなかった。
 大鴉の肩に担がれていた着物姿の女性が、空中から地面に向かって放り投げられたのだ。

  (危ない……!)

 その人物が誰かを、考えるまでもない。
 困っている人がいるのなら助けるべきだと、強い使命感に駆られたからだ。

「待て、羽音! そいつは……!」

 静止する藤郷の叫びを無視して腕の中から躍り出ると、羽音は背中に二対の翼を生やして甲高い悲鳴を上げて落下する女性を抱き止めようとしたが――。

  (お、重い……!)

 小さな身体ではその体重を支えきれずに、よろよろと大蛇行する。
 そんな姿を空中で満足そうに眺めていた大鴉は、口元だけを綻ばせ――こちらに手を伸ばす。

「うん。そうだよね。君なら絶対、見殺しにはしない」
「手を離せ!」

 藤郷に叫ばれた羽音は、首を振った。
 腕の中にいる女性があの男に保護されても、地に叩きつけられても――命の危機は守れないからだ。

  (助けると決めたのは、私ですもの……! 中途半端に、投げ出すわけには……!)

 どんなに苦しくても、つらくても。大鴉の魔の手が伸びようとも、彼女を守ってみせる。そんな思いとともに西鳥の神を睨みつけた羽音は、その直後――そこまでする必要はなかったのだと思い知らされる。

「それがたとえ、8年間自分を痛めつけてきた双子の妹だとしても……」
「当たり前でしょ!? あたし達は双子! どんな時だって、一蓮托生なんだから……!」

 腕の中にいるのが、姉に成り代わって西鳥の跡取りになったはずの妹だと気づいたからだ。

  (なんで……? どうして無音が、ここに……?)

 やっと幸せを手に入れたはずだったのに。
 また、あの子に奪われてしまうのか。
 そう焦った羽音は、ガタガタと小刻みに全身を震わせる。

  (そんなの、絶対に嫌……!)

 藤郷は4000年もの間、思い続けてくれたのだ。
 そんな彼のそばで、穏やかな暮らしを体験したい。
 そう、願っているからこそ――西鳥にだけは、戻りたくなかった。

「ねぇ。妹が困ってるのよ? 当然、助けてくれるでしょ? だってあんたは、あたしのお姉様なんだから」
「羽音!」
「ひ……っ!」

 妹に脅された姉は、一瞬判断に迷ったが……。
 大鴉の手が小さな身体に触れるまで、時間がない。

  (私に触れていいのは、藤郷さんだけよ……!)

 そんな強い想いに支配され、背中の翼を消失させる。

  (落ちる……っ!)

 異能の発現を止めた羽音は、地上に向かって真っ逆さまに落下していった。

「残念。お姉さんは、君よりも鬼神を選ぶって」
「せっかくあたしが、身体を張ってチャンスを作ったのに……! なんで異能を使って、羽音を捕らえないのよ!?」

 衝撃に備えて固く目を瞑った間に、妹と大鴉が言い争う声が聞こえてくる。
 彼はどうやら、無音だけを抱きしめたようだ。

  (あのままあの人に捕らえられたら、きっと酷い目に合っていたわ。この選択は、きっと正しいのよね……?)

 ――心の中で自問自答を繰り返しながら、羽音はその時が来るのを待ち続けた。

  (藤郷様……)

 地上には、自分に惜しみない愛を注ぎ込んでくれる彼がいる。
 だからきっと、苦痛を感じなくて済む――。

「うーん。西鳥羽音のほうも、まんざらでもなさそうだったから、かな?」
「あんたねぇ……! あたしとの約束を、反故にするつもり!?」
「そんなにあの女を西島の家に戻したいのなら、自分でやりなよ」
「はぁ!? あたしがなんて言われてるか、知ってるでしょ!? 異能を持たないから、無能なの! 無理に決まって――」
「羽音!」

 大鴉と無音の言い争いをかき消すほど大きな声で藤郷に怒鳴られた羽音は、目を大きく見開く。
 いつの間にか、鬼神の熱い炎に包まれていたからだ。

「俺の許可なく、勝手に飛び出して行くな……!」
「ご、ごめんなさい……」
「今のは、肝が冷えたぞ……」

 羽音が反省していますと態度で示すように、小さな身体を縮こまらせて丸まれば――背筋が凍るような異能の発現を感知し、二人は同時に空を見上げた。

「何、これ……。黒い、着物。それに、羽根……?」
「僕の花嫁に、とっても相応しいだろう? 少しだけ、異能を分け与えてあげる。あの子とも、お揃いだよ」

 それは、大鴉が異能を持たぬ無音に力を授けたことで起きた残り香だったらしい。

「ふふ……っ。あはは……! やった! やったわ! あたしもようやく、異能を手に入れた! もう二度と、無能なんて言わせない!」
「無音……」

 狂った笑い声を響かせた妹は、勝ち誇った笑みを浮かべた。
 そんな彼女を苦しそうに見つめた妻の想いに応えるかのように、藤郷は諸悪の根源に向けて怒声を響かせた。

「心を通じ合わせていない状態で異能譲渡をするなど……! 正気か!?」
「純白の翼を持って生まれた姉と、漆黒の紛い物を背中に生やした妹の争い……。きっと、面白くなるよ!」

 大鴉は悪びれもなくそう語ると、鬼神に牙を剥く。

「くそ……っ」

 彼は悪態をつくと渋々羽音から手を離し、炎の障壁を愛する妻の周りに張り巡らせる。

「羽音! ここを動くな!」

 その後矢継ぎ早に叫ぶと、大鴉を止めるため羽音の返事を聞かぬまま地を蹴った。

  (私も……っ。藤郷様の、力にならなくちゃ……!)

 鬼神は空を飛べない。
 自分の異能が役に立つこともあるだろう。
 そんな思いに駆られて再び背中に翼を生やし、飛び立とうとすれば――それを拒むものが現れた。

「あたしはあんたがずっと、憎くて仕方なかった! やっと大嫌いな姉がいなくなって、清々すると思ったのに……!」

 それは双子の妹、無音だった。
 彼女は己の内に秘めたる感情を爆発させると、瞳に憎悪を滲ませて姉を罵る。

「鬼神があんたを攫ったせいで、あたしの計画はめちゃくちゃよ!」
「落ち着いて……!」
「冷静になったって、あたしの主張は変わらないわ!」
「きゃ……っ」

 羽音は純白の翼を、己の身体を守るように丸める。
 無数の黒い羽根を飛ばして攻撃をしかける無音の攻撃は、彼女の怒りに反応して激しさを増していく。

「4000年前から好きだった? 馬鹿じゃないの!? 前世なんかに囚われちゃって! あんたが好きだった女は、とっくの昔に死んでるのに!」
「黙れ」
「400年に一度西鳥に産まれる双子の娘が必ず羽音と無音と名づけられてまったく同じ人生を歩み続けるなんて、そんなのおかしいわ!」
「貴様がどんなに否定したって、この事実は変えられない」
「そんなの、呪われているようなもんでしょ!? だからあたしは、その意味わかんない法則を破るの! 羽音を始末するか、入れ替わって、二人分の幸せを手に入れるためにね……!」

 般若のような顔をした妹は、怒りの矛先を鬼神に向ける。

「待っ……!」

 羽音はそれを止めようとしたが、無音は攻撃の手を休めるつもりなどない。

「そのためには、羽音だけじゃなくて……。あんたにもくたばってもらわなきゃ困るのよ……!」
「と……っ。鬼神様……!」

 藤郷は真名を配下の小鬼や羽音以外に呼ばれるのを嫌がっている。
 それを思い出して、咄嗟に言い直す。
 その後、大鴉と戦う彼に狙いを定めた妹の攻撃から旦那の身を守るべく――天高く舞い上がった。

「邪魔をしないで! 二人仲良く、地獄に送ってあげるわ!」
「やめて……!」

 自分に惜しみない愛を注いでくれる旦那様が傷つく姿を黙ってみているほど、羽音は薄情ではなかった。

  (守られているだけは、嫌よ……! 私も藤郷様の、力になりたい……!)

 その強い想いに、応えるように――純白の翼は鬼神が使役する火の玉を吸収し、炎に包まれる。

「きゃあ! な、何……!?」

 無音が驚きの声を上げて怯んだ、今が好機だ。
 羽音は一瞬の隙を逃さず、翼を広げて妹の身体を包み込んだ。

「いやぁあああ!」

 地獄の業火に焼かれた彼女は激痛に耐えきれず、紛い物の黒い翼を消失させた。

「怖い怖い。たった一週間で、ただの人間が異能譲渡を完璧に使いこなすなんて……。相当強い絆で結ばれているみたいだ。羨ましいな。僕もこの子と、そんなふうになれるといいんだけど……」

 その様子を目にした大鴉は妹の身体が地面に叩きつけられる前に抱き留め、ポツリと呟いた。

  (大鴉様にとっては……。無音は花嫁ですもの……。酷い目に遭わすつもりは、ないのかしら……?)

 彼の真意を探るべく、羽音は瞳を潤ませて懇願した。

「大鴉様……。妹は、何よりも死を恐れています。ですから、どうか……」
「生かしてやれって? 本当に君は、慈悲深いんだね。あんなに妹から罵倒されていたのに、まったくへこたれないなんて異常だよ」
「貴様……! 俺の羽音を、異常者扱いするとは……! 万死に値する……!」

 小馬鹿にしたような笑みを浮かべた男の姿を目にして、怒り狂うものがいた。
 それは羽音の夫、藤郷だ。
 彼は呆れたように肩を竦めると、鬼神への攻撃を止めた。

「あー、はいはい。君達が案外お似合いだってことは、よくわかったから。今日は撤退するよ」
「もう二度と、鬼東の地に脚を踏み入れるな……!」
「それは約束できないよ。ほら、喧嘩するほど仲がいいって、よく言うし?」

 大鴉は藤郷と自分を指さし、口元を綻ばせる。
 それが火に油を注ぐ行為だと、わかってやっているのだろう。

「貴様……!」
「おっと。じゃあね、羽音ちゃん。また今度」

 二人の争いを止めようか迷っている間に馴れ馴れしくこちらの名を呼んだ男は、虚ろな目をして虚空を見つめる無音を再び俵担ぎする。
 その後、漆黒の六芒星を描いて鬼東から姿を消した。

  (助かった、の……?)

 羽音は知らず知らずのうちに、緊張していたらしい。
 背中の翼を消失させてほっと胸を撫で下ろした直後、かくんと力なく崩れ落ちる。

「羽音……!」

 もう少しで小さな身体が地面に叩きつけられると言うタイミングで彼女の危機を救ったのは、愛する妻の名を呼んで抱き留めた藤郷だ。

「藤郷、様……。申し訳ございません……。妹が……」
「無理に話すな……!」
「私はいつも……。藤郷様を焦らせ、不安にさせてばかりですね……」

 鬼神は今にも泣き出しそうなほど羽音の満身創痍な姿を見下すと、小さな身体を軽々と持ち上げて濡れ縁から母屋へと入っていく。

『大変だ。花嫁様、大ピンチ』
『準備、早急』

 二人の様子を目にした小鬼達も、慌ただしく屋敷の中を走り回る。
 夫婦の部屋で寝床の準備を進めているようだが、布団の上に横たわるまでは持ちそうにない。

  (藤郷様の身体は……。いつだって炎のように、暖かいのね……)

 ――彼の胸元に身体を預けた羽音は、疲労を回復するために意識を失った。