西風の屋敷から拉致された羽音は鬼神に抱きかかえられ、季節外れの桜が満開の花を咲かせる丘まで転移してきた。

 彼は着物が汚れるのも厭わずにそこへ腰を下ろすと、語り出す。
 4000年前、二人が初めて出会った時のことを――。

「400年に一度転生を繰り返し、まったく同じ運命を辿る君を手に入れるため、何度も試行錯誤を繰り返した。そして、10回目の今日。俺はついに、君を娶ることに成功した」
「そう、でしたか……」

 鬼神の膝上に座ってここに至るまでの経緯を静かに聞いていた羽音は、ぼんやりと考える。

  (鬼神様は、鬼炎花藤郷様と仰るのね……)

 話の流れで彼の真名を知ってしまったが、声に出さずに心の中で繰り返すだけに留めたのは――それを人間のように軽々しく口にするようなものではないと、よく理解していたからだ。

  (こんなにも長い間、私を愛してくださったなんて……)

 今日初めて会うのに、なんだかそんな気がしないのは――こちらを覗き込む彼の瞳が、優しく和らいでいるからなのだろう。

「ああ……。羽音……。俺の最愛……。君と再び会話ができるなど、夢のようだ……!」

 鬼神は赤い瞳から大粒の嬉し涙を流すと、自分との再会を喜んでくれる。
 誰かに愛された経験がほとんどない羽音は、どこか困ったように眉を伏せ……。
 居心地が悪そうにか細い声を発した。

「そんな……。大袈裟、ですよ……。私に、当時の記憶はありませんし……」
「心配ない。俺が全て、覚えている」
「でも……」
「聞きたいことがあるなら、遠慮せずに言ってくれ。その気持ちを、否定するつもりはない」

 羽音は大きく瞳を見開き、驚いた。
 西鳥で妹として生きるのを余儀なくされていた時は、どれほど疑問を抱いてもそれを解消するのは許されなかったからだ。

  (発言を許されるなんて、8年ぶりだわ……)

 誰にも見向きもされない処か、心ない言葉をぶつけられ続けた自分にとって、彼の接し方は心の奥底から切望しているものだった。

(彼は私を、生贄としてではなく……。一人の人間として、接してくださるのね……)

 その喜びで胸がいっぱいになった羽音はとびきりの笑顔を浮かべると、彼の名を呼ぶ。

「はい。ありがとう、ございます。藤郷様」
「ぐ……っ」
「きゃあ……っ」

 胸元を押さえた彼は、腹部から上半身をくの字に曲げた。

  (頭同士が、ぶつかってしまうわ……!)

 あまりの勢いに驚いて身体を仰け反らせれば、彼の整った顔が近づいてくる。
 羽音は小さな身体を小刻みに震わせて怯えたが――。

  (藤郷様ったら……。耳まで、真っ赤だわ……)

 熟した林檎のように赤面する鬼神の姿を見て、身の危険はないと判断する。

  (熱でも、あるのかしら……?)

 心配になった羽音が、オロオロと視線をさまよわせて何かしてやるべきなのかと悩む。
 すると――足元から複数人の声が聞こえてきた。

『主様、喜んでる!』
『4000年ぶりだもん。当然だよ』
『みんなも、ひさしぶり!』
『花嫁様、お帰り!』

 そこにいたのは頭に小さな角が二本生えた、体長15cmほどの小鬼達だった。
 彼らは棍棒を片手にぶんぶんと振り回し、羽音との再会を喜んでいる。

  (私は初めましてだけれど……。この子達にとっては、ひさしぶりなのね……)

 なんとも言えない気持ちになりつつも、挨拶をしかけた時だった。

『あ……!』
『また、やっちゃった!』
『大変。大騒ぎ。異常事態!』

 彼らの手にした武器が小さな指先から抜け、満開の花を咲かせる桜の枝の上まで飛んで行ってしまう。
 棍棒を無くした小鬼は大慌て。
 うるうると瞳を潤ませる。

「う……。すまない。羽音……。君から真名を呼ばれると、嬉しすぎて……どうにかなってしまいそうだ……」
「そう、でしたか……」

 目の前では顔を紅潮させた藤郷が恥ずかしそうに胸のうちに秘めていた想いを吐露し、右下では小鬼達がお祭り騒ぎを繰り広げる。

  (あの子……。かわいそうだわ……)

 西鳥の屋敷で妹として暮らしていた時、たくさんの人から心ない言葉を投げかけられた。
 どうして誰も助けてくれなったのかと泣いた日は、数え切れない。

  (無音のことを、もっと気にかけていれば……。入れ替わりだって、提案されなかったはずだもの……)

 だが……。
 それも全て、無音に対する扱いが自分に返ってきただけなのだ。

  (もう二度と、見て見ぬふりなんてしないわ……)

 妹の代わりに、長い間苦しみを体験したからこそ。
 羽音は悲しんでいる人や困っている人を見たら、手を差し伸べようと決めていた。

「藤郷様。少しだけ、お側を離れます」
「羽音!? どこに行く……!」
「ご安心ください。桜の木に引っかかっている、棒を取りに行くだけです……」
「貴様ら……。またやったのか……」

 鬼神はすぐさまそれを止めたが、羽音は背中に翼を生やして拒否する。
 彼の目が怯える小鬼達に向いた瞬間を狙い、大空へと羽ばたく。

『見て! あの時と一緒!』
『褒めて!』
『花嫁様を好きになったきっかけ!』
『主様が、将来の伴侶としてあの子を選んだ!』

 彼らは代わる代わる騒ぐ声を耳にしながら、無事に武器を回収する。

「羽音!」

 藤郷はスッと立ち上がり、両手を広げて地上に降下した羽音を待ち構えていた。

  (このまま大空に飛び立てば、翼を持たぬ藤郷様は追いかけて来られない。私は、自由になれる……)

 そんな不相応な願望が、頭の中を駆け巡る。
 けれど――己を待つ鬼神がこちらを見る目は、小さな身体を腕に抱いた時から優しく和らいでいた。

  (彼はきっと、悪い人ではないわ……)

 心の底から羽音を大切にしているのは、数分面と向かって言葉を交わしただけでも読み取れた。

  (今だって……。私が戻ってくるのを、待っていてくださっているもの……)

 自らの意思で彼と決別をする方が、身の危険を感じる。
 そう考えた羽音は鬼神が手を伸せば届く距離までやってくると、異能を解除した。

「お帰り。俺の花嫁」
「……ただいま、戻りました」

 口元を綻ばせた藤郷に抱き留められ、羽音はぎこちなくはにかむ。

 その拍子に小さな指先から転がり落ちた棍棒が、しっかりと小鬼達に回収されていく姿を眺めた。
 すると……。
 意識を自分のほうに集中させようと目論む、彼の低い声が耳元で囁かれて固まった。

「このままずっと、俺の妻として生涯をともにしてくれるな?」
「……っ」

 藤郷の申し出を受け、はっと息を呑んだ。
 即答など、できるはずがなかった。

 あちらが一方的に自分を知っていても、羽音は彼が優しい青年であること以外は何もわからないのだから。

  (でも……。娶った娘をすぐに始末してしまう大鴉様に嫁ぐよりは……。ずっと、いいはず……。よね? 眷属達も、とてもいい子揃いですもの……)

 ――長い逡巡の末、覚悟を決めた羽音は藤郷の妻となった。

「……はい。藤郷様。どうぞ、よろしくお願い申し上げます……」
「我が最愛の妻、羽音……! こちらこそ、よろしく頼む……!」

 ――それから季節外れの桜が舞い散る丘では、二人の結婚を祝福するあやかし達が集まってお祭り騒ぎが始まる。

  (みんな、喜んでいるみたい……)

 目を白黒させながらその光景を見つめた羽音は、ひとしきり突如開催された催しを楽しむ。

「行こう、羽音。これからともに暮らす、鬼炎花の屋敷を案内してやる」
「はい……」

 そして、そこからほど近い純和風のお屋敷に招かれ――夫婦二人の生活が始まった。