「ここで何をしている」

 鬼東を守護する鬼神――鬼炎花藤郷(きえんかとうごう)が西鳥羽音に出会ったのは、偶然だった。

「あ、あの……。わ、私……」
「話くらいは、聞いてやる」

 無能と呼ばれる妹の名を騙って大鴉に生贄として捧げられた彼女は、その嘘が露呈し――殺されそうになったところ、命からがら逃げ出したらしい。
 そうして辿り着いたのが、真逆の方角に位置する鬼東家が治める地だった。

  (面倒な話が、舞い込んできたな……)

 四柱国の四方向に散らばった神々は、絶対不可侵を義務づけられている。
 ――大鴉の元に嫁いだ娘が鬼東の地に根ざしたなど知られたら、最悪の場合は人間同士の代理戦争に発展する。

  (西鳥の地に降り立てば、全責任はあいつになるが……。鬼東の領分で騒ぎを起こされては堪らん)

 なぜ自分が仲の悪い大鴉の尻拭いをしなければならないのかと眉を顰めた藤郷は、薄汚れた着物に身を包んで小さな身体を震わせる女性に手を差し伸べた。

「来るか」
「え……?」
「あいつが嫌なら、匿ってやる」

 彼女は何度か逡巡したのち、こちらの大きな手に触れた。

「私は、西鳥羽音と申します……。あの、あなたは……?」
「鬼神とでも呼んでくれ」

 藤郷はあえて、名乗らなかった。
 真名の開示はあやかし達にとって、生殺与奪の権利を相手に与えるのと同義だからだ。

  (この女は鬼東の娘でもなければ、生贄に捧げられた花嫁ではない……)

 だからけして、好きになってはいけない。
 そう己を律し、無関心を貫くはずだったのに――。

『ああ、やっちゃった』
『大変。棍棒、ないと一人前になれない』
『無能の烙印押される』
『嫌だ、怖い』

 棍棒を振り回していた小鬼達が、大輪の花を咲かせる桜の枝へそれを飛ばしてしまった。

「ここで、待っていて」

 彼らの代わりに武器を回収するため、背中に純白の翼を生やした彼女の姿を目にした瞬間――心臓を撃ち抜かれた。

『人間、凄い!』
『翼、生えた』
『きらきら!』

 ひらひらと舞い散る桃色の花弁に紛れる羽音は長い髪を風に揺らし、棍棒を回収して静かに土の上に降り立つ。
 その姿はまさしく、空から舞い降りし天女のようで――。

「はい、どうぞ」

 小鬼達に優しく微笑んで武器を手渡す姿を目にした瞬間、何かに突き動かされるように羽音を抱きしめていた。

「きゃ……っ」
「すまない……。少しだけでいいんだ……。どうか、このまま……」
「鬼神、様……?」

 力を入れて抱きしめたらすぐに折れてしまいそうな細い身体を腕に抱いた藤郷は、戸惑う彼女から紡がれた名前が真名ではなかったことに落胆した。

  (俺が、自分でそう呼べと言ったんだろう。西鳥の娘を、無条件で信頼するわけにはいかないと……)

 ただの鬼から神になった日。
 先代から人間の娘を400年に一度娶れるのは光栄なことなのだと言われても、どうにも興味を抱けなかった。

  (人間とはか弱く、神々のように永遠の命は持ち合わせてはいない……。どんなに愛を注いだところで、数十年後には悲しい別れが待ち受けている。好き好んで娶るなど、どうかしている……)

 そんな気持ちを抱いていた藤郷は、羽音と出会ったことで己の主張を変える。

  (彼女と夫婦になるため、俺は鬼神として選ばれたんだ……!)

 その想いに気づいたら、止まれない。
 彼は熱を帯びた瞳で羽音を見るようになった。

『主様、惚れちゃった』
『人間の娘。結ばれてはいけない人に』
『大変だ。あの子は大鴉のものなのにね』
『襲ってくるよ』
『みんなでやっつけよう!』

 配下の一部は不安そうにぼやいていたが、彼らは最初から大人しい性格の羽音に懐いてよく遊んでいる。
 棍棒を手にした彼らは鬼神の意思と小鬼の総意を確かめると、来たる日に向けて訓練を始めた。

  (幸せな日々は、長くは続かん……)

 いつか必ず終わりが来るとわかっているのなら、悲しい結末を迎えなくて済むように対策を練ればいいだけだ。

 藤郷は手始めに、彼女と永遠の時を過ごせる手段を探し始めた。

  (やはり、鬼にするしかないか……)

 想いを通じ合わせた状態で異能譲渡を何度も繰り返せば、いずれ小さな身体は人ならざるものへと変貌を遂げる。

  (そのためには……。俺が彼女を愛しているだけでは足りん。同じ分だけの想いを、懐いてもらわなければ……)

 そう結論づけた鬼神は、彼女の信頼を勝ち得るためにありとあらゆる物を貢ぐ。

 一日目は着物。
 二日目は香油。
 三日目は小鬼達とお揃いの棍棒。
 そして、四日目は――。

「まぁ……。これは……。髪飾り、かしら……?」
「ああ」
「とっても、暖かいわ……」
「俺の炎を込めた。何があっても、君を守れるように」

 彼女の背中から生える翼を象った装飾品を目にした羽音は、それを頭部につけて優しく微笑んだ。

「よく、似合っている」
「ありがとうございます、鬼神様。ただの居候に、こんなにもよくしてくださるなんて……。なんて、素敵な殿方なのでしょう」
「惚れたか?」

 藤郷は冗談めかして茶化したのを、すぐに後悔した。
 彼女が気まずそうに視線を逸らすのを見たからだ。

「……冗談だ」

 嫌われては元も子もないと考えたからこそ。
 鬼神はあえて、嘘をつく。

  (うまくいかないな……。どうにも、乱される……)

 ――まさか数日後、この選択を後悔する羽目になるなど思わずに。