――翌日。
ついに、羽音が生贄として大鴉に捧げられる日がやってきた。
「我らが西鳥を守護せし大鴉様。今代の生贄として、我が娘無音を捧げます」
作務衣を身に纏った父親が、天に祈りを捧げている。
絢爛豪華な菊の花が象られた黒色の死装束を身に纏った羽音は、その光景を中央で虚ろな瞳で見つめていた。
(私は無音じゃなくて、羽音なのに……)
神々の召喚には、長い時間がかかる。
姉は何度も両親の口から語られる妹の名前に辟易しながらも、身動き一つせずにその儀式が終わるのを待っていた。
しかし――その空虚な時間は、突如として終わりを告げる。
「俺の花嫁に心ない言葉を投げかけただけでは飽き足らず、大鴉の供物にするだと? 貴様らは何千年経っても変わらんな」
畳の上に五芒星が描かれた直後、その中央に燃え盛る炎を全身に纏わせた着物姿の美丈夫が現れた。
男は苛立ちを隠せぬ様子で、和室に集まっていた人々をぐるりと見渡して吐き捨てる。
「な……っ!?」
西鳥の人々は、その光景を目にして驚きの声を上げた。
男の頭部に、角が生えていると気づいたからだ。
それはこの地に姿を見せるはずがない、鬼の特徴と一致していて――。
「我々は大鴉様を呼んだはず……!」
「なぜ、東を守護する鬼神がここにいるんだ!?」
「我が花嫁の危機を、救うためだが」
彼は悪びれもなくそう口にすると、こちらへ歩み寄る。
(逃げないと。私は無音の代わりに、大鴉様の元へ嫁がなければならないのに――)
羽音はなぜか、鬼神から目を離せなかった。
(どうして、かしら……? 心臓がドキドキと、音を立てて……。疼いているわ……)
まるで彼に触れられるのを望んでいるかのように――胸の高ぶりを止められない。
その理由がわからず首を傾げている間に、小さな身体は鬼神の逞しい腕に抱きしめられた。
「ああ、ようやく捕まえた……。俺の花嫁。もう二度と、離さない……」
自身に対する執着心を隠すことなく囁かれた言葉を聞いて、羽音は目を見開く。
それは本来、自分ではなく無音に向けられるべき感情だと瞬時に理解したからだ。
(胸を高鳴らせて……。馬鹿みたい……)
期待して損したとばかりに落胆の色を滲ませて暗い顔をするが、彼と触れ合った場所から伝わる熱から逃れる気にはどうしてもなれない。
(私はこれから一体、どうなるのかしら……?)
未来を案じて目を細めると、後方から無音の叫び声が聞こえてきた。
「お、鬼神がこんなに目麗しい美男子なんて、聞いていないわ!」
それを耳にした姉は、ふと我に返る。
(ここには、西鳥家の人々が大勢集まっているもの……。私が羽音だと、叫ぶわけにはいかないわ……)
それでも、このままと言うわけにはいかないだろう。
姉はさり気なく鬼神を妹の元へと向かわせるため身を捩ったが、びくともしなかった。
「俺から逃げたいと思うほど、嫌悪を抱いているのか?」
羽音はそんなつもりはないと、首を振って否定する。
「なら、大人しくしていろ。悪いようにはせぬ。俺は君を、深く愛しているのだからな……」
すると、彼の口から想像もしていなかった言葉が紡ぎ出されて目を見張った。
(愛、して……? 無音、を……?)
やはり自分は、彼の腕に抱かれるべきではない。
(やっぱりこの場で、入れ替わっていることを伝えるべきなんじゃ……!)
そう確信を持った羽音は、助けを求める視線を無音に向けるが――姉妹の目線は交わらなかった。
妹が姉ではなく、鬼神を見つめていたからだ。
「あたし! あなたにだったら、嫁いでもいいわ!」
「羽音……!? 何を言っているんだ!?」
「無音を西鳥家の跡取りにするなど、冗談ではない!」
「無能はしきたり通り、神々に捧げないといけないわ! どんな災いが降りかかるか、わかったものではないもの……!」
この場に集まった大人達は口々に無音を止めた。
心ない言葉をぶつけられた羽音は、悲しそうに目を伏せる。
それは、自身に向けられた内容に傷ついたわけではない。
この地に残される妹の身を、案じてのことだった。
(この地に無音が一人だけ残されたら……。いつか必ず、嘘が露呈するわ……。その時、あの子は……どうなるのかしら……?)
恐ろしい未来を思い浮かべた羽音は、姉妹が大鴉と鬼神、それぞれに嫁ぐことこそがこの地に平和を齎す唯一の方法なのではないかと考え――行動に移した。
「鬼神様……。恐れながら、申し上げます」
「なんだ」
「無能のこの身はしきたりに従い、大鴉様に捧げーー」
「あの男に嫁ぐのは、君ではない」
「ですが……あなた様の花嫁は、私ではなく羽音です……」
「ああ。知っている」
そんな姉の思いに同調するように、父親が声を震わせて鬼神にお伺いを立てたのだが……。
交渉は一瞬で決裂した。
「俺の花嫁は、4000年前から生涯たった一人。西鳥羽音。君だけだ」
低い声で爆弾発言が囁かれたからだ。
それを聞いた羽音の目は、驚愕に見開かれる。
(まさか、このお方は……! 真実を、知っているの……!?)
そんな一瞬の隙を、鬼神は見逃さない。
「貴様のようなずる賢い女は、大鴉に食い殺されるのがお似合いだ」
「な……!」
顔を真っ赤にして怒り狂う無音に向かってそう吐き捨てた彼は、再び畳に炎を纏わせた五芒星を描き――転移術を使い、羽音を連れ去った。
