『主様、まだ?』
『帰ってこないね』
『羽音、そっちに球が飛んでった!』

 一仕事終えて鬼東の裏山に戻ってき藤郷は、棍棒を振り回した小鬼達が放つ球を受け止める妻の姿を見捉え、目を丸くした。

「投げるよ……!」

 背中に翼を生やした羽音は彼らに一言かけてから、それを投げる。
 どうやら鬼神が帰ってきたのには気づいていないようだ。

  (平和だな……)

 へなへなと放物線を描く球に小鬼達が狙いを定める中、藤郷は妻の前に姿を表し――小さな球体を素手で受け止めた。

「藤郷様!」

 空中に浮遊していた羽音はぱっと表情を明るくさせ、翼を消失させて夫の胸に飛び込んだ。

「お帰りなさい!」
「ああ、ただいま」

 今日も愛しき妻が、かわいくて仕方がない。
 鬼神は優しく口元を綻ばせると、彼女を抱きしめる力を強める。
 布越しに肌を触れ合わせて伝わる熱にうっとりと頬を紅潮させた羽音は、不思議そうに問いかけた。

「藤郷様……。なんだか、元気がないような……?」

 異能譲渡を済ませた二人は、離れていても強い絆で結ばれている。
 だからこそ、己の身に循環する炎の量が少なくなれば、羽音にも伝わるのだろう。

  (これは盲点だったな……)

 無音との戦いに勝利し成長した妻は、4000年前よりも遥かに逞しくなっている。
 守られるだけではなく、害をなす敵を退ける力を手に入れた。

  (過去ではなく、今の羽音を見てやらなければ……)

 長い時を費やし、ようやく手に入れた幸福だ。
 妻の機嫌を損ね、手の届かぬところに逃げ出されるのだけは避けたい。
 鬼神は羽音を心配させぬように、あえて嘘をつく。

「買い物に出かけたところ、大鴉に襲われてな……」
「諍いに発展したのですね!? だ、大丈夫でしたか!?」
「ああ。問題ない。無事に勝利を収めた」
「よかったです……」

 ほっと胸を撫で下ろした彼女が、全身から力を抜く。
 藤郷は西鳥からくすねて来た髪飾りを取り出し、前髪につけた。

「これは……?」
「少し古ぼけているが……」
「私に、くださるのですか……?」
「ああ。それは、羽音のものだ」

 4000年前に彼女へ送った純白の翼を象る装飾品は異能をかけられてどうにか原型を保ち、西鳥の蔵で眠っていた。

  (羽音が400年に一度転生輪廻を繰り返すなど、当時は思っても見なかったからな……)

 持ち主の元に戻るまで随分と時間がかかってしまったが――これからはずっと、羽音の頭部にその髪留めが輝き続けるだろう。

「ありがとう、ございます。なんだかこの髪飾り……。つけていると、暖かな気持ちに包まれるような気がします……」
「ああ……。それには、俺の異能を込めたからな」
「藤郷様の炎が……」

 妻はうっとりと瞳を潤ませ、喜びを露わにする。

「離れていても……。ここに触れると、藤郷様を感じられるなんて……とても嬉しいです」
「ああ。喜んでもらえて、俺もよかった」

 羽音と藤郷が見つめ合い、甘い雰囲気を醸し出したからだろう。
 小鬼達は空気を読んで姿を消した。

  (頃合いか……)

 彼女にあの提案をするなら、今しかない。
 そう考えた鬼神は柄にもなく、自信なさげな声音でボソボソとある願望を口にした。

「今すぐでなくてもいい。これは、いずれの話だ」
「はい。なんでしょう……?」
「――鬼に、ならないか」

 不思議そうに小首を傾げた妻を抱きしめたい気持ちをぐっと堪えて吐き出す。
 その直後は恐ろしくて、羽音のほうは見られなかったが――。

  (冗談ですよねと問われるなど、冗談ではない……)

 しっかりと目を見てこちらが本気だと伝えるべきだと考え直し、言葉の続きを紡ぐ。

「あやかしとなり、俺と永遠に同じ時を過ごしてほしい」

 ようやく最愛の彼女を妻として娶れたのに、関係が悪化する可能性があるのだ。
 もしも断られたらと思うと、気が気ではなかった。
 だが――。

  (もっと話をしておけばよかった。そう、4000年もの間後悔していたんだ。訪れるかもしれぬ未来に怯えていては、手に入るものも掴み取れんからな……)

 そう思い直した藤郷は妻の口から答えが紡がれるのを、額から脂汗を滲ませて待っていた。

「私が、鬼に……?」
「ああ。もちろん、すぐに答えを出す必要はない。俺にとっては一瞬だが、君にとっては長いだろう。30年程度、ゆっくりと考え……」
「いいえ。そんなに悠長なことなど、言ってなどいられません」

 羽音は左右に首を振ったあとうっとりと瞳を潤ませ、藤郷の頭部にある立派な鬼の角を見つめて告げた。

「藤郷様とお揃いの角を頭部に生やせるなど、夢のようです」

 藤郷が驚いて目を見開けば、羽音は自分の頭に小さな角が生えた時の出来事を想像して不安そうに口を尖らせた。

「鬼になった瞬間、ニョキッと飛び出てくるのでしょうか? なんだか、痛そうです……」
「人間からあやかしへ、身体が作り変わるんだ。激痛は避けられないかもしれないが……」
「あ、いえ……! それが嫌で、断るつもりはありません。私には、藤郷様しかいないので……」

 彼女は意外にも、あやかしへ生まれ変わることに好意的な反応を見せた。
 本当にいいのだろうかと探るような視線を向ければ、愛しき妻は口元に人差し指をくっつけてかわいらしく片目を閉じた。

「20歳になったら、私を鬼にしてくださいね」

 その破壊力は、効果抜群だ。
 鬼神は胸を撃ち抜かれるような衝撃を受け、膝から崩れ落ちたい気持ちでいっぱいになりつつ、ぼんやりと考える。

  (そんなに早く、あやかしになっていいのか……?)

 藤郷は不安になったが、彼女の決意は固い。

「そばに、居させてください。あなたの気が済むまで、ずっと」
「ああ。死ぬ時は、一緒だ」

 愛する妻に望まれた以上、その願いを叶えずに拒むなどできるはずがなかった。

「羽音。愛している」

 耳元でそう囁いた藤郷は腕に抱いた彼女のぬくもりを堪能し、多幸感に包まれる。

  (何があっても。俺はこれからも、羽音だけを愛し続ける……)

 ――鬼神は今から4000年前、偶然であった少女に恋をした。
 東と西。
 真逆の地で生まれた二人は本来であればけして、結ばれることはない。

「もう二度と、離さない」
「はい。私はもう、どこにも行きません」

 ――だが……。
 藤郷は羽音と死に別れても、けして諦めなかった。
 長い時間を費やし、ようやく彼女と夫婦になったのだ。

「俺の最愛……」
「大好きな鬼神様。いつまでも、ともに……」

 大輪の花を咲かせた桜の木の下で二人は唇同士を触れ合わせると、愛を確かめ――今度こそ彼女を転生させずに、生涯幸福な毎日を夫婦で過ごすと誓った。