それはあまりにも唐突であった。
「私、見えるの!」
時は少し巻き戻り、2024年4月8日。
花崎夏凛は松澤高士を呼び止め――高らかに宣言したのである。
その頃と言えば、桜の花びらが舞い散り、古びた校舎の中で期待と不安が入り交じった感情で、黒板を見つめていた季節。いわゆる新学期が始まった日のこと。
教室の中では、慣れない空気感に戸惑いながら、背の小さな女性教師が探り探りで1週間のスケジュールを説明している。2年B組の松澤高士は席が後方であることを良いことに、心の中で頭を抱えていた。
完全に孤立したのである。仲の良かった男子のクラスメイトはほぼいない。女子とも程よくしか話していなかったせいで、今の彼は完全新空間に投げ出された子犬のようだった。放っておくとこのまま窒息してしまいそうな雰囲気だ。
勝負はこの1週間。ここでこの1年の立ち位置が決まると言っても過言ではない――。彼はそう考えた。それはあながち間違っていなくて、集団の空気感というのは時間が経つごとに成熟していく。全員が浮き足立っている今は、1週間もすればその仮足場が出来る。そこで脱落していると、組み立てられていく足場に乗り遅れ、最終的には見上げることしか出来なくなってしまう。
松澤はクラス内のカーストに敏感だった。上に立ちたいわけではないが、下になりたいわけでもない。いわゆる《《当たり障りのない人生》》を送ってきたから、自分というものが無かった。いや、今の彼は探そうともしていない。ただ何事もなく、この高校生活を終えることができれば、それで良かったのだ。
「――え?」
「だから、私、見えるの!」
そんな彼の前に立つ少女は――対照的にまるで太陽のようだった。まぶしくて目を背けてしまいたくなるような。でもどこか暖かくて、近くに居ると心が安らぐような不思議な雰囲気を纏った少女。
周りに人が居ようが関係なかった。夏凛はまるで欲しいものを見つけた子どものように、一目散に彼に駆け寄り、思ったことをぶつけた。
「な、何の話?」
けれど、彼は冷静だった。言葉の意味が分からないという事実は変わらない。同時にこの状況が飲み込めないながらも、問いかける臨機応変さはあるようだった。
それに気づいた夏凛は、慌てながらも嬉しそうに補足する。同時に自身の言葉足らずさに気づいた様子だった。
「あ、ご、ごめんね。ついテンション上がっちゃって」
「い、いや全然」
「私のこと分かる?」
彼女がぐいっと彼に近づき、問いかける。その圧に、彼は狼狽えながらも答える。
「えっと……同じクラスの花崎さん、だよな。それぐらいは分かるよ」
「良かったー。名前覚えててくれたんだー」
彼女が醸し出す甘い香りは、松澤の鼻を抜けて頭をしびれさせる。
夏凛は安堵するが、彼女は学年の中でも比較的有名人だった。
縁なし眼鏡を掛けていても、その整った顔立ちは印象的。今日は長く伸びた黒髪を束ねているが、気分次第で髪型を変える女子力のかたまり。男子の人気も高く、女子からの信頼も厚い。何よりその真っ直ぐで明るい性格もあって、必然的にクラスの中心にいるような人物だった。
そんな彼女は周囲を見渡して、思いがけぬ提案をする。
「まあここでも良いけど、ちょっと屋上行かない?」
「お、屋上? なんでわざわざ」
松澤は思わず動揺した。それもそうだ。思春期の男女が二人きりになろうとしている。そこまでするということは、松澤の脳内に一つの結論。まさに告白のシチュエーションである。
「えーっ。それ聞いちゃうー? なんてね」
「茶化さないでくれよ」
「あはは」
夏凛は煽る。ただそれは、彼女は松澤の思考を十分に理解していたからこその発言であった。
そのまま彼女が階段を上がっていくと、松澤もそれに続いた。彼としてはよく分かっていないのが本音だったが、このまま無視して帰る方が気持ち悪かった。
それに、あの花崎夏凛が自分を呼び止めて、そして屋上へ誘った。そんな麻薬的な甘い匂いに釣られない男はそうそう居ないのが現実だ。
「良かったー! 誰も居ないや」
「別に関係ないんじゃないか?」
「だってほら、《《ここで告白する人も多い》》って知ってる?」
「……まあ噂程度には」
夏凛は告白という単語を強調したが、それは松澤がいま一番ドキッとするフレーズだと分かっているからだ。彼女は目を掻くフリをして一瞬だけ眼鏡を外す。真っ直ぐ彼を見つめ、そして胸は再び高鳴っていく。
昼間ということもあり、校舎の屋上は春色全開の雰囲気に包まれていた。綺麗な青空と優しい日差しが、二人を出迎えている。風が強い日には桜の花びらが届き、春の空気を助長させるのだが、この日は思ったより風は弱い。
「それで、要件はなんなんだよ。見えるって、何が見えるのさ」
ここまでじらされたからか、松澤が畳み掛けるように問う。
入り口近くで立ち止まる彼と、少し歩いて彼に背を向ける彼女。意図せずして呼び出した人と呼び出された人の構図が出来上がっていた。
眼鏡をかけ直した夏凛がゆっくり振り返る。すると同時にさっきまで大人しかった風が吹いて、桜の花びらと彼女の甘い匂いが松澤に優しくぶつかった。頭がクラクラしてしまうような感覚だった。
「私は、人の恋心が目に見えるの」
半身振り返った彼女の大きな瞳が、ガラス越しに彼の心を見つめる。覗き込む。
人の恋心が目に見える――。真っ直ぐ、ハッキリ、ストレートに彼女が言った言葉の意味を、松澤は全く理解出来なかった。
「だから茶化すなって。一体――」
「冗談じゃないよ。本当なの」
そんな彼をよそに、勝手に話が進んでいく。自身だけ取り残された感覚に襲われ、松澤は固唾を飲む。この空間だけ切り離されたような孤独感に近かった。
「……どういうことだよ。意味が分からないって」
彼は冷静を装っていたが、この先の展開があまりにも読めなくて焦りに変わっていた。声のトーンも先ほどより上ずることも増え、その動揺は夏凛にもハッキリと伝わっていた。
信じる信じないの話ではない。純粋に言葉の意味が分からなかった。松澤の感覚として、人の恋心は見えるモノではないと思っていたから。そしてそれは間違っていない。この場合、一般的におかしなことを言っているのは、紛れもなく花崎夏凛であった。
「意外とビックリしないんだ。私も初めて人に言ったから」
「言葉の意味が分からないだけだぞ。これでも驚いてる」
「そっか。そうだよね」
夏凛は松澤と向き合って、小さく咳払いをした。
「私さ、昔から他人の好きな人が見えるんだよね。オーラって言うの? それがハッキリと」
にわかには信じがたい話である。無論、松澤もその一人で、反応に困って苦笑いするしかなかった。これを冗談っぽくあしらうほどの仲でもなかったから。
「信じてないでしょ。まあ信じろって言う方が無理か」
「まあ……やっぱり意味分からない」
「そうだよね。でも私は、見えるモノだって思って生きてたんだよ。話が通じない苦しみも理解してほしいな」
「いや無理言うなよ……」
松澤は胸の前で腕を組んで考えた。花崎夏凛という人間との関係はほぼ無いに等しいが、彼女が嘘を言っているようにも思えなかった。
それは彼が知っている『真面目で快活で優しい』という性格の印象が大きく影響していた。
彼女が嘘を吐くはずがない――花崎夏凛が1年間掛けて作り上げたイメージの結晶である。
「で、その恋心が見えるからなんなんだ? 俺は別に関係ないだろ?」
言いたいことは山ほどあったが、彼はその全てを一旦飲み込んだ。長々と彼女の話に付き合う気になれなかった。
「それが大アリなんだよ。私もビックリなんだけど」
だが夏凛は彼の思惑を真っ向から否定した。松澤の頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。彼女はクスクス笑いながら、再び彼と向かい合う。
「見えないんだよ。松澤君にはそれが」
夏凛はさらに一歩近づいて、彼の胸に人差し指をツンと当てる。松澤は驚きながらも、その大きな瞳に縛られるみたいで何も言えなかった。
「私、見えるの!」
時は少し巻き戻り、2024年4月8日。
花崎夏凛は松澤高士を呼び止め――高らかに宣言したのである。
その頃と言えば、桜の花びらが舞い散り、古びた校舎の中で期待と不安が入り交じった感情で、黒板を見つめていた季節。いわゆる新学期が始まった日のこと。
教室の中では、慣れない空気感に戸惑いながら、背の小さな女性教師が探り探りで1週間のスケジュールを説明している。2年B組の松澤高士は席が後方であることを良いことに、心の中で頭を抱えていた。
完全に孤立したのである。仲の良かった男子のクラスメイトはほぼいない。女子とも程よくしか話していなかったせいで、今の彼は完全新空間に投げ出された子犬のようだった。放っておくとこのまま窒息してしまいそうな雰囲気だ。
勝負はこの1週間。ここでこの1年の立ち位置が決まると言っても過言ではない――。彼はそう考えた。それはあながち間違っていなくて、集団の空気感というのは時間が経つごとに成熟していく。全員が浮き足立っている今は、1週間もすればその仮足場が出来る。そこで脱落していると、組み立てられていく足場に乗り遅れ、最終的には見上げることしか出来なくなってしまう。
松澤はクラス内のカーストに敏感だった。上に立ちたいわけではないが、下になりたいわけでもない。いわゆる《《当たり障りのない人生》》を送ってきたから、自分というものが無かった。いや、今の彼は探そうともしていない。ただ何事もなく、この高校生活を終えることができれば、それで良かったのだ。
「――え?」
「だから、私、見えるの!」
そんな彼の前に立つ少女は――対照的にまるで太陽のようだった。まぶしくて目を背けてしまいたくなるような。でもどこか暖かくて、近くに居ると心が安らぐような不思議な雰囲気を纏った少女。
周りに人が居ようが関係なかった。夏凛はまるで欲しいものを見つけた子どものように、一目散に彼に駆け寄り、思ったことをぶつけた。
「な、何の話?」
けれど、彼は冷静だった。言葉の意味が分からないという事実は変わらない。同時にこの状況が飲み込めないながらも、問いかける臨機応変さはあるようだった。
それに気づいた夏凛は、慌てながらも嬉しそうに補足する。同時に自身の言葉足らずさに気づいた様子だった。
「あ、ご、ごめんね。ついテンション上がっちゃって」
「い、いや全然」
「私のこと分かる?」
彼女がぐいっと彼に近づき、問いかける。その圧に、彼は狼狽えながらも答える。
「えっと……同じクラスの花崎さん、だよな。それぐらいは分かるよ」
「良かったー。名前覚えててくれたんだー」
彼女が醸し出す甘い香りは、松澤の鼻を抜けて頭をしびれさせる。
夏凛は安堵するが、彼女は学年の中でも比較的有名人だった。
縁なし眼鏡を掛けていても、その整った顔立ちは印象的。今日は長く伸びた黒髪を束ねているが、気分次第で髪型を変える女子力のかたまり。男子の人気も高く、女子からの信頼も厚い。何よりその真っ直ぐで明るい性格もあって、必然的にクラスの中心にいるような人物だった。
そんな彼女は周囲を見渡して、思いがけぬ提案をする。
「まあここでも良いけど、ちょっと屋上行かない?」
「お、屋上? なんでわざわざ」
松澤は思わず動揺した。それもそうだ。思春期の男女が二人きりになろうとしている。そこまでするということは、松澤の脳内に一つの結論。まさに告白のシチュエーションである。
「えーっ。それ聞いちゃうー? なんてね」
「茶化さないでくれよ」
「あはは」
夏凛は煽る。ただそれは、彼女は松澤の思考を十分に理解していたからこその発言であった。
そのまま彼女が階段を上がっていくと、松澤もそれに続いた。彼としてはよく分かっていないのが本音だったが、このまま無視して帰る方が気持ち悪かった。
それに、あの花崎夏凛が自分を呼び止めて、そして屋上へ誘った。そんな麻薬的な甘い匂いに釣られない男はそうそう居ないのが現実だ。
「良かったー! 誰も居ないや」
「別に関係ないんじゃないか?」
「だってほら、《《ここで告白する人も多い》》って知ってる?」
「……まあ噂程度には」
夏凛は告白という単語を強調したが、それは松澤がいま一番ドキッとするフレーズだと分かっているからだ。彼女は目を掻くフリをして一瞬だけ眼鏡を外す。真っ直ぐ彼を見つめ、そして胸は再び高鳴っていく。
昼間ということもあり、校舎の屋上は春色全開の雰囲気に包まれていた。綺麗な青空と優しい日差しが、二人を出迎えている。風が強い日には桜の花びらが届き、春の空気を助長させるのだが、この日は思ったより風は弱い。
「それで、要件はなんなんだよ。見えるって、何が見えるのさ」
ここまでじらされたからか、松澤が畳み掛けるように問う。
入り口近くで立ち止まる彼と、少し歩いて彼に背を向ける彼女。意図せずして呼び出した人と呼び出された人の構図が出来上がっていた。
眼鏡をかけ直した夏凛がゆっくり振り返る。すると同時にさっきまで大人しかった風が吹いて、桜の花びらと彼女の甘い匂いが松澤に優しくぶつかった。頭がクラクラしてしまうような感覚だった。
「私は、人の恋心が目に見えるの」
半身振り返った彼女の大きな瞳が、ガラス越しに彼の心を見つめる。覗き込む。
人の恋心が目に見える――。真っ直ぐ、ハッキリ、ストレートに彼女が言った言葉の意味を、松澤は全く理解出来なかった。
「だから茶化すなって。一体――」
「冗談じゃないよ。本当なの」
そんな彼をよそに、勝手に話が進んでいく。自身だけ取り残された感覚に襲われ、松澤は固唾を飲む。この空間だけ切り離されたような孤独感に近かった。
「……どういうことだよ。意味が分からないって」
彼は冷静を装っていたが、この先の展開があまりにも読めなくて焦りに変わっていた。声のトーンも先ほどより上ずることも増え、その動揺は夏凛にもハッキリと伝わっていた。
信じる信じないの話ではない。純粋に言葉の意味が分からなかった。松澤の感覚として、人の恋心は見えるモノではないと思っていたから。そしてそれは間違っていない。この場合、一般的におかしなことを言っているのは、紛れもなく花崎夏凛であった。
「意外とビックリしないんだ。私も初めて人に言ったから」
「言葉の意味が分からないだけだぞ。これでも驚いてる」
「そっか。そうだよね」
夏凛は松澤と向き合って、小さく咳払いをした。
「私さ、昔から他人の好きな人が見えるんだよね。オーラって言うの? それがハッキリと」
にわかには信じがたい話である。無論、松澤もその一人で、反応に困って苦笑いするしかなかった。これを冗談っぽくあしらうほどの仲でもなかったから。
「信じてないでしょ。まあ信じろって言う方が無理か」
「まあ……やっぱり意味分からない」
「そうだよね。でも私は、見えるモノだって思って生きてたんだよ。話が通じない苦しみも理解してほしいな」
「いや無理言うなよ……」
松澤は胸の前で腕を組んで考えた。花崎夏凛という人間との関係はほぼ無いに等しいが、彼女が嘘を言っているようにも思えなかった。
それは彼が知っている『真面目で快活で優しい』という性格の印象が大きく影響していた。
彼女が嘘を吐くはずがない――花崎夏凛が1年間掛けて作り上げたイメージの結晶である。
「で、その恋心が見えるからなんなんだ? 俺は別に関係ないだろ?」
言いたいことは山ほどあったが、彼はその全てを一旦飲み込んだ。長々と彼女の話に付き合う気になれなかった。
「それが大アリなんだよ。私もビックリなんだけど」
だが夏凛は彼の思惑を真っ向から否定した。松澤の頭の上にクエスチョンマークが浮かぶ。彼女はクスクス笑いながら、再び彼と向かい合う。
「見えないんだよ。松澤君にはそれが」
夏凛はさらに一歩近づいて、彼の胸に人差し指をツンと当てる。松澤は驚きながらも、その大きな瞳に縛られるみたいで何も言えなかった。

