想いが通じ合い、晴れて恋人同士になった俺たちは、
「なぁ、今日のそれ何の曲?」
 今日も二人で音楽室で過ごしている。
「ゲームの戦闘曲」
 いつもの席と、いつものグランドピアノ。定位置で二人は話す。
「それも耳コピ?」
「あぁ」
 奏は軽く頷き、そのゲームの戦闘曲とやらを弾く。いつも以上に激しいメロディーは戦闘曲ならではだろう。
 目にもとまらぬ速さで指が動いていて、感動を通り越して少し怖い。だがそれ以上にこれを耳コピだなんて化け物か。
(相変わらず、すげぇなぁ)
 クラシックやピアノの教本、流行のポップス以外にも奏は様々な曲を弾く。だがそれらは楽譜を買うことはなく、動画サイトに上がっている曲を聴いて覚えて弾くのだ。
 映画、ドラマ、アニメやゲームのBGMなど多種多様。ジャンルは気にせず、気に入れば弾く。ただそれだけらしい。
 でもまぁ、駿からすれば、自由に弾く彼は楽しそうなので何を弾いていようが構わないので、問題は何もない。
「ん?」
 激しい戦闘曲から、どこか聞き覚えのあるフレーズが時折交ざり始めた。
 自然と変化していった曲は、不良犬が先日投稿した曲である。これも評判は上々。可もなく不可もなくといったところだ。
 格好良くアレンジされたそれを弾く奏は楽しそうで、こちらに歌を誘うような視線もない。
 不良犬について、奏はあれから何も追求することはなかった。正体を探ることも、駿を煽るようなこともない。
 ただ不良犬が動画を投稿した後、その曲を弾いて『今回も良かった』と、駿の頭を撫でるだけ。そしてたまにアレンジを加えて今みたいに演奏するのだ。
 正直複雑な気持ちはある。やっぱり不良犬のことが気になるのではないかと。それにまだ自分自身が不良犬なのだと認めることも出来ていない。
 それでも、駿という人間を好きだと言ってくれた奏の気持ちは大切にしたいから、今はこれでいいと思っている。それに。
「ララ、ラララ」
 そんな彼のピアノに合わせて小さく歌う自分は、嫌いじゃない。



「はーい、駿クン。お時間でーす」
 気が済むまで様々な演奏をした奏が、ポンポンとピアノのイス――脚の間を叩く。どうやらレッスンの時間らしい。最近始めたお遊びだ。
「へーい」
 駿はどっこいしょ、というように立ち上がる。そして呆れたように、これ見よがしに溜息をつきながら移動するけれど、正直心臓の脈が少し速い。逃げ出したいような、楽しみのような。そして照れるような。
 拒否せずに奏の脚の間に収まる、イコールこれからの時間を駿も受け入れていると知られているのが恥ずかしいのだ。
「今日はキラキラ星な」
 座った駿の腹に片腕が回る。近い呼吸と声にドキンと胸が跳ねた。背中にある体温に意識が持って行かれそうなのを必死に耐えながら「おう」と頷く。
「覚えてる?」
「な、んとなく……」
 メロディーは覚えている。問題は弾く音だ。
 右手を下からすくい上げるように取られ、そっと鍵盤の上に置かれる。少し悪戯するように親指で駿の手の甲を撫でてから離れた。
「ドとソの場所は?」
「ここと、ここ」
 何回か弾いても慣れない手つきで押す。ポーンと響いた音が果たしてドなのかソなのかよく分からないけれど、耳元で「正解」と囁かれた。
 息が多分に含まれたそれにピクリと肩が揺れたことを指摘される前に、そのドとソの位置を頼りにキラキラ星を弾いていく、が。
「あれ?」
 知っているメロディーとは違う音が響く。間違えてしまったらしい。
「へたくそ」
 後ろでクツクツと笑われる。
「うるせー」
「ほら、こう」
 大きな手が駿の手を導く。ゆっくり、優しく。大切に触れてくれているのが分かるそれに、ドキドキするのにとても安心出来る。
 下手なりにも無事キラキラ星を弾き終え、いつの間にか止まっていた息をホッと吐き出すと、重なっていた手が駿の顎に触れた。
「はい、よくできました」
 振り返れば満面の笑みで出迎えられ、ちゅっと頬にキスされる。
「っつ」
 鍵盤以上に唇の感触にまだ慣れない。
「先生にもご褒美ちょうだい」
 甘えるように鼻頭を擦り付けられ、駿は「うぐぐ」と赤い顔で睨んでから押しつけるように頬にキスを落とした。
 ぶつかっただけのようなものなのに、奏は心底嬉しそうに笑い、でも意地悪に言う。
「こっちも」
 近すぎる位置は当然唇をねだっていて。駿は己の唇を隠すように噛み締める。
「なぁ駿」
 天岩戸を開かせるように口角にキス。音も立てずに触れて、反対側にも。
(お前からキスすればいいじゃねぇかっ)
 そんな文句は口に出せない。そう言ったらきっと色々な意味での倍返しを食らうだろう。
 余裕の笑みが腹立たしい。でもその表情も嫌いじゃない。いやむしろ好き。
「性格悪い」
「知ってる」
 睨み付けながら、ゆっくりゆっくり顔を近づける。
 目を閉じて、息を止めて。奏が小さく笑った気配がしたけれど、そのまま唇を唇に触れ合わせた。
 唇の柔らかさは、やっぱりまだ慣れない。でもほぼ毎日しているこのキスにハマり始めている自分もいて。
(なんか、やべぇよなぁ)
 恥ずかしがらずにキスし合うようになるまで、あっという間な気がする。
「――――っ、おし、まい!」
「えぇ?」
 唇がじんじんし始めたところで駿はストップを掛けた。
 いつの間にか抱きしめ合う形で貪り合っていたから、互いに息が切れている。
 身体の中でグルグルと熱が渦巻き始めていてこれ以上はやばい。色々と。
「もう少し」
 また唇が迫ってきて、駿は片手でそれを塞いで防いだ。
「終わりっつった!」
「へいへーい」
 渋々と顔を離す。それでも奏は駿を抱きしめたままだ。
「あ、そういえばさ」
「ん?」
「明日ピアノの調律が入るらしい」
「調律?」
 聞き慣れない用語に聞き返せば、「ピアノのメンテナンスみたいなもの」と簡単に説明された。
「だから放課後、少し待つかもしんねぇわ」
「ふーん」
 どのくらい時間の掛かるものなのだろう。いやでも別に待たなくてもいいのでは。
「ならさ、明日はどっか行こうぜ」
「……え?」
「俺ら放課後、音楽室でしか一緒にいたことねぇじゃん。たまにはいいだろ」
 我ながらグッドアイディアと思っていた。だが奏はどこかポカンとしている。
「ピアノ弾かねぇでいいの?」
「あ? だってメンテナンスあるんだろ?」
「待てば弾けるけど」
「やっぱピアノ弾きてぇ? どっか行くのイヤ?」
「…………」
 口を開いたまま奏はしばらく黙り、駿が不安になってきた頃ようやく返事が返ってきた。
「イヤじゃない」
 痛いくらい抱きしめられながら。
「つか、めちゃくちゃ嬉しい」
「強い強い強い! 苦しいって」
 あまりにも嬉しそうで笑ってしまう。落ち着かせるように背中を叩くも、彼は止まらない。
「どうする? 何する?」
 その声音はまるで遠足を楽しみにする子供のようだ。
「奏、行きたいとことかねぇの?」
「行きたいとこ? あー、楽器店で楽譜買うくらいしかしたことねぇからなー」
「気になる所とか」
「……あ」
 ピコンと頭上に電球が点いた。
「あそこ行きたい」



「ここ?」
「そう」
 高校の最寄り駅。
 案内されたのはその駅ビルに入っている、ド定番のカフェだった。
「この上が楽器屋でさ、エスカレーターから下りるとき、気になってたんだよな」
「飲んだことねぇの?」
「一度もねぇ」
 全員が全員飲んだことがあるわけではないだろうけれど、学生もよく使う店だ。季節ごとに変わるドリンクは独自のカスタマイズができ、評判がいい。
 駿も駅ビルを散策することはほとんどないけれど、ケンカの後に飲んだりしたことはある。
(おやつパーティーと同じ感じか)
 前にピアノだけだと言った奏の言葉はその通りなのだろう。ピアノばかり弾いていて、こういう店にも入ったことはないに違いない。
 あくまで想像だ。細かくは分からない。気になるけれど、どこまで聞いても大丈夫なのかも分からない。
(いやいや、ここで暗くなってどうする)
 首を横に振り、気持ちを入れ替える。初めてのカフェとドリンク。大いに結構。
「じゃあ人気のカスタマイズで期間限定のにしようぜ!」
 これから一緒に楽しめばいいのだから。
――――と、思ったのだけれど。
「ねぇ、あの人格好良くない?」
「なんかの雑誌とかに出てる人かなぁ?」
(女子がめっちゃ見てくるー!)
 チラチラを通り超してガン見してくる女性たちに、変な汗が出てきてしまう。
 見られている本人はというと、初めて飲むスムージーに目を輝かせ、「すげぇ冷てぇ」とか「このクリームどうすんだよ」とか、嬉しそうに騒いでいる。
 その姿に「かわいー」とかまで言われているのに、彼は全く気付いていない。いや、もしくは慣れきっているのだろうか。
(そういえば学校で王子って呼ばれてるもんな)
 体育祭の応援団の練習を思い出す。あのときもモテモテうんぬんの話しをしたのだった。
 二人席ではなくカウンターのような一人席を二人で並んで座っているため、駿は正面ではなく隣の奏を眺めるように頬杖をついた。
 ラフに縛られている髪の毛。鼻は高いし、顔も小さい。ピアスも似合っているし、どこからどう見てもイケメンでしかない。
(店員も見蕩れてたし)
 もう年齢問わず老若男女モテるのではないだろうか。
 そんな彼は俺の恋人である。
 何度でも言うが、これほどのイケメンだ。モテて当たり前。嫉妬するのも馬鹿らしいと思うけれども。
(俺のもんだって言いてぇなぁ)
 こいつは俺の恋人で、俺のことが好きなのだと自慢したい。
「なぁに見てんだよ駿」
 はしゃぎタイムは終わったようだ。奏がこちらを覗き込んでくる。
「べつに」
「ふぅん?」
 内容が内容なだけに恥ずかしい。だから極めてクールに返せば、彼は意味ありげに目を細めた。
 ニンマリと笑うそれはまるでチシャ猫のよう。
「見蕩れた?」
 その表情と言葉にドキっとした。
「っ、べつに俺は見蕩れてないっ」
「へぇ?」
「ちょ、近えって!」
 少しずつ近づいてくる顔に、駿は顔を背ける。音楽室とは違い、周りに人がいるのだ。こんな人目があるところでイチャつく度胸はない。
「恥ずかしい?」
「そうじゃなくてっ」
 奏の顔の角度が、最近知ったものになる。いよいよヤバいと目を閉じれば「隙あり」と、顔が別の方向へと曲がった。
「へ……?」
「お、こっちも甘い」
 彼の唇が触れたのはストロー。駿の方のスムージーを飲んだのだ。
 ペロリと自身の唇を舐めて奏は笑う。
「なに、期待した?」
「~~~~っ」
 パクパクと口が開閉するが、文句が言葉にならない。
 無言のまま足を蹴れば「いって!」と、腹が立つほど整っている顔が歪んだ。いい気味だ。
「ごめんって」
「うるせぇ、もう知らねぇ」
「ンな怒んなよ」
 じゃれるように肩をぶつける。互いに怒っていないことは百も承知。でも、だからこそ正直。
(二人きりなら、このままキスの流れ……だよな)
 ムラムラする。
 今までずっと二人だけで過ごし、周囲を気にすることなんてなかった。だが今日こうやって恋人としてのあれこれを制限されて、初めて自分たちがどれほどイチャついていたのかが分かる。
 隣に座っている。それだけで十分な筈なのに、背中にぬくもりがないのが寂しい。
 その腕で抱きしめて欲しい。その大きな手で触れて、そして頭も撫でて欲しい。
 もう今すぐここで――――
「そんな顔見せんなよバカ」
 奏の親指が駿の唇を撫でる。そして突然腕を取って立ち上がった。
「うおっ、なに⁉」
「行こ」
「行こってどこに⁉」
 初めて飲むスムージーは汗を掻くグラスの中で鎮座し、おとなしくテーブルの上に置かれている。まだまだ中身は残っているのに、奏はそちらを気にすることなく、どこか余裕のない表情で駿に言った。
「二人きりになれるとこ」



 騒がしい駅ビルから少し離れた立体駐車場の方へと速歩で歩いて行く。
 掴まれていた手はいつの間にか二人で繋ぎ合っていて、その手から心臓のうるささが伝わってしまっている気がした。
 でも伝わっていてもいい。むしろ伝われ。
 駅よりは少ないものの、ちらほら人の姿はある。チラリと繋がれている手に視線を感じることはあるけれど、もう見るなら見ろと開き直った。
 好きな人と手を繋いでいて何が悪い。
「…………」
 無言のまま歩く奏の背中を見つめる。
(こいつもキスしたいとか思ってくれたんだよな)
 そう思うと胸の奥がムズムズし、口元が勝手に弧を描いてしまう。
 女性から注目される彼が選んだのは俺なのだと自慢したい気持ちがまた膨らんできた。
「なぁ奏」
 強く手を繋いだまま声を掛ける。
「なに」
 端的に答える彼の声音は余裕のないまま。またそれが嬉しいなんて、自分はこんなにも性格が悪かっただろうか。
 やはり少しは嫉妬してしまっていたのかもしれない。
「スムージーはもうよかったのかよ」
 駐車場の入り口が見えてくる。だがそこまでは行かずに、その前の小道を曲がった。
 ビルとビルの間で、ようやく人がいなくなる。だがそこでは止まらず、まだ奥へと奏は進んでいく。
「二口ぐらいしか飲んでねぇんじゃねぇの?」
 こんなこと聞かずとも分かっている。スムージーよりも俺を選んでくれたのだと。分かっているのに言葉もねだるなんて、面倒くさい恋人だと思われてしまうだろうか。
 いや、そんなことない。 
「初めてだったんだろ?」
 そんなことを思わないと分かっているから、こうやって甘えてしまうのだ。
「駿」
 立体駐車場の側面、陰になっている場所に着いた奏はようやく振り返った。
 夏の気温だけではない額の汗が前髪を濡らしている。
「なんて答えて欲しい?」
「…………っ」
 交じり合った視線。太陽とは違うギラつく瞳に思わず唾を飲み込んだ。スムージーで喜んでいた姿とはまるで別人だ。
「甘えてて可愛いけどさ」
 音楽室とは違う、いつも以上の色気を纏った奏が、同じように汗を掻いている駿の額の前髪をずらす。
「そんな余裕ねぇから」
 そして例の角度。
 駿も無意識に少しだけ踵を上げ、今度こそと瞼を閉じれば――――
「あれー? そこにいるのはいつかのおチビちゃんではありませんかー?」
 ピタリと動きが止まる。いや、時も止まったのではないだろうか。
 閉じたばかりの瞼を再び持ち上げ、錆びたネジのように軋ませながら顔を動かせば、そこにはいつか見たことのある、厳つい顔をした他校生が数名。
 火照っている身体と頭ではすぐに誰だか分からなかったけれど、少し間を開けてから「あぁ」と思い出す。
 確か前に向こうから絡んできて、一緒にケンカをした相手だ。
「つかなに? なんかイケメンとイチャついてたわけ? たはー! ウケるんですけど!」
 他校生は膝を叩いて笑い始める。
「男二人で路地裏でキスしますとか流石不良高! やっぱ頭の出来が違ぇな!」
「おチビが女装した方がいいんじゃないですかー?」
「おいなにアドバイスしてやってんだよ。これ以上キモくなったらお前のせいだからな」
「…………」
 ゲラゲラと楽しそうでなにより。
 駿はひとつ深呼吸をして奏から離れた。
 バカにしてよろしい。別に気にしない。ケンカもなお良し。大好きだ。
 でも、だけど。これはちょっと。
(タイミング悪すぎんだろー!)
 拳を握りながら心の中で叫ぶ。
 どうやらキスはお預けのようです。



⑥二人きり――終了