――――『不良犬』として初めて歌を投稿し評価を得たとき、俺はどうしていたっけ。
鈴音はすごく喜んだ。『やっぱりお兄ちゃんの歌は素敵なんだよ!』とか、まるで自分事のようにはしゃいで、今まで見た中で一番楽しそうだった。
人気が出てきた時には隠さずに両親に相談して、必要以上の誹謗中傷が来ると然るべき対応を取った。それでも不良犬としての活動を反対されたことはない。
歌えば歌うほど知名度が上がった。賞賛の声も辛辣な意見も共にあり、賛否両論。当たり前だ。全員が全員、百パーセント花丸をくれるなんてあり得ないのだから。
けれどそれで鈴音が傷つくこともある。『お兄ちゃんは悪くない。私が悪い』と自分を責めたりもする。その度に俺も『鈴音は悪くない』と慰めた。
そして鈴音は立ち直り、また不良犬の歌を投稿する。もっと沢山の人にお兄ちゃんの素敵な歌を届けたいのだと、知って欲しいのだと言って。
そんな鈴音は本当の妹ではない。本来ならば姉の立ち位置だ。でも彼女は世界一の妹で、大声で自慢したくなる、大切な大切な妹である。
なら、俺は?
むしろ不良犬は鈴音です、と言った方がしっくりくる。
選曲も投稿も全て彼女に任せているし、コメントなどをピックアップしてくれるのも鈴音だ。
俺はただ歌っているだけ。歌っているだけで――――他は何もない。
初めて投稿した歌。どんどん周囲に感染するかのように再生数が伸びて、沢山の人の声を目にしたとき、別に何も思わなかったのだ。
褒められても、けなされても、心には響かない。妹が喜んでくれて、初めて歌った価値を見出す。
けれど、じゃあ不良犬は妹を喜ばすための道具にすぎないのかと聞かれたら、そういうわけではない、と俺は返すだろう。
歌うことはつまらない? 楽しい。
歌うことは嫌い? 好き。
歌うことをやめたい? やめたくない。
でも評価なんてどうでもいい。バズろうが炎上しようが、褒められようが誹謗中傷されようがどうでもいい。
不良犬なんか、どうでもいい!
(じゃあ俺って何なんだ?)
なんで歌っているんだ?
鈴音がやめようって言ったらやめるのか?
正体がバレたらケンカ出来なくなる、それが嫌ならもう不良犬なんてやめればいいだろ。
結局俺は不良犬であることに優越感を抱いているのではないか?
いやでも、不良犬の歌がどう言われようと別に、本当にどうでもよくて!
じゃあ不良犬ってなんだよ。
なんで不良犬なんかやってんだよ。
不良犬でいるメリットは?
俺は不良犬をどうしたいんだ?
なんで俺は不良犬なんだ?
じゃあ俺ってなんだよ。
不良犬は俺なのに。俺が不良犬なのに。
俺って、
不良犬って、
なんだっけ。
学校終わりの放課後。薄汚れた校舎から、色とりどりの傘が玄関口から出てくる。
朝から曇ってはいたが、とうとう降り出してしまったようだ。
天気予報では元々雨ではあったので、折りたたみ傘などを用意している生徒が大半だが、中には置き傘を拝借している輩もいる。
「…………」
駿は教室で頬杖をついたまま、雨の降る外を眺めていた。
窓に映る自分とは目を合わせないようにして。
「おうおうどうしたよ柳場クンよ」
後ろから廣嶋に声を掛けられる。振り返らずともその大切なリーゼントを整えているのは分かる。雨の日でも彼はきっちり髪型をキメていた。
「随分湿っぽいじゃねぇか。テストの山が外れたか?」
「……そんなことねぇよ」
期末試験が終わったのはつい先ほど。ようやく解放されたテスト期間に周りは喜びにいつもより騒がしくなる。まぁ不良校なので真面目に勉強していた人は少ないけれど、そこは雰囲気の問題である。
「柳場はちゃんと勉強してたからね」
夢三沢の声が追加された。
「山を張らなくても柳場なら大丈夫だったんじゃない?」
「お前ってほんと見た目詐欺だよな。休み時間も勉強してよー。ここ数日勉強してる姿しか見てねぇよ」
「まぁ、テスト前だったからな」
別に嘘ではない。テスト前はケンカもしないし、真面目に勉強する。だがきっと、今までで一番勉強していただろう。心のモヤモヤを見て見ぬふりするために。
あれから。
あの音楽室での一件から、奏に会いに行くのをやめた。
放課後になるとケンカをしてからでも音楽室に行っていたのだが、テスト期間のためケンカすることもせず、ここから少し遠いが図書館に行って勉強していた。
真っ直ぐ家に帰ってもよかったのだが、鈴音に奏と勉強していると話した手前、なんとなくそれは出来なかった。
一人で図書館に行って、一人で勉強をする。それは前ならば別に何も思わなかっただろうに、一人であることが寂しかった。
ピアノの音が、奏がいなくて。彼はちゃんと勉強しているだろうかとか、サボってピアノを弾いているんじゃないだろうかとか、勉強に集中したいのに、全然集中できなくて。
もしかしたら今もピアノを弾きながら、不良犬のことを考えているんじゃないかって、考えても仕方が無いことばかりが積み重なった。
挙げ句の果てには不良犬とは誰か。俺は何なのかまで分からなくなって、辛くて悲しいだけじゃなく不安で怖くなった。どこでもいい、何でもいいから逃げ出したかった。
でも結局どこにも逃げられず、テストが終わった今もどうしたらいいか分からないでいる。
「じゃあなに落ち込んでんだよ、てめぇは」
「何かあった?」
「…………」
心配してくれる二人に、返せる言葉が見つからない。
不良犬うんぬんだから話せないというよりも、グチャグチャになった感情が言葉にならないのだ。
「ケンカでも、する?」
「バカ野郎夢三沢! なに自分からケンカの提案してんだよ! また背負い投げくらうぞ!」
「そ、そうだけど……」
「元気、ないから」と続けた夢三沢に、廣嶋もそのまま黙ってしまう。
その優しさに駿は小さく笑うことが出来た。
「サンキューな」
言いながらようやく二人に振り返り、「でも」と続ける。
「いまはちょっとケンカ出来ねぇかな。なんか八つ当たりで殴っちまいそう」
「八つ当たりで殴ったっていいだろ。ケンカなんかそんなもんじゃねぇか」
「そりゃ普通のケンカだろ。傷つけるだけのケンカはしちゃダメだ」
「確かに柳場のケンカはケンカじゃなくてボクシングだからね」
「ったく。面倒くせぇな色々」
苦笑する夢三沢に、廣嶋は後ろ頭に腕を組む。
そんな彼らも己はヤンキーだ悪者だと言うけれど、それこそ嘘で詐欺ではないだろうか。
遅刻魔だし授業をサボったりもするが、基本優しい奴らである。だからこのクラスでも孤立することなく仲良くやれているのだろう。
「俺、そろそろ帰るわ」
駿はカバンを持ち立ち上がる。
上手く説明出来ない今、あまり人とはいたくなかった。
「心配してくれてありがとな」
引き留めるような気配がしたけれど、それを振り切るように駆け出す。開きっぱなしだった教室のドアから出て行けば、「駿!」と名前を呼ばれた。
それは廣嶋でも夢三沢でもない。一番会いたくない彼の声。それなのに反射的に足が止まり、振り返ってしまった。
一年生のクラスが並ぶ廊下に奏がいた。
「なん、で、ここに?」
「お前に会いに来たに決まってんだろ」
驚きで目を見開く駿に、奏は呆れたように溜息をつく。
「テストが終わるまで待ってやったんだ。ありがたく思えよ」
そして駿の腕を掴んだ。
「ちょ、なに」
「音楽室行くぞ」
そのまま連れ去るように歩き出そうとするのを振り払う。いま音楽室で奏と二人きりになりたくない。
二人きりになったらきっとまた気持ちが溢れ出すだろう。そしたら苦しくなる。辛くなる。もうこれ以上傷つきたくない。
「行かねぇ」
「なんでだよ」
「行きたくない」
「だから何で」
苛立ちが混じった声。でも頑なに首を横に振った。
「別になんだっていいだろ」
「じゃあな」と逃げだそうとしたけれど再び腕を握られてしまう。
「おい駿、待てよっ」
「っ――――」
強い力だ。軽く腕を振っても離れない。これ以上強く振りほどいたら手に怪我をさせてしまうかもしれない。
ピアノを弾く大事な手だ。そんなの絶対にダメだ。
「離せよっ、離せって!」
「なに怒ってんだよ!」
「てめぇには関係ねぇ!」
「あ⁉ ンなわけあるか!」
ついに二人で怒鳴り合ってしまい、目立ちたくないのに周囲から視線が集まってしまう。だが力任せに腕を振ることは出来ない。
「理由を言え! 駿!」
「~~~~っ」
言えたらこんなに苦しい思いなんかしていない!
叫んでしまいたい気持ちを何とか堪えて、でも耐えられない心から言葉が零れ落ちた。
「っ、お前は勝手に不良犬でも探してろよ!」
「はぁ⁉」
「俺なんか放っておけばいいだろ!」
「何でそうなんだよ!」
奏が噛みつくように言う。
「不良犬はおま――――っ!」
だがハッとしたように言葉を止め、周囲を見る。注目されていることにいま気付いたのだろう。
奏は舌打ちをし、駿を引っ張り歩き出した。
「いいから行くぞ!」
「ちょっ、離せって! 奏!」
抵抗しても止まらないそれに、駿はたたらを踏みながら連れて行かれてしまった。
「わっ」
大きな音を立ててドアを開け、そのまま音楽室に放り込まれる。
勢いでグランドピアノに手をつき睨むように振り返れば、そのまま奏に抱きしめられた。突然のそれに駿は慌てたけれど、「駿……」と首元に埋めながら泣きそうな声で名前を呼ばれ、動けなくなる。
「なんだよ。俺、なんかしたかよ」
ぎゅっと心が痛い。それなのに痛いくらいの腕が、そしてぶつかる胸板が温かくて、バカみたいに嬉しくなる。
ダメなのにダメじゃない。
嫌なのに嫌じゃない。
この矛盾を一体どうしたらいいのだ。
「駿」
囁くように呼ばれて、ビクリと身体が震えた。溢れ出すこの気持ちの止め方が分からない。
分かるのはただひとつだけ。
「かな、で」
彼のことが好きだということだけ。
掠れた声で呼んだ名前。少しだけ腕の力が弱まり、顔が持ち上がる。視線が絡まって脈が強く胸を打った。
お互いの瞳にお互いを映して、距離がゆっくりと、けれど一瞬の間に縮まった。
「ぇ」
唇に柔らかいものが触れる。
ほんの少しだけ。すぐにそれは剥がれ、でもまた重なった。今度は温度を確かめるかのように押し、形を確かめるように食まれる。
キスされているのだと分かったのは、二人で吐いた深い息がぶつかり合い、額を合わせてからだった。
「な、に」
声が震える。顔が熱い。心臓がうるさくて、背中がざわざわする。
何故キスなんかしたのかと問いかける前に、また唇を塞がれた。何をされているか理解したいま、素直に受け止められるわけがない。
「んッ、やめっ、やめろって!」
怪我はさせたくないと思っていたのに、離れない唇に歯を立てた。口の中に鉄の味が広がる。
「なんでっ、ちょ、かな、んンっ!」
それなのに離れたのは一瞬で、再び唇が重なり合う。
背中を反らし距離を取ろうとすれば、ピアノの上に押さえつけられるようにキスされる。逃げられないそれに、ついに駿は強い力で奏の腹を殴った。
「ぅ……っ」
それでようやく奏が離れた。
「っざけんな!」
血が混ざった唾液を拭い怒鳴る。奏を睨みつけたいのに視界が揺れて上手く見えない。零れそうな涙を必死に我慢したけれど、情けないくらい涙声になってしまう。
「お前はっ、不良犬が好きなくせに!」
「不良犬はお前だろうが!」
まだ腹を押さえながらも強く返してくる。真実であるそれに首を横に振った。
「違う!」
「違わない!」
「俺は不良犬なんかじゃない!」
「なんでそこまで否定すんだよ!」
「俺だって分かんねぇよっ!」
痛々しい叫び声と共に、ついに涙が零れた。もう膝から崩れ落ちたい。胸が張り裂けそうだ。
「俺はただっ、ただ!」
息を吸い、止まった。それだけなのに一瞬にして音楽室が静寂に包まれて。
「俺は……ただ、歌っただけ」
もう声に覇気は無かった。
俯きながら、両手を広げる。手のひらに涙が落ちるそれは今も音を立てて振る雨のよう。
「歌っただけなんだよ……」
ぽつん、ぽつんと。言葉も一緒に落ちていく。
「ただ鈴音が選んだ曲を歌っただけ。それ以上もそれ以下もなくて、どうでもいいことなんだ」
俺は。
「不良犬なんかじゃない。みんなが言う不良犬なんかじゃないんだ」
じゃあお前は誰だと己が聞く。それに答えなんて見つからない。不良犬を讃える人たちで壁ができ、迷路となって自分を見失った。
「俺は、ただの俺でしか、なくて……」
「――――ただのケンカ好き。だろ?」
言われて視線を上げる。
瞬きをして涙を零せば、クリアになった視界に優しい笑みを携えた奏がそこにいた。
「グミが好きで、スポドリばっか飲んでる。身長を気にしてて、あとヤンキーな見た目なのに真面目っつー詐欺」
人で出来た壁の隙間から、手が伸ばされる。まるで迷子になった駿を導くかのように。
「妹を大切にしてる、柳場駿」
奏が俺を見つけてくれた。
「何か間違ってるか、俺」
「…………」
間違っていない。間違ってないよ。
ハク、と唇が動くけれど言葉は出ない。でも奏は「うん」と頷いて、涙で濡れた駿の手を優しく取った。
「俺は駿が好きだよ」
温かくて、大きな手。
「不良犬じゃなくたって、俺は駿が好きだ。お前が好きなんだよ、駿」
「~~~~っ、うん」
再びぼろぼろと涙を零しながら額を奏に押しつける。
疑うとか、信じるとか、これはそういうことじゃなくて。『そうだといいな』という祈りを込めた願いだ。
俺が不良犬なのか。不良犬って何なのか。答えはまだ出ない。でも奏が俺の手を掴んでくれるから。
「俺も、奏が好き」
歌をうたう己の口を、奏の唇で塞いだ。
⑤自分――終了

