「おらぁ!」
いつものグラウンドではなく校舎裏で、駿の気合いがこもった声が響く。その後の「ぎゃあ!」と情けない声の方が大きかった。
その声の正体は背負い投げで投げられた夢三沢の声だ。
「おっしゃあ! 一本!」
駿は金髪を輝かせながらヒマワリのような笑みで、空に拳を掲げる。
「うっ、うっ、普通柔道技を掛けてくる?」
「まだまだだな、夢三沢!」
両手を腰にあて、「はっはっは!」とヒーローのように胸を張った。
少し向こうで廣嶋が呆れた様子で座っていた。彼も先ほど駿の足技で倒された一人である。
「背負い投げとかてめぇ、よく出来るな」
「おう。この前、柔道部の主将から教わった」
「マジかよ……」
廣嶋は溜息をつきながらも、リーゼントを両手で整え始めた。一応そこら辺は崩さぬよう気をつけながら倒したのだが、廣嶋としては気になるらしい。
「柔道の主将とかやべぇだろ。うちの柔道部、結構強いよな?」
「全国大会にまで出場したことがあるんだよね? たしか」
ここは不良校でありながらも、柔道部だけはまともに機能しているようで、この辺りの高校の中ではトップに入るほどの強さを持つ。
他にもバレー部やバスケ部はあるようだが、野球部やサッカー部が練習している姿は見たことがない。吹奏楽部もだ。
柔道部以外が一体どのようになっているか、帰宅部である駿は全く分からない。
「主将ともケンカしてよ、勝ったら技を教えてくれって頼んだんだよ」
「まさか勝ったのか?」
「おうよ! あ、主将にも怪我はさせてないぜ。受け身取れるような蹴りにしたから」
「化け物か、こいつは……」
「よせよ、褒めても何も出ないぜ」
「褒めてないと思うよ……」
相変わらず夢三沢は遠い目をして言う。
「でも何で今日は校舎裏? いつもグラウンドだろ」
満足したのか整え直した廣嶋が聞く。
二、三年生に絡まれたらその場でケンカになるけれど、廣嶋と夢三沢とケンカするときは大抵グラウンドだ。
倒れたとき、コンクリートよりも砂の方が痛くないのではないかという、勝手な想像である。
「あー、今日はな……たまたまっつーか」
チラリと少し先の校舎を見る。音楽室の窓には奏が頬杖をついて駿にヒラヒラと手を振っていた。
バレるだろ! と首を少し横に振って隠れろと促した。
「柳場?」
「あー、ちょっと気分的にここだったんだよ」
頭を掻きながら言う。それに廣嶋が特に気にする様子は無かった。
「まぁどこでケンカしようが痛いもんは痛ぇけどな」
「大きな怪我はさせないよう十分気をつけてるから、問題ないぜ!」
「問題ありありだけど、そこら辺は気をつけくれてるよね」
「さっすが夢三沢、気付いてくれててサンキューな!」
座ったままの二人に、駿は置いておいたカバンを持って「んじゃ」とサムズアップ。
「身体動かせて楽しかったわ!」
「帰るのか?」
「いや……ちょっと」
以前ならこのまま一緒に帰ることが多かっただろうが、今は違う。
「ちょっと別件があんだよ」
出来るだけ平然を装う。
「なんか最近ケンカの数、減ってね?」
「おぉ? まさかまさか?」
「本当はもっと俺とケンカしたいのか!」と駿はパア! と満面の笑みを浮かべたけれど、「俺はケンカしないでいられてありがてぇけど」と廣嶋に付け足され、しまいには夢三沢が頷いたのに少しガッカリ。
だが今はそれでいいのかもしれない。
「もしかして他校の連中とやり合ってんのか?」
「あー、まぁそういう時もあっけど」
駿はまた音楽室の窓を見る。もうそこに奏の姿はない。窓もきっちり閉められていた。
返答に少し悩んでから、駿は人差し指を唇の前に一本立てて、笑う。
「ひみつ」
「ういーっす」
廣嶋と夢三沢と別れ、小走りで音楽室へ。
いつも駿が座る席の隣りに奏が座っており、「お疲れ」と先ほどのように手を振った。
「見えたか?」
「見えた見えた」
駿もいつものように席につく。すると奏がスポーツドリンクを机に置いた。
「ほら、差し入れ」
「お! サンキュー!」
いつもはピアノを弾いてくれる彼に買うのだが、どうやら今日は彼が買ってきてくれたらしい。
喉が渇いていた為、すぐに開けてゴクゴクと飲んでいく。ケンカの後のスポーツドリンクは身体に染み渡っていくようで美味しいし、気持ちが良い。
「つか、何でいきなりケンカが見たいって言い出したんだ?」
数日前のこと。
練習曲を弾き終わったあと、突然『駿がケンカしてるところが見たい』と言い出したのだ。
『なんだよいきなり』
『駿はケンカが好きなんだろ?』
『おう』
『駿が好きなこと、俺も見てみたい』
(ケンカに興味が出たってことか?)
ケンカをするのは楽しい。言葉無きコミュニケーション、男の誉れやらその他色々。
奏は非戦闘員だが、もしかしたらケンカの良さに気付くかもしれない。
『よっしゃ、いいぜ』
そして今日、グラウンドではなく音楽室から見える校舎裏で廣嶋と夢三沢を誘ってケンカしたのだ。
「楽しかったか?」
「駿が生き生きしてたのは良かった」
「それ以外は?」
格好良かったとか出て来たら嬉しいと思い、ちょっとワクワクしていたのだが、そこは流石奏というべきか。
「何が楽しいのか全然分からなかったわ」
「えええ~、血湧き肉躍るとかなかったのかよ」
「ねぇな」
「格好良いとかも?」
「まぁ少しは格好良いと思ったけどよ」
「お! そうだろそうだろ!」
口にはしないが、今日は奏が見ていると思ったから、背負い投げを決めてみたのだ。
まぁ少しだけのようだが、それでも十分だ。駿の気分は一気に良くなる、が。
「でもしばらくケンカはお預けなんだよなぁ」
これからあるイベントに大きく溜息を吐く。
高校生である以上逃れられないそれだが、やはり面倒だ。
「あ? なんで」
奏は首を傾げる。
「だってテスト勉強しねぇとだろ」
「…………?」
「期末試験!」
「あー、あったなそういうの」
ようやく思い出したようだ。普通そろそろ意識していい頃だろう。
(まさか)
ピアノは楽譜を見て数回弾いたら、弾けるようになる。ならば教科書を数回読んだだけで暗記ができ、問題も解けるようになるのだろうか。
「勉強の方も天才か……?」
「いや、全然」
キッパリと奏は否定した。
「俺、ピアノが基本だから勉強はまったく出来ねえよ?」
「当たり前だろ? みたいな顔で言うんじゃねぇよバカ野郎」
どうやらこちらはそんなことないらしい。
「ならてめぇも勉強しねぇとじゃねえか」
「えー、別に必要ねぇって。何点取っても問題ねぇんだから」
確かに奏の言う通り、ここはこの辺りの底辺。不良校は噂とかではなく、現実的にまさに不良校なのだ。
テストの点数が低いのは当たり前。補習も一応あるけれど、それも適当な感じらしい――ちなみに駿は点数が良いので補習を受けたことは無い。
「つかそんなケンカとかするのに、ちゃんと勉強したりすんだな」
「当たり前だろ」
「お前って不良に見せかけた真面目クンだよな。見た目詐欺」
「見た目詐欺はよく言われる」
廣嶋にも何度も言われる言葉。そこにチビという単語が入っていないのならば、特に怒りは湧かない。
「中学の頃から?」
「おう」
「ならこんな学校より、もっと偏差値高い高校とか行けたんじゃね?」
「まぁそうだな」
中学生の頃、不良校を選んだ時、担任の先生に何度も呼び出された。だが駿の気持ちは変わらなかったのだ。
「俺さ、もっとケンカしたかったんだよ。不良校ならケンカ出来るだろ?」
「それに」と駿は胸を躍らせて続けた。
「昔よく漫画であったろ、学校の番長とか、そういうの。俺、めちゃくちゃ憧れててさ。それでこの学校に決めたんだよ」
「…………バカがここにいた」
奏がぼそりと呟いたが、駿の耳には届かなかった。
「で? この高校でやりたいこと出来てンだろ? なら勉強はもうしなくていいじゃねぇか」
「はぁ? それだけでいいわけねぇだろ。ここ卒業した後はどうすんだ」
不良校というだけで印象は悪い。ならば成績だけはキープしなければ。
「勉強が出来た方が将来の幅が広がるだろ」
「…………」
当然のことを言ったつもりなのだが、奏は目を見開いた。だがそれは驚きというより――いや、どういう表情なのか駿には分からない。
だがすぐに彼は苦笑して、どこか諦めたように嘲笑した。
「将来、ね」
「奏?」
「いや、何でもねぇよ」
軽く首を振って立ち上がる。どう考えても何かあるだろう。
(家庭のことか)
いつものようにピアノのイスに座りに行くのを見ながらも考えるけれど、やはり深く聞くことは出来なかった。
その背中がどこか全てを拒絶するように見えたから。
「あっと、だから、テスト勉強するから、しばらく音楽室には来ねぇから」
話題をズラそうとして言ったら、ピタリと奏の動きが止まった。あとはピアノのイスに座るだけだったのにまた立ち上がり、こちらの机に両腕を置き、正面に顔を近づけた。
「何で」
「いやだから、勉強すんだって」
「はぁあ?」
先ほどの嘲笑とは違い、心底腹立たしいです、という表情で呻くように言った。
「やっと忌々しい体育祭が終わって、独占出来ると思ったのに」
「またなに言ってんだよお前は」
応援団の練習の時も似たようなことを言われた。
――――駿との時間が取られるの嫌だったから。
「最近なんか昔の鈴音みてぇ」
ぼそりと呟いただけだったのだが、奏の耳には届いたようで、一気に空気がピリついた。
不のオーラが蔓延し、駿の背筋が反射的に伸びた。言ってはいけないことを言ったようだ。
「鈴音って?」
それなのに奏は満面の笑みだった。それが非常に恐ろしい。
「鈴音って誰」
「あー……えっと」
「誰」
あまり話したくない話題だが、話を逸らすことは出来なさそうだ。
(まぁ、いいか)
進んで話したくないそれだったが、奏も家庭のことを話してくれた。それなのにこちらは黙りはフェアじゃない。それに、きっと奏なら大丈夫だろう。
駿は少し躊躇いながら視線を外して答えた。
「……同い年の妹」
奏の顔が元に戻る。パチパチと瞬きをして、どういうことかといつものように首を傾げた。
「双子?」
「いや、再婚した母さんの連れ子」
駿の両親は小学一年生の時に、母の不倫で離婚した。その頃はもう母はほとんど家にいなく、愛された記憶もない。
鈴音の父は幼稚園の頃に病死し、母と二人暮らしだった。
駿と鈴音、二人が小学三年生の頃に再婚したのだ。
歳は同じで鈴音の方が早く誕生日が来るので、普通ならば姉の立場であるのだが、彼女の方が泣き虫で、駿が面倒を見るという感じになっていたため、兄と妹という立ち位置になった。
ちなみに不良犬になるきっかけ、とまではいかないが、幼い頃の鈴音は病死した父を思い出しては泣いており、それを慰めるために駿が子守歌を歌っていた。そこからよく歌うようになった駿を、鈴音が不良犬という存在を作ったのである。
「へぇ」
細かい説明はしなかったのだが、奏はそう一言返しただけだった。その声音は特に何か感情が込められたものではない。ただ、あそうなんだ、だけである。
「それだけか?」
「なにが?」
やはり緊張しているらしい。駿の心臓が嫌な音を立てている。
「中学の時とかさ」
あの頃に受けた傷。鈴音のことは死ぬほど可愛いけれど、あまり細かいことは話したくなくなった出来事だ。
「その、血の繋がってない女と一緒に暮らすってヤバくね? とか、手ぇ出したくなんねぇのかって言われたりして……」
「は? なんだそれ。最低だな」
奏は眉を寄せてて言う。
「そんなやつクソだろ。頭ン中お花畑っつーか、ガキくせぇな」
「まぁ中学はガキか」と鼻で笑い、いつの間にか固くなっていた駿の身体と気持ちを溶かすように奏は頭を撫でた。
「お前って結構世話焼きだからな、妹がいるって何となく分かるわ」
「…………」
そう言われて視線を上げる。優しい表情に、優しい手。
「いい兄貴やってんだろ。偉いな」
「…………ん」
小さく首を縦に振る。
兄として精一杯、妹に愛を注いでいるつもりだ。今まではそれが気持ち悪いとか、バカにされるようなことなのだと不安になることもあったけれど、奏が褒めてくれた。
慰めて欲しいわけじゃなかったから、彼の言葉はすごく嬉しくて、くすぐったい。
(ありがとうって言いたけど、なんか照れるな)
頭を撫でてくれる手をそっと取り、両手で包み込む。そしてお礼の代わりに閃いたことを返した。
おやつパーティー並に素晴らしい提案だ。
「なぁ奏」
「ん?」
取った奏の手が、彼の方からもそっと力がこもり、握りしめ合う形になる。それを振り解くことはしない。
「お前も一緒に音楽室で勉強しようぜ」
「…………」
ピシャーンと雷に打たれたような音がした。
「いや、えっと、なんでそんな」
「俺は世話焼きなんだよ、お前が言ってくれたようにさ」
ニッコリと笑みを浮かべる。別に意地悪をしているつもりはない。勉強は大切だし、奏の為に言っている。
「いやでも、俺はピアノを……」
「ピアノの時間を少し削っても問題ねぇだろ」
そう、彼はピアノの天才なので。
「勉強も、一緒にしっかりやろうな❤」
「ただいまー」
帰宅を告げれば「おかえりー」と両親の声が返ってくる。スンスンと鼻を動かせば良い匂い。美味しそうだと腹が鳴った。
もうすぐで夕食の時間だ。早く着替えて来ようと自室への階段を昇ろうとすると、先に帰宅していた鈴音が下りてきた。
「おかえりお兄ちゃん」
「おう、ただいま鈴音! お、ポニーテール久しぶりだな!」
「もう暑いからね。結んでた方がやっぱ涼しいから」
首を動かして揺らすそれに、「その髪型も似合ってて可愛いー!」と、まるでファンが推しへの黄色い歓声を上げるように褒める。それに慣れている鈴音は「もっちろん」と嬉しそうに笑った。
「もうご飯だから、早く着替えておいでよ」
「おうよ!」
「あ、そうそうお兄ちゃん」
「ん?」
階段に一歩目の足を乗せた状態で振り返る。
「もうお兄ちゃんの学校の方もテスト近いよね?」
「あぁ、期末テストだな」
「それにしては最近帰るの遅くない?」
「へ?」
そう言われてもピンとこず、どういうことかと首を傾げた。すると鈴音は「だってさ」とポニーテールを揺らして説明してくれる。
「お兄ちゃんってテスト近いと、家で勉強するからケンカしないで帰って来るでしょ? でもほら、今日も帰りが遅いじゃない? どうしたのかなーって」
「あぁ、そういうことか」
駿は納得する。
「学校で勉強してんだよ」
「え、珍しい」
鈴音は目を丸くした。
「自習室とかあるの?」
「いや、ねぇけど」
「じゃあ教室で?」
「…………」
そう聞かれ、言葉に詰まってしまう。
別に奏のことを話しても、別の学校に通っている鈴音なら問題ないだろう。変に言いふらすような彼女でもない。
「音楽室で、その、あー、二年生と勉強してる」
「えっ、勉強教えてもらってるの⁉」
これまた彼女は驚いていた。が、そこで駿は確かにと今更思った。
普通学年が一つ上の先輩と勉強していたら、一年の自分が教えてもらう立場だろう。だがどちらかと言えば、奏の方が勉強が出来ない。こちらの問題集を覗き込んでは、『覚えてねぇ』と当たり前に呟くのだ。
勿論、こちらが二年生の問題が分かるわけもなく。音楽室で奏がサボらないよう、見張りながら一緒に勉強しているだけである。
駿は笑ってしまった。
「いや、教えてもらってるわけじゃねぇよ。ただ一緒に勉強してるだけ」
「ふぅん。でも何で音楽室で?」
「奏が、いや先輩……まぁいいや。奏がよくピアノ弾くんだよ。放課後に。その延長線で音楽室で勉強するようになった感じ」
「へぇ、そうなんだ。その奏さんって、男の先輩?」
「おう」
「ケンカはするの?」
「いやしねぇな。非戦闘員」
「でも一緒にいるんだ……」
まるで感心するかのような息を吐いて鈴音は言う。
「なんかそういうお友達? とか、初めてじゃない?」
「んー? そうか?」
「そうだよ」
頷かれて首を捻る。別に友達がいないと思ったことはない。それなりに人とは仲良く出来るタイプだと自分では思っている。
「お兄ちゃんってケンカ友達はいるけど、基本一匹オオカミでしょ?」
「えぇ? そうかぁ?」
先ほどよりも首を傾げて言えば、鈴音は笑いながら「そうだってば」と軽く駿の肩を叩いた。
「だってお兄ちゃん、ケンカ以外で誰かとつるんでることなくない?」
「…………」
パチパチとまばたきをして考える。少しだけ間が出来てから。
「確かに……そうかも」
今までのことを振り返る。ケンカはするけれど、一緒に遊びに出掛けたりとかはしていない。
ただケンカして、帰り道が同じところまで一緒に帰りはするものの、ケンカをしなければ一緒に帰ることはない。買い食いをするときも、それこそケンカの延長線の時だけだ。
(俺ってほんと、ケンカしかしてねぇのか)
ショックを受けることはないものの、改めて自分がどんな人間なのかを客観的に知る。
「それで? 奏さんってどんな人なの?」
「なんだよ。聞いてどうすんだ」
「だってお兄ちゃんが唯一、ケンカ抜きで一緒にいる人だよ? どんな人か気になるじゃん」
「…………んー、まぁ、えー……」
奏はどんな相手か。今度は彼をどんな人間なのか客観的に考えて、そして言葉を探す。それがどこか照れくさい。
頬を掻きながら、視線を逸らして言う。
「ピアノがめっちゃ上手くて、楽しそうに弾いてたりして、なんかすっげぇイケメン。でもちょっと性格が悪い……みたいな?」
「性格が悪いの?」
「まぁ、ぼちぼち」
ぼちぼち性格が悪いとは? という己の突っ込みは無視した。
「でも一緒にいるんだよね?」
「んー、なんつーか。向こうが妙に俺に懐いてる、ような感じもある」
言葉の節々から一緒にいたいと思ってくれているのは感じている。いや、その表現は嘘。感じているのではなくて、ちゃんと分かっている。
「じゃあお兄ちゃんは? どうしてその人と一緒にいるの?」
「俺?」
「うん」
「俺は……」
奏と出会った時を思い出す。ピアノに誘われて、俺のためにピアノを弾いてくれて。それからもリクエストすればこれまた素敵な演奏をしてくれて。
(ピアノが聴きたいから?)
いや、それだけではない。
それはあくまできっかけにすぎなくて、沢山色々な言葉や感情があって。時間が増えていって――――あれからずっとあのグミも、カバンから出せていない。
「奏は意外と優しいから、かな」
「うんうん」
「たまに褒めてくれたり、まぁバカにされることも多いけど、なんか……こう、一緒にいたいっつーか。楽しそうにしてる姿を見ていたいっつーか」
「…………」
「ただ、笑顔が見れたらいいんだ」
音楽室で、駿と呼ぶ声が聞こえる。
ピアノの音が弾んで、楽しそうに踊る指。軽やかな空気に笑顔が零れる。
『お前のために弾いてやるよ』と笑う奏が――――
「だぁー! こんなとこだ! それでいいだろもう!」
頭の上に浮かんでいた奏の姿を消すように両腕を振る。なんだかすごく恥ずかしいことを言った気がするが、その言葉以外、それ以上もそれ以下もないのだから仕方が無い。
頬が熱いのを自覚しながら、鈴音に「これで終わりだ!」と宣言するように言うと、鈴音はどこかポカンとした表情をしていた。
「鈴音?」
「…………えぇ?」
「えぇ? とは?」
なにが、えぇ? なのか。
「どうした?」
「……お兄ちゃん」
「ん? うお!」
ガシリと両手で肩を掴まれる。そして揺さぶられた。
「今度、その奏さんに会わせてね。絶対、絶対会わせて。お兄ちゃんを幸せにしてくれない人なら私がぶん殴ってやるから」
「はぁ⁉ なに言ってんだお前は。つか会わせん。絶対に」
揺さぶる鈴音の手を取り、手で大事に包み込む。小さな手を大切に、大切に。
「奏がお前に惚れたらどうするんだ! いや、絶対に惚れる。惚れない奴がいるわけねぇ。こんな可愛くて美人なんだぞ⁉ 惚れるに決まってる!」
「いいか鈴音」と駿は真面目な顔をして言う。鈴音が呆れた顔をしていることに気付かずに。
「お前は優しくて、性格もいい。頭も良くて、不良犬を売るのも上手だ。この世界の中で一番、最高に美人で可愛い。そんなお前が嫁に行くなら、その相手も最高じゃないと兄ちゃんは許さねぇ。ケンカも俺以上に強くて、頭も顔も――――」
「お父さーん、お母さーん、今日の晩ご飯なにー?」
「ちょ、おい、ちゃんと聞け鈴音、おい鈴音‼」
「なー、まだ勉強すんのー?」
閉じた教科書の上、机につっぷしながら奏がつまらなさそうに言った。
駿は教科書、ノート、問題集が広げやすいように、他の机をくっつけて二つ使っているけれど、奏は一つだけ。しかも駿が座る席に近づけているのだから、片面だけ狭くて大変迷惑である。
この男は本当に一つ年上の先輩なのだろうか。
「なぁ駿~、駿ってば~」
「だー! うるせぇな! お前今日のノルマ終わらせてねぇだろ絶対!」
「おら!」と、奏の下から教科書を引っ張り出す。貼られてある付箋は駿が貼ったものだ。
「いいか⁉ テスト範囲はここまでなのに、教科書を開いた痕跡もねぇ! ノートを見せてみろ! ノルマ分の問題は解けたのかよ⁉」
「クソ真面目なチビ野郎……」
「てめぇ、いまなんつった」
テスト勉強の為、基本ケンカは控えるが、売られたケンカは買わなければ。
駿がヒクリと口角をつり上げ、教科書の角を奏の額に当てる。そのまま再び持ち上げて思い切り振り下ろせばどうなるか分かるだろう。
だが奏は怖がる素振りを見せず、それを無視して手を伸ばす。その先は駿の眉間だ。
「え、なに?」
トンと人差し指で優しく押された。
「眉間の皺。お前も勉強行き詰まってんだろ」
「…………」
「少しは休憩挟もうぜ」
その手が今度はポンポンと頭を撫でる。優しくされた、と思ってからハッとする。
「俺を言い訳にすんなよ!」
これは別に照れ隠しではない。断じて違う。
「へーへー、俺が休みたいだけでーす」
奏は額に当たっていた教科書を取り、机に置く。
勉強を教わっているのかと聞かれた時、そして先ほど、こいつは先輩か疑わしかったのに、こういう所は大人っぽくて腹立たしい。
「なぁ駿」
唇を尖らせていれば、来い来いと手招きされた。いつの間にか奏はピアノのイスに座っている。
「勉強は無理だけど、これなら教えてやるよ」
「なに?」
席から立ち上がり、奏の元へ行く。すると腰に腕を回され、そのまま引き寄せられた。
「うお!」
そしてピアノのイス、奏が開いた脚の間に座る形になる。
後ろから抱きしめられるようなそれに、フワリとどこか甘い香りがした。もしかしたら香水をつけているのかもしれない。今まで意識したことがなかった。
(いや別にいまも意識しているわけじゃねーし!)
変に緊張する身体をほぐしたいけれど、力が抜ける気がしない。カチンコチンに固まったまま、「ほら」と後ろから手を取られた。
「ドの場所分かるか?」
「そ、それくらい分かる! バカにすんな!」
奏の手にすくい取られるようなまま、人差し指でドを押した。ポーンと空気を震わせる。
「へー、案外弾けんじゃねぇか」
「だから、バカにするのもいい加減にしろよ」
「はは、悪い悪い」
唸るように言えば、後ろで奏が笑う。首元に息が掛かったような気がしてくすぐったい。いや、首だけではない。
「じゃあレは? ドレミって弾けるか?」
囁くような声が耳にダイレクトに伝わり、背中がざわざわする。きっと目の前がピアノでなければ、このまま背負い投げをして投げ飛ばしていただろう。いやもうしてしまいたい。
「ひ、弾ける」
声までうわずりそうなのを必死に隠し、ドの隣りにあるレを弾こうとする。だが手が震えてしまい、上手く力がコントロール出来ない。
「力抜けって。そんな力まなくても簡単に押せるから」
「分かってる、けど」
「ほら、駿」
奏の手が駿の手に被さるように動いた。すっぽりと包まれて、初めて彼の手が大きいことを知った。
(あったかい……)
ぼんやりと己の手に重なる手を見つめてしまう。
「力抜いて」
奏の手が少しだけ握るように力を加え、駿の手を猫の手のように丸める。そしてそれから力を抜けば、自然と軽く手が開いた。
「そのまま押す」
指と指が触れ合い、トンと一音。それから続けてもう一音。ぎこちなくドレミが弾ければ、「ほらな」と背後で奏がまた笑った。
「簡単だろ?」
「べ、別にこれくらい……っ」
反射的に出てしまった言葉を途中でなんとか切る。こんなの簡単なわけがない。
駿は首を横に振った。
「簡単じゃねぇし、全然。お前がいつも弾いてるのすげぇんだな。やっぱり」
「沢山練習してんだな」という声は掠れて消えかけた。だが奏はしっかり聞こえていたようで、ぎゅっと強く手を握られた。
もう片方の駿の腹を抱きしめる腕も強くなる。
「駿……」
それこそ掠れて今にも消えそうな、吐息が含まれた声に心臓がドクンと脈打った。
どうしてこんなことになってるんだっけ? ただピアノを教わる話だったよな?
いつものように軽い口調で聞けばいい。けれどそんな余裕はなくて、ただただ今にも口から出て来そうな心臓の騒がしさをバレたくなかった。でも背中に張り付く奏の胸には届いてしまっているかもしれない。それくらい心臓がうるさい。
今まで意識したことがない、と言ったら嘘だ。平然を装って、誤魔化して、何も知らないフリをしている。
まるで蝶が甘い花の蜜に誘われたかのように導かれたピアノの演奏。もっと聴きたいと思った。
――――じゃあお兄ちゃんは? どうしてその人と一緒にいるの?
でもその理由はとっくにどこかに消えていて、ただ奏に会いに来てるだけになった。
今日も楽しそうだろうか。今日は何の話をしよう。きっとバカにしてくるだろうから、こっちもバカにしてやろう。そしたら笑ってくれるだろうか。
他愛の無い話が楽しくて、嬉しい。もっと、もっともっと一緒にいたい。そんな気持ちが何というのか、それを知らないほど鈍感ではない。
でもその気持ちを思い知ったのは、あのおやつパーティーだ。
心に溶けて、剥がれない。どうしようもない想い。
その想いはこんなにも溢れてしまうものだなんて、初めて知った。
「あ、のさ、奏」
ぎこちない声が出る。ケンカならこんな情けない姿をさらさないのに。
「俺さ」
ガガガッ!――――突然ノイズ音が校内に響いた。
「「⁉」」
二人そろってビクリと驚けば、その音の正体は校内放送のようだ。高い位置に取り付けられたスピーカーから音がする。
流れてきたのは。
「不良犬の、歌……」
駿が歌ったそれだった。
きっと誰かが勝手に放送室に入り込んでジャックしたのだろう。今までもそういうことが多々あった。きっとしばらくすればお怒りの教師が止めるだろう。
(びっくりした)
溢れて零れ落ちる気持ちを何も考えずに、そのまま口にしてしまうところだった。
はぁ、と大きく息を吐き出しながら脱力するが、奏の手は緩まらない。むしろもっと強く抱きしめられた気がする。
「奏?」
「不良犬の歌、いいよな」
柔らかい声音のそれに、一気に身体が冷えていくのを感じた。
「え……」
「まだ発展途上って感じだけさ、聴いてて気持ちいい」
「…………」
「いつか俺のピアノで歌って欲しいんだ」
だってその声はまるで相手を恋しがっているかのようなもので、それにどのような感情が込められているのか嫌でも分かる。分かってしまう。
正体不明の不良犬を求めるそれが、心臓を凍らせる。
「そんなに不良犬が――――、不良犬に会いたいのか?」
訊ねそうだった言葉をまた飲み込み、なんとか別の言葉に代える。
ここで『好きなのか?』と聞いて返事をされたら、きっと心が砕けてしまう。だが、その後にした質問も。
「会いたい」
駿の気持ちを握り潰すには十分だった。
「…………」
「駿?」
「ざっ、んねん! 俺は不良犬が誰だか知らねぇよ」
奏の腕を力任せに振り払い、立ち上がる。後ろで「え、駿?」と動揺した声が聞こえたけれど、振り返らない。否、振り返ることが出来ない。
「俺、ちょっと用事思い出したから帰るわ」
うん、大丈夫。声は震えてない。
「おい、なんだよ、どうした?」
「テスト範囲くらいちゃんと勉強しろよー」
「駿!」
ガタンとピアノのイスが倒れる音が聞こえたけれど、やはり振り返ることは出来なくて、駿はカバンを手に取る。
そしてそのまま。
「じゃあな!」
音楽室から逃げ出した。
(あーあ)
スピーカーからまだ聞こえる不良犬の歌。
それは自分の声なのに、
(バカみてぇ)
殺したいほど憎かった。
④恋心――終了

