音楽室から聞こえるメロディーは決して大きくはない。校内の外にまで聞こえるのは窓を開けている時のみらしい。
 駿の耳にまで届いたあの日。あれから奏が窓を開けて弾いているのを見たことがない。

「…………」
 駿はゆっくりと音楽室のドアを開けていく。
 どうしてもガラガラと音は鳴ってしまうけれど、演奏のジャマにならないよう、ゆっくり、ゆっくりと。
 ピアノを弾く奏の視線が来客を確認するかのように上げられ、だが入室を許可するようにすぐに逸らされる。
 毎度のことだけれど、演奏を傍で聴いていても良いというそれが、ほんの少し嬉しいのは駿だけの秘密だ。
 そのまま静かに一番前の席に座り、奏の演奏に聴き入る。
 相変わらずタイトルの分からない曲だけれど、またまた相変わらず最高な演奏なので、何の問題もない。
(今日のはどっか明るい曲だな)
 ゆったりとしたメロディーを奏でる指を見る。昨日は超絶技巧すぎて、そのまま暴走した指が宙に飛んでいくのではないかと思ってしまったほどだ。
(まぁ昨日の曲も好きだけどさ)
 駿は無意識に口元に弧を描きながら、ゆっくりと目を閉じる。
 互いに自己紹介をしたあの日。
『また弾いてやるから、ここ来いよ』
 あれから、放課後は音楽室で過ごすのが日課になっていた。

「なぁ、駿」
「んー?」
 演奏が終わり、めいいっぱいの拍手と感想を告げたあと。満足しながらスポーツドリンクを飲んでいると、奏はピアノのイスの背もたれに腕を乗せながら聞いてきた。
 その手には駿からの差し入れの、同じスポーツドリンクが握られている。
「このあいだ投稿された不良犬の歌、聴いた?」
「んぐっ!」
 口から噴き出さなかったのは奇跡だろう。
 ゴホゴホと咳き込みながら、思い切り手を横に振った。
「知り、知り、マセンー」
「えぇ? 知らねぇの?」
「知リマセンヨー」
「あんなにバズってんのに」
 奏も一口スポーツドリンクを飲み、ニヤリと笑いながら駿を見た。嫌な顔だ。性格の悪さが滲み出ている。
「お前と出会った時に弾いた曲と一緒でさ、すっげぇ聴いたことのある声だったぜ?」
「ヘー、ソウナンデスカー」
 答えながらも背中にはダラダラと冷汗が流れていた。
 正体はバレていない筈だ。多分。いや、絶対。確かに奏のピアノに合わせて歌ってしまったけれど、『ラ』だけだし、歌ったところを見られたわけではないから。
(ただの世間話をしているだけだ、落ち着け俺)
 音楽に関わる者、きっと色々な曲を聴いているに違いない。特に奏は難しいオーケストラ的なものよりも、J-POPなどの方が弾いていて楽しそうだし。
「不良犬、人気ありますネー」
 笑顔で奏に返す。作り笑顔も完璧だ。
「選曲が素晴らしいカラネ」
 こっそり鈴音自慢を混ぜれば、奏も「確かに」と肯定し、鼻が高くなる。
「万人受けする曲だし、不良犬の歌声にあってるからな」
「だよなー!」
 ほらみろ鈴音! とガッツポーズ。そんな駿を奏が小さく笑ったのだが、同じ空の下にいる鈴音を褒める念を送っている駿は気付かなかった。
「駿は歌わねぇの?」
「んあ?」
「お前も歌ってみろよ」
「知ってるだろ、この曲」と、投稿した曲――このあいだ『ラ』で歌ったそれを弾き始める。
 えぇ、えぇ、知っていますとも。だって不良犬は俺ですから。
 軽やかに弾む音に、心が躍る。こいつはどうしてこんなにピアノが上手いのか。
(やっべぇ! 歌いてぇ!)
 身体がうずうずしてしまう。ケンカの時はこう、手のひらをグーパーと動かしてしまうけれど、今は口がニヨニヨと騒ぎ出す。
 誘うように「ほら」と奏が首を動かせば、そのまま声が出そうになって。
「む、無理デスー!」
 手で口を押さえた。
(あぶねぇ! あっぶねぇ!)
 小刻みに震えるように首を横に振る。手を離したら勝手に歌い出しそうだから、お口はチャックだ。
「なんで」
 そんな駿を楽しそうに見る奏。
「歌えよ。駿、お前のために弾いてやるんだぜ?」
「俺には勿体ないデスー」
「へぇ? そうかよ」
 そのまま続く演奏はまるで我慢比べだった。
 お前のために弾いていると言われて、こんな素敵な伴奏で歌えたら、どれだけ気持ちがいいだろう。
 だが不良犬だとバレた時のことを考えたら、歌えるわけがない。
(あー、でも)
 たとえ歌っていなくても、伴奏だけのそれでも、先ほどよりも楽しそうに弾く音が心地良い。
「ったく。お前はよ……」
 自身も気付かぬうちに笑顔になってしまった駿を見て、奏は伴奏だけではなくメロディーも一緒に弾き始める。再び演奏会だ。
((楽しそうだな))
 いつの間にか二人が笑顔になっていることは、互いにしか知らない。

「そういえば奏、今日は楽譜持ってきてるんだな」
「あー、うん」
 同じように拍手をして、しばしのドリンクタイム。
 いつもピアノには譜面が置かれていないのに、珍しく教科書みたいな冊子の楽譜が置かれていた。
 駿も歌はうたっているが、曲は耳で聴いて覚えるし、歌詞はスマホの画面か鈴音が印刷して用意してくれる。だからピアノの楽譜なんて新鮮だ。
「ちょっと練習しないとだからさ」
「ピアノ習ってんの?」
「まぁそんな感じ」
「へー」
 独学でここまで弾けていたら天才だろう。もしかしたら子供の頃から習っていたのかもしれない。
「まぁ楽譜見て数回弾いたら、そこそこ弾けるけどよ」
「マジで? ピアノってみんなそんな感じなの?」
「ンなわけねぇだろ。俺が天才なだけ」
 独学でなくともどうやら天才らしい。
「ふぅん」
 普通に頷いた駿に、奏は噴き出すように笑った。
「いや、お前そこは突っ込めよ」
「なにが?」
「天才って何だよとか、色々あんだろ」
「そう言われても、ピアノ弾く基準とか俺、よく分かんねぇし」
 それに、と続ける。
「奏の演奏って最高だから、天才って言われても普通に頷ける」
「…………」
「奏?」
「なんでもねぇよ」
 どこか複雑そうな顔をしたかと思えば、ぐしゃぐしゃと己の前髪をかき混ぜて立ち上がる。そして駿の隣りの席に座った。
「駿」
「ん? っおわ!」
 ガタンと音を立ててイスを近づけ、今度は駿の頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。
 廣嶋ほど髪型を気にしたことはないけれど、ボサボサはごめんだ。
「なにすんだよっ」
「素直な奴って恐ろしいなと思ってよ」
「はぁ?」
「はは、ごめんごめん」
 怒る駿の頭を今度は撫でるように直し始める。
 一体何がしたいんだよと溜息をつくと「ボサボサにして怒った?」と顔を覗き込まれる。だがその表情はどこも反省した様子はなく、むしろこちらを揶揄うそれだ。遊ばれている。
 ムッとしたまま駿は顔を逸らした。
「怒った」
「どうしたら許してくれる?」
「許さねぇ」
「じゃあひとつ、お前の言うこと聞いてやるよ」
「え、ほんとか?」
「うん」
 予想外の方向に転がり始めた遊びに、駿はパア! っと顔を明るくする。それにまた奏はイスを駿に近づけて、駿の席の机で頬杖をついた。
「なにして欲しい?」
「んーと」
 ケンカがしたいけれど、奏は非戦闘員だから無理だし。
 なにか出来る勝負があればいいがと考えて、「あっ」と閃いた。勝負事ではないけれど、奏にしか出来ない事。
「このあいだテレビで聴いた、あの人気グループの格好良い曲弾いて欲しい!」
 奏の最高な演奏が聴けて、しかも楽しそうな奏の姿も見られる! なんて素敵なアイディアだろう。自分を褒めてやりたい。
「ちょっと待て、お前はまだ俺にピアノ弾かせんのかよ……」
「色気も何もねぇな」と呆れた奏に、色気とは? と思いつつもスルーして「言うこと聞いてくれんだろ?」と、笑ってやる。
 我ながら意地の悪い笑みが出来たと思ったが、奏はこちらの頭を軽くポンポンと叩いて、イケメンパワー丸出しの柔らかい笑顔を見せた。
「あとでその曲スマホで聴かせろよ。弾いてやるから」
「…………灰になるかと思った」
 眩しい。眩しすぎる。なんと恐ろしきイケメンパワー。
「あ?」
「いや、こっちの話」
 美人な鈴音の笑顔に慣れて耐性が出来ているかと思ったが、まだまだ修行は足りないようだ。
 ふぅ、と腕で額を拭っていれば、奏が小さく呟く。
「お前もやっぱピアノばっかだな」
「ん? なんか言った?」
「いや、何でもねぇよ。あ、そういえばさ駿」
「なした?」
「今度の体育祭、何に出るんだ?」
 奏が敢えて話題を変えたことに気付かずに駿は万歳するように両腕を持ち上げた。
「あぁ! 体育祭な!」
 高校で行われる体育祭。不良高であるからそういう類いのものは無いのかと思ったが、一応行われるらしい。
 色々な勝負が出来る絶好のチャンス、駿にとって楽しみな行事だ。
「100メートル走と800メートル走、ドッジボールと騎馬隊! あと応援団もする!」
「なんか多くね?」
「みんなやりたがらねぇから、譲ってもらったぜ!」
 出る競技を決める時、クラスメイトの重い雰囲気の中ハキハキと手を挙げた駿に、担任が『好きなの出ていいよ』とお許しが出たのだ。
「それが許される学校なんだよなぁ」
「全部一位を取ってやる」
「おー、頑張れよ」
 どこか適当な応援だが、駿は「任せとけ!」と拳を掲げたところで、言い忘れていたことを思い出した。
「そういえば来週から応援団の練習入るから、放課後来れねぇや」
「え、マジで?」
「おう」
 頷く駿に奏が心底面白くなさそうに口を歪める。
「そんなんサボっちまえよ」
「サボったら応援団選んだ意味ねぇだろうが」
「えーー」
「格好良い応援見せっから、楽しみにしとけよ!」
 それぞれの組でチームが分かれ、一年二年三年が合同で行われるものだ。
 一昨年まではどのチームが良かったかの投票制のものだったらしいが、今年から競うことなく、やりたい人が歌って踊って見せるだけになったらしい。
 勝敗はないものの、格好良いことをするのも大好きだ。男女混合だが、鬼気迫る迫力満点のものが出来たらいい。
(気合い入るぜ!)
 奏のピアノが聴けなくなるのは残念だが、やる気満々な駿。そんな駿をつまらなさそうに見ながら奏は。
「俺もやる」
「……え?」



 そして放課後のグラウンド。
 ザワザワと騒がしい人だまり。参加するクラスメイトと一緒にいれば、向こうから手を振りながら奏が歩いてきた。勿論、周りと同じジャージ姿だ。
「駿、やーっと見つけた」
「マジで参加すんのかよ……」
「つか志願するのもう遅かったんじゃねぇの?」と聞けば、「まぁそこらへん適当だから問題なし」とピースをして見せる。まぁ確かに何競技も出られるのは適当であるおかげなのだが。
「えっと、駿の友達?」
 一緒にいたクラスメイトが気まずげに声を掛けてくる。
「あー、そんな感じ」
 学年がひとつ上のことも伝えた方がいいのだろうか。音楽室でピアノ弾いているとか、もっと紹介した方が話題作りとして奏もクラスメイトと話しがしやすくなるかもしれない。
(でも……)
 チラリと奏を見れば、ジャージのポケットに手を突っ込みながら背中を軽く曲げ、大きな欠伸をしていた。こちらのことを気にした様子は一切無い。
 別にピアノのことを話すなとは言われていない。それでもきっと奏は他人にベラベラと話されるのは嫌いな気がする。
 まだこちらに注目するクラスメイトに駿は軽く笑って言った。
「学年ひとつ上の先輩。でも悪い奴じゃねぇよ」
「先輩に向かって悪い奴じゃねぇってなんだよ」
「うお」
 いつの間にか背後を取られ、後ろから首に腕を回される。
「俺のことは別に気にしなくていいから」
「ちょ、おいおいおいっ」
 奏は一言クラスメイトにそう言うと、駿をズルズルと引っ張って移動してしまう。一応「ご心配なく~!」と手を振っておいた。
「なに、お前って人見知り?」
 人が集まるところを避けて足を止めた奏に訊ねる。回っていた腕は下がり、首から肩へ。肩を抱くような形に変わる。離れる様子はない。
「まぁそんなとこ」
 コツンと彼の頭がこちらの頭に乗せられる。どこか甘えている様子は、幼い頃の鈴音を思い出させる。
 友達の輪になかなか入れなかった彼女もよく服の袖を握ってきたりしていた。
(ま、いっか)
 頼られるのは嫌いじゃない。
「奏ってこういうの興味ないと思ってたんだけど、そんなことねぇんだな」
「別に興味ねぇし、むしろ嫌い」
 頭の上から憎しみが籠もった声が落ちてくる。
「なら何で参加したんだよ」
「駿との時間が取られるの嫌だったから」
「は……?」
 肩を掴む手が強くなった。痛くはない。でもまるで放さないと言われているような気がした。
「奏?」
 顔を見ようと頭を動かす前に、ピピー! と笛の音が響き渡った。
『集合ー!』
 体育教師、武田先生がメガフォン片手に叫ぶ。その周りに色違いのハチマキをした生徒が数人いた。きっと各チームのリーダーだろう。
「おっ、練習始まるっぽいぜ!」
 ハチマキ一つで応援団っぽい雰囲気を感じてしまう自分は我ながら単純だ。
「ほら行くぞ」
「えー……」
「えー、じゃねぇよ」
 先ほどとは逆に、今度は駿が奏の背中を押していく。
『自分のチームは分かってるな? それぞれの色のところに集まってくれ』
「奏は何色?」
 全学年合同だが、駿と奏は組の違いによって同じチームではない。事前に分かっていたことだ。
 また唸るように奏は答える。
「…………青」
「俺は赤! 青は向こうだな」
 駿は軽く背中を叩いて奏から離れた。
「参加するならちゃんとやれよ」
「面倒くせぇ」
「やるっつったのは奏だろ」
「あー……ったく、仕方ねぇか」
 再び欠伸をし、ぐっと伸びをする。そして駿に振り返り、ポンポンと軽く頭を叩いて口元に弧を描いた。
「駿が見蕩れるくらい格好良い応援してやるよ」
「っ!」
 これだからイケメンは! 顔だけではなく台詞まで格好良いとなったら、絵になるどころか漫画、いや映画にまでなってしまうから恐ろしい!
「まぁ、その応援の内容が変なのだったらどうしようもねぇけどな」
「おっまえ、格好つけたいのかどっちなんだよ」
「駿のハートを射止めたいのと、応援団をバカにしたいの二つでーす」
「じゃ、またあとでな」と、背中越しに手を振りながら集まって来ている自分のチームへと歩き出す。
「なんだあいつ」
 これから応援の練習をするというのにバカにするとは。それほど嫌なら参加しなければ良かったのにと思いつつも、脈が速くなった胸元を押さえて駿は大きく息を吐き出した。
 別に面食いなわけではない。決してない。ないのだが。
(勘弁してくれ……)
 突然のイケメンビームはやめてほしい。眩しいにもほどがある。
 応援団うんぬん抜きに、もう十分見蕩れているのだから非常に腹立たしい。なんだか負けている気がする。
 いやいや容姿勝負ならもう完敗しているのだから、ここで悔しがっても仕方が無いか。
(でも負けっつーのはやっぱ悔しいよなぁ)
 むむむ、と腕を組みながら自分も赤色を目指して歩いていけば。
「ねぇちょっと、あそこ歩いてるの王子じゃない?」
「えっ、うそ、ほんとだ! 王子じゃん!」
「マジマジマジ⁉ 王子応援団すんの⁉ やばくない⁉ 超嬉しいんだけど!」
 すれ違った女子が小さく歓声を上げる。無意識に振り返れば、女子たちの視線の先にいるのはどう考えても奏だ。
「同じチームとか、一生の徳を使い切ったわ私」
「えー、ずるいずるい~」
「でも真っ正面から王子の応援見られるじゃん!」
「確かにー!」
 楽しそうに話す彼女たちの他にも、奏を見ている生徒は沢山いた。
(王子……?)
 なにやら奏は『王子』と呼ばれているらしい。
 今年、つい最近入学したばかりの一年生である自分たちは奏の噂を聞いたことがない。だがもしかしたら奏はこの学校の有名人なのかもしれない。
(まぁ男の俺でも見蕩れるんだから、女子が騒いでも当たり前っつーか)
 もしかしたら放課後、音楽室でピアノを弾いていることも知られているのかもしれない。
 それなりの防音室だが、完全に音を遮断しているわけでもないし、窓を開けていたのが、自分と出会ったあの二日間だけというわけでもないだろう。
 あれから窓を開けていないだけで、その前はどうしていたのか俺は知らない。
(王子……王子か)
 確かにあのイケメンが王子と呼ばれても不思議では無い。でもそれだけ人気があるなら、どうして音楽室には誰も寄りつかないのだろう。何か暗黙のルールでもあるのだろうか。
 でも出会ったあと、奏が俺を拒絶したことは一度も無い。出て行けとは言われていない。奏ならきっと嫌なら遠慮なく言ってくるだろうし。我慢させてるわけではない、はず。
(あー、なんつうの? なんつーか)
 でも俺は、イケメン人気の王子様のことを何も知らない。
(さっきからさ)
 駿は唇を尖らせる。
(すっげぇ負けてる感)
 なんの勝負か、分からないけれど。



『はーい、今日はここまでー!』
 軽く応援の振り付けを見せ、大まかな流れを追っていくぐらいで今日の練習は終わった。
 まだ細かいことは習っていないけれど、意外と覚えることが多そうだ。
「思った以上にやりがいあるじゃねぇか!」
「そう思ってるの柳場だけだと思うぞー」
「私もそう思う……」
「えー! どうしたよお前ら、ここは気合い入るところだろ!」
 どんよりとした空気が流れるクラスメイトたちに、駿は拳を振り回す。
 先ほどのつまらないモヤモヤは練習中に綺麗に消えていってくれた。やはり身体を動かすとスッキリする。
「てか俺、ちょっとびびったんだけど」
「どうした?」
「柳場の声がでかいのはイメージ通りだったんだけど、すっげぇ高い声も出んのな」
「え……」
 応援の最中に声を出す部分があるのだが、きっとそれのことを言っているのだろう。
 別に歌をうたうわけではない。『フレーフレー!』というフレーズのようなものを何個か叫ぶだけだ。
 だがそれに周りは共感とばかりに頷いた。
「それ俺も思ったわ。女子の声に混ざってたろ柳場の声」
「あの声って柳場のだったの? しっかりした声が聞こえて、こっちも声出すのめっちゃ楽だったわ」
「男なら普通ワントーン下だろ」
「あー……はは」
 動いて温まった身体がまた少しずつ冷えてくる。不良犬だと指摘されているわけではないが、秘密を守る殻がボロボロ剥がされているかのようだ。
「まぁあれだ。ケンカしてたら声も高くなんだよ!」
「なんだそれ、カンフーでもしてんのかよ」
「アチョー!」と真似するクラスメイトにどっと笑いが走る。それに駿も乗っかるけれど、正直心臓が弾けそうなほど緊張していた。
 このままこの話が終わってくれればいい。そう願っていたが、女子が必要以上に褒めてくれる。
「柳場の声って伸びがあって綺麗なんだねぇ。音楽の授業の歌とか、ゴニョゴニョしててあんま聞こえないのが勿体ない」
「さっきの叫び声みたいに声出して歌ってみろよ。案外化けるかもしれねぇぞ?」
「いや、俺はそういうの苦手ナンデー」
「遠慮シマスー」と返すが、「ええー! 歌ってみろってー!」と、まるでアンコールを強請るような声が上がってしまう。
(マズい、マズい、マズいっ)
 これ以上誤魔化すと不自然だろう。授業の時みたいに歌ってもきっと許してくれない。ならばもういっそ走って逃げてしまう?
 応援の練習中は一粒も掻かなかった汗が額に滲んでくる。だが――――
「駿」
 たった一言。短い名前ひとつ。それが聞こえた瞬間、いつの間にか止まっていた呼吸が、一気に肺から流れ出ていった。
「まだやってんの?」
「奏……」
 先輩だと紹介しておいたからか、クラスメイトのテンションが一気に抑えられる。
 もしかしたらこの後、うちのクラスでは場の空気を読まない先輩として噂されるかもしれない。
 でも駿にとっては救世主だった。
「練習、まだやってる?」
 近くのクラスメイトに聞く。
「あ、いえ、終わっています」
「あそ。じゃあもういいじゃん」
 奏は呼んだ。
「駿、行こうぜ」
「……うん」
 俯くようにひとつ頷いて、パッと顔を上げる。そしていつもの笑顔で「また一緒に練習しようぜ!」と元気よく言い、早足で奏の元へと向かった。
「じゃあまたな!」
「お、おう! じゃあな柳場!」
「またねー」
 それぞれの挨拶は少しぎこちない。このあと何と言われるのだろうか。でもそれは知らなくていいや。
「おっせぇよ駿」
「ってぇ、蹴るなよバカ」
 尻に膝蹴りを入れられて、やり返す。
 今はそれだけで十分だった。

――――筈だった。

「…………」
「あのー、奏サン?」
 そのまま帰るのかと思いきや、結局いつも通り音楽室へ。
 またピアノを聞かせてくれる流れなのかと、いつもの席に座ったのだが、奏はピアノのイスを動かし駿の席の前、向かい合わせで座る。高さの関係で彼の方が視線が高かった。
 だが問題なのは高さでは無い。
「…………」
 奏は腕を組み、不機嫌そうに駿を睨み付けていた。
 グラウンドから移動するときはあまりいつもと変わらなかったと思うのだけれど。
「なんだよ、どうしたんだよ」
「…………」
「かーなーでーさーーん」
「…………はぁ」
 ようやく反応があったと思えば、ひとつの溜息。
「応援団の練習、そんなに大変だったのか?」
「ちっげぇわ」
「じゃあ何だよ。どうしてそんな不機嫌なんだ?」
「…………」
 睨み付けていた視線が逸らされる。顔に『つまらない』という文字を書きながら、ようやく奏は言った。
「駿クンは人気者ですねー」
「…………」
 今度は駿が黙る番だ。
「もっと色々気をつけるべきだろ。つってもお前にゃ無理だろうからな。だったら目立たないようにしとけよ」
「あっちもこっちも人気者でどうすんだよ」
「モテモテでさぞ気分は良いだろうな」
 黙っていた分、その口から文句が次々と出て来る。
 浮かべてるのは苦笑なのか、嘲笑なのか。どちらなのか分からないが、これだけは分かる。
「それ、」
 売られたケンカは買いますけど?
「そっくりそのまま返してやんよ」
 駿は手を伸ばし、逸らされていた視線を戻すよう顎を掴んで顔を覗き込む。
 驚いたと瞠目する彼の瞳を真っ直ぐ射貫いた。
「奏クンは人気者ですねー」
「あっちこっちで人気者でびっくりしたぜ」
「モテモテでさぞ気分は良いだろうな」
 ヒクリと口角を持ち上げる。わざとじゃない。勝手に持ち上がったのだ。
「なぁ? 王子様」
 苛立ちで。
「…………」
「…………」
 しばらく近い距離で奏を無言で睨み付ける。
 彼はパチパチと瞬きをしてから、顎を掴んでいる駿の腕を取った。そしてその手の指に自身の指を絡めて、親指で撫でる。
 優しい感触なのに、どこかぞわりとしたのは、駿の瞳が映っている奏の瞳がどこか鋭い光りを帯びているからだろうか。
「へぇ? その呼び名、知ったのかよ」
「おう」
 少し低い声音。撫でる手に、見つめ合う瞳。
 逃げ腰になりそうなのを必死に我慢する。
「女子がキャーキャー言ってたぜ」
「そうだろうな」
「で?」と、こちらに問う、たった一文字の音はどこかねっとり、身体にまとわりつくようなものだった。
「駿は俺が人気者なのが気に食わねぇんだ?」
「…………あ、ぇ?」
「俺がモテるの嫌?」
「な、んでそんな話にな、る……?」
 そう言ってから、いやそういう話になるだろ、と己の声が聞こえた。しかし分からない。俺はそういうことが言いたいんじゃなくて。
「ただ、その、俺は」
「うん」
「~~~~っ、だぁ! その撫でる手やめろ!」
「やめない」
 もう片方の手まで伸びてきて、頬を撫でられる。指先が耳に引っかかり、ビクリと肩を揺らしてしまい、一気に顔が熱くなった。
「だぁから! やめろっつーの!」
 ガタン! と音を立てて立ち上がり、奏の手を全て振り払った。そしてそのままの勢いに任せて、怒鳴るように全てを吐き出す。
「てめぇがモテるのは当たり前だろうが! こんだけのイケメンだぞ⁉ モテなかったら相手の目が腐ってるだろ!」
 怒鳴る声のトーンが高いかもしれない。また不良犬うんぬんの話になったら? 上等だ。そのときはそのときで受けて立ってやる。
「俺はてめぇのこと、全然知らねえよ! 当たり前だろ⁉ 入学したばっかなんだからよ! でも正直王子っつー呼び名が似合ってるとは思ってる! だってこんなイケメンなんだから、女子も王子って呼びたくなンだろ!」
 奏が「褒めてんじゃん」と笑ったが続けた。
「モテるのも、人気なのも、嫌われてるより良いことだろ! でも、でもさ、何でか分かんねーけど、すっげぇ、すっげぇ負けた感あんだよ!」
 誰に? 何に? 己が問い掛ける。
「女子に! お前じゃなくて女子に! 何に負けてんのかは知らん! 分からん! 分かりたいとも思わねぇ! でもムカつく! 腹立つ! なんで負けなきゃいけねぇんだよ! なんの勝負かも分からんもんに! なんで負けんだよ!」
 普通ならば『以上!』と終わるだろうけれど、駿は「くそが!」と締めくくる。息が上がり、肩を上下させる。先ほどから運動よりも疲れているとは何事か。
(なんか、格好わりぃ……)
 うなだれ、ゆっくりと席に座り直すが、奏の顔は見られない。
 幻滅したかな。怒らせたかな。もう音楽室に来るなって言われるだろうか。
「駿」
「…………はい」
 情けなさマックスで返事をする。だが奏の声は呆れたものでもなく、いつもと変わらない声音だった。
「別にお前は負けてねぇよ」
「…………」
「顔上げろ」
 命令口調のそれに少し躊躇し、けれど観念したかのような気分で顔を上げた。
 交ざった視線の先にあったのは、苦笑だった。柔らかくて、優しい苦笑。
「仕方ねぇな、お前って奴は」
 頭を撫でられる。ぐしゃぐしゃと。それから指先で優しく髪の毛を梳いてくれた。
「俺は駿がいてくれれば、それでいい」
「よくねぇよ」
 掠れた声で返すが、強い言葉で「いいんだよ」と一度だけ指先で頬を撫でた。
「駿がいい」
「…………」
「今日も明日も、お前だけのためにピアノを弾いてやるよ」
 それってどういう意味なんだ? とは聞けなかった。その他にも、色々。
「知らなくていい。今はな」
 そんな駿の言葉を全て察する奏に、初めて彼の方が一つ年上であることを実感した。
「おら、元気出せよ」
 奏は立ち上がり、ピアノに向かう。そして立ったまま器用に鍵盤を操り出す。
「あ……」
「この曲だろ?」
 知っているメロディーは、先週リクエストした曲だ。あれはもう無かったことになったと思っていた。
(弾いてくれるんだ)
 どちらかというとK-POPのような曲調だが、それを上手く弾きこなしている。彼も言っていたが、やはり天才なのかもしれない。
 弾く奏は、一緒に歌えとは言わなかった。駿がリクエストした曲を、リクエストした本人よりどこか楽しそうに弾いていて、少しずつ沈んだ心が持ち上がってくる。
(やっぱ最高だな)
 リクエストを覚えてくれていて嬉しい。きっと練習してくれたことも嬉しくて、こうやって弾いてくれることも嬉しい。でも一番嬉しいのは、弾いている奏が一番楽しそうなこと。
 完璧にメロディーを覚えたわけではない。でも自然と鼻歌を紡いでしまう。
 小さく、知っているところだけ。それだけでもこちらに寄り添って弾いてくれていることが空気から伝わって、心地よい。
 不良犬とか、そういうのとかどうでもいい。
 ただこの演奏が俺だけのものなのだという真実が、先ほどまでの勝敗を全て消し去ってくれた。



②勝敗――終了