――――そして放課後。
「ういーっと! 俺の勝ち!」
正々堂々グラウンドで始めたケンカは、気付けばここの三年生まで交ざってきて、大乱闘となった。勿論、止めに来る教師はいない。
現在ここで立っているのは駿だけで、死屍累々の景色を見渡しながらカラっと笑った。
「タイマン勝負が筋ってもんだと思うけどよ、この高校に入学してから、乱痴気騒ぎも悪くねぇなって思うようになってきたわ」
「あざーっす!」と、倒れている屍に頭を下げる。この中に廣嶋と夢三沢はいるのだろうか。もしかしたら途中で帰ったかもしれないし、探すのも手間だ。
「じゃ、帰るか」
グラウンドの土埃をかぶらないように校舎側へ避難させていたカバンを持ち、その場を後にする。勝者の去り際というのも大変心地良い。
このまま良い気分で歩いていると、ふとピアノの音が耳に届いた。
「ん?」
足を止め、辺りを見渡す。その間もピアノの音は激しく動き、迫力のある演奏が空気を響かせている。
「知子(ともこ)先生かな」
音楽の教師が弾いているのだろうか。
どこか引き寄せられるように駿はピアノの音を辿りながら歩き出す。音楽室は一階にあり、位置的に校舎の裏側だ。
演奏の邪魔をしないよう、無意識に気配を消しながら向かえば、まさに音楽室の窓が開いていた。夏を知らせるような風が白いカーテンをなびかせている。
ひょこっと窓から顔を覗かせて見れば、ピアノを弾いているのは教師ではなく男、自分と同じここの生徒だった。
(マジか!)
予想外の人物に、隠れるようにしゃがみ込む。
その間も旋律は途切れることなく続き、何かを語っているかのように音が空を切る。
「すげぇ……」
ピアノのコンサートに行ったこともなければ、いま弾いている曲のタイトルも分からない。それでも何故かこの演奏は胸にずっしりとのしかかる。存在感があるというか、こういう感じが心に響いているということなのだろうか。
そんな演奏を自分と同じ年頃の学生がしているということが驚きだ。
(聴いてても邪魔じゃねぇよな)
音を立てないようにその場に腰を下ろし、壁に背を預ける。きっとここに自分がいることはバレていないだろう。
駿は目を閉じて演奏に聴き入った。
最後の一音。メロディも知らないのに、これで演奏が終わりだと分かる一音がフワリと宙で消えると、息を吸い、長く吐き出した。
(すげぇ良かった! よく分かんねぇけど、めっちゃ良かった!)
その気持ちのまま立ち上がり、拍手をしようと思ったが――――また演奏が始まる。
次の曲は先ほどのものとは雰囲気も曲調も全然違う。けれど聴いたことのあるもので、なんだっけと駿は座ったまま考えて。
(あっ、今度歌う曲だ)
鈴音に『次の曲はこれだよ』と音源を渡されたものだ。だから聴いたことがあるのだ。
歌のメロディーに、バックコーラス。伴奏が上手く組み合わさっていて、ピアノの音なのにまるで原曲を聴いているかのようだ。
だがそれだけじゃない。
(なんか、なんか! すっげぇムズムズしてきた!)
ケンカをしている時のように気分が高揚してくる。知っている曲だから? いやそれだけじゃないと思う。
先ほどの演奏もすごかったことはすごかったが、なんだろう。もっと音が跳ねて、弾んで、踊っている。
知っているのに知らない曲のように響いて、心が爆発して、自分も黙ってはいられない!
「ら、ラララ……」
歌詞はなんだっただろう。いつも完璧に暗記しているわけではないから、覚えていない。でもメロディーだけは何となく分かる。
「ララ、ラララー、ララ」
ピアノに合わせて歌い出せば、まるで両手のひらですくい上げるかのように駿の歌声をメロディーに乗せてくれる。
勝手に口から零れて、音と流れて、混ざり合って。楽しくて、まるで駆け抜ける風のような感覚で。
(すっげぇ楽しい!)
心のままに歌声を響かせた。
後奏まで弾き終わり、曲の余韻まで堪能する。
今度はただ息を吐き出すのではなく、恍惚な溜息をついた。こういうものは勝手に出てくるのだと初めて知った。
(やべー、最高だった。歌うってこんな楽しくなるんだ)
「よう」
「……ん?」
ピアノ以外の音を耳に入れるのが久しぶりな感じがした。
キョロキョロと左右を見渡すと「上」と言われ、言葉のままに頭を上げれば、窓からこちらを見下ろす男子生徒がいた。ピアノを弾いていた彼だ。
「あ!」
駿は立ち上がり、拳を握る。
目の前にいる男子生徒は一言で言えば、めちゃくちゃイケメンだった。
後ろをハーフアップに結ぶ黒い髪の毛。日焼けをしてない白い肌とのコントラストが美しく見える。耳にある輪の銀色のピアスが似合っていた。
学ランは着ておらず、ピアノを弾いていたからか下の白いワイシャツを腕まくりした状態で、これまたピアノを弾くからか、覗く腕は鍛えられたものだった。
男からもイケメンだと思わせる彼に駿は少し見蕩れてからハッとし、すごかった! と語彙力皆無だが拍手喝采を伝えようと口を開いたが。
「いま歌ってたの、あんた?」
「へ?」
駿の方が立ち位置的にも身長が低いのに、男子生徒は首を傾け、下から顔を覗き込むようにしてから続けて聞いた。
「もしかしてさ、あんた最近騒がしくしてる不良犬じゃね?」
「――――――っ!」
本日二回目、ヒュッと息が止まった。そしてようやく気付く。
俺、いま歌っちまってたじゃん!
(いや、でもラララだけだし、それだけで分かるわけねぇだろうし)
「え、エー? 何の話しデスカー?」
笑顔を作れ。誤魔化せ。俺なら逃げ切れる! と自信ゼロの状態で己を鼓舞する。
「あんた、ここで歌ってたじゃん」
「アー、うーん、俺じゃないデスー」
「じゃあ他に誰かいたわけ?」
「…………」
鈴音で重々承知なことだが、美人の冷笑は怖いし、こちらの心の中を見透かせるのではと思ってしまう。
駿は彼の視線から逃げるように顔を背け、「どっかにぃ、イタカモー」と返す。きっとここに廣嶋がいたら、どこぞのギャルやねんとツッコミを入れられていただろう。
「ふーん」
「んじゃあさぁ」と相手は続けた。
「ラーって、言ってみろよ」
「え? ラ?」
「あぁ」
「……ラー」
「ほらあんたじゃねぇか」
「……!!」
これだけで分かっちまうもんなのか⁉
「違う、違いマスー!」
「…………」
いつまでも誤魔化す駿に腹が立ってきたのか、男子生徒は表情を歪めて呆れたように溜息を吐く。それから駿を上から下まで、まるで品物を見定めるようにみてから鼻で笑った。
「ま、噂の不良犬がこんなチビじゃないか」
「なんだとこら!」
これまた二回目のコンプレックス攻撃に噛みついた。罠だとも気付かずに。
「じゃああんたが不良犬?」
「~~~~っ」
これ以上誤魔化す方法が思いつかず、黙ってしまう。
ここでバレたらどうする? でも今のところ、こいつにしかバレていない。でももし周りに言いふらしたら? それで世間にバレてしまったら? 家に迷惑を掛けてしまうかもしれないし、最悪の場合。
(ケンカが出来なくなっちまう!)
不良犬が実は不良高校に通う、ケンカ好きの問題児でした、なんてことになったら一気に問題になるわけで。ケンカうんぬんがバレなくても今後のことを考えると世間体的にもケンカが出来なくなってしまう。
それならばいっそ不良犬の存在を抹消してしまえばいいけれど、そうすると鈴音がきっと悲しむから。
(よし、仕方ねぇ!)
駿はカバンを持ち、クルリと反転して。
「演奏、すごかった! 最高だったぜ! んじゃ、さいならー!」
走って逃げた。
あの追撃から正体を隠すのは至難の業。逃げるが勝ち。ほら、戦に負けても勝負に勝て、というわけだ――――なんか違う気がするけれど。
「でも絶対的な証拠があるわけじゃねぇし、向こうも俺が同じ生徒だとしても探し出すのは難しいよな、うん」
少しずつ冷静になってくる。そうだ、ただ『ラー』っていう声だけで不良犬だっていう確証は持てない筈だ。
(いやぁ、マジで危なかったな)
いつもの帰宅路で足取りを緩やかにする。追い掛けてくる様子もないし、危機は脱しただろう。
「もう音楽室には近寄らないでおこう……」
本日の反省に、ガクリと首を落とす。
あいつのピアノと一緒に歌うの、楽しかったのになぁ。でも正体は絶対に秘密にしておかなければ。
「――――って思ったよな、俺」
次の日の放課後。再び駿は音楽室の窓下に座っていた。
昨日と同じ曲だが、アレンジが違う。しかも今回は伴奏だけ。まるで歌ってくれと言わんばかりのそれだ。
本当は昨日こちらからタイマンに誘っておきながらも置いて帰ったことに廣嶋が面を貸せという、なんとも素敵なケンカが出来ることになったのだが、聞こえてきたピアノの音に誘われて、『また今度な!』とこちらに来てしまったのだ。
(正体がバレるかもしれねぇのに、なにやってんだよ……)
大きな溜息をついて自分自身に呆れるが、それとは別に心がウキウキと弾んでしまう。
これならバレないだろうと、小さな鼻歌だけで我慢するけれど、今すぐピアノの音を浴びながら大きな声で歌い出したい!
「おい、また来たのかよ」
「おわっ⁉」
突然曲の隙間から話し掛けられ、ビクッと反射的に立ち上がった。すると演奏が止まる。ピアノを弾く姿勢のまま彼も驚いたようにこちらを見ていた。
「え、マジでいたの?」
「はい?」
「いや、本当にいるとは思わなくて」
「……うあー、くっそ」
立ち上がらなければバレなかったのか。やらかしたと頭を抱える。
「で? また来たのかよ不良犬」
ピアノのイスの背もたれに腕を預けながら聞いてくるそれに心臓が跳ねる。だから来てはダメだったというのに。
「ふ、不良犬じゃねぇよ」
「あー、はいはい。そうでしたネ」
駿の否定を鼻で笑い、「で?」と続ける。
「何しに来たんだよ」
「…………」
フワリと風が舞う。
カーテンが揺れて、窓の向こうにいる男子生徒の前髪が持ち上がった。
嫌みったらしい笑みを唇がかたどっているのに、どこか瞳は寂しげで、何かを諦めているような色をしていた。
駿の口がハク、と動き、一度言葉を飲み込んでから答える。
「お前の演奏に誘われた」
「ふーん?」
「聴きたいって思ったんだよ」
素直に告げた。
不良犬だとバレるリスクがあるにも関わらず、また音楽室に来てしまった。それだけこの男が弾くピアノが魅力的なのだ。
「……へぇ」
そう伝えたつもりだが、相手は喜ぶ様子もなくどこか投げやりな感じに返された。
喜ばせたくて言ったのではないが、ここまで冷たいとは思わず「え」と固まってしまう。
「てめぇに聴かせる曲なんてねぇよ」
「は?」
「どっか行け」
もうお前に興味はない。さっさと帰れと言外に言われた。不良犬うんぬんはどうしたのだ。こう、根掘り葉掘り聞く場面ではないのか。いや聞かれたら困るのだが。
(なんかこいつ、すっげぇ腹立つ)
演奏はあんなに素敵なのに。まぁ自分が言えたことではないけれど。
「気ぃ散るから、さっさと消えろよ」
「…………」
言いながらシッシと手を振られる。その表情も冷たいまま。
多分、いつもなら『そうかよ』とか言ってその場を離れていただろう。胸くそ悪く帰って、気分転換に自室で筋トレをする。
けれどどうしてだろう。どれだけこの男が腹立たしくても、ここから去る選択肢が浮かばない。
(あぁ、そっか)
答えは単純明快――――もっとこいつの演奏が聴いていたいんだ。
ならばもうどうするかは決まっている。
「よっと」
駿は窓枠に手を掛け、飛び越える。音楽室を汚すわけにもいかないので、着地してすぐ外履きを脱ぎ、適当に床に置いた。
「おい、なんで入ってくるんだよ」
相手の言葉は無視し、ピアノから一番近い席にドカリと座る。わざとらしく音を立てて。
しばらく無言の睨み合いをし、折れたのは向こうの方だった。
「好きにしろ」
そう言うと再びピアノに向き直り、鍵盤を指先で操り始める。
タイトルの分からないクラシックだ。どこか悲壮感があるのに、力強さを感じ、どこか格好いい。
弾いている指は合わせて十本しかないのに、その倍あるのではないかと思わせる動きは絶対に真似できない。
(やっぱすげぇや)
どうしてこんなに心が揺さぶられるのだろう。呼吸も忘れて旋律を追ってしまう。駿はただただ演奏に夢中になった。
どれくらい弾いていたか分からないそれが終わりを迎え、久しぶりの無音が訪れる。それすらも音楽のように堪能してから弾けるように立ち上がり、駿はできる限りの大きな拍手をした。
「すげぇ! すっげえな!」
「っ!」
先ほどとは違い、今度はビクリと彼が驚いた表情をした。
「何の曲か全然知らねぇけどさ、なんかこう、ぐわぁって来る曲だな! いや、曲っつーか、演奏? どっか暗い感じもあるのに、覚悟を決めました俺! って拳を握っちまうみたいな?」
「はは、自分でもなに言ってっか分かんねぇや」と笑いながら駆け寄る。
演奏者の性格が悪かろうがどうでもいい。こんなにも感動したのだ。すごいものはすごいと伝えて、素晴らしいのだと褒め称えたい。
「お前すげえよ! ピアニスト? とかなれんじゃねぇか?」
「いや、まぁ……」
こちらの迫力に負けたのか、若干引き気味だ。
「今の何て曲?」
「……ショパンの革命のエチュード」
「へー! ぜんっぜん知らねえな! でも最高だった!」
「……どーも」
パチパチと拍手をする駿に悪い気はしなかったようで、少しだけ口元を緩めて男は返した。
ただそれだけなのに、少しでも素晴らしい演奏だったという気持ちが伝わった気がして、こちらも嬉しくなる。だからちょっと調子に乗って、「なぁなぁ」と駿は言った。
「さっきの歌のやつも聴かせて」
「さっきの?」
「えーっと、こっちもタイトル何だっけ……さっきアレンジしてたの弾いてたじゃん。あれも聴きたい」
そういえば、てめぇに聴かせる曲はねぇと言われたのだった。また投げやりに返されるかと思ったが、彼はどこか納得したように言った。
「あっちの方が知ってる曲だもんな」
「……ん?」
返ってきた言葉に駿は首を傾ける。いや、そうじゃない。
「別に知らねぇ曲でもいいけど」
「は? どういうことだよ」
「いや、俺はお前が楽しそうに弾いてた曲を聴きてぇんだよ」
「――――」
彼は駿の顔を見ながら瞠目した。こちとら音楽のいろはも知らないのだ。何か変なことを言っただろうかと不安になる。
「悪い、何か変なこと言ったか?」
「……いや」
ふる、と首を横に振る。
「俺、楽しそうに、弾いてた?」
「おう。さっきの革命だっけ? それよりも歌の方が楽しそうだった」
「でも、普通ピアノと言ったらクラシックだろ」
「そうなのか?」
「…………」
聞き返すと黙ってしまう。思い詰めるような表情ではなく、どこかぽかんとしていて、唖然としているという言葉が似合うだろうか。
(これって、どういう感じだ?)
うーんと少し悩みつつも、駿はまた素直に伝えた。
「あの革命もスゲーって思うし、もっと聴いていたいって思うぜ。でも楽しそうに弾いてる曲も聴きてえじゃん」
音楽について細かくは分からんけどよ。
「お前らしく楽しく演奏してる方が俺も楽しいし、一緒に飛んだり跳ねたりしたくなる」
それこそ我慢出来ずに歌い出してしまうくらい、最高の演奏だった。
「なんとなくだけど、お前はそのクラシックより、歌の方が好きなんだろ?」
「――――っ」
駿の言葉に息を止めたのが端から見ていて分かった。一体どうしたのだろうか。
彼は視線を泳がせてから言う。
「でもっ、好きってだけじゃダメだろ」
「はぁ? なに言ってんだお前」
苦しげに絞り出された言葉は心底意味が分からない。
駿はあっけらかんと返した。
「好きなものを好きって言って何が悪いんだよ」
その言葉が目の前にいる、谷房 奏(たにふさ かなで)にとって、どれだけ心を打つ言葉だったかも知らずに。
「そうか……そうだよな」
どこか気が抜けたように奏は頭を天井に向ける。
「好きなものは好きでいていいんだよな」
「おう! 俺を見てみろ。ケンカ好きで、ケンカばっかしてるぜ!」
「褒められたことじゃねぇだろ?」と続ければ、「胸を張るな胸を」と奏が笑った。
(あ、笑った)
ようやく見られた表情に、なんだか心が温かくて嬉しくなる。
「お前、名前は?」
奏はピアノから駿に向き直った。
「俺は柳場駿」
「駿な。俺は谷房奏」
ようやくの自己紹介。
「何年?」
「一年」
「へえ、俺は二年」
「マジ⁉ 先輩かよ!」
「あーあ、今まで舐めた口きかれちまったなぁ」
「う……」
演奏ばかりを気に掛けていて学年なんて気にしていなかった。意外とそういうところは真面目な駿は、すんません、と頭を下げようとして。
「ってかお前、本当に小っせぇな」
ピアノのイスに座ったままどこか感心するように言う奏に、ピタリと動きを止めた。
世の中、言っていいことと悪いことがある。
「てめぇ……昨日も俺のことチビっつったよなぁ」
「そうだっけ?」
「人のコンプレックス抉っといて忘れるたぁ、良い度胸じゃねぇか」
「小さいの気にしてんだ」
「売られたケンカは買うぜ?」
「俺は平和主義なんで遠慮します」
ニッコリと微笑むそれが、またまた腹立たしい。その顔が整っているから尚更。こいつは絶対性格が悪い。
「くそが」と悪態をつくと、「あーあ」と、これまたわざとらしく言われた。
「先輩にそんなこと言っていいのかよ?」
「てめぇに尊敬の念はねぇ。タメ口で十分だ」
「えー?」
「うるせぇ。俺の身長をバカにする奴は全員敵だ。むしろ殴られないことに感謝するんだな」
「はは、怒ってる」
笑う奏にイラっとする。だが彼はきっと非戦闘員だ。一方的に殴るわけにもいくまい。演奏も聴けたし、もう帰ってしまおうかと思ったのだが。
「ったく、仕方ねえな」
奏の意地悪な笑みが、苦笑に変わる。
前髪をかき上げて「怒らせた詫びだ」と言ったその顔は、ひどく優しくて、耳だけではなく目まで奪われる。
「駿、お前のために弾いてやるよ」
ピアノの演奏に魅せられ、導かれた放課後の音楽室での出会い。
その音に、その言葉に、その笑顔に。
トクンと心臓が跳ねた気がした。
①出会い――終了
「ういーっと! 俺の勝ち!」
正々堂々グラウンドで始めたケンカは、気付けばここの三年生まで交ざってきて、大乱闘となった。勿論、止めに来る教師はいない。
現在ここで立っているのは駿だけで、死屍累々の景色を見渡しながらカラっと笑った。
「タイマン勝負が筋ってもんだと思うけどよ、この高校に入学してから、乱痴気騒ぎも悪くねぇなって思うようになってきたわ」
「あざーっす!」と、倒れている屍に頭を下げる。この中に廣嶋と夢三沢はいるのだろうか。もしかしたら途中で帰ったかもしれないし、探すのも手間だ。
「じゃ、帰るか」
グラウンドの土埃をかぶらないように校舎側へ避難させていたカバンを持ち、その場を後にする。勝者の去り際というのも大変心地良い。
このまま良い気分で歩いていると、ふとピアノの音が耳に届いた。
「ん?」
足を止め、辺りを見渡す。その間もピアノの音は激しく動き、迫力のある演奏が空気を響かせている。
「知子(ともこ)先生かな」
音楽の教師が弾いているのだろうか。
どこか引き寄せられるように駿はピアノの音を辿りながら歩き出す。音楽室は一階にあり、位置的に校舎の裏側だ。
演奏の邪魔をしないよう、無意識に気配を消しながら向かえば、まさに音楽室の窓が開いていた。夏を知らせるような風が白いカーテンをなびかせている。
ひょこっと窓から顔を覗かせて見れば、ピアノを弾いているのは教師ではなく男、自分と同じここの生徒だった。
(マジか!)
予想外の人物に、隠れるようにしゃがみ込む。
その間も旋律は途切れることなく続き、何かを語っているかのように音が空を切る。
「すげぇ……」
ピアノのコンサートに行ったこともなければ、いま弾いている曲のタイトルも分からない。それでも何故かこの演奏は胸にずっしりとのしかかる。存在感があるというか、こういう感じが心に響いているということなのだろうか。
そんな演奏を自分と同じ年頃の学生がしているということが驚きだ。
(聴いてても邪魔じゃねぇよな)
音を立てないようにその場に腰を下ろし、壁に背を預ける。きっとここに自分がいることはバレていないだろう。
駿は目を閉じて演奏に聴き入った。
最後の一音。メロディも知らないのに、これで演奏が終わりだと分かる一音がフワリと宙で消えると、息を吸い、長く吐き出した。
(すげぇ良かった! よく分かんねぇけど、めっちゃ良かった!)
その気持ちのまま立ち上がり、拍手をしようと思ったが――――また演奏が始まる。
次の曲は先ほどのものとは雰囲気も曲調も全然違う。けれど聴いたことのあるもので、なんだっけと駿は座ったまま考えて。
(あっ、今度歌う曲だ)
鈴音に『次の曲はこれだよ』と音源を渡されたものだ。だから聴いたことがあるのだ。
歌のメロディーに、バックコーラス。伴奏が上手く組み合わさっていて、ピアノの音なのにまるで原曲を聴いているかのようだ。
だがそれだけじゃない。
(なんか、なんか! すっげぇムズムズしてきた!)
ケンカをしている時のように気分が高揚してくる。知っている曲だから? いやそれだけじゃないと思う。
先ほどの演奏もすごかったことはすごかったが、なんだろう。もっと音が跳ねて、弾んで、踊っている。
知っているのに知らない曲のように響いて、心が爆発して、自分も黙ってはいられない!
「ら、ラララ……」
歌詞はなんだっただろう。いつも完璧に暗記しているわけではないから、覚えていない。でもメロディーだけは何となく分かる。
「ララ、ラララー、ララ」
ピアノに合わせて歌い出せば、まるで両手のひらですくい上げるかのように駿の歌声をメロディーに乗せてくれる。
勝手に口から零れて、音と流れて、混ざり合って。楽しくて、まるで駆け抜ける風のような感覚で。
(すっげぇ楽しい!)
心のままに歌声を響かせた。
後奏まで弾き終わり、曲の余韻まで堪能する。
今度はただ息を吐き出すのではなく、恍惚な溜息をついた。こういうものは勝手に出てくるのだと初めて知った。
(やべー、最高だった。歌うってこんな楽しくなるんだ)
「よう」
「……ん?」
ピアノ以外の音を耳に入れるのが久しぶりな感じがした。
キョロキョロと左右を見渡すと「上」と言われ、言葉のままに頭を上げれば、窓からこちらを見下ろす男子生徒がいた。ピアノを弾いていた彼だ。
「あ!」
駿は立ち上がり、拳を握る。
目の前にいる男子生徒は一言で言えば、めちゃくちゃイケメンだった。
後ろをハーフアップに結ぶ黒い髪の毛。日焼けをしてない白い肌とのコントラストが美しく見える。耳にある輪の銀色のピアスが似合っていた。
学ランは着ておらず、ピアノを弾いていたからか下の白いワイシャツを腕まくりした状態で、これまたピアノを弾くからか、覗く腕は鍛えられたものだった。
男からもイケメンだと思わせる彼に駿は少し見蕩れてからハッとし、すごかった! と語彙力皆無だが拍手喝采を伝えようと口を開いたが。
「いま歌ってたの、あんた?」
「へ?」
駿の方が立ち位置的にも身長が低いのに、男子生徒は首を傾け、下から顔を覗き込むようにしてから続けて聞いた。
「もしかしてさ、あんた最近騒がしくしてる不良犬じゃね?」
「――――――っ!」
本日二回目、ヒュッと息が止まった。そしてようやく気付く。
俺、いま歌っちまってたじゃん!
(いや、でもラララだけだし、それだけで分かるわけねぇだろうし)
「え、エー? 何の話しデスカー?」
笑顔を作れ。誤魔化せ。俺なら逃げ切れる! と自信ゼロの状態で己を鼓舞する。
「あんた、ここで歌ってたじゃん」
「アー、うーん、俺じゃないデスー」
「じゃあ他に誰かいたわけ?」
「…………」
鈴音で重々承知なことだが、美人の冷笑は怖いし、こちらの心の中を見透かせるのではと思ってしまう。
駿は彼の視線から逃げるように顔を背け、「どっかにぃ、イタカモー」と返す。きっとここに廣嶋がいたら、どこぞのギャルやねんとツッコミを入れられていただろう。
「ふーん」
「んじゃあさぁ」と相手は続けた。
「ラーって、言ってみろよ」
「え? ラ?」
「あぁ」
「……ラー」
「ほらあんたじゃねぇか」
「……!!」
これだけで分かっちまうもんなのか⁉
「違う、違いマスー!」
「…………」
いつまでも誤魔化す駿に腹が立ってきたのか、男子生徒は表情を歪めて呆れたように溜息を吐く。それから駿を上から下まで、まるで品物を見定めるようにみてから鼻で笑った。
「ま、噂の不良犬がこんなチビじゃないか」
「なんだとこら!」
これまた二回目のコンプレックス攻撃に噛みついた。罠だとも気付かずに。
「じゃああんたが不良犬?」
「~~~~っ」
これ以上誤魔化す方法が思いつかず、黙ってしまう。
ここでバレたらどうする? でも今のところ、こいつにしかバレていない。でももし周りに言いふらしたら? それで世間にバレてしまったら? 家に迷惑を掛けてしまうかもしれないし、最悪の場合。
(ケンカが出来なくなっちまう!)
不良犬が実は不良高校に通う、ケンカ好きの問題児でした、なんてことになったら一気に問題になるわけで。ケンカうんぬんがバレなくても今後のことを考えると世間体的にもケンカが出来なくなってしまう。
それならばいっそ不良犬の存在を抹消してしまえばいいけれど、そうすると鈴音がきっと悲しむから。
(よし、仕方ねぇ!)
駿はカバンを持ち、クルリと反転して。
「演奏、すごかった! 最高だったぜ! んじゃ、さいならー!」
走って逃げた。
あの追撃から正体を隠すのは至難の業。逃げるが勝ち。ほら、戦に負けても勝負に勝て、というわけだ――――なんか違う気がするけれど。
「でも絶対的な証拠があるわけじゃねぇし、向こうも俺が同じ生徒だとしても探し出すのは難しいよな、うん」
少しずつ冷静になってくる。そうだ、ただ『ラー』っていう声だけで不良犬だっていう確証は持てない筈だ。
(いやぁ、マジで危なかったな)
いつもの帰宅路で足取りを緩やかにする。追い掛けてくる様子もないし、危機は脱しただろう。
「もう音楽室には近寄らないでおこう……」
本日の反省に、ガクリと首を落とす。
あいつのピアノと一緒に歌うの、楽しかったのになぁ。でも正体は絶対に秘密にしておかなければ。
「――――って思ったよな、俺」
次の日の放課後。再び駿は音楽室の窓下に座っていた。
昨日と同じ曲だが、アレンジが違う。しかも今回は伴奏だけ。まるで歌ってくれと言わんばかりのそれだ。
本当は昨日こちらからタイマンに誘っておきながらも置いて帰ったことに廣嶋が面を貸せという、なんとも素敵なケンカが出来ることになったのだが、聞こえてきたピアノの音に誘われて、『また今度な!』とこちらに来てしまったのだ。
(正体がバレるかもしれねぇのに、なにやってんだよ……)
大きな溜息をついて自分自身に呆れるが、それとは別に心がウキウキと弾んでしまう。
これならバレないだろうと、小さな鼻歌だけで我慢するけれど、今すぐピアノの音を浴びながら大きな声で歌い出したい!
「おい、また来たのかよ」
「おわっ⁉」
突然曲の隙間から話し掛けられ、ビクッと反射的に立ち上がった。すると演奏が止まる。ピアノを弾く姿勢のまま彼も驚いたようにこちらを見ていた。
「え、マジでいたの?」
「はい?」
「いや、本当にいるとは思わなくて」
「……うあー、くっそ」
立ち上がらなければバレなかったのか。やらかしたと頭を抱える。
「で? また来たのかよ不良犬」
ピアノのイスの背もたれに腕を預けながら聞いてくるそれに心臓が跳ねる。だから来てはダメだったというのに。
「ふ、不良犬じゃねぇよ」
「あー、はいはい。そうでしたネ」
駿の否定を鼻で笑い、「で?」と続ける。
「何しに来たんだよ」
「…………」
フワリと風が舞う。
カーテンが揺れて、窓の向こうにいる男子生徒の前髪が持ち上がった。
嫌みったらしい笑みを唇がかたどっているのに、どこか瞳は寂しげで、何かを諦めているような色をしていた。
駿の口がハク、と動き、一度言葉を飲み込んでから答える。
「お前の演奏に誘われた」
「ふーん?」
「聴きたいって思ったんだよ」
素直に告げた。
不良犬だとバレるリスクがあるにも関わらず、また音楽室に来てしまった。それだけこの男が弾くピアノが魅力的なのだ。
「……へぇ」
そう伝えたつもりだが、相手は喜ぶ様子もなくどこか投げやりな感じに返された。
喜ばせたくて言ったのではないが、ここまで冷たいとは思わず「え」と固まってしまう。
「てめぇに聴かせる曲なんてねぇよ」
「は?」
「どっか行け」
もうお前に興味はない。さっさと帰れと言外に言われた。不良犬うんぬんはどうしたのだ。こう、根掘り葉掘り聞く場面ではないのか。いや聞かれたら困るのだが。
(なんかこいつ、すっげぇ腹立つ)
演奏はあんなに素敵なのに。まぁ自分が言えたことではないけれど。
「気ぃ散るから、さっさと消えろよ」
「…………」
言いながらシッシと手を振られる。その表情も冷たいまま。
多分、いつもなら『そうかよ』とか言ってその場を離れていただろう。胸くそ悪く帰って、気分転換に自室で筋トレをする。
けれどどうしてだろう。どれだけこの男が腹立たしくても、ここから去る選択肢が浮かばない。
(あぁ、そっか)
答えは単純明快――――もっとこいつの演奏が聴いていたいんだ。
ならばもうどうするかは決まっている。
「よっと」
駿は窓枠に手を掛け、飛び越える。音楽室を汚すわけにもいかないので、着地してすぐ外履きを脱ぎ、適当に床に置いた。
「おい、なんで入ってくるんだよ」
相手の言葉は無視し、ピアノから一番近い席にドカリと座る。わざとらしく音を立てて。
しばらく無言の睨み合いをし、折れたのは向こうの方だった。
「好きにしろ」
そう言うと再びピアノに向き直り、鍵盤を指先で操り始める。
タイトルの分からないクラシックだ。どこか悲壮感があるのに、力強さを感じ、どこか格好いい。
弾いている指は合わせて十本しかないのに、その倍あるのではないかと思わせる動きは絶対に真似できない。
(やっぱすげぇや)
どうしてこんなに心が揺さぶられるのだろう。呼吸も忘れて旋律を追ってしまう。駿はただただ演奏に夢中になった。
どれくらい弾いていたか分からないそれが終わりを迎え、久しぶりの無音が訪れる。それすらも音楽のように堪能してから弾けるように立ち上がり、駿はできる限りの大きな拍手をした。
「すげぇ! すっげえな!」
「っ!」
先ほどとは違い、今度はビクリと彼が驚いた表情をした。
「何の曲か全然知らねぇけどさ、なんかこう、ぐわぁって来る曲だな! いや、曲っつーか、演奏? どっか暗い感じもあるのに、覚悟を決めました俺! って拳を握っちまうみたいな?」
「はは、自分でもなに言ってっか分かんねぇや」と笑いながら駆け寄る。
演奏者の性格が悪かろうがどうでもいい。こんなにも感動したのだ。すごいものはすごいと伝えて、素晴らしいのだと褒め称えたい。
「お前すげえよ! ピアニスト? とかなれんじゃねぇか?」
「いや、まぁ……」
こちらの迫力に負けたのか、若干引き気味だ。
「今の何て曲?」
「……ショパンの革命のエチュード」
「へー! ぜんっぜん知らねえな! でも最高だった!」
「……どーも」
パチパチと拍手をする駿に悪い気はしなかったようで、少しだけ口元を緩めて男は返した。
ただそれだけなのに、少しでも素晴らしい演奏だったという気持ちが伝わった気がして、こちらも嬉しくなる。だからちょっと調子に乗って、「なぁなぁ」と駿は言った。
「さっきの歌のやつも聴かせて」
「さっきの?」
「えーっと、こっちもタイトル何だっけ……さっきアレンジしてたの弾いてたじゃん。あれも聴きたい」
そういえば、てめぇに聴かせる曲はねぇと言われたのだった。また投げやりに返されるかと思ったが、彼はどこか納得したように言った。
「あっちの方が知ってる曲だもんな」
「……ん?」
返ってきた言葉に駿は首を傾ける。いや、そうじゃない。
「別に知らねぇ曲でもいいけど」
「は? どういうことだよ」
「いや、俺はお前が楽しそうに弾いてた曲を聴きてぇんだよ」
「――――」
彼は駿の顔を見ながら瞠目した。こちとら音楽のいろはも知らないのだ。何か変なことを言っただろうかと不安になる。
「悪い、何か変なこと言ったか?」
「……いや」
ふる、と首を横に振る。
「俺、楽しそうに、弾いてた?」
「おう。さっきの革命だっけ? それよりも歌の方が楽しそうだった」
「でも、普通ピアノと言ったらクラシックだろ」
「そうなのか?」
「…………」
聞き返すと黙ってしまう。思い詰めるような表情ではなく、どこかぽかんとしていて、唖然としているという言葉が似合うだろうか。
(これって、どういう感じだ?)
うーんと少し悩みつつも、駿はまた素直に伝えた。
「あの革命もスゲーって思うし、もっと聴いていたいって思うぜ。でも楽しそうに弾いてる曲も聴きてえじゃん」
音楽について細かくは分からんけどよ。
「お前らしく楽しく演奏してる方が俺も楽しいし、一緒に飛んだり跳ねたりしたくなる」
それこそ我慢出来ずに歌い出してしまうくらい、最高の演奏だった。
「なんとなくだけど、お前はそのクラシックより、歌の方が好きなんだろ?」
「――――っ」
駿の言葉に息を止めたのが端から見ていて分かった。一体どうしたのだろうか。
彼は視線を泳がせてから言う。
「でもっ、好きってだけじゃダメだろ」
「はぁ? なに言ってんだお前」
苦しげに絞り出された言葉は心底意味が分からない。
駿はあっけらかんと返した。
「好きなものを好きって言って何が悪いんだよ」
その言葉が目の前にいる、谷房 奏(たにふさ かなで)にとって、どれだけ心を打つ言葉だったかも知らずに。
「そうか……そうだよな」
どこか気が抜けたように奏は頭を天井に向ける。
「好きなものは好きでいていいんだよな」
「おう! 俺を見てみろ。ケンカ好きで、ケンカばっかしてるぜ!」
「褒められたことじゃねぇだろ?」と続ければ、「胸を張るな胸を」と奏が笑った。
(あ、笑った)
ようやく見られた表情に、なんだか心が温かくて嬉しくなる。
「お前、名前は?」
奏はピアノから駿に向き直った。
「俺は柳場駿」
「駿な。俺は谷房奏」
ようやくの自己紹介。
「何年?」
「一年」
「へえ、俺は二年」
「マジ⁉ 先輩かよ!」
「あーあ、今まで舐めた口きかれちまったなぁ」
「う……」
演奏ばかりを気に掛けていて学年なんて気にしていなかった。意外とそういうところは真面目な駿は、すんません、と頭を下げようとして。
「ってかお前、本当に小っせぇな」
ピアノのイスに座ったままどこか感心するように言う奏に、ピタリと動きを止めた。
世の中、言っていいことと悪いことがある。
「てめぇ……昨日も俺のことチビっつったよなぁ」
「そうだっけ?」
「人のコンプレックス抉っといて忘れるたぁ、良い度胸じゃねぇか」
「小さいの気にしてんだ」
「売られたケンカは買うぜ?」
「俺は平和主義なんで遠慮します」
ニッコリと微笑むそれが、またまた腹立たしい。その顔が整っているから尚更。こいつは絶対性格が悪い。
「くそが」と悪態をつくと、「あーあ」と、これまたわざとらしく言われた。
「先輩にそんなこと言っていいのかよ?」
「てめぇに尊敬の念はねぇ。タメ口で十分だ」
「えー?」
「うるせぇ。俺の身長をバカにする奴は全員敵だ。むしろ殴られないことに感謝するんだな」
「はは、怒ってる」
笑う奏にイラっとする。だが彼はきっと非戦闘員だ。一方的に殴るわけにもいくまい。演奏も聴けたし、もう帰ってしまおうかと思ったのだが。
「ったく、仕方ねえな」
奏の意地悪な笑みが、苦笑に変わる。
前髪をかき上げて「怒らせた詫びだ」と言ったその顔は、ひどく優しくて、耳だけではなく目まで奪われる。
「駿、お前のために弾いてやるよ」
ピアノの演奏に魅せられ、導かれた放課後の音楽室での出会い。
その音に、その言葉に、その笑顔に。
トクンと心臓が跳ねた気がした。
①出会い――終了

