俺にはピアノしかない。

 生まれて気付いたときにはもうピアノを弾いていた。
 いつからだとかそういう記憶もなくて、それを望んだのは両親だ。
 ピアニストとピアノ講師の二人の子供がピアノを弾かないという道はどこにも無かった。
 毎日練習とレッスン。友達と遊ぶこともなかった、否、友達を作る暇も無かった。帰ればピアノと向き合わなければいけなかったから。
 コンクールに出ては優勝し、その業界ではそれなりの知名度もあった。ピアニストとして育つには完璧な環境。
 でも俺からしたらそうではなかった。
 コンクールでは優勝しなければいけなかった。上手くなければ怒られた。
『なんの為に弾いている』
『こんなものも弾けないのか』
『弾けないのなら出て行きなさい』
 出来て当たり前。弾けて当たり前。いつだって追い詰められた。
 辛かった。逃げたかった。いっそ消えてしまいたいと願うほどに。でも一番苦しいのは、そんなピアノでも好きだということだった。
 ピアノがあるから。ピアノさえ無ければ。そう思うのにピアノが弾きたくなる。でも弾きたくない。でも弾かなければ怒られる。弾いても怒られる。それでも弾きたい。
 表裏一体、矛盾、心がぐちゃぐちゃになって、真っ黒に塗りつぶされて。
 今日もピアノを弾くから、上手く弾いてみせるから、お願いだから見捨てないで。
 ピアノが無ければ価値が無い俺なんか大嫌いだ。ピアノが好きな俺はもっと嫌いだ。
 そんな世界で俺は。
『好きなものを好きって言って何が悪いんだよ』
 駿と出会った。
 それはまるで光だった。ピアノを憎みながらも好きでいることを許された気がした。
 でも現実はそんなに甘くはない。
『指! 指は怪我してねぇか⁉』
『おま、バカ! 拳で殴るやつがあるかよ! 怪我したらピアノ弾けなくなんだぞ!』
 幼い頃から体育は見学しろと言われていた。勿論それがまかり通るわけもなく、だが球技には絶対に手を出すなと言われ続けた。
 駿の心配が、黒いモヤとして一気に俺の中を沈めていった。
 駿もピアノを弾く俺しか望んでいないんだ。そう思った。そんな訳がないのは分かっている。でも怖いのだ。
 もし駿にいらないと言われたらどうしよう。ピアノが下手になったら? 期待して損したと幻滅されたらどうしたらいい。
(怖い――――!)
 心が壊れそうだ。悲鳴を上げて泣いているのに、意味も成さない音ばかりで何の意味もない。
 それももう、疲れてしまった。
 耳を塞いで、目を閉じて。好きも嫌いもどうでもいい。
 胸の痛みなんか、もう知らない。
 俺がピアノさえ弾いていれば、それでみんな満足なんだろう?



「~~~で、それから~~~、となるので」
 ホームルームの時間。
 教師が黒板の前で教卓に手をつき、何かを話している。
 それを真剣に聞く生徒数名、全く話しを聞いていない生徒も数名。帰り支度をしているのも以下省略。
 奏は一番後ろの席でカバンを机に置き、左手で頬杖。右手はカバンの上でピアノを弾くように動かしていた。もう指が勝手に動くのだ。
 二度と会わないと駿に言った日。それから土日を挟み、今日は週明けの月曜日だ。
 ホームルームが終わればそのまま帰宅しようと思っている。真っ直ぐ帰るのは久しぶりだ。いつも放課後は音楽室でピアノを弾いていたから。
 両親が求めるピアニスト像は、オーケストラと一緒に演奏会をするようなものだけれど、自分が弾きたいのはそういう類いのものではなく、ポップスの伴奏だったり、映画音楽。ゲームのBGMなどだ。
 家でそれらを弾いたら怒られるので、いつも学校で弾いていたのである。
(でもまぁいいか)
 なんだか弾きたいものを弾く気も失せてしまった。いや、本来ならば弾いてはいけないものだから今の形が正しいのか。
 もうすぐで時計が終了の時刻を指刺す。そろそろチャイムも鳴るだろう。
 身体に染みついたメトロノームのテンポを指先で刻んでいれば。
『あー、テステス。マイクテスト、マイクテスト』
 突然スピーカーから声が響いた。
『聞こえる? 聞こえていますかー?』
「え、なになに」
「誰だよ、この時間に放送室ジャックしてんの」
 クラスメイトがざわめきだす。また誰か悪戯しているようだ。こういうのは男子生徒が多いのだが、今日は女子生徒らしい。しかもホームルーム中にとは度胸がある、というよりただのバカか。
 頬杖をついたまま呆れた溜息を吐いた。が、その呼吸が次の言葉で止まった。
『これから不良犬のゲリラライブを行います』
「……は?」
『繰り返します。このあと不良犬のライブを行いますので、みなさん今すぐ体育館に集合してください』
 どっと生徒が騒ぎ出す。これは校内放送だ。バタバタと足音が聞こえたかと思えば、生徒の大群が廊下を走っている。体育館に向かっているのだろう。
 教師の制止も聞かずに奏のクラスメイトたちも教室を飛び出した。
『不良犬ライブ、体育館へ集合!』
 叫ぶそれにスピーカーがバリバリと音を立て、そしてブツンとスイッチが切れた。
(どういうことだ?)
 あれは駿の声じゃない。女子生徒が全生徒と教師で遊んでいるのか? 悪戯にしては規模がでかすぎる。度胸があるの話しじゃ収まらない。
(駿はどうしてんだ、大丈夫なのか?)
 隠すのが下手な彼だ。もしかしたら動揺して挙動不審になっているかもしれない。
「あー、でもっ、くそ!」
 駿には会いたくない。でも心配だ。きっと不安そうにしているから、今すぐ抱きしめて安心させてやりたい。
「くそが!」
 前髪をぐしゃりと掻き混ぜて走り出す。クラスに行ってもきっといないだろう。ここで教室に残っていても不自然だから、駿も体育館に行っているに違いない。
 二度と会いたくないって言って傷つけたのに、結局これか。
 大きく舌打ちをしながら奏は体育館に急いだ。



 体育館にはほぼ全校生徒と教師が集まっていた。
 教室に戻りなさいと言っている様子はない。流石は不良高の教師陣。彼らも気になっているから言い出さないのだろう。
(駿はどこだっ)
 周りを見渡し、駿を探す。一年生が集まっている所にいるだろうか。それとも陰で様子を伺っている?
 必死に探していると、歓声が上がった。それにつられてステージを見ると。
「駿⁉」
 いつもの学ランに金色の髪。顔を隠すこともなく、そのままの姿で立っていた。
 中央には電子キーボードが置かれ、マイクが設置されている。
 駿はマイクのスイッチを押し、息を吸った。
「一年二組! 柳場駿!」
 そして叫ぶ。
「俺が不良犬だー!!」
「フー!」と盛り上がる声と「嘘だろ」と呆れた声。ケンカで有名な駿を知っている人も多いため、「やめとけー!」と笑い声も混じっていた。
(なにやってんだよアイツ!)
 こんなことをして一体どうするつもりなのか。今ここで止めに入ったとして、その後のフォローは? いやまずどうしてこんなことをしているのか。何も分からない状況に焦りだけが積もっていく。
 だが駿はどこか強気に笑って指をさした。
 沢山の生徒がいて、彼は奏がどこにいるか分からないだろう。それなのに奏は自分が指されたような気がした。
「二年五組、谷房奏ー‼」
 呼ばれた名前に目を見開く。
「え、誰だれ」
「谷房って、あの王子じゃない?」
「なに、不良犬と何かあんのか?」
 ざわめきを吹き飛ばすように言ったのは――――

「お前のために歌ってやるよ」

 動けなかった。
 言葉が出なかった。
 ただ立ち尽くすことしか出来なかった。

 駿との出会い。
 教えてくれたことは沢山ありすぎて、何に感謝したらいいのか分からない。
 優しさだったり、温かさだったり、誰かを想う気持ちだったり。
 ピアノしか無かった俺に、それ以外のことも教えてくれたんだ。
(あーあ、バカだな、俺)
 駿はずっと傍にいてくれたじゃないか。

――――俺は不良犬なんかじゃない!

 涙が降った。
 悲しみが空を染めて、でもそれ以上に愛が溢れた。
 あれだけ否定していた彼が歌ってくれている。

 周囲がまたざわついて、皆が歩き出す。
 少しずつ人が減っていき、最後には俺と駿だけしかいなくなった。
 まるで世界に二人きりになったみたいだ。

 俺がピアノさえ弾いていれば、それでみんな満足なんだろう?
――――ピアノなんか弾いていなくてもいい。
 胸の痛みなんか、もう知らない。
――――胸の痛みは一緒に乗り越えよう。
 それももう、疲れてしまった。
――――疲れた時は手を繋いで。
 好きも嫌いもどうでもいい。
――――大切な人よ。

 耳を塞いで、目を閉じて――――目を開けて、ほら聴いて。

 誰のためでもない。
 俺だけの歌を。



(やべぇ、全然弾けねぇ)
 おぼつかない指先は震え、なかなか先に進まない。
 歌おうとしても意識は伴奏にいってしまって、歌声すらも途切れ途切れになってしまう。
(やっぱ三日間じゃ無理か)

『鈴音! ちょっと協力してくれねぇか!』
 それからはもうノンストップで駆け抜けた。
 好きな人がいること。その相手が苦しんでいること。それを助けたいから不良犬として歌いたいこと。
『合点承知!』
 学校でゲリラライブを決行。放送は私が流す。潜入する為にジャージを貸せ。
『あらあらじゃあ練習しないとじゃない? 駿の今年の誕生日プレゼントなににするか悩んでたから、電子キーボードにしちゃおっか。いいわよねお父さん』
『あぁ。やるからには相手の心をしっかり掴めよ、駿』
 正体がバレた後の対策は母さんと父さんの方でも考えておく。周りが騒がしくなるのは覚悟しなさい。それともうひとつ大事なこと。
『ケンカはいいの?』
 不良犬とバレたら、世間体的にもケンカは出来なくなる。それが嫌だった。ずっと嫌だったのに、返事は簡単に出た。
『うん、いいや』
 ケンカは好きだ。これからも拳と拳でぶつかり合いたい。でもそれ以上に俺は奏が好きなのだ。
 ケンカと彼を天秤に掛けたらどちらに傾くかなんて考えずとも分かる。その証拠に今はもうほとんどケンカしていないのだから。
『そっか』
 じゃあ。
『がんばれ!』
『おう! サンキュ!』
 ということで、奏とのやり取りがあった金曜日、そして土日を含めた三日間。買ってもらったキーボードで弾き歌いの練習をしたけれど、簡単に弾けるわけもなく。
 弾けるようになるまでなんていう悠長なこと言っていられない。だってその間、奏はずっと苦しいままだからだ。少しでも早く奏を苦しみから解放したかった。
 だから時間の許す限り一所懸命練習し、本日を迎えた。

「なんだよただの下手くそかよ」
「まぁ確かに声は不良犬に似てるけど、これはないっしょ」
「柳場ぁ、気が済んだらまたケンカでもしようぜー」
「王子様への愛の告白がんばれよー」
「邪魔しちゃ悪いから、あたしらも帰ろ」
「残念だったけど楽しかったわ」

 そんな声を残し、体育館から生徒が引き上げていく。だが必死に弾き歌いをする駿の耳には届かない。
 楽譜は読めないため、カタカナで書いた譜面を見て、必死に指を動かして歌う。
 不良犬として皆の前に立つ。正体をバラしても構わないくらい、奏のことが好きなのだと。いま自分が持てる全てを捧げてもいいのだと伝えたい。
 どうか、どうか。
 伸ばした手を取ってくれ。

「――――」
 ようやく最後の和音を弾き終える。
 ふぅ、と息を大きく吐き、そこで初めて楽譜から顔を上げると。
「誰もいねぇ⁉」
 集まっていた筈の生徒が見事にいなくなっていた。残っているのは奏ひとりである。
(これじゃあ何の意味もねぇじゃねぇか!)
 覚悟を決めてやったのに、一体どういうことだ。これでは奏に何も伝わらないかもしれない。
「あー、えっと……もう少し上手く歌えるかと思ったんだけど」
 苦笑しながら頭を掻けば、奏がこちらに向かって走ってくる。それに駿も一歩足を踏み出して両腕を広げた。
 ぎゅっと強く抱きしめられる。痛いくらいのそれに気持ちが通じたのだと分かって、グッと息が詰まった。
「俺、さ」
 それでも必死に、声が震えながらも言う。俺はこんなにも泣き虫だっただろうか。
「こんなこと、しか、できねぇけど、でも、奏が好きだ」
 自分を認めるのは難しい。けれど認めてくれる人がいる。
 苦しいけど、逃げ出したくなって自分すらも自分のことを遠ざけたくなるけれど。
「俺はっ、どんなお前でも、好きだよっ」
 どうかひとりぼっちではないことを忘れないで欲しい。どんな自分でも愛されているのだと忘れないで。
 もし逆にそのことが重荷になってしまう時があるのなら、その時は待っているから。今みたいに両腕を広げて待っているから。
「駿」
 大丈夫になった時に、今みたいに強く抱きしめて。
「ありがとう」
「おう」
「俺も駿のこと、不良犬でも、不良犬じゃなくても、大好きだから」
「うん」
 俺も愛されていることを。
「知ってる」
 忘れないから。



⑧愛――終了