こうやってケンカをするのは久しぶりな気がする。
 奏と会う前は音楽室に行くことはなかったため、放課後はほとんどケンカに時間を使っていた。だが今はもう奏と過ごしているため、ケンカの数が減ったのだ。
 今では廣嶋と夢三沢、あとは己の高校の先輩たちとケンカをするだけである。
(また後でって言っても付きまとってきそうだし)
「怪我させたらごめんな!」
 しっかり真っ正面向いて、正々堂々とケンカする。今までそうしてきたけれど、正直今はムラムラして雑念がある。許して欲しい。こちらも健全な男子高校生なもので。
 必要以上に殴ることはないと思うけれど、一応先に謝っておく。
「そいじゃ一丁やってやらぁ!」
 握った拳を振り上げる。そして走りだそうとしたところで、目の前の視界が塞がった。そして「ぎゃあ!」と叫び声が。
「え?」
 いや、塞がれたのではない。これは奏の背中だ。向こうを覗けば他校生の一人が倒れている。どうやら奏に殴られたらしい。
「かな、で?」
「ふっざけんなよマジで……」
 ゆらりと背中が揺れた。
「邪魔なんだよてめぇら」
 地を這うような声音は初めて聞く声で、表情はこちらからでは見えない。だが「ひっ」と引きつった他校生に、いま奏が恐ろしい顔をしているのは分かる。怒ると怖いのは美人だけではなくイケメンもきっとそうだろう。
(って、そうじゃなくて!)
「おい奏……」
「さっさと二人きりにさせろクソが!」
 思い切り拳を振るっていく。蹴り技も上手いこと決まっていて、足が長いとケンカも有利なのかと感心して、またハッとする。
 今のところ他校生が圧倒され、奏が殴られたようには見えない。だが問題なのはその『殴っている』ということである。
 駿は「奏!」と背中から抱きついた。
「やめろ、やめろって!」
「駿との時間を邪魔しやがって! ぶっ殺してやる!」
「ダメだって!」
 必死に止めながら他校生に叫ぶ。
「お前ら逃げろ! さっさとどっか行け!」
「くっ、くそぉぉ!」
 脱兎のごとく散っていく。けれどまだ安心は出来ない。「何で止めンだよ!」と怒っている駿の手を取って確認する。
「指! 指は怪我してねぇか⁉」
 殴られたら痛いのは当たり前だが、殴る方も拳が痛い。
「おま、バカ! 拳で殴るやつがあるかよ! 怪我したらピアノ弾けなくなんだぞ!」
 全治数週間だとしても、その間はピアノに触れなくなってしまう。あんなに楽しそうに弾く時間が奪われたらきっと奏は辛いだろう。
「使うのは足だけにしとけって、バカ野郎……」
 両手で手を握り、額を押しつけながら「はぁー」と大きく息を吐き出す。見たところ痣や腫れ、擦れたところもなさそうだ。
「他にどっか痛いところは?」と顔を上げると、奏は少しだけ目を見開き、表情を固まらせていた。まさか他に痛いところがあるのだろうか。ひやりと背中が冷たくなった。
「もしかしてどこか、」
「……お前も」
「え?」
 慌てる駿だったが、奏はぽつりと零れるように言う。
 ゆっくりとまばたきをし、それから自嘲的に笑った。
「お前も心配するのは、そこなんだな」
「奏?」
「もういい」
 握っていた手をそっと外される。振り払うよりも何故か心から拒絶されたような気がした。
「俺、先に帰るわ」
「は? おい奏⁉」
 そのまま走り出してしまう奏に、ポカンと立ち尽くす駿。
「え? なに? なんで?」
 指の心配をしたら帰ってしまった。
「……なんで?」
 ようやく訪れた静寂。それを探し求め、二人で過ごす筈だったのに。
 姿は見えない鳩の鳴き声が一人になって初めて聞こえた。



 その次の日。
 いつものように放課後、音楽室に行けばピアノを弾く奏がいた。
 もしかしたらいないのではないかと不安だったので、ピアノの音が聴こえた時はホッとした、のだが。
「…………」
 聴いたことのないピアノの曲。でも雰囲気的にクラシックのものだろう。相変わらずの上手さなのだが。
(全然楽しそうじゃねぇな)
 演奏の邪魔をしないようにそっとドアを開け、静かに席につく。その間も奏はこちらに視線を向けることなく、淡々とピアノを弾いている。
 基本的に奏のお気に入りは耳コピした曲で、勿論クラシックも楽しそうに弾くのだけれど、それ以上に楽しげに、嬉しそうに弾く。
 本人はあまり自覚はないようだが、駿からしたらバレバレだ。
 きっといま弾いているものはお気に入りではない。でもこんなに辛そうに弾くのは、曲が嫌いだからという理由ではないだろう。
 喜怒哀楽が見つからないその表情が、すごく痛々しい。
「奏」
 本当は演奏が終わるまで待つつもりだったけれど、駿は席を立つ。そして彼の肩に手を置いた。
「やめろよ、弾くの」
 だが奏はやめない。
「やめろって」
「…………」
「弾きたくねぇなら弾くなって」
「――――っ!」
 曲を紡いでいた指が拳になり、バン! と鍵盤を叩きつけた。
 突然の不協和音と、その迫力にビクリと肩を揺らせば、奏は立ち上がって駿を睨み付けた。
「弾かねぇとダメなんだろ⁉」
「なに? どういう意味だよ?」
「弾かない俺なんかいらねぇくせに!」
「はぁ?」
 叫ぶ言葉の意味が分からない。一体なにに対して怒っているのだろう。
「なぁ、俺きのう何かしたか?」
 何が何だか全然分からないけれど、奏が辛そうなのは分かるから、駿は出来るだけ彼を刺激しないよう優しく声を掛けた。
 幼い頃、鈴音が癇癪を起こした時もこうやって話していた。
「俺はただお前に怪我して欲しくなくてケンカを止めたんだ。指まで痛めたらピアノ弾けなくなるだろ」
「……ピアノさえ弾ければいい?」
 また昨日と同じ自嘲の笑み。
「ピアノが弾けない俺なんかいらないもんな」
 言われた言葉の意味が一瞬分からなかった。いや、今も分からない。意味は分かったけれど、どうしてそうなるのかが分からない。
「そんなこと言ってねぇだろ」
「どうせここに来るのもピアノ目当てだろ」
 悲しみも苛立ちも感じられない諦めの声音に、駿の方が腹が立った。
「どうしてそうなんだよ!」
 ピアノ目当て? そんなこと本気で思っているのだろうか。
「好きなピアノが弾けなくなって辛い思いをするのはお前だろ⁉ だから心配したんだ!」
「ピアノなんか好きじゃない!!」
 奏は叫ぶ。
「ピアノを弾くのはっ、ピアノを弾く俺にしか価値が無いからだ!」
「なっ!」
 また訳の分からないことを。
「ンなわけあるか! なにバカなこと言ってんだよ!」
 駿は勢いのまま奏の襟首を掴む。こんなにムカついたことは今まであっただろうか。
「ピアノが弾けなくったってお前はお前だろ! 価値があるとか無いとかどうでもいい!」
「嘘だ!」
「嘘じゃねぇ!」
 ピアノを弾くから価値があるなんて、どうしてそんなことを思ったのだろう。
 今までずっとそう思っていたのか? ピアノを弾くからお前のことが好きなんだって? そんな風に考えていたのか?
「なら指出せ! 俺がその骨ぜんぶ叩き折ってやる!」
 そんな悲しいこと、今も本気で思っているのかよ。
「二度とピアノなんざ弾けなくしてやるよ!」
「っ、そうなったらお前も俺のことがいらなくなる!」
「まだ言うか⁉」
「うるせぇ!」
 襟首を掴む駿の手を思い切り引き剥がし、放り捨てる。そしてピアノの下に置いてあったカバンを手に取った。
「もうお前とは会いたくない」
「奏!」
「二度と会いたくない!」
 腕を伸ばしてもう一度つかまえようとしたが、ピアノのイスに足が引っかかり空を切る。その間に奏は音楽室から出て行ってしまった。
「なん、でっ」
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 このまま追い掛けて引き留めたい。二度と会いたくないだなんて、そんなの本音ではないことくらい分かっている。それでもそう言ってしまう彼の気持ちが分からない。
 だからきっと何を言っても奏の心には届かない。
「くそっ」
 駿はピアノのイスにドカリと座る。そういえば一人で座ったのは初めてかもしれない。いつも奏の脚の間に座るから。
 体温のない背中が寂しくて、悲しくて、胸が痛む。
「ピアノを弾く俺にしか価値がない、か」
 指一本、鍵盤に乗せてキラキラ星を弾いていく。
 音の大きさはバラバラだし、テンポもまちまち。それでも間違えずにゆっくり丁寧に弾いていく。
 背中から抱きしめて、大きく手温かい手が一緒に弾いて教えてくれた。
 褒めてくれて、意地の悪いことも言うけれど、優しくキスをしてくれる。
 価値なんて関係ない。奏が奏であるから好きなのに――――

――――あの人たちは、俺自身に感心があるわけじゃねぇんだよ。

 蘇った声に駿はいつの間にか俯いていた顔を上げた。


『用があるのは俺じゃなくて、ピアノだけ』
『ピアノ?』
『そう』
 そこでようやく笑う。
 心底バカにしたような鋭い笑みは、両親に向けられたものか。それとも、
『俺がピアノさえ上手く弾いてれば何だっていいんだよ』
 自分自身か。


「そうか、親に言われたんだ」
 奏の家庭について細かいことを知っているわけではない。少しだけ聞いたことがあるだけで、踏み込んだ話しはしていない。
 ただ分かっているのは、ピアノと家庭は繋がっていて、両親のことは好きではないということ。
 冷たい家庭があるのは分かる。自分もそうだった。
 母親とも思わない本当の母親。父さんが仕事に行っている間に男を家に上げているような女で、そのことを父さんが怒ると今度はその男の家に入り浸り、ほとんど帰って来なくなった。
 その人との思い出も無ければ、愛された記憶もない。
 でも今は再婚した相手、母さんに愛され、鈴音も大切にしてくれている。父さんも幸せそうだし、俺も新しい家族を愛している。
 だからあの人との過去なんて無かったことに出来ているのだ。
(でも)
 奏はきっと今も辛い思いをしているのだろう。楽しく弾いているだけでは許してくれない親なのかもしれない。ピアノを弾いていなければ価値が無いのだと言うような。
「……そんなこと言う奴なんか、俺が殴ってやるのに」
 呻くように言葉が滑り落ちた。奏を傷つけるなんて許せない。
 好きなように弾いたっていいじゃないか。イヤなら弾かなくたっていいだろう。そんなもの奏の自由だし、弾いていなければいけないなんてこと無い。絶対。
(そういえば……)
 奏の名前を初めて知った時、弾いていたクラシックの曲より、歌の方が好きなんだろと指摘した。でも彼はこう言ったのだ。
『でもっ、好きってだけじゃダメだろ』
 好きなのに弾けない理由がある。
 好きなのに弾きたくない訳がある。
 好きなのにそれを言えない理由がある。
 好きなのにそれを言いたくない訳がある。
『はぁ? なに言ってんだお前』
 言ったっていいのだと、伝えた。
 言って何が悪いのかと。
 そしたら奏は、
『お前がくれたものも、してくれたことも、俺は大切にしたい』
 好きなものは好きだって言っていいんだろ?
『お前が教えてくれた』

 俺のためにピアノを弾いてくれた。

「奏……」
 どうしたらお前自身に価値があるんだと分かってもらえるんだろう。
 呪いのようなそれを消し去るにはどうしたらいい?
 一体俺には何が出来る――――?



「あー、ダメだー」
 駿は自室のベッドに倒れ込む。結局なんの答えも思いつかず、すごすごと家に帰ってきたのだ。
 言葉で伝えられないなら拳で伝え合え、なんていうのも無理なのは分かっているし、だからといってどれだけ言葉を尽くしても奏には届かない気がした。
「なんかねぇかなー」
 ベッドの上で大きな溜息をつくと、コンコンとドアをノックする音。そして「お兄ちゃん」と声が聞こえた。鈴音だ。
「んー? どしたー?」
「開けてどぞー」と促すと、鈴音がひょこっと顔を出した。
「あ、ごめん。寝てた?」
「いや、大丈夫」
 身体を起こしベッドに座り直す。
「今度の不良犬の歌なんだけど」
「お、決まった?」
「うん」
 渡されたのは歌詞が印刷されたもの、そして「はい」とスマホを操作する。するとピロンと駿のスマホが鳴った。
 曲の動画のURLを送ってくれたのだろう。
「今回は王道のラブソングにしたよ。すっごくストレートなラブバラード」
「へぇ」
 今までもラブソングを歌ったことはあるが、言い回しが独特だったり、アップテンポなものが多かった。
 相変わらず音楽用語に詳しいわけではないけれど、バラードといえばゆっくりな曲のイメージがある。それを選ぶなんて珍しい。
「お兄ちゃん」
「ん?」
 顔を上げて鈴音を見れば、何か言いあぐねている様子だった。
「なした?」
「うーんと、あのね」
 鈴音は視線を動かしてから苦笑して駿に言う。
「何かあったら、私にも相談して欲しいの」
「言いづらいかもしれないけど」と頬を掻きながらも続けた。
「私は何があってもお兄ちゃんの味方だよ。話しを聞くことは出来るし、一緒に悩むことも出来るよ」
「鈴音……」
「ほら、テスト期間も終わったしね」
 どうやらその時期に悩んでいたことはバレていたらしい。心配掛けないよう振る舞っていたけれど、見抜かれていたようだ。でもそれを追求せずに待っていてくれた。自分には勿体ないほどの優しい妹だ。
「でも無理矢理話せってことじゃなくて、私がいることも忘れないでって伝えたかったんだ」
「……ありがとうな」
 駿は立ち上がり、鈴音の頭を軽く撫でた。
「話せるようになったら聞いて欲しい」
「うん。いつでも待ってる」
 兄弟で笑い合う。
「じゃあ曲の方、聴いておいてね!」
「おう」
 軽く手を振って鈴音は部屋から出て行った。
「ふー……」
 力が抜けるように深く息を吐き出す。どうやら身体に力が入っていたらしい。もしかしたら昨日からそうだったのかもしれない。だから鈴音も心配してくれたのだろう。
「一旦落ち着くか」
 悩み続けて沈んでいくより、一回リセットして気分転換するのもいいかもしれない。
 駿は取り敢えず、と鈴音にもらった歌詞に目を通した。
「あなたが好きです……か。本当にストレートだな」
 タイトルからしてラブソングだと分かる。
「…………」
 歌詞は一人語り口調で、長くもないシンプルなものだった。
『今なにをしていますか?』
『泣いてはいませんか?』
『私はあなたが好きです』
『明日もまた会えたら、この気持ちを聞いてください』
 その後の歌詞も目で追って、自然と勝手に口からこぼれ落ちていく。
 手紙を読んでいるような、そのシンプルさが故にストンと心に落ちてくる。いや、そうじゃない。
(なんか、なんつーか……)
 駿の目に涙が溢れてくる。別に悲しいわけではない。暗い歌詞なわけでもないのに、胸が痛い。これが共感というものなんだろうか。
「俺、これ歌えるかなぁ」
 ズッと鼻を啜って、手のひらで涙を拭う。
 もしかしたら歌いながら泣いてしまうかもしれない。
「――――あ」
 そうか、そうだったんだ。
 気付いた途端、またボロリと涙が零れた。

 俺って何だろう。不良犬って何だろう。ずっとその答えが見つからなかった。
 ただ歌っていただけ。それ以上もそれ以下もない。でもそれで十分だったんだ。
 俺はどう歌っていた? 歌詞を読んで、曲を聴いて、どんな気持ちになった?
 その感情は、歌に込めた気持ちは誰のもの?
「俺のものだよ……」
 歌っている時に感じているものは、作り物なんかじゃない。
 曲を選んだのは鈴音だけど、歌に込める想いは俺のもの。誰のものでもない。俺だけのもの。
 たとえ不良犬として歌ったとしても、それは俺だ。
 不良犬イコール俺なんだ。
「かなでっ……」
 奏もきっと今までの俺と同じ気持ちで苦しんでいる。自分の価値を求めて彷徨って、迷子になっているんだと思う。
 なら奏がしてくれたように、俺も腕を伸ばして奏の手を掴もう。人で出来た壁から抜け出せるように。
「――――鈴音!」
 俺が出来ることはただひとつ。
 駿は駆け出し、ドアを開けて叫んだ。
「ちょっと協力してくれねぇか!」



⑦迷子――終了