試験は無事に合格点を取り、僕はようやく補習地獄から抜け出せた。
 開放感で満たされた教室はやっと夏休みが来たかのように騒がしい。でも気持ちはわかる。
 僕も一人だったら教室中を走り回っていたかもしれない。

 「今日の祭り行くでしょ?」
 「もちろん。みんなで浴衣着ていこう」
 「だね!」

 女子二人が話している会話が耳に入り、近くの神社で祭りが催されることを思い出した。そういえばファミレスで河野さんたちが行こうと話していた。

 (もちろん僕は誘われてないけど)

 元々行く予定はないし、行くつもりもなかったのでどうでもいい。それよりも僕はやらなければならないことが山積みだ。

 (帰ったら三谷の衣装を仕上げて、ぬいの衣装の新作も考えないと)

 わくわくと廊下を歩いていると「わっ!」と脅かされて背中を叩かれた。
 ギリギリ悲鳴をあげなかった僕を褒めて欲しい。

 「補習お疲れ様!」
 「……河野さん、テンション高いね」
 「そりゃ全部合格点取れたからね。これで無事にお祭り行けるよ」
 「山内くんたちと行くんでしょ?」
 「ううん、那生と行くの」

 ひゅっと身体の空気が抜けた。苦しくて喘いでいる僕に河野さんは可愛らしい笑顔を浮かべる。

 「浴衣も着ていくつもり」
 「……河野さんなら似合うと思うよ」
 「ありがとう。今日のために新しいの買ったんだ」

 じゃあまたね、と河野さんは僕を追い越して行った。華奢でほっそりとした背中を見送るとドキドキと嫌な心臓の音がする。気持ち悪い。立っているのがやっとだ。
 でもこれ以上学校にいるのも苦痛で、ブリキのおもちゃみたいにぎこちなく歩を進めてどうにか帰路についた。
 家に着くと電池が切れてバタリと玄関に倒れてシャンデリアがぶら下がった天井を見上げる。
 
 (どうして河野さんは三谷と行くことを僕に言ったんだろう)

 愛らしい笑顔の裏側でなにを考えているのか。河野さんの意図がわからない。
 もしかして宣戦布告? 僕が三谷を好きだと気づいていたのだろうか。

 「そんなわけない、よね」

 この気持ちは心の奥底にしまっているのだから、誰にも見つかるはずはない。
 しばらくフローリングの冷たさに浸っているとポケットのスマホがぶぶっと震えた。ノロノロと画面を確認すると三谷からメッセージだ。

 《試験どうだった?》
 《三谷のお陰で合格できたよ》
 《翡翠の努力の結果だよ。でもこれで遊べるな》

 サッカーボールを抱えたくまが両手を上げているスタンプも送られてきて、僕はスマホを放り投げた。

 (遊べるって言ったって、河野さんと祭りに行くんだろ)

 美男美女の二人は注目を浴びるだろう。浴衣姿の河野さんは普段より何倍も可愛いに違いない。
 手を繋いで屋台を見て、花火が打ち上がると同時に抱き合う。
 そんな少女漫画みたいなストーリーが完璧に描けてしまう。
 祭りなんて興味もなかったはずなのに、三谷の隣にいる河野さんを想像するだけでモヤモヤする。

 (嫌だな……)

 涙が込み上げてきて頰を伝った。自分から三谷のことを手放したくせに、まだ未練がましく想っている。
 忘れようと思うたびに三谷が好きだと自覚してしまう。
 あのとき、僕が三谷を選んでいたらいまと違った未来があったのだろうか。
 奥歯を噛んで後悔しているとがちゃりと玄関ドアの施錠が開いた。

 「やだ、紅玉ちゃん。死体が転がってるわ」
 「本当ね。警察に連絡する?」
 「……生きてるよ」

 ぐずっと洟を啜って起き上がると夏の日差しをスポットライトのように背負った双子の姉ちゃんたちが立っていた。





 僕が自分の保身のために三谷を捨てたことを知っている姉ちゃんたちに引っ張られ、僕はどうにかリビングに移動することができた。
 ソファに座り、冷たい麦茶を飲むと少しだけすっきりする。
 僕の話を聞いた真珠姉ちゃんは長い髪を振り乱し、猪のように鼻息が荒い。

 「てか女と祭り行くくせによくそんなライン送れるよね!」
 「夏休みはなにも祭りだけじゃないわ。プールとか海に翡翠を誘うつもりだったのかも」
 「……僕、泳げないんだけど」
 「そうだったわね」

 紅玉姉ちゃんはすんと肩を落とさせてしまった。せっかくフォローしてくれているのに申し訳ない。
 だが気が短い真珠姉ちゃんはリビングテーブルを叩いた。

 「そもそも那生がモテるから翡翠がとばっちり受けてるだけでしょ!」
 「そんなこと言われても那生くんも困るわよ」
 「あの完璧超人みたいな男が悪い」
 「那生くんの努力の結果よ」

 真珠姉ちゃんと紅玉姉ちゃんは火と水のように正反対な性格をしている。
 怒りっぽくて喧嘩っ早い姉の真珠姉ちゃんと冷静沈着で頭脳明晰な妹の紅玉姉ちゃんはいつも意見が食い違う。

 「「翡翠はどうしたいの?」」

 二人の声がピタリと揃った。じっと四つの黒い瞳に見つめられて僕は自分の心に問いかける。
 三谷が河野さんの付き合うのは嫌だけど、決めるのは三谷だ。僕がとやかく言える立場ではない。

 「……三谷が選ぶなら諦めるよ」
 「まだなにもしてないのに?」

 再びだんとテーブルを叩く真珠姉ちゃんの目は段々鋭くなっている。どうやら血が滾って仕方がないらしい。

 「確かに翡翠は酷いことをして那生を傷つけた。でも失敗しない人間なんていないのよ。間違えたら謝ればいいの」

 真珠姉ちゃんの言う通りだ。僕がどれだけ無視しても三谷は根気よく声をかけ続けてくれた。やさしい彼にどれほどの傷を負わせてしまったのか。
 確かに僕は三谷にちゃんと謝っていない。
 その後悔があるから、僕は同じ場所でずっと立っているのだ。このままだと一歩も前を進めない。
 好きでいるか、諦めるかの決着はその次だ。

 「布を縫うのも一緒でしょ。常にまっすぐ堂々と進んでる」
 「……返し縫とかバックステッチとかあるけど」
 「~~っそういうことじゃなくて気合いの問題よ!」

 格闘ゲームの必殺技のようにぐっとこぶしを振り上げる真珠姉ちゃんを唖然と見上げた。言っていることがめちゃくちゃだ。
 でも僕を励まそうとしてくれるのは伝わる。
 なにもしないままウジウジしていても事態が良くなるわけないのだ。

 「ありがとう。僕、三谷を誘ってみる」
 「そうしなさい!」
 「ちゃんと謝る。傷つけたこと」
 「それがいいわね」

 二人の姉に背中を押され、僕はスマホを取り出し三谷に電話をかけた。

 『もしもし翡翠? どうした?』
 「あ、あのさ! 夏祭り、僕と行って欲しいんだけど」
 『え?』
 「河野さんと約束してるのは知ってる。でもほんのちょっとでいいから、みた……那生と会いたい」

 最後はしりすぼみになってしまったが、言いたいことは全部言えた。
 スマホを握る手に力を込め、地獄の門にいる罪人のような気持ちで那生の言葉を待った。

 『ちょっと待ってて』

 なに、と返事をする前に家のインターホンが鳴る。誰だよ、こんな大事なときに、と画面を見ると那生が手を振っていた。

 「え、なんで? どうして?」
 「『開けてよ』」

 スマホとインターホンから那生の声が二重に響く。僕は転がるように玄関の扉を開けた。

 「よっ、迎えに来た」
 「迎え?」
 「本当は俺から誘うつもりだったんだけどさ。翡翠が言っちゃうんだもん」

 ぷうとわざとらしく両頬を膨らませる那生はリスみたいに可愛いーーじゃなくて、誘うつもりだったってどういうことだ。

 「河野さんと行くんじゃないの?」
 「それは断ったよ。翡翠と行くからって」
 「約束してたっけ?」
 「してない……けど、断られてもしつこく誘うつもりだった。翡翠から誘ってくれて嬉しい」

 向日葵みたいに笑う那生が眩しくて目を細めた。いつだって僕を照らしてくれる太陽みたいな存在。

 「うん。僕も那生と行きたい」
 「あ〜うん。ちょっと待って」

 急に目元を手で隠してしまった那生は俯いてしまった。まさか熱中症だろうか。

 「具合い悪い?」
 「……幸せ噛み締めてる」

 よく見ると那生の耳の縁が赤くなっていた。照れている? どこにそんな場面あっただろうか。

 「なんでこんなに可愛いんだよ、クソ。いつもちょっとツンとしてるくせに反則だろ……」
 「なにか言った?」
 「なんでもない」

 那生がボソボソと喋るので聞き取りづらい。でも根拠はないけど悪口を言われたような気がする。

 「お二人さ〜ん、ちょっといいかしら」

 リビングから真珠姉ちゃんと紅玉姉ちゃんが顔を出した。

 「祭りに行くならめかしこまなくっちゃね!」

 二人の姉の迫力に僕たちは顔を見合わせた。





 「さすが真珠ちゃんたちだな」
 「よくこんなものまだ残してたよ」

 那生を部屋に引き入れた真珠姉ちゃんはあれよあれよと着付けをしてくれた。
 浴衣は昔僕が父さんに作ったのと独身のときに着ていたものだ。

 「これ翡翠が作ったんだろ?」
 「そうだよ。中学のときだからまだ真っすぐ縫えてないけど」

 よく見ると線はガタガタだし、所々解れている。でも初めて作った浴衣をいまでも大切に保管してくれていた父さんの想いにぐっと胸にくるものがあった。

 「いいな、これ」

 くしゃっと笑う那生に見惚れてしまう。浴衣ってどうしてこんなに人を魅力的に映すんだろうか。さっきから心臓が鳴りっぱなしで痛い。
 縞柄の濃紺色は那生の純和風な顔立ちとよく合っている。
 すっきりした首元は色香をまとっていて、すれ違う女性たちが頬を染めるほどだ。
 父さんのために作ったのに最初から那生に誂えたもののようにしっくりしている。申し訳ないけど父さんが着ていた姿が霞んでしまう。
 僕の浴衣は白地に熨斗模様柄で大人っぽすぎてあまり僕に似合ってないから落ち込む。
 でも隣を歩く那生をちらりと見上げるとそんな気持ちは霧散する。ときめきで上書きされる心臓は小動物のように忙しない音をしているだろう。
 那生の浴衣姿は初めて見るので瞳に焼きつけておきたい。

 「さっきから俺のことチラ見してるだろ」
 「べ、別に見てないし」
 「サッカー部の視野の広さ舐めんなよ」

 ぐっと顔を近づかれてしまい、頬が熱を持ち慌てて前髪を引っ張ろうとしたが空振りに終わった。
 いつも僕の目元を隠してくれていた長い前髪は紅玉姉ちゃんの手によってアップバンクにされている。
 おまけに今度男性向けのメイク商品を出したいから、とメイクもされた。
 フェイスパウダーを塗られたお陰で肌艶がいい。まつ毛もくるりと上を向いている。でも自分の顔に薄い膜を張られているようで違和感しかない。

 「メイクもいいけど、髪型もいいな。さすが紅玉ちゃん」
 「う~早く全部とりたい」
 「こんな可愛いんだから勿体ないよ」

 可愛い、というニュアンスが僕の鼓膜に甘く響く。嘘でもお世辞でも嬉しい。
 はにかみそうになる唇にどうにか力をいれて耐えた。
 神社の近くに着くと大勢の人で溢れている。どうやら暑い日中を避けて、夕方から来る人が多いらしい。
 神社までの道の両側に出店がこれでもかと並び、美味しそうな匂いを漂わせていた。
 祭囃子の音がスピーカーから聞こえるとわくわくしてくる。

 「どこから行く?」
 「かき氷食べたい」
 「ここまで来るまで暑かったもんな」

 数分歩いただけでも二人とも汗をびっしょりとかいている。浴衣は結構暑い。
 かき氷やたこ焼き、いか焼きなど定番のものを食べ歩きつつ、射的や小学生に混じって型抜きをした。
 童心にかえるようで楽しい。

 「お、三谷じゃん!」

 型抜きの店を後にして歩いていると前から山内くんグループとかち合ってしまい、僕は固まってしまった。
 そこに浴衣姿の河野さんがいたからだ。僕と目が合うと彼女はさっと下を向く。まるで僕を視界に入れたくないような素振りにわずかに胸が痛む。
 山内くんはいつものように那生と肩を組んだ。

 「祭り来れないんじゃなかったの?」
 「翡翠と先に約束してたんだよ」
 「それならもっと早く言えよ……ちょっと来い」

 山内くんに連れられて那生は出店の裏側に行ってしまった。ごめんね、と那生に頭を下げられてしまい、見送るしかない。

 (ここで待ってるの気まずいな)

 長くかかるようなら帰ろうかと考えているとちょんと裾を引っ張られた。振り返ると河野さんたちグループの女子が首を傾げている。

 「えっと、東で合ってる?」
 「そう、だけど」
 「髪型違うから気づかなかった! もしかしてメイクもしてる?」
 「うん。姉ちゃんたちが化粧品会社立ち上げててそのサンプル」

 化粧品、と聞いて河野さん以外の女子たちが詰め寄ってきた。

 「それはどこのメーカー?」
 「「MAKE mee」だよ。あ、そのアイシャドウ使ってくれてるんだ」
 「私、めっちゃメミー好きだよ!」
 「てことはジュエリー姉妹の弟ってこと?」
 「えっと、まぁそうだよ」

 真珠姉ちゃんと紅玉姉ちゃんは中高生にカリスマ的人気を誇るインフルエンサーだ。二人で化粧品会社を立ち上げ、安くて質がいいものをモットーに商品開発をしている。
 二人の名前から「ジュエリー姉妹」として投稿しているメイク動画は毎回万バズするほどの人気があった。

 「嘘……見る目変わるんだけど」

 宝石のように目を輝かせる女子たちに僕は後ずさった。こうなるから姉ちゃんたちのことは伏せていたのに。少し気が緩んでいたのかもしれない。

 「ねぇサンプルって家にたくさんあるの?」
 「そういうのはよくわからないな」
 「探してきてよ。なんならいまから取りに行くし」

 名前もわからない女子にぐいぐいと肘で押され、冷や汗が止まらない。
 姉ちゃんたちが有名人だとわかると手のひらを返されることは多々あった。

 (どうしよう、でも断ったら変な噂流されるかな)

 昔の古傷がズキズキと痛みそうになり、僕は胸に手を置いた。

 「やめなよ。翡翠っち、困ってるじゃん」

 静観していた河野さんの一声にしんと場が静まり返る。
 いいじゃん、と女子は負けじと応戦した。

 「まりりんも本当は欲しいでしょ?」
 「メミーは好きだから買うの。その方が大切にできるでしょ」

 河野さんの気迫に驚いたのか、それもそっか、と女子はあっさりと引いてくれた。

 「ごめん、翡翠。行こうか」

 戻ってきた那生に手を引かれ、ぎゅっと力を込められた。河野さんが寂しそうな顔をしているのが視界の端に映る。

 「河野さん!」

 名前を呼ぶと彼女はゆっくりと僕の方を見てくれた。

 「メミーを大切にしてくれてありがとう」

 深く頭を下げたあと僕は歩き出した。
 もうすぐ花火が打ち上がる時間なので高台へ向かう人が多い。その波を逆らっているので人にぶつかって舌打ちをされてしまった。

 「ちょっと脇に行こう」

 出店の裏側へとなんとか移動した。外側に出でようやく全体を見渡せると大名行列のような人の多さに驚いてしまう。

 「河野たちとなんかあった?」
 「ちょっと話してただけだよ」
 「そっか」

 わずかに目を細める那生の横顔に提灯の淡い光が反射する。

 「河野にね、告白されたんだ」

 静かな声は僕の鼓膜を激しく揺さぶった。違う。心だ。ぐちゃぐちゃにかき乱されて、僕はふっと短く息を吐いた。

 「でも好きな人いるからって断った」
 「え?」

 那生の言葉が信じられなくてじっと見返した。
 だって二人は両想いだったんじゃないの? 山内くんたちもそうだって言って、地盤を固めていたじゃないか。
 訳がわからないまま時間だけがどんどん経過している。背中の汗が気持ち悪い。

 「俺の好きな人、わかる?」
 「わかるわけないでしょ」

 河野さんじゃなければ一体誰なんだ。
 でも考えたくない。想像もさせないで欲しい。立っているのがやっとなくらい足がガクガクしている。
 
 (でも、もう逃げない)

 僕はこぶしを強く握って、那生を見上げた。

 「那生の好きな人、訊いてもいいの?」

 正面に向き合った那生の瞳が潤んでいる。握られたままの手は小刻みに震えていた。
 すぅと大きく息を吸い込んで那生は口を開き  
 
 どどん! どん! ぱぁん!!

 花火が打ち上がり始め、僕たちは弾かれたように夜空を見上げた。神社近くの川から打ち上げられるので鼓膜が破れそうなほど音が大きい。
 周りの歓声が波紋のように広がっている。
 那生が唇を動かしているからなにか言っているようだったが、まったく聞こえない。僕は首を振って耳を差した。
 しばらくモゴモゴとしていたが、那生はスマホを指さした。

 《花火きれいだね》
 《そうだね》

 夜空に咲く大輪を二人で見上げていた。