「嘘でしょ……」

 期末試験の結果に僕は言葉を失った。まさかの赤点がある。
 しかも一番時間を割いていた数学だ。自己採点も平均ギリギリでいつも通りだと高をくくっていた自分を殴りたい。
 試験勉強はしていたが、休憩中に劇の衣装を作っているとあっという間に日付が越えることが度々あった。
 母さんの鬼の形相を思い浮かべ、ひゅっと喉が鳴る。普段温厚だが、一度怒ると手がつけられないタイプだ。
 裁縫セットが取り上げられる未来が容易に想像でき、僕は泣くのを堪えるのに必死だった。
 夏休みはしっかり勉強すると約束をして、二学期の成績で挽回するしかない。
 でも心のどこかでは浮足立っていた。だって夏休みが始まるんだから。
 好きな時間に起きて、好きなことを一日中できるーーなんて幸せな時間だろう。
 僕が夏休みに思いを馳せていると教壇に立つ担任はぐるりと教室を見渡してから口を開いた。

 「えー今年度から赤点の者には補修をすることになった。夏休みだからってサボるなよ。単位やらないからな」
 「……そんな」

 担任の非情な言葉に僕は試験用紙をぐちゃりと丸めた。
 教室内は騒ぎ出し、赤点組は頭を抱え、免れた人はよかったーと手を取り合って悦んでいる。
 僕の夏休み計画がガタガタと崩れ落ちた。
 でも一教科だけだから、と配られた補習の予定表の紙を見たらお盆までみっちりと予定が詰め込まれている。希望を見事打ち砕かれた。
 チャイムが鳴り、帰りのホームルームが終わると教室の騒がしさが増す。

 「三谷、テストどうだった?」

 山内くんの声に僕の意識はそちらに向いた。三谷グループの定位置である廊下側の一番前の席は僕の席から対角線上にある。つまり教室の端と端だ。
 それでも聞こえるくらい山内くんの声はよく通る。
 山内くんに問われた三谷はくしゃっと笑った。

 「まぁなんとかね」
 「とかいいながら、どうせ学年一位だろ」

 山内くんに肩を組まれた三谷は困ったように笑った。図星なのだろう。
 部活もして文化祭実行委員として奔走しているのにいつ勉強しているのだ。
 これ以上ないほど肩を落としていると三谷と目が合った。バチっと静電気が起こったように僕の肩は跳ねてしまう。
 口パクで「どうだった?」と訊かれて、僕は首を振った。三谷は「ドンマイ」と口パクのあとにウインクをしてくれ、僕の頬は熱くなってしまう。

 (これは……まずい)

 好きだった過去の気持ちがもう蘇っているのではないか。
 教室に入るときに最初に探すのは三谷だし、彼の声が聞こえたら耳がダンボになる。
 一旦気持ちにブレーキをかけようと自分の胸に手を置いた。
 自分が犯した過ちを忘れてはいけない。石碑のように深く胸に刻まれた痛みに呼吸が止まる。

 (僕はズルい人間だ)

 自分から手放した恋にまた縋ろうとしている。三谷がやさしくしてくれるのは文化祭実行委員だから。僕のためではない。クラスのためなのだ。
 そのやさしさを勘違いしてはいけない、と細胞にまで刻みつける。

 「ちゅうもーく! 夏休み中も文化祭の準備したいから、来れる人は教室来てね。日程書くから写真撮っておいて」

 三谷の声に顔を上げると彼は黒板に日付を書いていた。夏休み中でも週に一度は集まるらしい。ちょうど補習の日とも被っている。
 絶対行く! 楽しみ! と声が響き、シャッター音が被さる。だが裏方組はちらりと見るだけに留めていたのが気になった。
 僕もスマホを出して写真をおさめているとブブっと通知が鳴る。三谷からのメッセージだ。

 『夏休みもたくさん会えるな!』

 画面に飛び込んできた文字に僕は顔面を殴られたような気持ちになった。





 終業式が終わり、夏休みに入った。
 それでも僕は制服を着て、電車に乗っている。いつもなら同じ学校の人をちらほら見かけるのに今日は誰もいない。僕のように補修に行く人は少ないのだろう。

 (はぁ……最悪)

 補修のことを両親に言うと「夏休みも定期が使えてよかったじゃない」と斜め上の返しをされてほっとしたのも束の間。その目は笑っておらず、しっかり勉強に励まないと裁縫セットを取り上げるぞと脅していた。
 最寄り駅に着くと灼熱の太陽がホームに差し込んでいる。ここから学校まで十分ほど歩かなければならない。
 アスファルトはじりじりと音がしそうなほど熱せられている。鉄板に焼かれる肉を想像し、僕は日陰から日向へ一歩踏み出す勇気を持てないでいた。

 「お、翡翠じゃん」

 とんと背中を叩かれて振り返ると青いユニホームと白のハーフパンツの三谷が人懐っこい笑みを浮かべている。この暑さでも爽やかだ。
 エナメルバッグを肩にかけているから部活があるのだろう。

 「同じ電車だったんだな。てかいつも何両目に乗ってる?」
 「適当。あまり決めてない」
 「だからか。俺、五両目って決めてるから気が向いたら来てよ」

 さり気ない誘い文句が三谷らしい。強引さがなく、最終決定権は僕に委ねてくれる。その細やかな気遣いは三谷がモテる所以だろう。

 「学校行かないの?」
 「行きたいんだけど暑そうで」

 僕は暑いのが苦手だ。汗をかくし、匂いも気になる。ベタベタのシャツを着ているのも気持ち悪い。

 「いいのがあるよ」

 三谷はエナメルバックからハンディファンを出した。

 「風だけじゃなくて冷却プレートもあるから涼しいんだ」

 電源ボタンを押すとひんやりとした冷風が顔に当たる。確かにただの扇風機とは大違いだ。

 「涼しい」
 「貸してあげる」
 「でも三谷、暑いだろ?」
 「俺は慣れてるから平気。それより早く行こう」

 僕はハンディイファンの恩恵にありがたく預かり、ようやく日向へと歩き出せた。
 行く先は同じなので自然と三谷と並んだ。また少し日に焼けた三谷は「今年はここを焼くんだ」と袖をまくり、真っ白な肩を見せてくれた。

 「あとソックスも長いから、膝だけ焼けてるんだ」

 サッカーはすね当てをするので長いソックスを履く。だから剥き出しの膝だけ黒くなってしまうらしい。

 「それだけ練習頑張ってるってことだね」
 「……茶化したりしねぇの?」
 「茶化す?」

 もしかして日焼けの話は三谷にとって鉄板の笑いネタだったのだろうか。そうと気づかずに当たり障りない返しをしてしまった。

 「ごめん、普通に感心しちゃって」
 「翡翠はそういう奴だよな」
 「面白い返しができないってこと?」
 「そうじゃねぇよ。でも練習は頑張ってるよ。秋に大会があるから」

 夏の太陽を背負った三谷の笑顔のあまりの眩しさに僕は目を細めた。
 それから部活での面白エピソードを聞いていると、あっという間に校門に着いた。
 三谷はグラウンド、僕は教室へ向かう。

 「扇風機ありがとう」
 「どういたしまして。補修って昼までだよな。俺も午前練だから一緒に帰ろうよ」
 「それは……」

 三谷といると好きが膨れ上がってしまう。いまだってギリギリな状態なのだ。

 「午後は図書館で勉強するからちょっと」
 「なら付き合うよ。わからないところあったら教えてあげるし。それに帰りにこいつもあるといいだろ」

 ハンディファンを掲げられて、僕の喉はぐうと鳴る。ハンディイファンのお陰で灼熱の外でも快適に過ごせたのは間違いない。
魅惑的な誘いだが、僕は首を横に振った。

 「いいよ。練習疲れるだろ」
 「それくらいさせてよ」

 夏の日差しよりも眩しい笑顔を向けられて、僕はじりじりと焦がされるアスファルトの気分だ。

 「三谷! 顧問が探してたぞ!」

 グランドから揃いのユニホームを着た部員が呼びに来た。少し話過ぎていたかもしれない。

 「悪い、すぐ行くわ! じゃあ練習終わったら迎えに行くから教室で待ってて」

 僕の返事を聞かずに三谷は部員と共に走って行ってしまった。

 (どうしよう、困ったことになったぞ)

 ダメだと押しとどめる自分と三谷と一緒にいられる嬉しい自分が左右から腕を引っ張られ、僕は一歩も動けだせなかった。





 補習が終わり、僕は気配を消しながら下駄箱に向かった。グラウンドにサッカー部の姿はない。さすがにこの炎天下の中、外ではなくクーラーの効いたトレーニングルームや体育館で練習しているようだ。
 体育館は校舎の裏側にあるから下駄箱に来るまで時間がかかる。
 僕はさっと外靴を履いて、校門へと向かった。
 歩いていると校門の横にある桜の木の下で三谷のグループが集まっていた。ピンクの髪が一際目立つ山内くんもいる。彼も補習組の一人だ。
 山内くんたちの声はスピーカーがついているんじゃないかと思うほどよく響く。しかもただ笑っているだけなのに圧がある。
 一軍男子が勢ぞろいしているのもあり、否が応でも目立つので通り過ぎる人はみんなチラ見していた。
 イケメンで派手髪の人もいれば、制服をおしゃれに着崩している人もいる。常人とは違う世界線にいる勝者にだけ与えられるオーラがあった。
 僕は正直苦手だ。さっさと通り過ぎようと足を速める。
 近くまで行くと山内くんたちの会話から三谷の名前が聞こえ、ぴくりと足が止まってしまった。

 「そういやまりりんが三谷狙いらしいな」
 「え、まじ?」

 山内くんは大袈裟に目を丸くさせ、「狙ってたのに!」と頭を抱えだした。
 まりりんこと河野真理亜さんは去年も同じクラスで今年も一緒だ。
 長い金髪にピンクのインナーカラーをしていて派手なメイクが特徴ないわゆるギャルだ。でも性格は明るく、誰とでも気兼ねなく話してくれるので男女共に友人が多い。
 僕も隣の席になったときに何回か話したことがあり、気さくでいい人だという認識がある。
 女子とは最低限しか話さない僕にとって唯一知っている人と言っても過言ではない。
 ちなみにロミオ役だ。

 (そうか……河野さんが)

 僕から見ても三谷と河野さんはお似合いカップルだ。優等生な三谷とギャルな河野さんは見た目こそギャップはあるけど、美男美女で誰もが羨むことだろう。
 二人が並んでいる姿を想像し、僕の胸はナイフで刺されたように鋭い痛みが走った。咄嗟に押さえて確認してみたが、もちろん血なんてでていない。
 僕の心臓と同じ位置にある心が痛みで泣き叫んでいる。

 「だからまりりん、あんなにロミジュリに拘ってたんだ」
 「そうそう。「このメンバーで最高な文化祭にしようよ」って乗せてきたじゃん」

 裏でそんなやり取りがあったのか。全然気づかなかった。

 「それで三谷をジュリエットに推薦して、自分はちゃっかりロミオだもんな。意外と策略家だね」
 「てことは文化祭に告白?」
 「まじありえる! じゃあ俺たちは後押ししないとな」

 山内くんたちの言葉が何重にも重なって聞こえる。
 劇に決まった本当の理由を知り、気持ち悪さに吐き気がした。そりゃクラスがまとまるわけがない。もしかして僕以外の人は河野さんたちの計画に気づいていたのだろうか。
 いいように使われて面白くない。樋口さんや野元さんが最初手伝ってくれたのが奇跡に近いだろう。
 でも山内くんたちは河野さんの策略を知って後押ししている。三谷は? 彼は気づいているのだろうか。

 (そういえば三谷は好きな人がいるって言ってたよな)

 誰だったのか訊けないままだ。でも今更聞けるはずもないし、勇気もない。
 はぁと重たい息を吐いてスニーカーの爪先を見つめていると影が入った。

 「よかった、待っててくれたんだ」

 顔を上げるまでもなく三谷の声にはっとした。逃げようと思っていたのに山内くんたちの話に聞き入ってしまい、自然と三谷を待つ流れになってしまっていた。

 「お、三谷じゃん」
 「部活終わり〜?」

 山内くんたちに声をかけられた三谷は「おぉー!」と笑顔で手を振り返している。山内くんたちは三谷の隣にいた僕に気づき、なんでこいつがという微妙な顔をしていた。

 「なら三谷も飯食いに行こうよ。いまみんなで話してたんだ」
 「あ〜……」

 三谷は僕をちらりと見た。山内くんたちの誘いに乗りたそうな空気を敏感に嗅ぎわけ、僕は頷いた。
 そりゃクラスの仲良いメンバーに誘われたら行きたくなるだろう。そうしてくれれば僕は大手を振るって帰れる。元の予定通りだ。

 「翡翠も一緒でいい?」

 なんで、僕まで!?
 あわあわと三谷と見上げるとにっこりと目を細められた。かっこいい笑顔……じゃなくて、なんで僕まで山内くんたちとご飯を食べないといけないんだ。
 案の定、山内くんたちは困ったように顔を見合わせてきたが、すぐにうんと大きく頷いた。

 「いいよ。人数多い方が楽しいし」
 「じゃあ行こうぜ」

 (僕は全然楽しくないんですけど)

 ぎろりと三谷を睨みつけるが彼はもう山内くんたちの話に夢中だ。
 僕の気持ちは完全にスルーされて、みんなと連れ立ってファミレスへと向かわされた。





 駅前のファミレスは昼時のピークらしく、混雑していた。ファミリーやカップル、僕たちと同じ制服を着た補習組か部活帰りと思しき人たちで溢れている。
 出入口のソファに座り、順番が来るのをみんなで待っていた。

 「なぁ三谷、まりりんのことどう思うんだよ?」
 「いい子だと思うよ」

 山内くんたちに挟まれた三谷は笑顔を浮かべた。曖昧に濁すせいか彼らの追及は止まらない。

 「女としてどうよって話。付き合うとか」
 「そんなことしたら向こうにも失礼だよ」
 「またまた〜わかってるだろ」
 「まりりん、隠すつもりないもんな」
 「どうだろうね」

 三谷は薄々河野さんの気持ちには気づいているのだろう。その余裕たっぷりな笑顔が物語っている。

 (河野さん可愛いもんな)

 美人の姉たちを毎日見ているお陰で耐性はあるが、河野さんは生き物としての力強さもある。
 いつも笑顔で周りを幸せにする存在は誰もが好きになるだろう。
 三谷のはっきりとしない辺り、河野さんのことが好きなのかもしれない。「好き」って言葉を最初に彼女に言いたいとか思っているのだろうか。
 ずきりと胸の奥が痛む。
 僕は居たたまれなくなって立ち上がった。

 「ト、トイレ行ってくる」

 それだけ言い残してレジ横にある化粧室に飛び込んだ。用はなかったけど、すぐに戻ると怪しまれるだろう。
 僕は備え付けの鏡で情けない自分の顔を見た。

 (早く帰りたい……)

 河野さんとのことを揶揄われてもまんざらでもなさそうな三谷を見るのは辛い。
 時間をかけて手を洗ってから戻るとそこに見慣れた女子の制服集団がいる。くるりと振り返った金髪に僕は驚いた。

 「おかえり、翡翠っち」

 いままさに話題の中心にいた河野さんが数人の女子を引き連れて、三谷たちと話している。どことなく河野さんのテンションが高い。

 「翡翠っちも補修組だったんだ。なんの教科?」
 「数学だけ」
 「いいなぁ~私は現国と地理と英語!」

 勉強苦手なんだよね、と自虐するところも可愛らしい。山内くんたちも「俺もだ」と乗ってあげている。
 河野さんは隣の三谷を見上げた。

 「那生は補修ないの?」
 「俺は部活。そしたら山内たちに捕まった」
 「なにそれ~ウケる」

 くすぐったそうに笑う河野さんの言葉に耳を疑った。三谷を下の名前で呼んでいる。それも親し気に。なんの違和感もなくみんなに受け入れられていた。

 (本当に三谷狙いなんだ)

 さっきまで山内くんが座っていた三谷の隣に河野さんが陣取っている。狭いわけでもないのに肩がぶるかるほど距離を詰めていた。
河野さんは目を大きく開き、いつもより笑顔が多い。
 恋する女の子特有の愛らしさに僕は圧倒され続けていた。
 河野さんたちも一緒に食事をすることになり、四人掛けのテーブルをくっつけて八人座れるように店員さんがセッティングしてくれた。
 窓側に三谷を追いやり、その隣には当たり前のように河野さんが座る。他三人の女子もその正面に座ったので、自然と僕は通路側になった。その方が抜け出しやすいからありがたい。
 話題の中心は河野さんが握っていた。補修の話から部活のこと、近所である祭りの話や同級生の恋愛事情など多岐にわたりみんな頷いたり笑ったりしている。
 僕はぼそぼそとハンバーグを食べたり、頼まれたらドリンクバーを取りに行ったりを繰り返し、配膳ロボットのような気分を味わっていた。
 もうしんどい。この状況はなんだ。なぜ僕はここにいるんだ、と三回目の紅茶を取りに行ったときに思った。
 ただ孤独であるよりも、集団の中で孤立しているほうがより精神的にくる。
 たぶんみんなは僕を無視しようとしているわけではないのだろう。時折、河野さんが質問してくれるが「え、あ……そうだよね」と返すので精一杯だ。元からクラスに馴染めていなかった陰キャがいて、どうしたらいいのかわからないのだろう。僕も同じだ。
 会話が最高潮に盛り上がっているところに僕はそっとドリンクバーに立った。僕の真上に空調があり、冷風をもろに浴び続けて寒い。温かい紅茶を飲んでいるがすぐに冷えてしまう。

 「うわ、めっちゃ身体冷えてるじゃん」

 肩に手を置かれてびくりと跳ねた。振り返ると三谷がカップを持っている。

 「冷房苦手だったっけ?」
 「直で風が当たってて」
 「まじか。気づかなくて悪い」
 「三谷のせいじゃないだろ。女の子が冷えなくてよかったよ」

 僕以外の人はみんな冷たいものを飲んでいた。女子は身体を冷やすのはよくないと聞くし、これくらいでしか役に立てないだろう。
 三谷はきょとんと大きな目を丸くさせた。

 「やっぱ翡翠はやさしいな」
 「……そんなことないよ」

 やさしい人間なら友人を裏切るような真似をしない。三谷の言葉は僕の肩に重くのしかかった。

 「あいつらうるさいよな。悪い、こんなことなると思わなくて」
 「三谷は友だちが多いね」
 「ん~どうだろうな。ただの装飾品だと思うよ」
 「装飾品ってネックレスとかピアスみたいな?」
 「そうそう」

 どういう意味だろうか。首を傾げていると三谷は声を潜めた。

 「ほら、俺って顔がいいだろ。隣に置いとくと自分まで特別な気がしてくるんだよ」
 「そういうこと自分で言っちゃうんだ」
 「って山内に言われたんだけどな」
 「最低じゃん」

 パッケージが可愛いから買ったお菓子の中身だけ捨てるような行為は三谷というブランド目当てで友だちを装っているのと同じだ。
 僕が本音をこぼすと三谷は口角を上げた。

 「翡翠って結構毒舌なところあるよな」
 「だって本当のことだし」
 「そういうところ好きだよ」

 好き、と鼓膜の中に甘く響く声に僕はカップを取り落としそうになった。

 「那生!」

 河野さんの声が店内に大きく響いた。
 席に座ったまま河野さんが大きく手を振っている。早く戻って来て、と呼び、他のお客さんの視線を集めていた。

 「ほら、ああやって「自分と一緒にいますよ」って客全員にアピールしてんだよ」
 「あれはただ三谷のことが好きだからだと思うよ」

 好きな人と目が合うとその日一日ハッピーになるのだと姉たちはよく言っていた。話せると天にも昇る気持ちだし、付き合えたら幸せで一回死にたくなると言っていた。
 当時はよく意味がわからなかったけど、三谷を好きだと自覚したときに姉たちの言葉が心にしみた。
 そして恋をすると写真加工のようにキラキラのエフェクトが常につくものらしい。
 まさに河野さんの回りにもついている。
 そしてきっと三谷もそうなのだ。だからこんなに僕の目に眩しく映る。

 「……僕、帰る」
 「具合い悪くなってきた?」
 「うん、冷えすぎたかも」

 簡単に嘘を吐く口はぽろりと出まかせがでた。具合いなんて悪くない。もうこれ以上見ていられないだけだ。

 「顔色悪いもんな。送っていくよ」
 「電車乗ればすぐだから大丈夫。お金は今度払うね。じゃ」
 「翡翠!」

 ドリンクバーに行くたびに鞄を持っていてよかった。三谷に呼び止められても僕は無視して、外に出た。
 あれほど暑かった熱気がいまはちょうどいい。冷えた身体の芯が少しずつ溶かされていく。
 僕は逃げるように改札口を抜けて、電車に飛び乗った。