教室内の喧騒に紛れるように細く息いて僕という存在を消す。それが僕、東翡翠(あずまひすい)の学校での在り方だ。
 だが突然、不自然に音が止む。
 長い前髪の隙間からちろりと様子を窺うと教壇に立っている三谷那生(みたになお)の目線がまっすぐ僕に向けられていた。慌てて視線を横にずらすとクラスメイトたちからも同様に向けられ、焦りから手に汗が滲む。
 三谷は万人を魅了する笑顔を浮かべた。

 「翡翠、得意だったよな?」

 急になんの話だ。僕はわけがわからず、最後の一滴まで出そうとするホイップクリームのように声を絞った。

 「……なにが?」
 「昔よく刺繍とかしてたじゃん。いまもやってるだろ?」

 純粋な三谷の言葉に頭が真っ白になった。
 刺繍ってなに、と耳障りな笑い声が僕の心を鋭く切り刻む。
 高校二年生になっても僕は道端に転がる石ころのように存在を消し、良くも悪くも印象に残らない一生徒として平穏に過ごしている。
 それが学年一のモテ男である三谷に声をかけられた。しかも男子にあるまじき「刺繍」というワードが飛び出したら、好奇心旺盛な年頃に注目するなという方が無理な話だ。
 嫌がらせだろうかと身構えたが、三谷はそんなちんけなことをする奴じゃない。五年近く関わってはいないものの彼の人となりはよく知っている。
 たぶんふと思い出しただけだろう。
 どこから裁縫の話が出たのだ、と僕は三谷の後ろの黒板に目を向ける。
 『文化祭の出し物について』と書かれ、劇と展示物の二つの候補があがっていた。多数決の結果、十六対十五で劇に決まったらしい。
 確かに僕は展示の方で手を上げた記憶がある。
 劇の題目は『男女逆転ロミオとジュリエット』。いかにも陽キャが好みそうな演目だ。
 僕が返事をしないでいるとクラスメイトたちがざわざわ騒ぎ始めている。アリーナ席の一軍女子(名前忘れた)が挙手をした。

 「えっと、東くん?と知り合いなの?」
 「小学校から一緒」
 「へぇ〜意外」

 三谷の返答に女子はレーザービームのようなチクチクとした視線を僕に向けてくる。
 三谷はもう一度僕に問いかけた。

 「劇の衣装作って欲しいんだけど、翡翠そういの得意だろ?」
 「……できないよ」

 僕の声は緊張で裏返ってしまっている。なんてダサい。自己嫌悪で机にめり込みそうになった。

 「じゃあ翡翠はジュリエットやって。俺が衣装係やるから」
 「えー!」

 やだー! なんでよー!と陽キャ女子の大合唱が響き、窓際の椅子で昼寝をしていた担任が目を覚ました。静かにしろよ、とおざなりに声をかけ、再び目を瞑っている。

 (おい、ちゃんと仕事をしてくれ)

 僕の願いは虚しく、合唱を止めた女子たちの圧のある視線が向けられた。
 もちろん僕がジュリエットをやれという意味ではない。三谷の女装を見ようとしている陽キャの総意を敵に回すつもりか、という意味が込められているだろう。
 それにロミオ役は河野さんだ。陽キャの頂点に君臨している彼女は人当たりがよい笑顔を僕に向けていた。内心でなにを考えてるのかわからないから怖い。
 でもきっと仲間内で手回しをしてその座を勝ち取ったのだろう。斜め前の彼女からもチクチクと視線が刺さる。
 進級して三か月も経てばクラス内の立ち位置やグループの構成はだいたい理解していた。
 主役であるジュリエットをやるか、裏方である衣装係をやるか、天秤にかけるまでもなく僕の答えは決まっている。

 「……わかった。衣装係やるよ」
 「じゃあ任せたよ、翡翠」

 久しぶりに向けられる笑顔を直視できず、僕は再び机の四隅に視線を向けた。





 衣装係は漫画研究会の野元さんと演劇部の樋口さんと三人でやることになった。彼女たちも展示に票を入れていたらしい。
 劇に決まってしまったという嫌な雰囲気を二人から感じる。微妙な空気感の中、顔合わせを済ませ、チャイムと共に苦痛な時間は解放された。
 ほっとして机に突っ伏したいのを堪え、僕はランチバック片手に家庭科室へと急いだ。
 廊下ですれ違う生徒たちは購買部や学食へと急ぎ、弁当組は教室や校庭で友人たちと楽しそうに食べている。
 彼らの眩しすぎる日常をできるだけ視界におさめないようにしながら僕は家庭科室に飛び込んだ。
 普段は解放されない教室だが、唯一の手芸同好会の会員なのでスペアキーを持たせてもらっている。一人になれるとやっと深く呼吸ができた。
 料理研究家の母さんが作ってくれた栄養満点の弁当箱を広げ、僕は今日までの日々を振り返った。
 二年生に進級して初めて教室に入ったとき、三谷の姿を見て僕は奈落の底に突き落とされたのが記憶に新しい。
 僕はいままでより強固に心を閉ざし、徹底的に三谷の存在を消した。それは彼も同じようで話かけられることなく、日々は穏やかに過ぎていた。
 だが七月に入り、九月に行われる文化祭の出し物についての話し合いが始まったが、なかなか決まらない。何回もミーティングは行われても、話は平行線を辿ったまま終わりが見えなかった。
 それもそのはず。
 僕のクラスの二年三組は陽キャと陰キャがプリンのようにきっちり二層に別れていた。
 目立ちたいことをしたい陽キャと面倒なことをしたくない陰キャの二つの意見が交わるはずがない。水と油のように相性が悪いのだ。
 その結果、多数決をして劇に決まった。
 しかも十六対十五。
 これは民主主義に反するのではないだろうか。
 だがそれまでの話し合いが嘘のように劇の演目はすいすいと決まり、配役はもちろん劇を押した陽キャグループ。そして裏方は陰キャグループに押しつけられた。
 それは仕方がない。多数決で負けてしまったのだから。

 (だけどまさか三谷に名指しされるとは思わなかった)

 三谷とは小学校から同じで中学に入るまで比較的仲がいい方だった。だがあることがキッカケで僕は彼を避け続けている。
 中学三年間は同じクラスことにならず、偶然同じ高校に進学してしまったが、去年もクラスが離れていたので交流はなかった。

 (それでよかったのに)

 実行委員の三谷は文化祭を成功させたいと思っているのだろう。
 三谷は昔からサッカー部の部長としてチームを引っ張り、学級委員や生徒会会長などあらゆるリーダーの役割を担っていた。
 黒い艷やかな髪と聡明な顔立ちのイケメンと称され、高身長。頭脳明晰。少女漫画並にモテ要素がてんこ盛りな三谷はもちろん学年一の人気者だ。
 なぜそんな三谷と一時期仲がよかったのか自分でも不思議に思う。
 いまはもう見る影すらないけど。
 昔を思い出すと針で刺されたように胸が痛む。せっかくの弁当も喉をつっかえてしまい、僕は箸を置いた。

 「はぁ〜最悪」

 重たい溜息を吐いても気分は晴れず、僕は初めて弁当を残した。





 放課後の校門は恋人の部活終わりを待つ人がアルドルの出待ちかのように溢れている。友だちと話していたり、スマホの内側カメラで前髪を整えていたりと忙しない。
 それを尻目に僕は駅へと向かった。
 電車で三駅が僕の最寄り駅だ。当然三谷も同じである。いるかもしれないと警戒したが、そもそも彼はサッカー部だ。
 手芸同好会という名の帰宅部に近い僕と帰る時間がかぶるはずもない。この二年間、朝も放課後も見かけたことがなかった。
 それは今日も続くだろうとなんの根拠もなく思っていた。だが日常を打ち砕くように改札口を抜けると僕と同じシャツとグレーのスラックスが見え、ひえっと悲鳴をあげそうになった。

 「翡翠じゃん。電車一緒だったんだ」

 白い歯を覗かせる三谷に僕は眉間を寄せた。

 (今日まで一度も会わなかったのになんたる不運だ)

 悪いことは続くなと内心辟易しながら目線を逸らした。気づかないふりをしたかったが、三谷は当然のように僕の隣を歩いている。

 「途中まで一緒に帰ろう」
 「……コンビニ寄るから」
 「じゃあ俺も行こうかな」

 別々に帰りたいという僕の意思表示に気づかないらしい。三谷はにっこりと笑っている。その笑顔に裏表がないからたちが悪い。
 たぶん純粋な気持ちからだろう。僕が変に意識しすぎなのだろうか。

 (いや、でもずっと無視してた奴と帰るの気まずくないのか)

 三谷の思考が読めない。うんうん唸っているうちに駅前にあるコンビニに着いてしまった。
 欲しくもないのに炭酸ジュースを買って鞄にしまう。三谷はアイスを買い、早速封を開けている。

 「家まで歩き?」
 「うん」
 「じゃあ俺も歩いて帰ろう」

 三谷はくっついているアイスボトルをぱちと切り、片方を僕に差し出した。

 「一個あげる」
 「三谷が食べなよ」
 「さすがに二つ食ったら腹壊しそう」
 「……なら買わなきゃいいのに」
 「だって美味しそうじゃん。限定ラムネ味」

 三谷はどうやら限定ものに弱いらしい。
 汗をかいたボトルから冷気の白い湯気がのぼっている。日に日に暑くなる夏は、陽が落ちてもまだ熱を孕んでいる。

 (確かに美味しそう)

 僕は戸惑いながらも三谷からアイスを受け取った。冷たさが気持ちいい。

 「ありがとう」
 「ん」

 ボトルをちゅうと吸い、三谷は冷てぇと笑った。
 ほのかに甘さのあるラムネ味は絶品だ。これはまた買いたい。
 当たり前のように隣を歩き出す三谷をちらりと盗み見る。昔から変わらない屈託のない顔に強張っていたはずの気持ちが少しだけ緩んでしまう。
 三谷は大型犬のように感情豊かなところがあった。笑って、泣いて、怒って。その素直さは高校生に上がっても変わっていないらしい。
 五年前から変わらない姿に僕の口は自然と開いてしまった。

 「いつも自転車なの?」
 「そう。荷物多いからさ」

 三谷の肩に掛けられている白いエナメルバッグは教科書以外にもユニホームやサッカーシューズ、水筒やタオルなどが入っていてかなり重量があるらしい。

 「でも今日は顧問が出張だから部活休みだったのに、うっかり持ってきちゃった」
 「それなのにこの時間?」
 「山内たちと劇の打ち合わせしてた」

 さすが三谷だ。部活が休みでも家に帰って寝るという選択肢はなく、文化祭のために動いているらしい。

 「翡翠は?」
 「僕は手芸同好会の活動。って言っても一人しかいないから適当だけど」
 「やっぱまだ作ってるんだな」

 くしゃっと笑う三谷に僕は呆けたように見入ってしまった。夏の湿った風が僕の長い前髪を揺らし、慌てて引っ張る。おでこが熱い。

 「前髪長くね? 邪魔にならないの?」
 「これでいい」
 「せっかくの可愛い顔が台無しじゃん」
 「……高校生に可愛いはきついだろ」

 僕の目はぱっちりとした二重で大きい。そのせいで女顔だとよく言われていた。
 昔は気にならなかったけど、あの事件がキッカケで僕は顔を隠すようになっている。
 ふと前を見ると母校の中学の制服を着た女子の後ろ姿が見えた。長い髪を三つ編みにさせて歩くたびに揺れている。
 既視感に目眩がして、僕はリュックの持ち手をぎゅっと掴んだ。
 情けないことに足がガクガクと震えてしまい、僕はそっと舌を噛む。痛みで恐怖を誤魔化し、どうにか一歩踏み出すことができた。

 「じゃあ急いでるから」
 「翡翠!」

 僕は三谷に呼び止められても一度も振り返らず家へと走った。





 「あらまぁ、酷い顔」
 「……真珠姉ちゃん」
 「本当。おばけにでも会ったみたい」
 「紅玉(ルビー)姉ちゃんまで酷い」

 辛辣な言葉を投げかけられるものの双子の姉の顔を見てほっとしてしまった。無事に帰って来れたという安堵が恐怖を包み込んでくれる。
 リュックを投げ捨てて上がり框にどかりと座るとあとから汗が噴き出した。それを拭うこともせず、ぼんやりと玄関床の大理石をみつめる。手に握ったままのアイスの残骸をぐしゃりと潰した。
 僕の様子がいつもと違うから心配になったらしい。口が悪い真珠姉ちゃんが眉を寄せながら僕の顔を覗き込んだ。

 「どうしたの?」
 「……三谷と話して」

 それだけですべてを察してくれた真珠姉ちゃんと紅玉姉ちゃんはそっと背中を撫でてくれた。その手つきのやさしさにうっかり泣きそうになってしまう。
 とつとつと学校であった話をすると喧嘩っ早い真珠姉ちゃんはすくっと立ち上がった。

 「最低。文句言ってきてやる」
 「だめよ。真珠ちゃんが出しゃばると余計に話が拗れるわ」
 「でも紅玉ちゃんはこのままでいいと思うの?」
 「そういうわけじゃないけど」

 普段は仲の良い姉たちの不穏な空気に僕は慌てて笑顔を浮かべた。

 「ごめん、大丈夫。久しぶりに三谷と話して昔のこと思い出しちゃっただけだから」
 「翡翠……」

 真珠姉ちゃんと紅玉姉ちゃんは顔を見合わせて僕を抱きしめてくれた。甘い香水の匂いに包まれて、僕は瞼を閉じる。この匂いの中は僕を脅かす存在はない。

 「なにかあったらすぐに言いなさい」
 「一人で抱え込んじゃだめよ」
 「ありがと。文化祭さえ乗り切れば元の生活に戻れるからそれまで辛抱する」

 文化祭が終われば三谷とは関わりもなくなり、こうして偶然会うこともないだろう。
 きっと元通り、また接点のない日々が始まる。
 僕はもう一度自分に言い聞かせて、足元から這い上がってきそうになる闇から目を逸らした。