ぼんやりとした意識の中、身体の痛みを感じ目を覚ます。
 うっすらと開いた目で初めに見えたのは、見知らぬ天井だった。
(ここは……?)
「痛っ」
 自分が今どこにいるのか把握したくて身体を動かすと、鈍かった痛みが強くなり起き上がるのを諦めざるを得なかった。
 背中や脇腹が特に痛む。あちらこちらに切り傷もあるようだが、打撲したような場所の痛みが強い。
 まともに動けない身体に、純佳はすぐに意識を失う前の出来事を思い出した。
 楽しげな令嬢たちの声。
 躊躇いのない子息たちの暴力。
 それらの記憶に身を固くするも、すぐに別の大事なことも思い出す。
(あの子は、大丈夫かしら?)
 迷い込んでしまっただけなのに、理不尽な暴力を振るわれた可哀想な少女。見ていられなくてとっさに身を挺して守ったが、無事だろうか?
 少女の無事を確認したいと思ったところで、静かに部屋の襖が開けられる音が聞こえた。
 なんとか頭だけを動かしそちらを見ると、初老の女性が桶と手拭いを持って入ってくる。
 使用人のお着せと思われる無地の着物を着た少しふくよかな女性を見て、みつに似た雰囲気を感じた純佳は僅かに警戒を解いた。
 彼女は襖を閉じ、改めて純佳の方へ向き直る。そこで純佳が起きていることに気付き目を見張った。
「まあ、目が覚めたのですね。良かった、丸一日目を覚まさなかったので心配していたのですよ?」
 朗らかな笑みを見せる女性に、純佳の警戒心はほとんどなくなる。そのまま桶を持って近付いてくる彼女に、純佳はぎこちなく問いかけた。
「あの、ここは……?」
 目覚めたばかりの所為か、思った以上に掠れた声が出てしまう。だが、女性は優しく微笑み教えてくれた。
「ここは不知火の家の別邸ですよ。昨夜、閃理坊ちゃまが傷だらけのあなたを連れ帰ってきたのです」
「不知火の……」
 そうだ、あの少女を守っていた自分に声を掛け、少女を親元にという願いを聞き届けてくれたのは、神代の異能を持つという美しい金の髪の男性だった。
「詳しいお話は閃理坊ちゃまから。その前に、一度汗を拭かせてくださいませ。薬も塗り直さねばなりませんから」
 神と見紛うばかりに美しい殿方である閃理を『坊ちゃま』と呼ぶ女性は、おそらく彼が幼い頃から使えている使用人なのだろう。口調や雰囲気から閃理への親しみや慈しむような思いが感じ取れた。
 使用人に慕われているような方ならば、悪い人ではないのだろうと純佳は一先ず安堵する。
「申し遅れました。私はふみと申します。この別邸で閃理坊ちゃまのお世話をさせていただいております」
「あ、私は天花寺純佳と申します。その……よろしくお願いいたします」
 丁寧に挨拶してくれたふみに、純佳も横になりながらではあるが挨拶を返した。
 天花寺の名に僅かに驚きを見せたふみだったが、変わらず微笑み世話をしてくれる。
 そのことにも安堵した純佳は、少々申し訳ない思いをしつつ身を任せた。

 ふみに一通りの世話をされ、食事もした方がいいと粥を少し頂いた後「閃理坊ちゃまからお話があるそうです」と告げられた。
 閃理を連れてくるというふみには無理せず横になっていてくださいと言われたが、この屋敷の主人でもある閃理を迎えるのに起きていなくてもいいのだろうかと不安になる。
 それに、今の自分は仮面を付けていない。
 天花寺家では使用人の前でなら外すこともあったので、ふみといるときはそれほど気にならなかったが……。華族である閃理の前で付けていなくてもいいのだろうかとそわそわする。
 確か、令嬢たちの疾風の異能で仮面の紐が切れ外れてしまったのだ。あの後閃理が自分を連れ帰ったというならば、仮面はあのまま捨て置かれたのかもしれない。
 黒糸のレースの仮面。あれは純佳が天花寺家の者ではないと断じられた証だ。
 多少の色の違いはあるが、天花寺家の者なら皆持っている紫の目。千里眼の異能を持っていたという天花寺家の祖から続く、天花寺家の者である証。
 父の憎しみに満ちた眼差しを思うと、抉り取られなかっただけましなのかもしれないと思う。
 そんな父に、もし仮面をせずに華族の者と相対したのだと知られたら……ただでは済まないだろう。
 とはいえ仮面がない以上隠すことはできない。
 ただでさえ起き上がるのが辛く横になったままの対面になり失礼だというのに、この上目を閉じたままであったり、布団を頭まで被ったままの状態では失礼も過ぎるというものだ。
(なんとか父には――いいえ、天花寺家の者には知られないよう黙っていて欲しいと願うしかないかしら)
 無事で済む唯一の方法を思いついたところで、足音が近付いてきたことに気付く。
 その音が襖の前で止まると、ふみの声が掛けられた。
「純佳様、閃理坊ちゃまをお連れしました」
「あ、はい。どうぞ」
 返事をすると、すっと襖が開き見覚えのある金の髪が見えた。切れ長な目に、通った鼻筋。薄い唇に、滑らかな線を描く輪郭。全てにおいて整ったその面差しは、やはり神と見紛うばかりだ。
 ただ、その表情にも、琥珀色の目にも、感情の揺らぎは全く見えない。
 ふみと二人で室内に入ってきた閃理は、純佳の枕元にあぐらをかいて座った。
「ご令嬢は、純佳というのだな。ふみから聞いた」
 低い声に名を呼ばれ、純佳は慌てて応える。
「は、はい。あの、このような体勢で失礼いたします」
 真っ先に謝罪をするが、申し訳なさよりも美しい閃理に見下ろされているという状況にただただ恥ずかしく思う。
 だが、他にも言わねばならないことを思い出しすぐに琥珀色の瞳を見上げた。
「それと、助けてくださってありがとうございます。もう一人の……あの少女は無事なのでしょうか?」
 助けて貰ったお礼をし、心配だったことを問いかける。すると淡々と、まるで仕事の報告でもするような言葉が返ってきた。
「ああ、あの少女は衆議院議長の娘なのだろう? お前の願い通り、親元へ無事に帰した」
「良かった……」
 安堵し、思わず笑みが零れる。
 あの少女には怖い思いをさせてしまったが、少なくともあれ以上酷い目に遭わずに済んだようでほっとした。
 心配事が一つなくなり、改めて閃理を見上げると琥珀の目と真っ直ぐに合う。そのまま無言で見つめられ、純佳はどうしたものかと少々悩んだ。
「あの……それで、閃理様のお話とは?」
 自分から話しかけてもいいのだろうかと思いつつ促すと、彼はゆっくり口を開き驚きの言葉を告げた。
「あなたには、このまま嫁としてこの屋敷で暮らして貰いたいと思う」
「…………はい?」
 理解出来ず、純佳は何度も目を瞬かせてしまう。
(今、嫁とおっしゃったのかしら?)
「元より今回の夜会で嫁を見つけてこいと父に命じられていたのだ。天花寺家の娘たちはまだ婚約者が決まっていないと聞いた。丁度良いので、純佳どのに嫁に来て貰いたい」
「ちょ、丁度良い……?」
 あまりにも真面目な様子で話す閃理に、純佳は混乱する。婚約者が決まっていないという話はおそらく清乃と香世のことだろう。純佳には縁のない話だ。
 とはいえ婚約者がいないという意味では確かに純佳もそうだ。だが、嫁とは丁度良いからなどという理由で決めるものだっただろうか。
「他に嫁に欲しいと思う令嬢も見つけられなかったのでな。丁度良いだろう」
 またしても同じ言葉を口にする閃理に、聞き間違いではないのだと理解する。
 だが、閃理の口調はどこまでも淡々としていて……どこまで本気なのかの判断ができない。
 彼の後ろに控えているふみの様子を伺うも、彼女は軽く目を伏せているだけで無反応だ。
 どうしたものかと悩むが、それ以上に大事なことがあったと思い出す。
「あ……ですが、私は無能なのです。華族の嫁は務まりません」
 確か閃理はこの数年帝都を離れていたと聞いた。
 天長節夜会にも数年ぶりに参加したとのことだったので、天花寺家の無能者である自分のことを知らなかったのかもしれない。
 流石にこの事実を知れば嫁になどとは言わないだろう。
 そう思っていたのだが――。
「そうなのか? だが、問題ないだろう。俺が望むのだから」
 まさかの答えに、純佳は驚き困り果てたように眉を寄せた。
(いえ、問題はあると思うのだけれど……)
 華族の婚姻は異能を残すためのものだ。無能である純佳に婚姻する価値はない。
 もし本当に閃理にとって問題はないのだとしても、嫁を見つけてこいと命じた彼の父にとっては大問題だろう。
 困惑する純佳だったが、閃理は自分の意志を変えることはないとでも言うかのように、淡々と告げる。
「とにかく傷が治るまではこの屋敷にいるといい。天花寺家には伝えておく」
「え? あ、その……ありがとうございます」
 一瞬丁重にお断りしようと思ったが、今はまともに起き上がることすら難しい状況だ。申し訳なくも思うが、ここは素直に閃理の厚意に甘えた方が得策だろうと礼のみを口にする。
「とにかく、今はゆっくり休め」
 最後にそう無表情のまま告げ、閃理は部屋を出て行った。

 閃理に嫁にと請われた翌日の午後には、天花寺家から二通の文が届いた。
 一通は父からで、もう一通は清乃からだ。
 どんなお叱りの言葉が書き連ねられているのかと震える手で文を開いたが、その内容は思っていたほど酷いものではなかった。
 父からは、閃理の方から嫁に迎えたい旨が伝えられていたようで『代々軍部の大将を務める不知火家と縁続きになるのは喜ばしい。だが、無能との子など作らせるわけにはいかぬので、閃理どのには妾を作るようお前からも勧めるように』と、ある意味では酷い文面が綴られている。
 清乃からは、寧ろ不知火家の迷惑にしかならないので早急に戻ってくるようにとあった。
 言い分の違う二つの文に、純佳は困り果てる。
 結婚すればいいのか、断り戻ればいいのか……。普通に考えれば父の指示に従うべきなのだろうが、清乃は次期天花寺家の当主になる女性だ。無視するわけにはいかない。
(なんにせよ、一度は戻ったほうがいいのかもしれないわね)
 父の文面を読む限りではもう戻ってくるなといった様子だが、ここまで清乃と真逆なのでは天花寺家としての意志はどちらなのかはっきりさせた方がいいだろう。
 だが、今はなんとか身体を起こせる程度の回復。一人で立って歩けなければ、自力で天花寺邸へ戻ることもできない。
 純佳は文の返事を保留にし、もう少しだけ不知火家別邸に世話になることにした。

 不知火家別邸での暮らしは主にふみが世話をしてくれた。
 閃理は日に一度は怪我の様子を聞きに訪れるが、それだけで……。嫁にと望んだのも何らかの情があってのことではなく、本当に丁度良かったからなのだろうと理解した。
 不知火家別邸に来て三日ほど経ち、壁伝いならば自力で歩けるようになると、純佳はあることに気が付いた。この屋敷には、人の気配が極端に少ないのだ。
 屋敷の主人は閃理一人だろうが、不知火家の跡取りが暮らしているのだ。使用人は複数人いるだろうと思っていたのに、ふみ以外の人を見たことがない。
 食事を持ってきてくれたふみにそのことを尋ねてみると、この屋敷には使用人がふみしかいないのだと返ってきた。
「え? 一人だけなのですか?」
 驚き問い返すと、ふみは少し悲しげに微笑みながら話してくれる。
「はい。ご存じかもしれませんが、神代の異能を持つ閃理坊ちゃまは対価として神の呪いに犯されていますから……」
「神の、呪い……?」
 知っているのが当然のように言われたが、純佳は知らなかった。神代の異能についても話に聞いたことがあるだけで、詳しいことは知らないのだ。
 十で異能が使えなくなった純佳は、女学校にも通わせてもらえなかった。どうしようもないことではあるが、その所為で華族なら当然知っているであろうことも純佳は知らない。
「ごめんなさい。私、学がなくて……」
 仮にも嫁にと望まれている身だというのに、使用人のふみよりも学が足りないことに恥じ入る。女学校へ行けなかったことは仕方ないが、もう少し他の者に話を聞いて知識を蓄えておくべきだったと反省した。
「あら、そうだったのですね……。では、お話させていただいてもよろしいでしょうか?」
 ふみは軽く驚きはしたものの、なにかを察してくれたのかそのことを追求してくることはなかった。代わりに、閃理の話を教えてくれると言う。
「はい、差し支えなければ教えてください」
 請うと、ふみはもちろんですと頷いてくれた。
「純佳様は閃理坊ちゃまに妻にと望まれている方ですもの。寧ろ知っておいていただきたいことですから」
 そう前置きをし、一呼吸置いて閃理の神代の異能について話してくれる。
「神代の異能を持つ方は、その力の強さの対価として身体の能力が一つ失われてしまうのだそうです」
 失われるのは視力であったり、聴力であったり、味覚であったり、様々だそうだが、それを呪いと言うらしい。
「そして閃理坊ちゃまは感情を――心を無くされました」
「心を?」
「はい……幼い頃の閃理坊ちゃまは、それはそれは利発な子で。明るく優しい方でした」
 語りながら思い出しているのか、ふみは柔らかく微笑む。だが、その表情はすぐに沈んだ。
「ですが、異能が発現してからはその明るさもなくなり、人の情が分からなくなっていきました。黒かった髪と目も明るい色になり……本当に別人のようです」
 そのため、母からは疎まれ、当主である父も必要最低限の関わりしか持たなくなったのだそうだ。そうして閃理は成人と共にこの別邸へ移り住むこととなった。
「ご当主様はもう少し使用人を付けるおつもりだったようですが、情のない閃理坊ちゃまを不気味に思う使用人も多く……。閃理坊ちゃまご本人も多くは必要無いとおっしゃったようで、私だけがついてきたのです」
 そういった理由でこの屋敷には閃理とふみしかいないのだと告げると、彼女は深く息を吐いてから優しい眼差しで純佳を見た。
「そんな閃理坊ちゃまが、ご当主様の命だとしても、嫁としてあなたを連れ帰ってきたのです。おそらく純佳様に何か感じるものがあったのでしょう」
 なにかを期待するような眼差しに、純佳はどう反応していいのか分からない。閃理の境遇に心は痛むが、自分は異能すら使えない只人だ。何か感じるものがあったのではと言われても、閃理の口からは『丁度良かった』という言葉しか聞けていない。
 そんな自分が、何をできるというのか。
 なにも答えられない純佳に、ふみは深々と頭を下げた。
「純佳様、どうか閃理坊ちゃまをよろしくお願いいたします」
 困り果てた純佳は、やはりなにも答えることができなかった。